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ピアノコンクール①

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 家のステレオのレコードプレイヤーに針を落とした。
 叔母さんが持ってきてくれたレコードだ。
 しばらくしてスピーカーから流れてきたのはあの音楽室前で聴いた曲だった。
 どことなく寂しげで切なくなるような曲の流れだった。
 曲は五分弱の長さで途中で曲調が激しくなり、最後には元に戻っていった。
「叔母さん、ショパンって誰かと別れたんか?」
 僕は傍で一緒にじっとレコードを聴いていた叔母さんに訊ねた。
 叔母さんは運動会のジーパン姿とは違ってワンピースにカーディガンを羽織っている。
 もう十一月だ。少し肌寒い季節だ。
 音楽を静かに聞いていた叔母さんは急に僕に話しかけられて少しびっくりしたようだった。
「陽ちゃん、ちゃうよ。この曲名は日本人が勝手につけた名前や。映画のタイトルらしいわ。」
「なんや、ショパンは誰とも別れてないんか」
「ショパンはプライドの高い人だったらしくて、自分の曲に安っぽい『別れ』とかいう名前はつけへんかったと聞いてるよ。他の曲名も全部そうらしいよ」
「ふーん」
 やっぱり、叔母さんは何でも知っている。いや、前みたいに母も父も知っているのかもしれない。
「でもね、陽ちゃん、今、ショパンは誰とも別れてないんかって言ったけど、誰とも別れない人なんておらへんと思うよ」
 そんな人はいないのか。
「どんな仲のいい友達でも、恋人同士でも。ショパンもそれがわかっているから、その切なさが曲の中に入り込んだんやと思うわ。そういう風に何でもいい方に考えないとね」
 父や母、修二、香山さんや小川さん、そして叔母さんとも。いつかそんな日が来るのだろうか?
 そんな日が来たら、僕は別れる相手に何を言えばいいのだろうか?
「でもね、陽ちゃん、別れがあったら、出会いも必ずあるものなのよ」
 そう言って叔母さんは微笑みを浮かべた。
 おそらく叔母さんの言う通りなのだろう。



「私、あまり自信がないの」
 ピアノの発表会の当日、控え室に腰掛けて順番を待っている時、私の横で長田さんはそう言った。
「他の人が譜面を間違えて弾いてくれたらいいのに」
 何、それ?私に「ミスしろ」って言っているの?
 私は面白くも何ともない言葉に「そうね」と相槌を打つくらいしか返せなかった。
 第一、こんな時に不謹慎だ。みんなこの日のために一生懸命なのに。
 彼女はこれまでも、そんなセリフを言って他人を自分の思い通りに動かしてきたのかもしれない。
 智子がいじめられたのも長田さんが配下と呼ぶべき女の子に何か言ったんじゃないかしら?なんだかそう思えてきた。

「加奈子、あんなに練習したんだもの、きっと優勝するわよ」
 立ったままのお母さんは緊張している私を励ましてくれた。
「お母さん。私、全力を出すよ」
 控え室では小学校の低学年から私たち高学年の女の子が順番を待っていて、母親たちも娘に付き添っている。

 長田さんのご両親はどこかしら?
 いくらなんでも娘のピアノの発表会だ。一年のうちの娘の大イベントだ。
 来ないはずはない。運動会とはわけが違う。
 私もそうだけど、みんな自分の技術とは関係なく精一杯のお洒落をしている。
 みんな、観客や審査員、そして親に自分の晴れ姿を見て欲しいからだ。
 長田さんもすごく高そうな洋服を着て金色の髪も綺麗にセットしている。
 長田さんもきっとご両親に見て欲しいからだ、とそう思っていると、
「恭子さま、遅くなりました。言われていたカメラをお持ちしました」
 私たちが腰掛けているところに清楚な身なりの綺麗な女の人が現れた。
「シズコさん、ありがとう」そう言って長田さんはカメラを受け取った。
 運動会の時、長田さんの机の上にあった高そうな一眼レフのカメラだ。
 たぶん、使ったことがなくて、使われたこともないカメラだ。
 そんなことより、この女の人は母親ではない。
 長田さんのことを「恭子さま」と呼んだし、長田さん本人も女性のことを「シズコさん」と呼んだ。
 そういう風に呼ぶ母娘なの? いや、違う。女性は長田さんに対して敬語を使った。
 でも、そんな母親なのかもしれない。ひょっとしたら継母かもしれない。
「今日の結果は私がお母さまに伝えておきます」
 長田さんはこくりと頷く。
「お母さまも、恭子さまの優勝を信じておいでです」
 もう決定的だった。
 長田さんの母親も父親もここにはいない。
 長田さんの家は一体どういう家なんだろう?
 私が長田さんの立場なら、きっと親に対して怒るだろう。
 あのカメラは持ってきてもらって、どうするのだろう?ホール内は撮影禁止だ。
 演奏が終わったあとでホールの外でこの女の人に撮ってもらうのかな?

 私の順番が来た。
 客席に挨拶をしてピアノ椅子に腰掛ける。
 審査員の席を見ると去年と顔ぶれが違う気がした。長田さんの家の系列の審査員が入ってきているのかしら?
 でも、普通に弾けばいい。普段通りに弾けばいいんだ、と自分に言い聞かせた。
 何度も弾いた。家で、音楽室で、ピアノ教室で。
 ベートーベンの「エリーゼのために」だ。
 私はピアノを弾きはじめながら思い出していた。
 小さかった頃、初めて買ってもらったピアノ、その時の飛び上がるような喜び。
 ピアノ教室に通った日々のこと。この町に引っ越してきた時のこと。
 そして智子に出会った日の音楽室でのこと。
 この発表会が終わったら少し休もう。
 そうだ、智子を私の家に招待しよう。そして、ピアノを弾いてあげよう。
 曲はこの「エリーゼのために」を弾こう。
 学校の帰りには「芦田堂」に立ち寄って、いろんな和菓子を食べてみよう。
太るかもしれないけど、別にかまわない。
 弾き終わると出場者用の席に座った。完璧に弾けたのがわかった。
 観客席の上の方で母が手を振っているのが見える。
 全力を出せたよ! と心の中で母に言った。

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