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人族の街へ
エレナ
しおりを挟むエレナは物心ついた時には既に加護魔法を使えなかった。
おそらく生まれつき使えなかったのだろう。
エレナの両親は、エレナが加護魔法を使えないことを隠して育てることを決意した。
加護魔法を使えない人族など、聞いたこともない。
女神様はすべての人族に慈悲を与えてくださっているはずだった。
このような事実を知られれば、エレナは罪人扱い、もしくは人族ではない者とされ、迫害される未来が待っているだろう。
そして、そのような存在を産み落とした自分たちも同様の扱いを受ける恐れがあった。
なるべく家の外に出さずに育て、どうしても外に出なければならない時は、極力他人と関わらないように言い聞かせた。
余計な事を口走らないようにするためである。
加護魔法を使えない子どもを育てるのは、思っていた以上に大変な事だった。
自分で《浄化の光》が使えないため、何処かを汚す度にイルゼが浄化をしなければならなかった。
普通の人族は、早ければ言葉を覚えだす時期には《浄化の光》を使い始める。
浄化を覚えれば、汚したものは自然と自分で浄化するようになっていくものなのだ。
しかし、浄化を使えないエレナはそれができないため、ある程度成長するまではイルゼが常に側についていなければならなかった。
トイレが特に問題で、子どもの頃はイルゼが大変なだけであったが、成長するとともにエレナにも羞恥心が芽生え、トイレの度に母親に処理してもらうことに、年々申し訳なさと苦しみを覚えるようになった。
この苦しみが一生続いていくのだ。
エレナは自分にだけ加護を与えてくれなかった女神を憎み、いつしか女神に祈ることをしなくなった。
月日が過ぎ、エレナにも友人と呼べる仲間達ができた。
両親の心は複雑だったが、同時に人並みの幸せを願ってもいたので、友人と距離を置くようにとは言わなかった。
エレナが成長し、分別のつく年齢になっていたことも大きい。
もちろん加護魔法に関する秘密はばれないようにと厳命していた。
しばらくは何事もなく平穏に過ぎていた。
エレナも表情はあまり変わらないものの、どことなく楽しそうに日々を過ごしていた。
ある日、友人と出かけたはずのエレナが帰って来なかった。
翌日になっても戻らず、捜しに行く準備をしていると、友人の1人であるアントンが訪ねてきた。
その顔は蒼白で、何かを思いつめているような表情だった。
「イルゼさん、俺、エレナに【加護無し】って言っちまったんだ」
背筋が凍った。
とうとう秘密が知られてしまったのか。
以前想像した最悪の未来が脳裏を過ぎる。
目の前が真っ暗になり、その場に立ち尽くしたままでアントンの話の続きに耳を傾けていると、どうやら彼は本気でエレナを【加護無し】だと思っているわけではないことがわかった。
エレナは仲間達と過ごしている時に、ただの一度も《浄化の光》を使わなかった。
喉が渇いて皆で《恵みの水》を飲んでいる時でも、彼女だけは『喉は渇いていない』と言って魔法を使わなかった。
使えなかった、が正解なのだが。
他の仲間はそのことを気にも留めていなかったが、エレナをずっと見ていたアントンは違った。
冗談半分のつもりだった。
少しくらい自分に興味を持ってほしくて、「エレナ、お前実は【加護無し】なんじゃねぇの?」などと言ってしまった。
それを聞いたエレナの表情は、普段のものと何も変わらなかった。
いつもの無表情だ。
その無表情の顔のままアントンに背を向け、走って何処かへ行ってしまった。
「イルゼさん、俺、エレナに謝りに来たんだ。アイツに会わせてくれ」
「……エレナは帰っていないわ」
それだけ言って、なおも食い下がろうとするアントンを、半ば強引に追い出した。
イルゼはエレナが帰って来ない理由を悟った。
アントンに【加護無し】と言われたことで、エレナは自分の秘密が知られてしまったのだと誤解したのだ。
先程のイルゼのように。
家に帰って来なかった理由まではわからないが、家族に累が及ぶことを恐れての行動かもしれない。
エレナはきっと街を出たのだろう。
行くあてはあるのだろうか。
心配だ。
心配ではあるのだが……
「でも、これで」
これで、開放される。
そう思った。
イルゼは重い秘密を抱えたままで暮らしていくことに疲れ切っていた。
加護魔法を使えない娘を産んだことで、自分は女神様に嫌われているのではないか、いつか自分の加護も取り上げられるのではないかという思いも常に抱いていた。
でも、エレナはもうここにはいない。
これからはそんなことを考える必要もないのだ。
秘密を抱えて生きて行かなくてもいいのだ。
数日後、イルゼは久しぶりに帰宅したギュンターにすべてを話した。
2人で長い間話し合った結果、エレナを捜すことはせず、女神様に運命を委ねることに決めた。
これが、私の知らないエレナの過去のうちの、両親が知っているすべてである。
「……………」
「……………」
「……………」
室内に重い沈黙が落ちる。
暫くの間、誰も口を開くことはなかった。
私はこの仮初めの家族に最後の言葉を告げるべく、静かに口を開く。
「お父さん、お母さん。私は明日の早朝にこの家を出ようと思う。その後は2度と帰ってくるつもりはないよ」
「エレナ!!」
「どうして?あなたはもう加護魔法が使えるのよ。女神様に認められた証よ。これからは堂々とこの街で暮らしていけばいいわ」
私は母の瞳を静かに見つめた。
それに気づいた母は、それ以上言葉を重ねることをしなかった。
「お母さん、あなたの娘は3年前のあの日に亡くなったんだよ。今の私はエレナの記憶を持たない別人なの。だから、お母さん、いえ、イルゼさん、あなた達とは明日でお別れです」
おやすみなさい。
挨拶を残し、ダイニングを後にした。
部屋を出る際、背後ですすり泣く声が聞こえたような気がした。
「はぁあーーーー」
自室に入るなりベッドへダイブし、大きなため息を吐く。
ああ、心の中がぐちゃぐちゃだ。
エレナの気持ちを想うと胸が締め付けられる。
もう一度深いため息を吐いた後、目を閉じた。
イルゼさんの話を聞いたことで、エレナの身に起きたことが大体推測できた。
何故エレナには女神の加護が与えられなかったのかも予想がつく。
彼女は女神に人生を狂わされた被害者だ。
エレナに加護が与えられなかったのは、彼女の魂が本来別の世界で生まれ変わるはずの異物だったからだろう。
女神は自分の世界に別の世界のものが混じることをひどく嫌がっているようだった。
私達の魂が入れ替わっていることをずっと気にしていたこともそうだし、私に対して地球で得た知識や技術をレメイアに広めるなと釘を刺してもいた。
その一方で、私の魂は本来この世界にあるべきものだから、エレナの体に入った際に女神様から加護を与えられた、そういうことなのだと思う。
そんな女神の心の内など知るはずもないエレナとその家族にとっては、ただ理不尽で辛い人生を背負わされただけに映ったことだろう。
実際のところ、他の世界の魂が混ざっていたところで何が問題だというのだろう。
ただの人族でしかない私には不都合な事など思いもつかない。
結局は女神の気持ちの問題だったのでは、と思ってしまう。
そうだとすれば、あまりにもエレナが不憫でならない。
アントンに【加護無し】と言われた後、エレナはおそらく…………
エレナ、今はきっと日本で楽しく暮らしているよね。
カノンとして幸せになっていることを心から願っているよ。
私は明日に備えて体を休めるべく、早めに眠りについた。
翌日早朝、まだ外は薄暗い時間帯に私は家を後にしようとしていた。
色々と悩んだ末に、あの両親とは別れの挨拶を交わさず、手紙だけ残して出て行くことにした。
もし私達の魂が入れ替わっていなければ、本来あの両親の娘としてこの家で暮らしていたはずだが、私はあの両親に対して家族の情のようなものが湧いてくることはなかった。
私にとっての両親は今でも日本にいる父と母だけなのだろう。
物音を立てないようにそっと扉を開ける。
扉の先には何故か父ギュンターが立っていた。
両腕を組み、難しい顔をして立っている。
「行くのか」
これは、別れの挨拶のために待っていた?
それとも引き留めるつもりで待っていたのだろうか。
それは困る。
私は早くゼスさんに……あ。
「あの、ギュンターさん、質問があるのですが」
「もうお父さんとは呼んでくれないのか」
「……ギュンターさん、昨日の話にあった魔族討伐作戦に英雄であるあなたも参加するのですか?」
「いや、父さんは討伐隊には加わらないよ。モルダラン殿から打診を受けたが断った。」
「そうですか。では、隣国の魔族の討伐にも関わっていないのですか?」
「ああ。父さんは魔獣専門だ。人型相手はどうも苦手でな。人族と戦っているような気分になってしまって攻撃できないんだ」
そうか、それならギュンターさんはゼスさんと戦うことはない。
私は肩の力を抜き、息を吐いた。
……これが最後になるかもしれない。意地を張るのはやめよう。
「それを聞けて良かった。ありがとう。どうかお元気で。さようなら、お父さん」
「!エレナ」
「あ、お父さん。今の時間に辻馬車は走っている?」
「……こんな早朝には走っていないな。少し待っていなさい。父さんに考えがある」
そう言ってギュンターさん、いや、お父さんは家の中に戻っていった。
何気なく視線を巡らせると、家の窓からこちらを窺う母の姿が見えた。
その顔は涙でぐしゃぐしゃだった。
私との別れを悲しんで泣いてくれているのだろうか。
エレナはちゃんと母親から愛されていたようだ。父親からも。
しばらくしてお父さんが家から出てきた。
その手には封筒が握られている。
「父さんの知り合いが辻馬車の御者をしているんだ。この手紙を見せれば乗せてもらえるはずだ。場所は……」
なんと、辻馬車の御者を紹介してくれるようだ。
本当にありがたい。
「ありがとう、お父さん。お母さんも元気でね。さようなら」
「エレナ、ここはお前の家だ。いつでも帰ってこい。」
「エレナ、いってらっしゃい」
いつの間にか玄関先に立っていた母が声をかける。
……いってらっしゃい、か。
「いってきます。お母さん、お父さん」
私はこの世界の両親に挨拶を終えると大通りに向かって走り出した。
お父さん、お母さん。
会えて嬉しかったよ
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