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第二話

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「ふみちゃんだよ? 今までにひろちゃんはあったけど、ふみちゃんってさぁ」

夕食のから揚げ弁当を食べながら、尋史は昼間の事を思い出して、つい声を大きくした。
覚はフルーツサンドイッチを堪能して、静かに尋史を見上げている。

「楽しそうだね」
「……いや、別に、楽しくはないけど」
「ふぅん。まんざらでもないように見えますけど」
「違うって!」
「そうかなぁ~」

覚は疑わしそうな視線で尋史を見やると、サンドイッチに沿えてあったバニラクッキーを豪快に口に入れた。

「心の中とはいえ、そんなに親しげに呼ぶって事は、やっぱり知り合いじゃないの?」
「うーん。声は本当に知らないからなぁ。別階の他部門の人だとは思うんだけど。俺が声を覚えてないぐらいだから、ほぼ面識がないんじゃないかな」

これでも、人脈が命な営業マンの端くれだ。顔や声を覚えるのは割と得意である。

「その程度で好きになってもらえるなんてね。しかも、ふみちゃんだなんて呼ばれて」
「……何が言いたいんだよ」
「あ、このクッキーおいしい」
「無視かよっ」

覚は嬉しそうにクッキーを味わっている。
サクサクとした子気味いい音が、美味しさを伝えてきた。

「本当……誰なんだろう。好きになってもらえてるのに、予想すらつかないなんてさ」
「意外に近しい相手かもよ」
「えぇ~? 声が聞こえるタイミングも、まるで場所を選ばず突然だし。いかにも遠くからって感じだけどな」

軽やかに愛称で尋史を呼ぶ彼の声。
呼び慣れている感じさえあった。

「心の中だけで親しく呼んでるってパターンかな。ちゃん付けなんて、小さい頃に父さんに呼ばれたきりだ」
「あ。お父さんといえば。またメール来てたでしょ。返信した?」
「何で知ってんだよ……。返さないといけないような内容じゃなかったし、そのままだよ」

父の話題をされた途端に、尋史はわざとらしく弁当に集中しはじめた。

「いつまで意地はってるのさ」
「……だって、今更仲良くするなんて気まずいじゃん」

市川家は約二十年前に母を亡くしてから父子家庭だった。
親子関係は良好で、尋史は男手一つで育ててくれた父を言葉にせずとも敬愛していた。
疎遠になったのは、父が再婚してからだ。
尋史が高校三年生の冬。
指定校推薦で大学の入学試験を受けて無事に合格をもらった尋史は、一般入試組の生徒より一足先に晴れやかな気持ちで師走を迎えていた。
今思えば、父は時機を待っていたのだと思う。合格通知を手にして浮かれている息子に、父は再婚をしたいのだと難しい顔をして告白してきた。
父の人生だ。反対する理由は何もない。
自分の存在が足かせになっていたのだろうと思うと、逆に申し訳ない気持ちになったぐらいだ。
すぐに再婚相手と会う約束をして、一緒に食事をしたのは年明けだったか。
相手にも息子がいて、新しい家族の四人がそろった時。
尋史は心が冷たくなった事を覚えている。
自分を除いた皆が、あまりにも仲睦まじく見えたのだ。
尋史より二つ年下だという再婚相手の息子は、自然に義父さんと口にして、新しい家族にすんなりと溶け込んでいた。
交わされる言葉には緊張感なんて少しもなくて。尋史を置いて、話が大層盛り上がっていくように感じた。
どう見ても、前から会っていたとしか思えなかった。
再婚を知らなかったのは尋史だけで、三人は親交を深めていたのだ。
父は思春期まっただ中の息子に気を遣って、再婚相手の家族との交流を伏せていたに違いない。
その事実に気付いた時、ただ悲しかった。
足かせどころか、邪魔者だったのだ。自分がいなければ、もっと再婚は早かっただろう。
受験に差し障らないように。息子の心を傷付けないように。
父の思いやりは十二分に理解できたが、尋史が感じたのは優しさではなく疎外感だった。
自分だけ隠され、皆は本当の家族にしか見えないぐらい仲良くしていた。
再婚相手も息子も非常に優しくしてくれたというのに、自身の悲しみや動揺を上手く流せずに、新しい家族を作っていこうという皆の気持ちを、上手く受け取れなかった。
それから、半ば強引に進学と同時に一人暮らしをして、少しでも父の負担を減らそうとバイト三昧の日々を送った。
戸建てを購入して新しい生活をはじめた父は、疎遠になった息子に再婚を認めてもらえなかったと思ったようだった。
ろくに連絡もせず、新しい実家に近寄りもしない。
尋史は、そんな不義理な息子になったのに、父はメールを送るのをやめなかった。
家族間の報告に、仕事の話に。
返事があってもなくても。
義弟の進路の節目にも律儀に連絡があった。
高校を卒業して、大学進学。そして大手の医療法人の本部職員になったと。
義弟とは数えるほどしか会っていないのに、報告をもらうのもおかしな気持ちだったが。
父は今も変わらない頻度でメール送ってくれる。
覚の言う通り、そろそろ父と仲直りをしないといけないとは思っている。
昔は自分の中にある疎外感に対する当てつけで距離をとっていた。
でも、今は日々膨らんでいく気まずさが尋史の腰を重くしていた。
今更、どんな顔をして父や新しい家族と会えばいいのか。
全く分からなくなっていた。

「まめにメールをくれてるんだし、今更も何もないと思うけどね」
「……さらっと心の中を読まないでよ」
「ごめん、ごめん。話がそれちゃったね。謎の声に対しては、そんなに焦らなくてもいいと思うよ。声を拾い続けてたら、正体は嫌でも分かるだろうしね」
「そうだね……」
「勝手に能力は解かないからさ。ゆっくりでもいいじゃない」
「うん……」

家族と距離を縮めるのが先か。
声の主の正体が分かるのが先か。
どちらも遠い気がする。
尋史はから揚げの最後の一個を口の中に放り、中途半端な気持ちと一緒に飲み込んだ。

それからは、期待感が干からびてしまうぐらい何一つ恋の言葉が拾えない日々が続いた。
あの甘い声が、完全に思い出になってしまいそうだ。
誰だか分かれば、もっと声が聞こえてくると教えられたので、あれから飽きるほど考えたが、やはり該当する人物は思い浮かばなかった。
ふみちゃん、なんて呼ばれた事もないニックネームで親しく呼んでくれていた。
心の中とはいえ、知らない人に気安くに呼ばれて、普通なら嫌な気持ちになってもおかしくないのに。
もっと声を聞きたい。名を呼ばれたいと思ってしまう。
顔を見て話したい。会いたいという気持ちが強まっていく。
今もこのビル内にいるのだろうか。
それで、俺の事……想ってくれてんのかな、とか――。
って、少女マンガかよ。
何だか、尋史の方が恋焦がれてきている気がする。
たった一言を待ち望んで、振り回されて。
二十六歳男性がまるで乙女のように。
いかん、いかん。今は仕事中だ。
心の中が桃色になるのを止めようと緑茶を飲もうしたら、デスクに置いたマグカップの中は空に近かった。
今度はブラックコーヒーを飲んで、大人の男を取り戻そう。
気持ちを切り替えていると、三田村が昼休憩から戻ってきた。

「わりぃ。ちょっと抜けるわ」
「どうしました?」
「急に熱が出てきたみたいで」

眉間に皺を寄せて三田村が額に触れる。立っているのも辛そうだ。

「隣の病院行ってくるな。急ぎの仕事はないけど、何かあったら連絡して」
「分かりました」

三田村は力なく笑むと、上司に許可を取って足取り重くフロアから姿を消した。
隣のビルの一階には内科医院がある。
診療時間が夜の九時までなので、周辺のビジネスパーソンには非常に重宝されており、尋史も何度か世話になっていた。

「去年のお歳暮前を思い出すわね……」

上司が小さく呟く。
そうだ。確か去年の秋のはじめぐらい。
お歳暮戦争が本格的になってきた頃に、三田村が風邪を引き、それをきっかけにフロア全体が風邪菌に侵された。
大事にはならなかったが、あの時のスリルはもう味わいたくない。
三田村にはしっかり治してもらわないと。

(あの人。この間、ふみちゃんの隣に乗ってた人だ……風邪かな?)

えっ?
何だって?

尋史は見積書を作成している手を止めて、窓の外にある隣のビルを見た。
このタイミングで声が聞こえるという事は。
何という盲点か。
彼はこのビルの社員ではなく隣にいたのか。
言葉の内容からすると、病院だろう。
声の主は隣の病院勤務なのか。
まつまるフーズの別部門の人間だとばかり思っていた。
まさか隣のビルだったとは。
でも、あの病院、院長先生以外の男っていたっけ?
尋史が受診した時は、院長しか男は見かけなかった。
院長は恰幅のいい中年男性で、確実にあの若い声の主ではない。
認識していないだけで、他にも男が勤務しているのか。
そう考える方が自然だろう。
この支社にきて約三年。数えるほどしか受診した事がないのだから。
そうすると、ほぼ顔を合わせていないだろうに、彼は恋心を抱いてくれているのか。
風邪を引いてぼんやりしている所や、注射針を恐がる尋史を見て――?

いやいや、それはないだろう。

まだ、五分でも一緒に働いた事があるという方が真実味がある。
ふみちゃんとまで呼んでくれているのだ。
やはり、ある程度の面識があるのでは?
しかし、隣の病院勤務の人と交流した記憶は全くなく。
考えれば考えるほど、訳が分からなくなる。
これはもう、三田村に聞くしかない。声の主を見ている可能性が高いのだ。
病人に申し訳ないが、少しだけ質問させて欲しい。

どうしよう。

声の主が分かるかもしれない。
心臓が急に鼓動を増して、緊張と興奮が心の中で入り乱れる。
三田村の口から出てくるのはどんな人物だろうか。
尋史の驚くような男だろうか。
それとも、覚の言うように、声を忘れているだけで意外に近しい相手なのか。
何度もフロアの入口に視線をやりながら、三田村を待つ。
まさか、こんな理由で後輩に帰社を切望されているとは思いもしないだろう。
先輩の心配よりも、声の主への期待感が大きく勝り、己の薄情さに苦笑してしまう。
作りかけの見積書とにらめっこをしながら待機していると、先ほどより幾分か顔色のよくなった三田村が戻ってきた。
とうとう、大きく歴史が動く時が訪れた。
上司に体調の報告をして自席に座る先輩社員に、尋史は気遣わしげな表情をして声をかけた。

「おかえりなさい。三田村さん宛の電話はありませんでしたよ」
「ただいま。ありがとな。これからもう一仕事になったら、もちそうにないからよかった。こじれる前に熱を下げておきたいからな」
「薬は飲みました?」
「ああ。病院で」

尋史は三田村の病状を聞きながら、質問の機会をうかがっていた。

「去年みたいになったらヤバいし、今日は早退するな」
「はい。あとはこっちでやっておくので。今日はゆっくりされて下さい」

帰宅の準備をする三田村を前に、尋史は何気ない風を装って口を開いた。

「すみません、具合の悪い時に。あの、病院に勤務してる人で若い男性って見かけました?」
「……いなかったと思うけど。市川も行ってるだろ? その時から変わりないよ」
「そうですか……。なら、待合室にサラリーマンとか」
「若いやつはいなかったと思うけどなぁ」

三田村は首を傾げながら答えた。
直接、会っていないのか。
そうすると、やはりこちらのビルに勤務している可能性も――。
考え込んでいる尋史に、三田村は不思議そうな顔をした。

「誰か知り合いでもいるのか?」
「えっと、そうですね……隣で働いてるって風の噂を聞いて……」
「それなら、病院の上じゃないか?」
「……病院の上?」

考えてもいなかった新しい可能性に、尋史は目を丸くした。
思えば、隣だってオフィスビルだ。何らかの企業が入っているだろう。

「うちと同じで、色々な企業が借りてるんですかね?」
「いや、あっちは医療法人の自社ビルだから。上に本部事務局があって、一階で病院を開業してんの。知らなかったのか?」
「はい……」

医療法人? あれ? 確か――。
尋史の頭に父からの一通のメールが思い浮かぶ。
二年前のそれに、確かに医療法人の文字があった。

そんな。まさか。

でも、もしあいつなら――。
誰だか見当もつかないのに、いやに近しい間柄を感じさせる事も、自分が声を知らない事も。
全て辻褄が合う。

「市川?」

三田村の怪訝そうな表情を見て、尋史は慌てて思考に沈む頭を引き戻した。

「あ、ごめんなさい。体調が悪いのに色々聞いてしまって。もしかしたら、そこで働いているのかもしれないです。ちょっと気になったもので」

適当にごまかして、早退する先輩社員を見送った。
声の主に直接つながる話ではなかったが。
とんでもない人物の可能性を示唆する情報を得てしまった。
尋史は再び窓から見える隣のビルに視線をうつした。
あのビルで声の主が働いていると確定したわけではないけれど。
でも、尋史の考えうる限りでは、謎の声はあいつしかいなかった。
改めて思い返してみると、もうずいぶん顔を合わせていない。
そもそも、ちゃんと会話をした記憶もないのだ。
とてもではないが、尋史への恋愛感情が育つような関係性には思えない。
やはり、自分の勘違いだろうか。

「市川くん。見積りとプレゼンの資料、一緒にチェックするから」

上司の声が鋭く響く。

「は、はいっ。分かりました」

ドクドクと不穏に脈打つ心臓を必死に抑えるようにして、尋史は目の前の見積書に集中した。
病気の先輩に質問しまくった上に、仕事が疎かだなんて、さすがにどうかしている。
謎の声に対する疑惑を懸命に拭い去って、真剣にキーボードに指を走らせた。

それからは仕事一筋に時間を過ごして、気付けば八時前。
固くなった肩をほぐしながら、パソコンの電源を切った。
これから、どうするか。
声の主を知る為に、もっと踏み込むべきか。
でも、相手が予想通りだったとしたら――。
悩みながら、まだ残業をしている同僚に声をかけてビルを出た。
街路樹が風に揺れる暗くなったオフィス街。
思ったよりも冷たい空気に、小さく身震いした。
もう、声の主は帰宅しているだろうか。
尋史は吸い寄せられるように、隣のビルの前に歩いて行った。
一階の病院はまだ明々と診療を続けていて、若いOLの背中がその中に消えていく。
よく見ると、病院の看板に法人名も表記されていた。
二年前の父のメールに、法人名までは書かれていなかったと記憶している。
きちんと確認しようと思えば、父に連絡すれば一発だが。
こんな事で、久しぶりに親に連絡するのか。
モヤモヤと考えを巡らせながら視線を上にずらすと、無機質に並ぶ窓が視界を占めた。
まだいくらか明かりが見える。
もしかしたら、この中にいるかもしれない。
あの声の主が。
あいつが――。

(ふみちゃんっ! ふみちゃんがいる!)

ビルの前で所在なげに立っている尋史の頭に、興奮気味な声が響く。
相変わらずの呼び方。甘い声。
どこだ。どこにいる。
尋史は明かりのある窓達に視線を巡らせた。
よく見えないが、あの窓のどこからか尋史を見ているのか。
胸の奥が騒ぎはじめる。
緊張と期待と不安と。
ここに立ったままだったら、下りて来てくれるだろうか。
いや。でも、そんな――。
まだ心の準備が全くできない。
もし、本当にあいつなら――。

義兄にいさんっ!」

窓からではなく、尋史のすぐ背後から声がした。
この声。
耳には馴染みがない。だが、ずっと聞きたかった声。
鼓膜をくすぐる甘いそれ。
意を決して振り返ると、紺色のスーツを来た青年が立っていた。
清潔感あふれる艶のある黒髪。
優しげに弧を描く眉に、末広二重の涼やかな目。
高くしっかりとした鼻梁に、きゅっと締まった唇。
小学生の時に父からもらった黒曜石のように深く輝く瞳は、喜びに満ちていた。
顔を合わせるのは、何年ぶりだろうか。
前から目を引く端整な美男子だったが。
知らない内に、記憶よりも随分と精悍な青年になっていた。
二つ年下の義弟、市川柊真いちかわとうま
頭の中に残っていた柊真の姿は高校生だ。
声に覚えがなかったのも頷ける。

「ひ、久しぶり……」

側に立つと、柊真の顔が少しだけ上にある。
前は尋史より背が低かったのに、背丈も素晴らしく成長したようだ。

「本当、久しぶりだね。五年ぶりぐらい?」
「もう、そんなになるんだな……」
「時間が経つのは早いね。こんな所で何してるの? 病院? もしかして具合悪いの?」
「いや、病院じゃなくて――」

五年ぶりな上に、ほとんど話した記憶もないぐらいなのに。
そんな距離を感じさせない爽やかな笑みを向けてくる柊真。
あまりに活発な話しぶりに、尋史は少しばかりたじろいだ。
そういえば、初めて会った時に、全く物怖じしないやつだなと思った覚えがある。
その辺は変わっていないらしい。
誠実そうな雰囲気に、人好きのする笑顔と声音。
どこから見ても男前だ。
とてもではないが、ろくに会わない薄情な義兄に恋をするような変な男には見えないが。

(ああっ……生ふみちゃんっ……めちゃくちゃかわいい! とうとう会ってしまった!) 

マジか。
大ファンかよ。

表情が引きつりそうになるのをこらえて、顔に笑みを貼りつけた。
本当に、このイケメンは義兄に恋愛感情を抱いているのか。
冗談かと思うが、脳に響くのは恋の声。
嘘偽りのない柊真の本心だ。

(見つめ合って話すって幸せ。この三年は遠くから、ちらっと見るだけだったもんなぁ)

三年?
計算が合わないくないか?
尋史が他県から東京に戻ってきて、ここの支社に配属されたのは三年前。柊真が就職したのは二年前だ。
柊真がいつから隣のビルで働いているのかは分からないが。
確実に一年は、間が空いているはずなのに。
大学生の時から、わざわざ尋史を見に来ていたというのか。
想いの強さにびっくりする。

「もしかして、ここで働いてるのか?」

何も知らないふりというのも、なかなか難しい。
不自然にならなにように、尋史は慎重に口を開いた。

「うん。ここの五階でね」

(ふみちゃんは三階だよね)

何で知ってんだよ!

「……すごい偶然だな。まさか隣で働いてるとは思わなかった」
「本当にね」

(必然だよ。ふみちゃんが、すぐに転勤する可能性もあるからギャンブルだったけど)

尋史はつい頷きそうになった。確かにギャンブルもいい所だ。
まつまるフーズは関東地方を中心に結構な数の支社、営業所がある。
隣に就職した直後に義兄は転勤、なんて事も大いにありえた話だ。
それを踏まえてここに就職したなんて、大胆すぎる男だ。
ちなみに、尋史自身の転勤はしばらくないと思われる。
あっても、同じビル内の別部門勤務になるぐらい。

つまり。

柊真は一大ギャンブルに勝っているのだ。
何だか素直に喜べない。
この支社に転勤になった時に父には軽く報告していたので、又聞きしたのだろうが。
それから隣のビルに勤務する為に就職活動を行うなんて、驚異的な行動力だ。
そして、とてつもない執念も感じる。

「義兄さんはもう帰り?」
「う、うん。柊真は……残業?」

柊真の手にあるのが鞄ではなくコンビニのビニール袋一つだったので、尋史は質問を返した。
ちょっとつまめる物を買って、今からひと頑張りというところだろうか。

「そう。少しだけね」

(ふみちゃん……俺の名前、ちゃんと呼んでくれてる……嬉しいっ)

名を呼んだぐらいで、そんなに喜ぶのか。

「そうだ! せっかく会えたんだし、よかったら近々一緒に飲まない? あ、お酒が苦手なら食事だけでも。色々話したいな」

(お願いだから、断るな! 一生のお願いだからっ! 頷いてくれ! 頼むっ!)

爽やかな笑顔とは裏腹に、心の声は今にも土下座しそうな勢いだ。
軽やかに義兄を食事に誘うイケメンとのあまりの落差に、尋史は言葉が出なくなる。
戸惑っている間にも必死な心の声は続いて、義弟の迫力を前に、つい頷いてしまった。

(よっし! ほんっと、ここでふみちゃんと逢えてよかった。神に感謝! 感激っ!) 

「ありがとう。じゃあ連絡先を交換しよう」

柊真が流れるような動作でポケットからスマートフォンを取り出す。

(ふみちゃんの連絡先……夢のようだ。何度、義父さんのスマホから盗もうと思ったか)

犯罪未遂じゃねぇかよ!

柊真の心の声に呆れている内に、メッセージアプリの友達登録から電話番号とメールアドレスの交換まで、全てが瞬時に行われた。

(はぁ……! このスマホが国宝級のお宝になってしまった!)

そんなバカな。
気持ちが高揚しまくっている柊真の心の声に、尋史は我慢できずに笑ってしまった。

「義兄さん?」
「ごめんごめん、何でもない」

自分の連絡先が国宝級の価値になるなんて。
感じた事のないような、くすぐったい気持ちになる。

「今から残業だろ? 早く戻らないと、その分遅くなる」
「いいよ。遅くなったって。せっかく義兄さんに会えたのに」

柊真が黒曜の瞳をきらめかせ、見目よい顔を綻ばせる。
その表情が何だか眩しくて、尋史はそっと視線を下げた。

「……連絡先は交換したんだし、近々会うんだろ?」
「そうだけど……」

(二人だけで話すのは初めてなのに。すぐ戻るなんてもったいない。もっと話したい)

言われてみれば、柊真と会った時には、いつも両親がいたか。
今まで、全くと言っていいほど思い出す事もなかった義弟とのわずかな記憶。
ほぼ忘れかけていた尋史とは違って、柊真は少ない思い出を胸の中で大切にしてくれていたに違いない。
そっけない態度をとっていた過去の自分に、今になって罪悪感を覚えた。

「ほら。仕事、仕事。またな」
「うん……。また、すぐ連絡する」

(またな、だって。次があるのが嬉しい)

「柊真……」
「またね、義兄さん」

柊真が名残惜しそうに手をふった。

「……ああ。残業、頑張ってな」

自分も軽く手をふって、駅に向かって歩きはじめた。
見送っているのか、背中に柊真の視線を感じる。
居たたまれなくて、尋史は少しだけ歩調を速めた。
心がざわざわと騒いで全然治まらない。
知りたかった声の主が、まさか義弟の柊真だったなんて。
実際に声を聞いた今も信じられない気持ちだ。
始終、勢いのある心の声には、少し気持ちが引いてしまった。
尋史と隣の職場で働く為だけに就職先を決めてしまっているのだ。
その上、父のスマートフォンから勝手に連絡先を盗もうとしていたり。
熱烈な恋心に、とにかく圧倒されてしまう。
一体、いつから自分の事を好きでいてくれたのか。

「そもそも、何でろくに会いもしない俺なんだ……」

恋心なんて説明のつくものではないのだろうが。
柊真ほどの男からすれば、薄情な義兄を想い続けるなんて罰ゲームに匹敵しそうだ。
端整な容姿に、爽やかな笑顔。
誰だって、たちまち恋人にできそうなのに。
あのイケメンの心の中には、尋史への濃い恋心がつまりにつまっている。
名前を呼んだだけで、あんなに喜んで。
柊真の笑顔を思い出すと、尋史はどうにも恥ずかしくて手足をバタバタさせたくなった。
そんな成人男性らしからぬ気持ちの悪い衝動を抑えながら、いつもの電車に乗って、いつものスーパーで買い物をする。
しかし、何度も柊真の姿を脳裏にチラつかせては、胸の中で大騒ぎを繰り返していた。





「さとちゃん、ただいまぁ」
「おかえり。今日もお疲れさま」
「ありがとう。今晩はガトーショコラだよ」
「うん!」

浮ついた面持ちで服を着替えて食事の準備をしている尋史を、覚はそっと見つめていた。

「ねぇ……何かあった?」

尋史がソファに座ると、当然のように覚は膝に乗ってくる。
背に触れると、黒く柔らかい毛が掌をくすぐる。
その感触にひどく安堵を覚えた。

「声の主……誰だか分かったんだ」
「そうなんだ! 誰だったの?」
「……義弟の柊真。隣のビルで働いてたみたいで、今日の帰りに偶然会ってさ」

覚が反応に困って、表情を固くした。

「それは……意外な人だったね」
「そうなんだよ。柊真だなんて全く考えてもなかったから、今でも信じられないぐらい」
「だろうね」

「しかもさ……」

困惑の表情を浮かべて言葉を途切れさせた尋史に、覚が優しく続けた。

「色んな声が聞こえてきた?」

尋史は小刻みに何度も頷いた。

「何ていうか、見た目とは真逆でハイテンションな……」
「まぁ、人間ってそんなものだよ」
「さとちゃんは、よく知ってるだろうけどさ。俺には衝撃的すぎたんだ」
「相当だったんだね」
「……もう、どうしよ……。まさか柊真だったなんて。全然仲良くないんだよ? 一緒に暮らしてもないし、何回か会ってちょっと話したぐらい。どうやって俺の事を好きになるっていうんだよ」
「一目惚れとか?」
「はぁ?」

尋史は大きくうろたえた。

「ありえないからっ! 柊真、ものすごいイケメンなんだって。前から格好よかったけど、さらにイケメン度が増してた。あれだよ、周りが放っておかないタイプ。それが、俺みたいなのに一目惚れなんてするわけないじゃん」
「でも実際、惚れられてるんだよ? ほら、恋は思案の外って言うしさ。ものすごいイケメンでも、道端の地味でしょぼい石に強烈に恋する事もあるんだよ」
「……それって俺が地味でしょぼい石って言いたいの?」
「ふふっ」
「ふふっじゃないよ!」

尋史は膝の上の黒い毛をわしゃわしゃと掻き乱した。

「わっ、ごめんって……あ、スマホ鳴ったよ」
「え? 気付かなかった」
「メッセージの着信音だった」

立ち上がってダイニングテーブルの隅に置いていたスマートフォンを確認すると、言われた通りメッセージが届いていた。

「これ……柊真だ。連絡早っ!」

画面には、先ほど登録したばかりの柊真の名がある。

「攻めるが勝ちって感じ?」
「そこまでの積極性はいらないって」

メッセージは、明後日、一緒に飲まないかという誘いだった。

「明後日っ? 全てが早いよ……」
「それだけ必死なんだよ」
「……俺、柊真にそんな気なんてないし。断ろうか」
「この調子だと、日にちを変えて永遠に誘われ続けるんじゃない?」
「…………」
「本来なら義弟さんの恋心は知らないんだし。断る理由がないと思うよ」
「うう……」

唸りながらスマートフォンの画面をタップする。
気は進まないが、先延ばしにしても仕方がない。早く済ませてしまおうと誘いに乗った。
すぐに返事がきて、機械的な文字から喜びがにじみ出ていた。
自分の一言で心を動かしてくれる相手がいるのは、なんとも面映ゆい気持ちになるが、それが義弟というのがなんとも複雑な心境だ。

「明後日、柊真と飲んで帰るから」
「了解。呪いはもう解いた方がいいんじゃない?」
「……そ、れは、もうちょっと待って欲しいっていうか……」
「応えられない気持ちが聞こえ続けたら、辛いだけだと思うけどなぁ。罪悪感もあるし」

その通りだ。反論の余地もない。
だけど――。

「もう少しだけ、ね? お願い!」
「……分かったよ。もう少しだけだからね」

両手を合わせる尋史に、覚は何やら含みのある視線を向けるのだった。

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