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1巻

1-2

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「あなたのような美しい女性をめとることができて、俺は幸せ者です」

 彼は心の底からそう思っていると錯覚してしまいそうな声でそう告げ、セレニアに微笑みかけてくる。
 だが、真に受けるわけにはいかない。

(やり手の実業家だというなら、そのくらいの演技だってできるはずだわ)

 商売で成り上がってきたという彼のことだ。お世辞はお手のものだろう。
 商売を円滑に進め、自らの有利になる契約を結ぶには、相手の望みを察し、それを満たす言葉と態度を取る必要がある。これも、その一種。セレニアを喜ばせるためのおべっかに過ぎないはずだ。
 彼が求めているのは、商売に使える高位貴族との縁。
 セレニア自身ではないのだから。

(外面がよくても、実際はお仕事にしか興味のない方かもしれないもの。妻になったからといって、愛されるわけじゃない)

 自分自身に言い聞かせて、セレニアはよそいきの笑みを浮かべる。

「光栄ですわ、ジュードさま」

 心の中に本音をしまい込むのは、慣れっこだ。

「よろしければ、少しお話ししませんか? 互いのことを知る機会だと思いますから」

 にこやかな笑みを浮かべて、ジュードを会話に誘う。彼は大きくうなずいて、ソファーに腰掛けた。
 セレニアがティーポットから新しいカップに紅茶を注ぎ、ジュードの前に置くと、彼は軽くしゃくをした。

「次は、俺がお茶をれましょう」
「ジュードさまが、お茶をおれになられるのですか?」

 セレニアはきょとんとして尋ねた。
 貴族の男性が自らお茶をれることは、セレニアの知る限りありえないことだったからだ。

「成り上がりの身ですから」
「……失礼いたしました」

 言いたくもないことを、言わせてしまった気がした。
 セレニアは慌てて自らの非礼を詫びる。
 対するジュードは「いやいや」と顔の前で手を振った。

「セレニアさまほどのお生まれであれば、違和感を覚えるのもおかしくはありません。ただ、商売をする上で自ら客人をもてなせることも大切ですから。必要に応じて覚えただけですよ」

 そう言ってジュードはカップを口に運ぶ。セレニアが気に病まないように、フォローしてくれたのだろう。
 それが伝わってきて、申し訳なく思ってしまう。

「その……今さらですが、贈り物をたくさんありがとうございます。このウェディングドレスも、とても素敵ですわ」

 とりあえず話題を変えよう。その一心でセレニアが感謝を伝えると、ジュードは頬をゆるめた。

「いえ、気に入ってくださったのならよかった。あなたをイメージしてデザインして、至急仕立てさせたのです。俺の想像通り、とても似合う」

 なぜだか、その言葉には偽りがないように思えた。
 真っ直ぐな褒め言葉をぶつけられて、なんだか胸のあたりがむずむずする。
 セレニアはうつむいて、赤くなっているであろう頬をごまかそうとした。

「あなたを思うと、たくさんのイメージが浮かぶ。……本当に、素敵だ」

 ほうっとしたように、ジュードは呟いた。
 その言葉に小さな疑問が浮かぶ。

「ジュードさまは、商会の品を自らデザインされているのですか?」

 小首をかしげるセレニアに、ジュードはすんなりとうなずいた。

「すべてではありません。俺がデザインを担当しているブランドもある、というくらいですよ」
「まぁ」
「そのブランドはオーダーメイドの一点ものを扱うことが多い。裕福な貴族が主な顧客です」

 その言葉で、いろいろなことがに落ちた。
 裕福な貴族が顧客。それなら、この結婚がもたらす利益は多大なものだろう。
 侯爵家と繋がりがあれば、販路が広がる。セレニアにこのドレスを着せたのも、今日訪れる参列客にメイウェザー商会の品を見せつけるための、いわば広告塔の役割を期待してということだ。

(やっぱり、私はそういう意味で求められたのね)

 かげりを見せているとはいえ、ライアンズ家は腐っても侯爵家だ。歴史ある貴族には今まで培われた人脈というものがある。

「といっても、現在の収入源は庶民向けのものがほとんどですが」

 カップをテーブルに置いた彼が、セレニアを見つめる。

「だから、あなたはなにもしなくていい。……ただ、そこにいてくれれば」
「……はい」

 すなわち、セレニアの役目は婚姻を結んだ時点で終わり、ということだ。
 ほんのわずかに、セレニアの表情がかげる。

「おっと、妻となる女性との初対面だというのに仕事の話など、しつけにもほどがありました。失礼。今からは互いのことを知る時間にしましょう」

 仕切り直すように、ジュードが微笑みかける。
 ……ほっと胸をで下ろした。
 あのままでは、どんどん気持ちが沈んでしまって、表情を取り繕うこともできなかっただろうから。

「では、まずは――」

 ジュードが口を開いて、自身の話をしてくれる。
 セレニアは真剣に耳を傾けた。
 彼の話し方はとても巧みだった。ユーモアを交えた話に抑揚よくようのある喋り方は聞いていて飽きず、話自体もわかりやすい。

(これなら、お父さまを丸め込むのもたやすそうね)

 失礼だが、そう思ってしまった。

「セレニアさまは、どういったものがお好きですか?」

 彼が尋ねられ、セレニアは困惑した。
 侯爵令嬢の身で、動物とたわむれることが好きなど言えるわけもない。迷いながらも、無難な回答を口にしようとした。

「わ、たしは……」

 なのに、どうしてだろうか。言葉に詰まった。

(当たり障りのないことを、言えばいいだけなのに……)

 そのはずなのに、なぜだかジュードの前では自分を偽りたくなかった。
 けれど。

(私には、アルフたちとたわむれる以外、なにも好きと言えることがない……)

 自分が空っぽの人間だと思えて仕方がなかった。
 わずかにかげったセレニアの表情に気がついたのか、ジュードが不安そうな顔をする。

「わ、私は、そうですね。お庭を散策したり、自然が豊かな場所でのんびりしたりするのが好きです」

 嘘にはならない程度にそれらしい話でごまかして、セレニアは笑った。
 自分の笑みは引きつっていないだろうか。それが不安で仕方がない。

「そう、ですか。……なんだか、困らせてしまったようで申し訳ない」
「い、いえ……」

 ジュードのせいではない。セレニア自身の問題だ。
 それを自覚しながら、セレニアは微笑んだ。
 できる限り、内面を見透かされないように。


 それからしばらく他愛もない話をし、彼は控室を出ていった。
 一人になったセレニアがほっと息を吐いていると、少ししてまたシスターがセレニアを呼びに来た。
 いよいよ、時間だ。

(失敗、しないようにしなくちゃ)

 結婚が決まってからずっとシミュレーションしていた流れを、もう一度イメージする。


(案外、あっさりしたものだったわね)

 式は滞りなく進んだ。セレニアの不安は杞憂きゆうに終わり、今は披露宴会場に向かって馬車に乗っている。
 会場は、メイウェザー男爵家の邸宅だ。

「邸宅についたら、侍女が出迎えてくれます。セレニアは彼女たちの言うことに従ってください」

 端的に説明されて、セレニアはうなずいた。
 彼の様子をうかがっていると、今さらながらに彼の妻になったのだと実感させられる。

(私のこともいつの間にか呼び捨てにしているもの。結婚したのだから、当然なのだけれど)

 神の前で誓い合ったその時から。セレニアはジュードの妻だ。
 なにもおかしなことはない。

(そう。たとえ、私の気持ちがこれっぽっちもついてきていなくても。この方と私は、今日から夫婦)

 そう自分に言い聞かせながら、セレニアは何度か深呼吸をする。
 馬車は止まることなく進み、貴族の邸宅が並ぶ通りへ入った。
 そのままさらにぐんぐん奥に進んで、しばらく走ったところで、ようやく馬車が停止する。
 窓から見えるのは、たくさんの緑。

「この辺りは街の外れです。自然が豊かなので、ゆっくりできるかと」

 ジュードがちらりとセレニアに視線を向ける。セレニアはこくりとうなずいた。

(ジュードさまも、自然がお好きなのかしら……?)

 自分と同じ、と喜びそうになったが、彼の場合は経営者として日々ギスギスした商談をしているのだ。少しくらい自然で癒やされたい、ということなのかもしれない。
 馬車での移動を終えて邸宅に入ると、数名の侍女が出迎えてくれた。

「披露宴の開始時刻は二時間後を予定しています。セレニアのことを頼みますよ。……くれぐれも、丁重にもてなすように」
「かしこまりました」

 侍女の一人がジュードの指示に返事をして、頭を下げる。
 ジュードはその足で邸宅を出ていってしまった。

(どこかへ向かわれるのかしら……?)

 彼の出ていったほうを眺めていると、パンッと手を叩く音がして、意識が引き戻される。

「さぁ、時間がありません。早く披露宴の仕度をはじめましょう」

 中年の侍女の言葉をきっかけに、ほかの侍女たちが素早く移動をはじめた。

「奥さまはこちらに。さぁ、どうぞ」
「え、あ、は、はい」

 柔和な笑みを浮かべた一人の若い侍女が、セレニアを誘う。
 セレニアは静かにうなずいて言われるがまま邸宅の奥へ進んだ。
 侍女たちのてきぱきとした手つきで、瞬く間に衣装が整えられていく。
 着せられたのは、可愛らしくも上品な淡いパープルのドレスだ。
 これもジュードがデザインしたものなのだろうか。
 まるで、それこそお姫さまのように丁重に扱われることに戸惑いながらも、セレニアは披露宴の会場へ足を運んだ。
 会場となるのは、メイウェザー男爵邸にあるパーティーホールだ。
 足を踏み入れるとそこはきらびやかな装飾に彩られ、楽団が音楽を奏でる準備をしている。彼らは国内でも有名な楽団ということだった。これは、侍女から聞いた話だ。
 壁側にはしそうな食事が並んでいる。立食形式のようだ。

(……ジュードさまは、どこかしら?)

 披露宴の開始まではまだ時間があり、会場内はまだ人が少ない。
 セレニアは広々としたホールを見渡して、ジュードの姿を捜した。
 侍女には、一足先に会場へ向かったと聞いた。パーティがはじまる前に、少し言葉を交わしたかったのだ。

(このドレスのお礼を、きちんとお伝えしたい)

 その一心だったが、会場の隅でジュードがなにやら男性たちと話をしているのが視界に入って、声をかけるのをためらってしまった。
 男性たちは、服装からして貴族だろう。彼らは皆、楽しげにジュードと言葉を交わしている。

「いやはや、メイウェザー卿もついに結婚ですか。それにしても、奥さまのドレスは素晴らしかった。あちらも、商品で?」
「えぇ、いずれはその予定です」
「実は私の娘が一年後に結婚を控えているのです。ぜひともお力添えいただきたいと思っておりまして」
「それは光栄です。ぜひ」

 聞こえてくるのは、どうやら商売の話のようだった。
 セレニアは、こんな時まで熱心だなという感想しか抱けない。

(ご自身の結婚式と披露宴だというのに、まるで営業の場だわ)

 それもあながち間違いではないのだろう。セレニアとの結婚が高位貴族との縁作りなら、この結婚式と披露宴はその関係を知らしめるためのもの。
 言ってしまえば、今後の事業拡大への下準備なのだろうから。

「あぁ、そうだ。実はあなた方に早めに来ていただいたのは、一つ特別なご提案が――」

 営業活動は終わりそうにない。
 これでは熱心を通り過ぎて、仕事中毒だ。若干の心配がセレニアの頭をよぎる。

(……いいえ、私に心配されるなんて不本意よね。ジュードさまはお忙しそうだし、私は邪魔にならないように邸宅のほうで待っていましょう)

 セレニアはそう考えて、今歩いてきた廊下を引き返していく。

「先が思いやられるわ」

 自然とそんな言葉がこぼれた。
 しかし、結婚式の前に彼が言っていたことが頭の中によみがえる。

「そう、私はなにもしなくていい。……期待など、されていないのだから」

 自分が口にした言葉に、惨めになってしまう。
 自分はやはり『ハズレ』なのだ。
 そう思うと、気持ちが重く沈んだ。


「あぁ、セレニア。ここにいたんですか」

 披露宴がはじまる十分前。ジュードがセレニアのもとにやってきた。

(とにかく大人しくして、ジュードさまのお邪魔にならないようにしなくては……)

 そう自分に言い聞かせながら、セレニアは笑みを貼り付けて「はい」と返事をした。

「もしかして、ずっとここで待っていたのですか? こちらに来てくれてもよかったのに」

 ジュードはにこやかな態度を崩さずそう言ってくれる。

「いえ、ジュードさまがなにやら真剣なお話をされていましたので。お邪魔になってはいけないでしょう?」

 苦笑を浮かべて、セレニアは答えた。ジュードはなにも言わなかった。
 やはり、そういう場に自分がいては迷惑なのだろう。

「そうでしたわ。ドレス、本当に素敵です。ありがとうございます」

 少し重くなった空気を軽くするように、セレニアは先ほど告げるつもりだったお礼を口にする。

「こんなにも素敵なドレスを用意してくださって、本当に嬉しいです」

 ニコニコと笑みを浮かべて、セレニアは続ける。
 ジュードは特別な反応を示すことはない。ただ、そっとセレニアから視線を逸らすだけだ。
 もしかしたら、時間を気にしているのかも……と、セレニアは思う。

「もうこんな時間ですね。そろそろ行きましょうか。ジュードさまも、お忙しいでしょうから」

 自分と会話をしていたところで、お金は生まれない。セレニアの役目は終わったに等しいのだ。余計な時間を使わせるわけにはいかない。
 あとは、彼の邪魔にならないように大人しい妻を演じるだけ……

(本当に、それでいいの?)

 心の中で誰かが問いかけたような気がした。
 けれど、答えなんて出なかった。


 披露宴の間、セレニアはジュードのすぐ隣にいた。妻なのだから当然といえば当然だ。
 しかし彼の隣にいるだけで、申し訳なさが募っていく。

(私がそばにいては、ジュードさまは商売のお話に専念できないのではないかしら)

 あいさつ回りをしている時、ジュードは招待客からそれとなく商売の話を持ちかけられていた。だが、急ぎの用件でなければ彼は「また後日」と断ってしまう。
 セレニアに気を遣っているのは明らかだ。
 それがわかるから、セレニアは申し訳なくてたまらなかった。

(それに、皆さまもジュードさまとお話がしたいはず)

 招待客たちは皆口々にジュードの商品を褒め、また購入したい、次の商談の予定を決めたいと言う。
 それを聞いていると、セレニアはジュードがいかにやり手の商売人であり、顧客のことを考えているかを理解してしまう。
 だからこそ、余計に彼の邪魔になりたくはないと思ってしまうのだ。

(ジュードさまと結婚したい女性だって、たくさんいらっしゃったはずだわ)

 彼の立場なら女性は選び放題だ。しかし、商売のためにセレニアと結婚する道を選んだ。
 それは彼にとって、不本意に違いない。

「それでは、またその日に」

 話をしていた招待客が、場を離れていく。
 ジュードが「ふぅ」と息を吐いた。セレニアは控えめに彼の衣服の袖を掴む。

「どうしました?」

 セレニアに尋ねるジュードの表情は柔らかい。
 その表情が、セレニアを苦しくさせる。
 彼は優しい人だ。だって、望んでもいない妻を気にかけてくれるのだから……

「いえ、少し疲れてしまいまして。ほんの少し場を離れてもよろしいでしょうか?」

 招待客とのあいさつはほとんど済ませている。それにセレニアがお飾りの妻にすぎないことは、彼らも理解しているだろう。この場に集まった人々が求めているのはセレニアではないのだ。
 ここで席を外したところで、誰に迷惑をかけることもない。むしろ邪魔者がいなくなって仕事の話に専念できるはずだ。
 セレニアが願い出ると、ジュードは腕時計にちらりと視線を落とし、大きくうなずいた。

「もうこんな時間でしたか。気が利かず申し訳ない。俺はもう少し残るので、セレニアは先に戻っていてください」
「……かしこまりました」

 セレニアは邸宅のほうへ足を向ける。
 ちらりと振り返ると、別の招待客とジュードが話をはじめた。
 愛想のよい笑みを浮かべるジュード。彼を見ていると、どうしようもない気持ちが胸の中で膨れ上がる。

(私、ジュードさまと釣り合っていないわ)

 ネガティブな感情を振り払うように、セレニアは軽く頭を振った。
 そしてもう一度歩き出そうとした時。

「おっと、失礼」

 一人の男性とぶつかりそうになる。
 男性は青色の目を柔和に細め、「申し訳ない」と謝罪の言葉を口にする。セレニアは軽く頭を下げた。
 彼が誰かに呼ばれて早足に隣を通り抜けたのを見て、今度こそと邸宅のほうへ歩き出す。今度は誰にも会うことはなかった。
 邸宅に繋がる扉に近づくと、数名のメイドが飲み物を運んでいた。

「大きなパーティだから大変ね。みんな、お疲れ様」

 実家にいる時のように軽く声をかけると、彼女たちは唖然とした表情でセレニアを見る。
 とっさに、頭の中を不安がよぎった。
 もしかしたら、普通の貴族は軽々しく使用人に声をかけたりしないのではないか……と。

「あ、ありがとうございます、奥さま」

 ハッとしたようにメイドの一人がそう言ってはにかむ。
 その様子を見て、セレニアはほっと息を吐いた。
 メイドたちに扉を開けてもらい、邸宅への廊下を進む。途中で数名の侍女が出迎えてくれた。

「奥さま。お着替えに移りましょう」

 中年の侍女が優しく微笑む。セレニアは、異を唱えることなくうなずいた。

(この後は、初夜、なのだろうけれど……)

 あまり期待できそうにはない。
 だって、そもそも。
 ジュードが仕事の話を切り上げて邸宅に戻ってくることさえ、いつになるかわからないのだから。


 ドレスを脱いで、湯浴みを済ませる。
 専属侍女に髪の毛を乾かしてもらいつつ、与えられた私室で初夜の準備に移った。
 セレニアの後ろでは、二人の侍女がナイトドレスを見比べている。

「奥さまにはこっちのほうがいいと思わない? ほら、色彩がぴったりよ」
「けれど、こっちのほうが形が綺麗だと思うのよ。せっかくだし……」

 彼女たちは楽しそうにナイトドレスを選んでいる。その声を聞いていると、セレニアの緊張が少しだけほどけた。

「申し訳ございません、奥さま。みんな張り切っているのです」
「そうなのね」

 セレニアの髪の毛を乾かす侍女の言葉にうなずいた。
 彼女は披露宴前に案内をしてくれた侍女だった。ルネという名前で、鮮やかな赤毛をお団子にしているのが特徴だ。
 侍女服をきっちり着こなした彼女の姿は、まさに仕事のできる女性という印象を与える。

「今までこの邸宅には旦那さましかいらっしゃいませんでしたから。やはり侍女たるもの、女主人のお世話をしてこそですもの」

 ルネはセレニアにそう声をかけてくれる。その言葉は本心からのもののようで、セレニアの緊張がまた少しゆるむ。

「こんな遅くまで付き合わせてしまってごめんなさい」

 近くの壁掛け時計を見て、セレニアは身を縮めた。
 もうすぐ日付が変わる時刻だ。そんな時間まで仕事を長引かせてしまい、申し訳なくてたまらない。

「あなたたちにも休息が必要でしょうに……」

 今にも消え入りそうなほど小さな声で言うと、ルネは「滅相もございません」と首を横に振った。

「私たちは楽しいのです」
「……でも」
「では、言い方を変えましょう。この分のお手当は、旦那さまからしっかり頂いております。問題ございません」

 冗談っぽくルネが口にした言葉に、セレニアはぽかんとした。
 彼女は、セレニアの罪悪感を取り除くために、わざと言葉を変えてくれたのだ。それがわかって、心に温かいものが込み上げる。

「お髪も整いましたし、ナイトドレスに着替えましょうか。……あなたたち、決まったの?」

 ルネが振り返ると、二人の侍女は「はい!」と声をそろえて返事をした。

「こちらにいたしましょう! 桃色で奥様の可憐さを引き立てますし、シルエットも美しいかと!」

 侍女の一人がナイトドレスを手に持ってニコニコと笑っている。
 それは淡い桃色の可愛らしいものだ。……少々丈が短いのが気になるが。

(……可愛らしいけれど、私が着てもいいものなのかしら)

 一抹の不安。それがセレニアの顔に出ていたらしく、ルネが肩を軽く叩いてくれた。

「大丈夫ですよ、奥さま。旦那さまのことですから、きっと褒めてくださいます」

 それはただ、彼が優しいからだ。
 なんて、張り切っている侍女たちを前に言うこともできず、セレニアは曖昧あいまいに笑うだけだった。


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