39 / 46
第五章
鴨川デルタの戦い 3
しおりを挟む
鴨川デルタ周辺は、送り火の時間には臨時の交通規制が敷かれるほどに混雑する大文字鑑賞の名所だ。ゆえに、ここでは毎年、早い時間から熾烈な場所取り合戦が繰り広げられている。それはこの日も例外ではなく、点火の二時間以上前からすでに人が集まり出していた。
ある者は仲間たちと西側の土手に座って談笑し、また、ある者は歩き回ってカメラのアングルを調整したりしている。そんな中、鴨川デルタの先端近くに、高級スーツを着て、無数の霊符が貼られた木箱の上に腰かける、三十歳くらいの怪しい男の姿があった。男の手足は長く、モデルかと思うほどにスタイルがいいが、その口元に浮かんでいる笑みが不気味すぎるせいか、彼の周囲には人が全く寄りついていない。
「もうすぐ、わたくしたちが待ち望んだ蘆屋家の時代が来ます。ご先祖様、どうか見届けてください……」
男は誰にも聞こえない小声で呟いた。
***
現場に到着し、土手の上から鴨川デルタを見下ろした紬は、そこに満ちている黒い霧の濃さに思わず目を見張った。
「なに……。これ……」
まるで邪気の雲海のよう。土蜘蛛の時とは比べ物にならない規模の大きさである。
「ちっ。すでに見物客が増えてきてるな」
隣で喬が舌打ちするのが聞こえた。
(お、岡丸……。君、いったい、どうなっちゃってるの!?)
紬はあの可愛らしい妖狐がすっかり異質な存在に変貌していることを悟って戦慄を覚える。紬は緊張でカラカラに乾いた口を開き、喬に話しかけた。
「狐坂さん……。状況は想像以上に深刻なようです。狐坂さんはここで待っていてください。鴨川デルタには私一人で向かいますから」
紬がそう固い口調で告げると、喬は意外そうに目を丸くする。
「いやはや、まさかあんたから職務放棄を勧められる日がくるとは思わなかったよ……」
「これは職務放棄ではありません。危機管理のとしてのリスク回避です」
紬はいたって真面目な顔で続けた。喬は苦笑交じりに頭をかいて言う。
「なるほどね。じゃあ、僕はお言葉に甘えて、その『リスク回避』をさせてもらおうかな」
「そうしてください」
紬もつられて口元をひきつらせるように口角を上げると、喬に背を向けて、渦巻く邪気へ迷わず飛び込んでいく。
「勝てよ」
喬の短い応援が背中を押してくれた。
***
土手を駆け下り、飛び石を渡って鴨川デルタに近づいていくと、徐々に邪気の発生源が黒い霧の向こうに浮かび上がってくる。それはおぞましい気配を放つ怪しげな木箱だった。その上には、黒い髪をきっちりと七三分けに整え、喪服のような衣装に身を包んだ男が足を組んで静かに座っている。
(あの中に岡丸が!?)
紬が飛び石を蹴って三角地帯に足を踏み入れると、箱の上の男はこちらに気がついたらしく、口元に笑みをたたえて優雅に立ち上がった。
「おっと……。予想以上に早かったですね。もう少し時間を稼げると思っていたのですが」
男が口にしたのは、偽狸塚が発していたのとまったく同じ声。
「蘆屋捨道……!」
紬は歯ぎしりし、霊符を胸の前に構えて臨戦態勢を取った。しかし、捨道は余裕しゃくしゃくの表情で続ける。
「ほう。たった一人で立ち向かってくるおつもりですか? ここ一帯に溢れる邪気の量を見て、すでに手遅れだということには気がついているのでしょう? もはやあなたのような新米陰陽師に勝ち目はありませんよ」
「つっ……! この悪党! 岡丸を返せ!」
紬は怒りを露わにじりじりと詰め寄った。捨道はニヤリと笑って木箱を軽く蹴る。
「岡丸……? ああ、この妖狐の名前ですかね。くくくっ。あなたには本当に感謝していますよ。あなたがこの妖狐を手懐けてくれていたお陰で、わたくしはこいつを難なく捕獲することができたんですから」
そう言いながら、捨道が顔を撫でるように手を動かすと、幻術によってその相貌は紬そっくりに変わり、すぐ元に戻る。紬は臍をかんだ。あれほど頑張って築いた岡丸との友好関係が、こんな形で利用されるなんて……!
「卑怯者……! 許さない……!」
紬は激昂し、捨道に向かってさらに近づいた。刹那、捨道は大きく嘆息し、木箱に足をかけていきなり乱暴に蹴倒す。すると、その勢いで木箱の蓋が開き、中から無数の細かい石の破片がバラバラと転がり出した。
ある者は仲間たちと西側の土手に座って談笑し、また、ある者は歩き回ってカメラのアングルを調整したりしている。そんな中、鴨川デルタの先端近くに、高級スーツを着て、無数の霊符が貼られた木箱の上に腰かける、三十歳くらいの怪しい男の姿があった。男の手足は長く、モデルかと思うほどにスタイルがいいが、その口元に浮かんでいる笑みが不気味すぎるせいか、彼の周囲には人が全く寄りついていない。
「もうすぐ、わたくしたちが待ち望んだ蘆屋家の時代が来ます。ご先祖様、どうか見届けてください……」
男は誰にも聞こえない小声で呟いた。
***
現場に到着し、土手の上から鴨川デルタを見下ろした紬は、そこに満ちている黒い霧の濃さに思わず目を見張った。
「なに……。これ……」
まるで邪気の雲海のよう。土蜘蛛の時とは比べ物にならない規模の大きさである。
「ちっ。すでに見物客が増えてきてるな」
隣で喬が舌打ちするのが聞こえた。
(お、岡丸……。君、いったい、どうなっちゃってるの!?)
紬はあの可愛らしい妖狐がすっかり異質な存在に変貌していることを悟って戦慄を覚える。紬は緊張でカラカラに乾いた口を開き、喬に話しかけた。
「狐坂さん……。状況は想像以上に深刻なようです。狐坂さんはここで待っていてください。鴨川デルタには私一人で向かいますから」
紬がそう固い口調で告げると、喬は意外そうに目を丸くする。
「いやはや、まさかあんたから職務放棄を勧められる日がくるとは思わなかったよ……」
「これは職務放棄ではありません。危機管理のとしてのリスク回避です」
紬はいたって真面目な顔で続けた。喬は苦笑交じりに頭をかいて言う。
「なるほどね。じゃあ、僕はお言葉に甘えて、その『リスク回避』をさせてもらおうかな」
「そうしてください」
紬もつられて口元をひきつらせるように口角を上げると、喬に背を向けて、渦巻く邪気へ迷わず飛び込んでいく。
「勝てよ」
喬の短い応援が背中を押してくれた。
***
土手を駆け下り、飛び石を渡って鴨川デルタに近づいていくと、徐々に邪気の発生源が黒い霧の向こうに浮かび上がってくる。それはおぞましい気配を放つ怪しげな木箱だった。その上には、黒い髪をきっちりと七三分けに整え、喪服のような衣装に身を包んだ男が足を組んで静かに座っている。
(あの中に岡丸が!?)
紬が飛び石を蹴って三角地帯に足を踏み入れると、箱の上の男はこちらに気がついたらしく、口元に笑みをたたえて優雅に立ち上がった。
「おっと……。予想以上に早かったですね。もう少し時間を稼げると思っていたのですが」
男が口にしたのは、偽狸塚が発していたのとまったく同じ声。
「蘆屋捨道……!」
紬は歯ぎしりし、霊符を胸の前に構えて臨戦態勢を取った。しかし、捨道は余裕しゃくしゃくの表情で続ける。
「ほう。たった一人で立ち向かってくるおつもりですか? ここ一帯に溢れる邪気の量を見て、すでに手遅れだということには気がついているのでしょう? もはやあなたのような新米陰陽師に勝ち目はありませんよ」
「つっ……! この悪党! 岡丸を返せ!」
紬は怒りを露わにじりじりと詰め寄った。捨道はニヤリと笑って木箱を軽く蹴る。
「岡丸……? ああ、この妖狐の名前ですかね。くくくっ。あなたには本当に感謝していますよ。あなたがこの妖狐を手懐けてくれていたお陰で、わたくしはこいつを難なく捕獲することができたんですから」
そう言いながら、捨道が顔を撫でるように手を動かすと、幻術によってその相貌は紬そっくりに変わり、すぐ元に戻る。紬は臍をかんだ。あれほど頑張って築いた岡丸との友好関係が、こんな形で利用されるなんて……!
「卑怯者……! 許さない……!」
紬は激昂し、捨道に向かってさらに近づいた。刹那、捨道は大きく嘆息し、木箱に足をかけていきなり乱暴に蹴倒す。すると、その勢いで木箱の蓋が開き、中から無数の細かい石の破片がバラバラと転がり出した。
0
お気に入りに追加
10
あなたにおすすめの小説
これもなにかの縁ですし 〜あやかし縁結びカフェとほっこり焼き物めぐり
枢 呂紅
キャラ文芸
★第5回キャラ文芸大賞にて奨励賞をいただきました!応援いただきありがとうございます★
大学一年生の春。夢の一人暮らしを始めた鈴だが、毎日謎の不幸が続いていた。
悪運を祓うべく通称:縁結び神社にお参りした鈴は、そこで不思議なイケメンに衝撃の一言を放たれてしまう。
「だって君。悪い縁(えにし)に取り憑かれているもの」
彼に連れて行かれたのは、妖怪だけが集うノスタルジックなカフェ、縁結びカフェ。
そこで鈴は、妖狐と陰陽師を先祖に持つという不思議なイケメン店長・狐月により、自分と縁を結んだ『貧乏神』と対峙するけども……?
人とあやかしの世が別れた時代に、ひとと妖怪、そして店主の趣味のほっこり焼き物が交錯する。
これは、偶然に出会い結ばれたひととあやかしを繋ぐ、優しくあたたかな『縁結び』の物語。
我が家の家庭内順位は姫、犬、おっさんの順の様だがおかしい俺は家主だぞそんなの絶対に認めないからそんな目で俺を見るな
ミドリ
キャラ文芸
【奨励賞受賞作品です】
少し昔の下北沢を舞台に繰り広げられるおっさんが妖の闘争に巻き込まれる現代ファンタジー。
次々と増える居候におっさんの財布はいつまで耐えられるのか。
姫様に喋る犬、白蛇にイケメンまで来てしまって部屋はもうぎゅうぎゅう。
笑いあり涙ありのほのぼの時折ドキドキ溺愛ストーリー。ただのおっさん、三種の神器を手にバトルだって体に鞭打って頑張ります。
なろう・ノベプラ・カクヨムにて掲載中
あまりさんののっぴきならない事情
菱沼あゆ
キャラ文芸
強引に見合い結婚させられそうになって家出し、憧れのカフェでバイトを始めた、あまり。
充実した日々を送っていた彼女の前に、驚くような美形の客、犬塚海里《いぬづか かいり》が現れた。
「何故、こんなところに居る? 南条あまり」
「……嫌な人と結婚させられそうになって、家を出たからです」
「それ、俺だろ」
そーですね……。
カフェ店員となったお嬢様、あまりと常連客となった元見合い相手、海里の日常。
【長編】座敷童子のパティシエールとあやかしの国のチョコレート
坂神美桜
キャラ文芸
ショコラティエの穂香は、京都に自分の店を持つことになった。
開店準備をしていると、求職中だというパティシエールの瑠璃にこの店で働かせてほしいと猛アタックされる。
穂香は瑠璃の話を聞いているうちに仲間意識を感じ、そのまま採用してしまう。
すると突然あやかしの住む国へ飛ばされてしまい、そこで待っていた国王からこの国に自生しているカカオでチョコレートを作って欲しいと頼まれ…
癒しのあやかしBAR~あなたのお悩み解決します~
じゅん
キャラ文芸
【第6回「ほっこり・じんわり大賞」奨励賞 受賞👑】
ある日、半妖だと判明した女子大生の毬瑠子が、父親である美貌の吸血鬼が経営するバーでアルバイトをすることになり、困っているあやかしを助ける、ハートフルな連作短編。
人として生きてきた主人公が突如、吸血鬼として生きねばならなくなって戸惑うも、あやかしたちと過ごすうちに運命を受け入れる。そして、気づかなかった親との絆も知ることに――。
大正ロマン恋物語 ~将校様とサトリな私のお試し婚~
菱沼あゆ
キャラ文芸
華族の三条家の跡取り息子、三条行正と見合い結婚することになった咲子。
だが、軍人の行正は、整いすぎた美形な上に、あまりしゃべらない。
蝋人形みたいだ……と見合いの席で怯える咲子だったが。
実は、咲子には、人の心を読めるチカラがあって――。
真夜中の仕出し屋さん~料理上手な狛犬様と暮らすことになりました~
椿蛍
キャラ文芸
「結婚するか、化け物屋敷を管理するか」
仕事を辞めた私に、父は二つの選択肢を迫った。
料亭『吉浪』に働いて六年。
挫折し、料理を作れなくなってしまった――
結婚を断り、私が選んだのは、化け物屋敷と父が呼ぶ、亡くなった祖父の家へ行くことだった。
祖父が亡くなって、店は閉まっているはずだったけれど、なぜか店は開いていて――
初出:2024.5.10~
※他サイト様に投稿したものを大幅改稿しております。
あやかしが家族になりました
山いい奈
キャラ文芸
★お知らせ
いつもありがとうございます。
当作品、3月末にて非公開にさせていただきます。再公開の日時は未定です。
ご迷惑をお掛けいたしますが、どうぞよろしくお願いいたします。
母親に結婚をせっつかれている主人公、真琴。
一人前の料理人になるべく、天王寺の割烹で修行している。
ある日また母親にうるさく言われ、たわむれに観音さまに良縁を願うと、それがきっかけとなり、白狐のあやかしである雅玖と結婚することになってしまう。
そして5体のあやかしの子を預かり、5つ子として育てることになる。
真琴の夢を知った雅玖は、真琴のために和カフェを建ててくれた。真琴は昼は人間相手に、夜には子どもたちに会いに来るあやかし相手に切り盛りする。
しかし、子どもたちには、ある秘密があるのだった。
家族の行く末は、一体どこにたどり着くのだろうか。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる