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その願いは、あまりにぶっ飛んだもので
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学生という名のぬるい規律の檻を出た長沢杏沙は、そこそこ地元では名の知れた商社に新卒採用された。
そしてそこの総務課に配属され、気づけば半年が過ぎようとしていた。
杏沙にとって、社会人とは一言でいうと「大人」。責任とか義務とか、学校の先生が口を酸っぱくして言っていたこの二つの言葉を両肩に背負って生きていける人。
正直、杏沙はリクルートスーツに袖を通すたびに、未知なる世界に飛び込むのは憧れもあったけれど、ちょっと怖かった。
アルバイト経験も少ない自分が、年齢も性別もバラバラで、いろんな性格の人がいて、その中でそつなくやっていけるかなと不安でいっぱいだった。
それでも逃げ出すわけにはいかず、他の学生と同じように面接を受け、内定通知をもらった。
『選考の結果、貴殿の採用の内定が決定しました』
という形式的な文言は、たくさんの人に向けてのものだとはわかっていたけれど、それでも自分を認めてもらえたようで杏沙は嬉しかった。嫌なことがあっても頑張ろうと思った。
でも、いざ勤務するようになって、頑張ろうと思った気持ちはどんどんしぼんでいった。
勉強は学生で終わりだと思っていたのに、毎日毎日覚えることがたくさんあって、そして覚えた数と同じくらい失敗をして。
夏のボーナスは期待するなと先輩に言われて、本当に期待を裏切る寸志で。
──あーもー、なんでこんな会社に入社しちゃったんだろう。
そんなことを毎日毎日、心の中で呟きながら満員電車に揺られて、会社に到着すれば同じことの繰り返しで。
でも月末のお給料日の時だけは、ちょっとテンションがあがる。そんな日々を送っていた。
***
──ペーパーレス、ペーパーレスって世間はうるさいっていうのに、ここは紙だらけだ。
杏沙はうんざりしながら、ミーティングルームという名の狭い小部屋で履歴書と職務経歴書をせっせとファイリングしている。
午前中は、ずっとこの作業をしていた。そしてお昼休憩を挟んだ午後も、同じ作業。ちなみに昨日は、昨年のエントリーシートのファイリングだった。
おかげさまで穴あけパンチの使い方はこの部署で誰よりも上手にできると思うけれど、きっとこれを極めても、履歴書の特技欄には書けるわけもない。などとぼやきながらも杏沙の手は止まらない。
なにせ200人分の履歴書と職務経歴書を今日中にファイルして倉庫に保管しないといけないのだ。
ちなみにこれは、一年間この会社に応募してくれた人達の履歴書だ。でもこの年だけが特別多いわけじゃない。去年も、その前も、応募者数は毎年こんなものらしい。
杏沙が働くノベクラ紙通商は、読んで字のごとく紙材をメインとするパッケージ商社だ。全国展開するそこそこ有名商社。
そこの本社の総務課で働くとなると、両親はご近所さんに自慢ができる。カードの審査に通りやすい。福利厚生がしっかりしている。
とまぁ、利点は多々あるけれど、実際問題やっていることは小学生でもできるお仕事ばかりで、やりがいゼロ。
「……こんなつもりじゃなかったんだけどなぁ」
杏沙は手を止めて窓を見る。一つに束ねた背中まである髪の毛先をいじりながら、溜息を吐く。
窓ガラスを溶かすような夏の強い陽射しはとうに消え、今は昼寝をさそう優しい陽光が狭いミーティングの床に影を作っている。
それにしても雲一つない良い天気だ。ビルが立ち並ぶオフィス街にはもったいないほどに。
「海とか行きたいな」
杏沙は年季の入ったインドア派である。学生時代から休日は外で遊ぶより、家でゆっくり過ごすのを好んでいた。
そんな杏沙でも遠出をしたい気分になったのは、この陽気のせいか、それとも延々と続く単純な仕事に飽き飽きしているからなのか。
そんなことを考えながらぼんやり窓を見つめていたら、隣接しているどこかの会社のOLさんと目が合った。
自分より少し年上のその女性は化粧も髪型もバッチリだったけれど、自分とどっこいどっこいの退屈そうな顔をしていた。
きっと誰でもできる仕事を与えられて、うんざりしながらそれをこなしているのだろう。月末にやってくるお給料日のために。
つまり、会社は違えどやっていることは変わらないのだな、と杏沙はしみじみと思う。
一年前にヒールを履きつぶしながら頑張った就職活動は、結局何だったんだろうと虚しさすら覚えてしまう。
けれど、この会社を選んだのは自分だ。
そりゃあ第一志望の出版社からあっけなく不採用通知を貰って、第二志望のIT企業からも不採用通知をもらって、もう就職活動なんてしたくないと思っていた矢先にノベクラ紙通商から採用の連絡を受けた。
それに渡りに船とばかりに飛びついてしまったのが正解だが、とにかくここで働くと決めたのは自分だ。
だから杏沙は窓から視線を戻し、軽く伸びをしてからファイリングを再会しようとしたその時、ガチャリとミーティングルームの扉が開いた。
「調子はどう?終わりそうかな?」
心配そうな口調でそう問いかけてきたのは、勤続年数二桁の沢野主任だった。
赤フレームメガネが印象的な彼女の目鼻立ちは整っていて、若い頃はそこそこ美人と呼ばれていただろう。
でも今では中年太りで……なんて口が裂けても言えないけれど、それ以外の表現が見つから無いほどどっしりとした体型だ。裏ではお局様と言われている、総務課のドンだ。
「はい。今日中にはなんとか」
目を付けられたら姑いびりより恐ろしいと野沢主任と同い年の課長が冗談交じりに言っていたのを思い出して、杏沙は起立して答える。
ついでに課長のあのセリフは絶対セクハラだなとも思ったけれど、今はどうでも良い。
沢野主任も、杏沙が頭の中で何を考えているかなんて興味がないらしく、ファイリング済みの履歴書類に視線を向けた。
「ん、確かに終わりそうね。ちょっと量が多いから手伝おうと思って来たけれど……大丈夫そうね」
「はい!」
すかさず杏沙は元気よく返事をする。狭いミーティングルームでお局とファイリング作業なんて、絶対に御免だという気持ちから。
幸いお局様は、杏沙のそれを真面目な新入社員として受け止めてくれたようだ。
「じゃあ、引き続き頑張ってね。ああ、そうそう。これ差し入れ。若い子は、こういうの好きでしよ?良かったら3人で食べて。じゃあ、何かわからないことがあったら内線で呼んでちょうだい」
「……はい。ありがとうございます」
差し入れと言って手渡されたのは、スウィーツ好きでなくても名前は知っている高級チョコレートだった。
箱の大きさから言って、軽く杏沙の一週間分のランチ代に値する。
これが頂き物なのか、沢野主任が自腹を切ったものなのかわからないが、高級チョコレートを口にできることは素直に嬉しい。
けれども3人と言う言葉に引っ掛かりを覚えて、杏沙はお礼を言うのに少々間が開いてしまった。
しかし沢野主任は「遠慮は要らないから」と笑ってひらひらと手を振ると、すぐにミーティングルームを後にした。
一人残された杏沙はチョコレートの箱を手にしたままポツリと呟いた。
「もう……おすそ分けするなら、平等に個別に配って欲しかったのに……」
配る方の身にもなって欲しい。頑張った自分へのご褒美としてでも買うのに躊躇するチョコレートを貰っても、今の杏沙のテンションは地に落ちている。
嫌がることを強要するのは、世間一般にハラスメントと呼ばれている。
なら、これはモラハラ?パワハラ?チョコハラ?
「……違うな」
杏沙は、くだらな過ぎる自分の心の中の呟きに、つい声に出して否定を入れてしまった。
そしてそこの総務課に配属され、気づけば半年が過ぎようとしていた。
杏沙にとって、社会人とは一言でいうと「大人」。責任とか義務とか、学校の先生が口を酸っぱくして言っていたこの二つの言葉を両肩に背負って生きていける人。
正直、杏沙はリクルートスーツに袖を通すたびに、未知なる世界に飛び込むのは憧れもあったけれど、ちょっと怖かった。
アルバイト経験も少ない自分が、年齢も性別もバラバラで、いろんな性格の人がいて、その中でそつなくやっていけるかなと不安でいっぱいだった。
それでも逃げ出すわけにはいかず、他の学生と同じように面接を受け、内定通知をもらった。
『選考の結果、貴殿の採用の内定が決定しました』
という形式的な文言は、たくさんの人に向けてのものだとはわかっていたけれど、それでも自分を認めてもらえたようで杏沙は嬉しかった。嫌なことがあっても頑張ろうと思った。
でも、いざ勤務するようになって、頑張ろうと思った気持ちはどんどんしぼんでいった。
勉強は学生で終わりだと思っていたのに、毎日毎日覚えることがたくさんあって、そして覚えた数と同じくらい失敗をして。
夏のボーナスは期待するなと先輩に言われて、本当に期待を裏切る寸志で。
──あーもー、なんでこんな会社に入社しちゃったんだろう。
そんなことを毎日毎日、心の中で呟きながら満員電車に揺られて、会社に到着すれば同じことの繰り返しで。
でも月末のお給料日の時だけは、ちょっとテンションがあがる。そんな日々を送っていた。
***
──ペーパーレス、ペーパーレスって世間はうるさいっていうのに、ここは紙だらけだ。
杏沙はうんざりしながら、ミーティングルームという名の狭い小部屋で履歴書と職務経歴書をせっせとファイリングしている。
午前中は、ずっとこの作業をしていた。そしてお昼休憩を挟んだ午後も、同じ作業。ちなみに昨日は、昨年のエントリーシートのファイリングだった。
おかげさまで穴あけパンチの使い方はこの部署で誰よりも上手にできると思うけれど、きっとこれを極めても、履歴書の特技欄には書けるわけもない。などとぼやきながらも杏沙の手は止まらない。
なにせ200人分の履歴書と職務経歴書を今日中にファイルして倉庫に保管しないといけないのだ。
ちなみにこれは、一年間この会社に応募してくれた人達の履歴書だ。でもこの年だけが特別多いわけじゃない。去年も、その前も、応募者数は毎年こんなものらしい。
杏沙が働くノベクラ紙通商は、読んで字のごとく紙材をメインとするパッケージ商社だ。全国展開するそこそこ有名商社。
そこの本社の総務課で働くとなると、両親はご近所さんに自慢ができる。カードの審査に通りやすい。福利厚生がしっかりしている。
とまぁ、利点は多々あるけれど、実際問題やっていることは小学生でもできるお仕事ばかりで、やりがいゼロ。
「……こんなつもりじゃなかったんだけどなぁ」
杏沙は手を止めて窓を見る。一つに束ねた背中まである髪の毛先をいじりながら、溜息を吐く。
窓ガラスを溶かすような夏の強い陽射しはとうに消え、今は昼寝をさそう優しい陽光が狭いミーティングの床に影を作っている。
それにしても雲一つない良い天気だ。ビルが立ち並ぶオフィス街にはもったいないほどに。
「海とか行きたいな」
杏沙は年季の入ったインドア派である。学生時代から休日は外で遊ぶより、家でゆっくり過ごすのを好んでいた。
そんな杏沙でも遠出をしたい気分になったのは、この陽気のせいか、それとも延々と続く単純な仕事に飽き飽きしているからなのか。
そんなことを考えながらぼんやり窓を見つめていたら、隣接しているどこかの会社のOLさんと目が合った。
自分より少し年上のその女性は化粧も髪型もバッチリだったけれど、自分とどっこいどっこいの退屈そうな顔をしていた。
きっと誰でもできる仕事を与えられて、うんざりしながらそれをこなしているのだろう。月末にやってくるお給料日のために。
つまり、会社は違えどやっていることは変わらないのだな、と杏沙はしみじみと思う。
一年前にヒールを履きつぶしながら頑張った就職活動は、結局何だったんだろうと虚しさすら覚えてしまう。
けれど、この会社を選んだのは自分だ。
そりゃあ第一志望の出版社からあっけなく不採用通知を貰って、第二志望のIT企業からも不採用通知をもらって、もう就職活動なんてしたくないと思っていた矢先にノベクラ紙通商から採用の連絡を受けた。
それに渡りに船とばかりに飛びついてしまったのが正解だが、とにかくここで働くと決めたのは自分だ。
だから杏沙は窓から視線を戻し、軽く伸びをしてからファイリングを再会しようとしたその時、ガチャリとミーティングルームの扉が開いた。
「調子はどう?終わりそうかな?」
心配そうな口調でそう問いかけてきたのは、勤続年数二桁の沢野主任だった。
赤フレームメガネが印象的な彼女の目鼻立ちは整っていて、若い頃はそこそこ美人と呼ばれていただろう。
でも今では中年太りで……なんて口が裂けても言えないけれど、それ以外の表現が見つから無いほどどっしりとした体型だ。裏ではお局様と言われている、総務課のドンだ。
「はい。今日中にはなんとか」
目を付けられたら姑いびりより恐ろしいと野沢主任と同い年の課長が冗談交じりに言っていたのを思い出して、杏沙は起立して答える。
ついでに課長のあのセリフは絶対セクハラだなとも思ったけれど、今はどうでも良い。
沢野主任も、杏沙が頭の中で何を考えているかなんて興味がないらしく、ファイリング済みの履歴書類に視線を向けた。
「ん、確かに終わりそうね。ちょっと量が多いから手伝おうと思って来たけれど……大丈夫そうね」
「はい!」
すかさず杏沙は元気よく返事をする。狭いミーティングルームでお局とファイリング作業なんて、絶対に御免だという気持ちから。
幸いお局様は、杏沙のそれを真面目な新入社員として受け止めてくれたようだ。
「じゃあ、引き続き頑張ってね。ああ、そうそう。これ差し入れ。若い子は、こういうの好きでしよ?良かったら3人で食べて。じゃあ、何かわからないことがあったら内線で呼んでちょうだい」
「……はい。ありがとうございます」
差し入れと言って手渡されたのは、スウィーツ好きでなくても名前は知っている高級チョコレートだった。
箱の大きさから言って、軽く杏沙の一週間分のランチ代に値する。
これが頂き物なのか、沢野主任が自腹を切ったものなのかわからないが、高級チョコレートを口にできることは素直に嬉しい。
けれども3人と言う言葉に引っ掛かりを覚えて、杏沙はお礼を言うのに少々間が開いてしまった。
しかし沢野主任は「遠慮は要らないから」と笑ってひらひらと手を振ると、すぐにミーティングルームを後にした。
一人残された杏沙はチョコレートの箱を手にしたままポツリと呟いた。
「もう……おすそ分けするなら、平等に個別に配って欲しかったのに……」
配る方の身にもなって欲しい。頑張った自分へのご褒美としてでも買うのに躊躇するチョコレートを貰っても、今の杏沙のテンションは地に落ちている。
嫌がることを強要するのは、世間一般にハラスメントと呼ばれている。
なら、これはモラハラ?パワハラ?チョコハラ?
「……違うな」
杏沙は、くだらな過ぎる自分の心の中の呟きに、つい声に出して否定を入れてしまった。
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