20 / 24
第6章
異なる世界、異なる理(ことわり) 1
しおりを挟む
レイリーアスの鏡をくぐり抜け、地上界の天空へ出たマテアは、四日前と同じく雲の草原を突き抜け、地表目指して下降していった。
周囲の空は以前ほどではなかったがやはり青暗く、紺色というには鈍い色をしている。けれどそれが夜を間近にした暗さではなく、夜明けが迫っているための暗さなのだということは、マテアにもうすうす理解できていた。
一定速度を保ち、時には厚く時には薄い雲の層を幾度となく突き抜ける。そうしてとびきり厚い最後の層を抜けて地表を目にしたとき、マテアはあっと声を上げてしまった。
なぜならまるでそこにもう一枚厚い雲の草原があるように、視界一面が真っ白く染まっていたからだ。
緑らしい緑がなく、あの夜目印とした崖も見つからない。風に流され、雲を突き抜けているうちに大幅にずれてしまったのだろうか。
はたしてどこへ降りればいいのか、とまどう彼女の背を北風が突き飛ばした。直後、まるで数百の針で一斉に突かれたような痛みが起きる。服と肌の間に割って入った冷気が裏底に鋲のついた靴で踏みしめるように背をかけ上がって、一気に足の爪先まで鳥肌立った。
地上界と月光界とでは格段に時間の進みが違う。マテアが月光界に戻っていた四日の間にこの地上界ではなんと五ヵ月近くが経過し、季節が終夏から初冬に移り変わったせいだったのだが、四季というものがなく、常に常春の月光界の住人であるマテアにそれがわかるはずもない。唇からもれる息が目の前で白く変わるというのも容易には信じがたい、生まれてはじめての体験だった。
四日前と打って変わった寒気にとまどい、景色のあまりの変容ぶりに混乱しながらも、とにかくあの夜の崖を探してマテアは飛行した。けれど、どこまで飛んでもどこを見ても、真っ白く平らな地が続くばかりで、崖も森も滝も、まるでそれ自体が幻想であったかのように、それを連想できるものすら見つからない。
もしや、出る世界を間違えたのだろうか。
一度月光界へ戻った方がよくはないか。
どんどんどんどん膨らんで胸を押しつぶそうとする、際限ない不安に、そう考えて眉を寄せた頃、小さな小さな呼び声が真下から聞こえてきた。
――の乙女。
――そこにおられますのはもしや月光の――乙女ではありませんか?
「ああ……!」
木々の声だ。やはり間違っていたわけではなかったのだと、ほっと胸をなでおろして降下する。白銀の雪面に爪先が触れるかどうかのところで滞空し、声の主を探して周辺を見回したが、それらしい木は一本もなかった。
「どこにいるの?」
――あなたの真下です。
「どこに? 見えないわ」
――深い深い雪の下、土の中に、わたし――たちはいます。
返答は、とてもか細い声だった。
「雪?」
――そうです。あなたの足下に広がっております白いものを、わたしどもの世界ではそう呼んでいるのです。
「これ? この白いものがあなたたちを隠していたのね? 前にきたときはなかったから、驚いてしまったわ。こんなに寒くもなかったし……。四日でこんなにも変わってしまうなんて、こちらの世界ではよくあることなの?」
――おお月光の乙女よ、あなたがいらっしゃらない四ヵ月と少しの間に、冬の姉王女が目覚められたのです。
「四ヵ月と少しですって?」
思いもよらなかった返答に、マテアは声をはねあげて訊き返す。
――はい。この世界では太陽神と月光神が一度ずつ空を巡ることを一日と数え、二十日を一月とし、さらに十六の月を一巡年と数えます。
――創造神であられます大地母神の四人の子供たちが、四ヵ月ごとに均等に治めていらっしゃるのです。
――あなたがいらっしゃったのはちょうど夏の王子から秋の末王女への過渡期でした。四ヵ月前、夏の王子は秋の末王女を起こされて西の大樹の褥に身を横たえられ、秋の末王女は先日冬の姉王女を起こされ、北の氷室で眠りにつかれております。
「そうなの……」
それがはたしてどういう意味をもつのか、よくわからないまま相槌を打つ。
マテアに理解できたのは、ここの大気は大地母神の四人の子供たちが順々に統治していて、それぞれの統治の間、世界の構成は変化するということ。そしてこの肌寒い寒気や『雪』とやらが冬の姉王女の仕業であるということだった。
では森が消え、滝が見つからなかったのもその王女によるものなのだろうか? そう尋ねたマテアに、声は悲しげに答えた。
――いいえ、これは冬の姉王女の為したる事ではありません。
――冬の姉王女は<試練>を核として生み出されたため、激しい気性の持ち主で、しばしば豪雪を降らせてはわたしたちを雪面下に閉じこめたりなどなされる、厳しい方ではありますが、それでもあの姿のわたしたちを雪面下に閉じこめられるほどの雪を降らせるような、無体な真似をなさったりはいたしません。
――あなたが元の世界へ戻られた直後、この地で人間同士の大きな戦があったのです。
――わたしたちの一部はその道具として切り出され、様々な物に姿を変えられました。
――彼等の武器となり、身を守る盾や壁となり、そして死した彼等の仲間を弔うための棺や薪となって燃えてゆきました。
――滝は謀略の手段として埋められ、森は焼きはらわれました。行軍時の支障になり、かつ樹木の陰にひそむ敵を警戒しての事です。
周囲の空は以前ほどではなかったがやはり青暗く、紺色というには鈍い色をしている。けれどそれが夜を間近にした暗さではなく、夜明けが迫っているための暗さなのだということは、マテアにもうすうす理解できていた。
一定速度を保ち、時には厚く時には薄い雲の層を幾度となく突き抜ける。そうしてとびきり厚い最後の層を抜けて地表を目にしたとき、マテアはあっと声を上げてしまった。
なぜならまるでそこにもう一枚厚い雲の草原があるように、視界一面が真っ白く染まっていたからだ。
緑らしい緑がなく、あの夜目印とした崖も見つからない。風に流され、雲を突き抜けているうちに大幅にずれてしまったのだろうか。
はたしてどこへ降りればいいのか、とまどう彼女の背を北風が突き飛ばした。直後、まるで数百の針で一斉に突かれたような痛みが起きる。服と肌の間に割って入った冷気が裏底に鋲のついた靴で踏みしめるように背をかけ上がって、一気に足の爪先まで鳥肌立った。
地上界と月光界とでは格段に時間の進みが違う。マテアが月光界に戻っていた四日の間にこの地上界ではなんと五ヵ月近くが経過し、季節が終夏から初冬に移り変わったせいだったのだが、四季というものがなく、常に常春の月光界の住人であるマテアにそれがわかるはずもない。唇からもれる息が目の前で白く変わるというのも容易には信じがたい、生まれてはじめての体験だった。
四日前と打って変わった寒気にとまどい、景色のあまりの変容ぶりに混乱しながらも、とにかくあの夜の崖を探してマテアは飛行した。けれど、どこまで飛んでもどこを見ても、真っ白く平らな地が続くばかりで、崖も森も滝も、まるでそれ自体が幻想であったかのように、それを連想できるものすら見つからない。
もしや、出る世界を間違えたのだろうか。
一度月光界へ戻った方がよくはないか。
どんどんどんどん膨らんで胸を押しつぶそうとする、際限ない不安に、そう考えて眉を寄せた頃、小さな小さな呼び声が真下から聞こえてきた。
――の乙女。
――そこにおられますのはもしや月光の――乙女ではありませんか?
「ああ……!」
木々の声だ。やはり間違っていたわけではなかったのだと、ほっと胸をなでおろして降下する。白銀の雪面に爪先が触れるかどうかのところで滞空し、声の主を探して周辺を見回したが、それらしい木は一本もなかった。
「どこにいるの?」
――あなたの真下です。
「どこに? 見えないわ」
――深い深い雪の下、土の中に、わたし――たちはいます。
返答は、とてもか細い声だった。
「雪?」
――そうです。あなたの足下に広がっております白いものを、わたしどもの世界ではそう呼んでいるのです。
「これ? この白いものがあなたたちを隠していたのね? 前にきたときはなかったから、驚いてしまったわ。こんなに寒くもなかったし……。四日でこんなにも変わってしまうなんて、こちらの世界ではよくあることなの?」
――おお月光の乙女よ、あなたがいらっしゃらない四ヵ月と少しの間に、冬の姉王女が目覚められたのです。
「四ヵ月と少しですって?」
思いもよらなかった返答に、マテアは声をはねあげて訊き返す。
――はい。この世界では太陽神と月光神が一度ずつ空を巡ることを一日と数え、二十日を一月とし、さらに十六の月を一巡年と数えます。
――創造神であられます大地母神の四人の子供たちが、四ヵ月ごとに均等に治めていらっしゃるのです。
――あなたがいらっしゃったのはちょうど夏の王子から秋の末王女への過渡期でした。四ヵ月前、夏の王子は秋の末王女を起こされて西の大樹の褥に身を横たえられ、秋の末王女は先日冬の姉王女を起こされ、北の氷室で眠りにつかれております。
「そうなの……」
それがはたしてどういう意味をもつのか、よくわからないまま相槌を打つ。
マテアに理解できたのは、ここの大気は大地母神の四人の子供たちが順々に統治していて、それぞれの統治の間、世界の構成は変化するということ。そしてこの肌寒い寒気や『雪』とやらが冬の姉王女の仕業であるということだった。
では森が消え、滝が見つからなかったのもその王女によるものなのだろうか? そう尋ねたマテアに、声は悲しげに答えた。
――いいえ、これは冬の姉王女の為したる事ではありません。
――冬の姉王女は<試練>を核として生み出されたため、激しい気性の持ち主で、しばしば豪雪を降らせてはわたしたちを雪面下に閉じこめたりなどなされる、厳しい方ではありますが、それでもあの姿のわたしたちを雪面下に閉じこめられるほどの雪を降らせるような、無体な真似をなさったりはいたしません。
――あなたが元の世界へ戻られた直後、この地で人間同士の大きな戦があったのです。
――わたしたちの一部はその道具として切り出され、様々な物に姿を変えられました。
――彼等の武器となり、身を守る盾や壁となり、そして死した彼等の仲間を弔うための棺や薪となって燃えてゆきました。
――滝は謀略の手段として埋められ、森は焼きはらわれました。行軍時の支障になり、かつ樹木の陰にひそむ敵を警戒しての事です。
1
お気に入りに追加
2
あなたにおすすめの小説
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
初夜に「君を愛するつもりはない」と夫から言われた妻のその後
澤谷弥(さわたに わたる)
ファンタジー
結婚式の日の夜。夫のイアンは妻のケイトに向かって「お前を愛するつもりはない」と言い放つ。
ケイトは知っていた。イアンには他に好きな女性がいるのだ。この結婚は家のため。そうわかっていたはずなのに――。
※短いお話です。
※恋愛要素が薄いのでファンタジーです。おまけ程度です。
貧乏男爵家の末っ子が眠り姫になるまでとその後
空月
恋愛
貧乏男爵家の末っ子・アルティアの婚約者は、何故か公爵家嫡男で非の打ち所のない男・キースである。
魔術学院の二年生に進学して少し経った頃、「君と俺とでは釣り合わないと思わないか」と言われる。
そのときは曖昧な笑みで流したアルティアだったが、その数日後、倒れて眠ったままの状態になってしまう。
すると、キースの態度が豹変して……?
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
婚約者に消えろと言われたので湖に飛び込んだら、気づけば三年が経っていました。
束原ミヤコ
恋愛
公爵令嬢シャロンは、王太子オリバーの婚約者に選ばれてから、厳しい王妃教育に耐えていた。
だが、十六歳になり貴族学園に入学すると、オリバーはすでに子爵令嬢エミリアと浮気をしていた。
そしてある冬のこと。オリバーに「私の為に消えろ」というような意味のことを告げられる。
全てを諦めたシャロンは、精霊の湖と呼ばれている学園の裏庭にある湖に飛び込んだ。
気づくと、見知らぬ場所に寝かされていた。
そこにはかつて、病弱で体の小さかった辺境伯家の息子アダムがいた。
すっかり立派になったアダムは「あれから三年、君は目覚めなかった」と言った――。
【完結】7年待った婚約者に「年増とは結婚できない」と婚約破棄されましたが、結果的に若いツバメと縁が結ばれたので平気です
岡崎 剛柔
恋愛
「伯爵令嬢マリアンヌ・ランドルフ。今日この場にて、この僕――グルドン・シルフィードは君との婚約を破棄する。理由は君が25歳の年増になったからだ」
私は7年間も諸外国の旅行に行っていたグルドンにそう言われて婚約破棄された。
しかも貴族たちを大勢集めたパーティーの中で。
しかも私を年増呼ばわり。
はあ?
あなたが勝手に旅行に出て帰って来なかったから、私はこの年までずっと結婚できずにいたんですけど!
などと私の怒りが爆発しようだったとき、グルドンは新たな人間と婚約すると言い出した。
その新たな婚約者は何とタキシードを着た、6、7歳ぐらいの貴族子息で……。
《勘違い》で婚約破棄された令嬢は失意のうちに自殺しました。
友坂 悠
ファンタジー
「婚約を考え直そう」
貴族院の卒業パーティーの会場で、婚約者フリードよりそう告げられたエルザ。
「それは、婚約を破棄されるとそういうことなのでしょうか?」
耳を疑いそう聞き返すも、
「君も、その方が良いのだろう?」
苦虫を噛み潰すように、そう吐き出すフリードに。
全てに絶望し、失意のうちに自死を選ぶエルザ。
絶景と評判の観光地でありながら、自殺の名所としても知られる断崖絶壁から飛び降りた彼女。
だったのですが。
もう死んでしまった私へ
ツカノ
恋愛
私には前世の記憶がある。
幼い頃に母と死別すれば最愛の妻が短命になった原因だとして父から厭われ、婚約者には初対面から冷遇された挙げ句に彼の最愛の聖女を虐げたと断罪されて塵のように捨てられてしまった彼女の悲しい記憶。それなのに、今世の世界で聖女も元婚約者も存在が煙のように消えているのは、何故なのでしょうか?
今世で幸せに暮らしているのに、聖女のそっくりさんや謎の婚約者候補が現れて大変です!!
ゆるゆる設定です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる