それらすべてが愛になる

青砥アヲ

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迷いから醒める1

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 分かっていた。

 一度声を聞いてしまったら、きっと気持ちが溢れて止まらなくなることを。

 耳に届いた声は懐かしくて、自然と目に涙が浮かぶ。
 そっちに行くまで絶対に切るなと言われて、洸がまだこの近くにいるのだと知って清流はますます頭が真っ白になった。

 どうしてここに来ることが分かったのかとか、なぜこんなところにいるのかとか疑問はいくらでも出てくるのに、電話越しに話す声を聞いているとそれは彼方へと溶けていく。

 会ってしまったら本当に戻れなくなるという気持ちと、会いたくて仕方ない気持ちがせめぎ合って整理がつかない間に、もう洸はすぐそこまで来ていた。

「見つけた」

 その一言とともに電話が切れて、清流はゆっくりと振り向いた。

「………加賀城さん…」

 そうして振り向いた清流が、まるで幽霊にでも会ったかのような顔をするものだから、洸はなぜか笑いが込み上げてきてしまった。

「…どうして、」

 少しずつ縮まっていく距離に気づいた清流は、途端に我に返って手を前に出し下を向いた。

「これ以上は、だめです……来ないでください」
「…なんで?」
「だ、だって、手紙読みましたよね?だめなんですっ、私、」

 ずっと言えない秘密を抱えていたこと。
 騙してそばにいたこと。
 自分がいたら洸に迷惑がかかること。

 胸がちぎれるような思いで起こしたこの行動が、すべて台無しになってしまいそうで怖かった。
 またもう一度あの思いをして離れる気力など、きっともう自分には残されていない。

「…急にいなくなって心配をかけたことは謝ります。会社の皆さんにも…だけど、」

 清流の静止もおかまいなしに、洸はどんどんと近づいてきていた。

 目を合わせたらだめだ。
 必死に顔を逸らして、ひたすら地面ばかりを見つめ続ける。

 とうとう目の前に立ったことが大きな影から分かって反射的に一歩後ずさる――よりも早く清流は腕を引かれたかと思うと、そのまま洸の中に閉じ込められていた。

 すっぽりと埋まるようなかたちで背中には腕が回されて、ようやく何が起きたのか理解するとバクバクと鼓動が早くなる。


「え…あ、かがしろさ、」
「あー…すいません、これは不可抗力じゃないです」
「……は、はい?」

 ぽつりと洸が呟いたが、清流にはよく聞こえなかった。

「こっちの話……とりあえず、」

 少しだけ体が離れて、正面から互いの目を見つめる。
 清流の頬を包み込む手は熱を持った頬には少し冷たくて、なのに温かくて。

「帰ろう」

 どうしようもなく溢れた涙が、一筋ぽたりと流れ落ちた。

 ◇◇◇◇

 洸が運転する車に乗り、国道から関越自動車道に入る。
 洸からは寝てていいと言われた清流だけれどとてもそんなことはできず、というよりも目が冴えすぎて眠るどころではなかった。

 お互い昼もほとんど食べていなかったので、休憩がてらサービスエリアに寄り遅めの昼食兼早めの夕食を取ることにした。清流はお蕎麦と炊き込みごはんのセット、洸が大きなトンカツがのったわらじカツ丼を頼み席に着く。

「あの…加賀城さんって今日は会社じゃないんですか?仕事は?」

 もちろん他にもっと気になることはあったけれど、お互いにそれは帰って落ち着いてからにしようということにしていた。それでふと気になったことを聞いてみたのだが、食べる手を止めた洸からは意外な返答があった。

「有休消化。で、体調崩した清流に付き添ってることになってる」
「え??ど、どういうことですか?」
「いなくなった日、体調不良で休んだだろ?で、その後は風邪をこじらせて寝込んで、俺は一人暮らしの清流の様子を見に行って付き添いで看病ってことにした。そうしたら今度は榊木が見舞いに行きたいってうるさいから、今は体力が落ちてて入院一歩手前」
「…けっこうな重症ですね」
「いきなりいなくなるのが悪い」
「すみません……」
「いいよ、こうして戻ってきたんだから」

 食べた後はまた車を走らせると、だんだんと自然豊かな風景から見慣れた都会の景色へと移っていく。
 外はもう真っ暗ですっかり夜になっていた。

 関越自動車道から首都高速に入ると、カーナビが到着までの所要時間を告げて、ほぼその時間通りにマンションに着いた。

 マンションに戻ってきて、車が玄関の前に停まった。
 車から降りるときに手を差し出されたので、反射的にお礼を言って手を取ったのだが、降りた後も握られたままマンションの中へと入っていくので、清流もさすがに狼狽えてしまう。

「あ、あの……」
「ん?」
「私、ここで逃げたりはしないですよ…?」

 そう言っても洸は一笑しただけで、車のキーをスタッフに預けると手をつないだままエントランスを通って行くことになってしまった。

(いきなりいなくなったし、信頼されてないのかな…?)

 自分の行いを思えば仕方のないことだと思いながらも、この状態は気恥ずかしくて、早く部屋に着いてほしいとエレベーターの表示盤ばかりを見つめてしまう。

 1週間前に出た部屋は、当たり前だけれどほとんど何も変わっていなかった。
 もう戻らない覚悟だったのにここにいることが不思議で、本当に現実なのかなと思ってしまう。

 促されてソファーに座ると、すぐ隣りに洸も腰を下ろした。
 手は離されたものの、今までなら一人分は空いていたはずの距離が、今は車の中よりも近くて途端に落ち着かなくなる。

(どうしよう、とにかく何か話を…)

 それを指摘するのも変に意識しているみたいで、何とか意識を逸らそうとずっと気になっていたことを聞いてみることにした。

「加賀城さんはどうして新潟に…あの場所にいたんですか?私の実家は東京でしたし、父の故郷の話はしたことなかったと思うんですけど」

 隣りに座る洸を窺うように見上げる。

「あぁそれは…昨日清流の実家で聞いたから」
「え、実家っ?行ったんですか?」

 どうして、と清流が聞くよりも先に洸が口を開いた。
 昨日会ったことをありのまま話す必要はないと判断して、これまでの話をかいつまんで説明する。

 氏原の件は唯崎たちが突き止め、もう心配はいらないこと。
 叔母の佐和子がこれまでしていたことの数々と、それらが清流の過去にも大きな影響を与えていたこと。
 どれも初めて聞くことばかりで、清流はしばらく呆然としてしまった。

「……そうですか、全部、叔母さんが…」

 思えば、一度目の結婚の後も、実家に援助をしてもらうよう頼んでくれないかといった連絡が何度かきていたことがあった。叔母たちが暮らす東京の家はもともと清流の両親が建てた家でローンもなかったので、いくら会社の業績がよくないとはいえそこまでするほどお金がないのか、と不思議だった。

 毎回「分かった聞いてみる」とだけ言って終わっていたけれど、その頃から佐和子は借金をし、家のお金にも手を付けていたのかもしれない。

「……大丈夫か?」
「はい、驚きましたけど…何だか納得してしまう部分もあるというか……」

(そうか…そうだったんだ)

 もちろん内容はショックで、信じられない、信じたくない部分もある。
 でもそれと同時に、妙に吹っ切れた気持ちもあった。

 そして、清流にはそのことよりも、もっと胸につっかえていることがある。

「あの、加賀城さん、あの手紙全部読んだんですよね?」
「あぁ……読んだ。でも、そのことはもう、」
「よくないです」

 洸は優しいから、きっとすべて水に流してくれようとするだろう。
 でも、それではだめだと思う。

「ちゃんと、話しておきたいんです」

 そのために戻ってきたのだから。

「18のときに結婚した人は、叔母の地元出身の人でした。詳しくは知らないんですけど、子どもの結婚相手を親が探すコミュニティみたいなのがあるらしくて、そこで知り合ったんだと言っていました。相手は結婚に興味がなくて、とにかく自由に生きたいという人で。ただ資産家の長男なので周囲がうるさくて、とりあえず『結婚歴』がほしいのだということでした」

『君はまだ若いのに、こんなことに巻き込まれて可哀そうだね』

 顔合わせで二人になったときに、そう清流に同情の言葉を投げた。

『親に言っていないけど、僕は一生結婚生活を続けるつもりはないんだ。妻だとか家庭だとか、そういうものにどうしても興味が持てない。だから数年経てば離婚したいと思ってるし、それまでの辛抱だと思ってほしい』

 年齢差が大きいのは、のちに離婚する際に『価値観の差』と理由づけしやすくなるので相手にとって好都合だった。

「そのときに、彼の家から実家に結構なお金が渡っていることも知りました。でも、話を受けないと私はたぶん大学には通えませんでしたし…。まさかそれが、叔母の借金に当てられているとは思いませんでしたけど。
 体裁上、夫婦として相手の地元で暮らして私は家のこと全般を行い、その対価として生活と学費を保障してもらう、お互いの生活には干渉しないことが条件で結婚しました」

 結婚生活は、想像していたほど悪いものではなかった。
 ひどくこき使われたり虐げられるといったこともなく、家事全般をすることは実家暮らしの頃と大して変わらなかったから。

 ただ、大学1年のときは1限から授業のある日も多く、毎朝4時半起きで家事をこなし通学する日々が続いた。休日は近くに暮らす義母の買い物や病院に付き添ったりしつつ大量の課題やレポートに追われているうちに、とうとう体力の限界が先に来た。

「それで入学してしばらくして体調を崩して。周りはもう結婚したんだし大学も辞めたら?と言われたんですけど、相手だけは辞めない方がいいと言ってくれて…1年の休学を提案されたんです」

『僕もさすがに数か月で離婚するのは世間体が悪いから、最低1年はこの生活を続けたい。君もすぐには実家に帰りづらいだろう?だから、1年休学してその間は結婚生活に専念してもらえないだろうか?そして1年後に離婚する。僕はそれで『結婚歴』が手に入るし「もう結婚生活はこりごりだ」とでもいえば周りもほっといてくれるだろう。君は1年後に復学して、ちゃんと勉強して大学を卒業しなさい』

 そして大学には体調不良を理由に休学届を出した。

「…相手が言ったことはそれだけ?休学しなくても済むように肩代わりはしてくれなかったのか?何も?」

 そう尋ねる洸の眉間にはしわが寄っていて、清流は曖昧に笑うしかない。

「それが契約だったので。相手もその条件で最初にお金も出しているわけですし、私もそういうものだと思ってました。……だから、ここに来て加賀城さんに『一緒にやればいい』って言われたとき、すごくびっくりしたんです」

 今までそんなことを言われたこともなかったし、
 自分の中にもその発想がなかった。

 だから頼ってもいいんだと言われたようで、すごくすごく嬉しかった。

 相手は研究職に従事していて、とにかく四六時中没頭している人だった。
 彼の意識の大半はその研究に向けられていて、本人にとって無駄と感じることには見向きもしない性格だったので、次第に清流もただ淡々と日々をこなすだけになった。

 生活リズムも違うため顔を合わせることもほとんどなかった。
 食事を用意し家事をして、それに対して何の反応も返ってこない生活。

 相手に対する恋愛感情は一切なかったし、相手にすれば清流がそれらをやることは『契約』なので当然のことだったのだろうが、それでも自分の存在を顧みられない生活というのは精神的にこたえた。

 一度、少しはコミュニケーションを取れないかと食事と一緒にメモ書きを置いてみたりもしたが、翌朝ゴミ箱に丸めて捨てられているのを見たとき、もう何もしないでおこうと心に決めた。1年という期限が見えていたことで、頑張れていたような気がする。

 それでも、清流が大学で学ぶことだけには理解を示してくれた人でもあった。
 洸のいうようにそのために何かをしてくれる人ではなかったけれど、味方のいなかった生活の中ではそれだけが唯一救いだったように思う。

 1年後、お互いの同意のもとで離婚が成立したときも『これからは勉強を頑張りなさい』とだけ言った。

 あの頃の生活は思い出したくはないし、離婚成立後は連絡も取っていない。
 けれど、あの人のことは嫌いになれないでもいる。

 二度と会うことのない、遠い、遠い親戚の人のような感覚だ。
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