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巷で噂の伯爵夫人

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「ねぇ、聞きまして? ハミルトン伯爵夫人のあのお話!」
「まぁ、あの方また何かなさったの?」
「最近王都で大人気のあのドーナツ! あれを発案されたのはハミルトン伯爵夫人だっていう噂があるのよ」

「「「まぁ!」」」

「私、まだ頂いた事がありませんのよ」
「予約は取らないしお金を積んでもダメ、伝手も無いのだもの。中々手に入りませんわ」

 フェアランブル王国の王都のあちらこちらでは、今日も貴族のご夫人方のお茶会がそこかしこで開かれている。

 最近この国は、国の根底を揺るがす様な大きな出来事に連続して見舞われ、貴族間の力関係が大きく変わったところなのだ。

 どこの貴族家も、誰とどう付き合うか、どの派閥に属すのか、自分たちの立ち位置を守る為に盛んに社交を行っていた。


 そんな中、常に話題の中心にいながら最低限しか社交に加わらない伯爵夫人が一人。


 アナスタシア・ハミルトン


 国有数……いや、恐らく国一番の資産家である名家、ハミルトン伯爵家の若き当主夫人だ。

 特筆すべきはその若さでも美しさでも髪色でもなく、際立つ経営手腕と凄まじいまでのメンタルの強さにあるのだが、それを知る人は少ない。

 彼女を取り巻く噂話は事欠かない。

 曰く、領地では『金色こんじきの女神』と呼ばれ、領民たちからそれはそれは慕われている。

 曰く、神に愛され、一度ひとたび彼女が街へ出れば空には虹がかかり、花びらが舞い上がる。

 曰く、どんな令嬢にもなびく事のなかった美貌の伯爵に溺愛されている。

 随分と誇張された話かと思いきや、実は全てがほぼ実話である。


「中々手に入らないで思い出したのですけれど、実は私、あの『ハミルトン・シルク』でドレスを仕立てる事になりましたの!」

「「「まぁ! 羨ましいわ!」」」

「あの布もまだまだ生産体制が整っていないとかで、希少価値が凄いでしょう?」
「一体どうやって手に入れましたの?」
「私の母方の親類の伝手でようやく辿り着きましたのよ。叔母の乳母の娘さんがハミルトン伯爵領に嫁がれてて……」

(((遠っ!!)))

 
 夫人達がハミルトン伯爵夫人に関する話題で盛り上がる中、一人の年若い夫人が、『もう耐えられない!!』とばかりに立ち上がった。

「皆さんどうなさったの!? あんな平民育ちの小娘にすっかり懐柔されてしまうなんて、由緒正しき貴族家の血を引く者として恥ずかしいですわ」

 立ち上がった夫人は拳を握りしめて熱弁をふるうが、周りの夫人たちは戸惑うばかりだ。

「皆さんは悔しくありませんの!? 私達の方がずっとずっと以前からあの方をお慕いしていたというのに……よりにもよって、あんな元平民娘に掻っ攫われるなんて!」

「まぁ! いけませんわ、ウェリストン伯爵夫人。私達がハミルトン伯爵様に憧れていたのはもう過去の事……。私達はそれぞれ別の方に嫁いだ身なのです。青春の思い出は語らずに胸に秘める物ですわ」

 周りの夫人達も同意する様にウンウンと頷く。

「それに、平民育ちとはいえアナスタシア様は歴としたフェアファンビル公爵家のお血筋。あの夜会での麗しい御姿を見れば疑う余地もございませんわ」
「ええ、それにユージーン様……いえ、ハミルトン伯爵様の奥様を見るあの目。とても私達の出る幕などありません」

 周りの夫人達は口々にウェリストン伯爵夫人をたしなめる言葉を口にするが、肝心のウェリストン伯爵夫人はイヤイヤとかぶりを振って中々納得しようとしない。


「それに……ほら、こんな事は口にしたくはございませんけれど、ありますでしょう? 恐ろしい噂」

 一人の夫人が恐る恐る、といった感じでそう口にすると、周りの夫人達も気まずげに目線を下げる。

 皆、一度は何かしらの『恐ろしい噂』も聞いた事があるのだ。


 曰く、アルフォンス王太子殿下が熱病で子を成せない身体となり廃太子されたのは、相愛のハミルトン夫妻の仲を裂こうとしたが故に神の怒りに触れたからだ。

 曰く、ハミルトン伯爵をその身体を使って無理矢理に誘惑しようとした令嬢が、謎の奇病に侵された。

 曰く、ハミルトン伯爵夫人に暴漢を差し向けようと画策していた計画が何故か漏れ、主犯格の者達は夜な夜な亡者の声に悩まされる様になった。


 等々。これまた枚挙にいとまがないが、こちらは嘘とまことが半々だ。


「そ、そんなの! ただの噂でございましょう? 私、どうしても……どうしても諦め切れないのです!」

 ウェリストン伯爵夫人は、随分と歳上の方の後妻になったと聞く。満たされない結婚生活が、かつての恋への執着に繋がっているのだろう。

 そんな夫人を哀れに思ったのだろうか。一人の夫人がその重い口を開いた。


「こうなったらお話致しますわ。実は……ハミルトン伯爵を誘惑しようとしたのは、お恥ずかしい事に私の従姉妹いとこなのです」

 まぁ! と茶会の場が騒つく。

 今までは嘘か真か噂話の域を出なかった話に、一気に信憑性が出たのだ。

「あまり詳しい状況をお話しするとご迷惑をお掛けする方もいらっしゃるのでそこは伏せさせて頂くのですが、その、無理矢理同席して、胸元もあらわなドレスで身体を押し付ける様に誘惑をしようとしたと」

「「「まあぁ!!」」」

「ところが、まるで不思議な力に遮られるかの様にハミルトン伯爵には指一本触れる事も出来ず、ご本人にも毛ほどの興味も持って貰えなかったとか」

 ……それは生き恥だな。と、周りの夫人達もゴクリと唾を飲み込んだ。

「その、噂に聞く謎の奇病、というのは?」」

 一人の夫人が恐る恐るそう尋ねる。

 尋ねられた夫人は、病に侵された従姉妹の事を思い出したのか、浮かんだ涙をハンカチでそっと拭うと消え入りそうな声で答えた。



「お鼻の毛が……伸びるのです」

 ヒィッと周りの夫人達が小さな悲鳴をあげた。
 お鼻の毛というのは貴族の令嬢や夫人にとって、決して、決して伸びていてはいけない毛である。


「切っても切っても、凄い勢いでお鼻の毛が伸びるのです」

 夫人達は怪談話でも聞くかの様に互いに抱き合いガタガタと震え始めた。
 そんな事になったら貴族女性としてはもう終わりだ。


「で、では、例え素敵な殿方と朝を迎えたとしても?」
「ええ、翌朝にはお鼻の毛が『コンニチワ』致しますわ」

「「「ヒイィィィッ!!」」」


 夫人達はすっかり青褪め、恐怖に慄いた表情でウェリストン伯爵夫人を振り返る。


 そこには、恐怖に顔を歪めながらも、どこか憑き物が落ちたかの様にスッキリした表情のウェリストン伯爵夫人が立っていた。
 

「皆さま、私、ハミルトン伯爵様の事はキッパリサッパリ諦めますわ!!」


 かくして、一人の夫人は救われた。

 今日この茶会に集った夫人達が善良な人間であった事が彼女にとって何よりの幸運だった。
 
 もうこれ以上誰かがハミルトン伯爵夫妻の間に挟まろうとして、悲劇が起こりません様に……。

 救われた夫人は神にそっと祈った。
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