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近づく足音

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◆近づく足音

 すると、イズミの体に大きな変化があった。
 ガタガタと、その体が痙攣のように揺れ出した。
「ミ、ミノルさん」
 次に、イズミの息が荒くなった。人間が呼吸するように上半身が動き出した。明らかに異常な動き方だ。
「ミノルさん、ワタシ、怖いです」
 イズミは訴えかけるような顔を僕に向けた。
 よほど山田瞳子の思念が怖かったのだろう。こんなイズミの顔を見たのは初めてだ。
「イズミ、中断だ。もういい! ストップ!」
 危険だ。思念の読み取りは中止だ。
 ここに、来るんじゃなかった。
 イズミにこんなことを頼むのではなかった。僕の探究心にイズミをつき合わせるべきではなかったのだ。
 激しい後悔が押し寄せてきた。
 イズミ、ごめん。
 ここから退散だ。
「イズミ、もう行くぞ」

 立ち上がろうとすると、山田夫人はツカツカと僕の正面に歩み寄り、
「あら、逃げなくてもいいじゃない。井村さん、もっとお話しましょうよ」
 と言ったかと思うと、山田瞳子は、タイトスカートの片脚を上げ、ソファーの脇のテーブルにヒールの踵をドンッと乗せた。
 備え付けの灰皿が傾き、煙草の灰がリノリウムの床にパラパラと落ちた。
「おいっ!」無駄とは分かっていても、抗議の声を上げた。
 この女流の人の脅かし方なのか、そこまでして、イズミを拝借しようとするのか。
 だがな、絶対にイズミは渡さない! いつかの如月カオリの時のように、拉致されるのは御免だ。

「私は、そちらの幼女型ドールに、ちょっと興味があるだけなのよ」
 その言い方は、「いいから、寄越せ!」と言っているとしか思えない。

 イズミは、ガタガタと震えている。いつものイズミではない。
 すると、イズミの表情が変わった。
「お母さん・・助けて! ミチル、怖いの」
 そう小さく言った。イズミより更に子供っぽい声だ。
 その声・・
この瞬間、イズミの中のもう一人の人格、ミチルが顔を出した。
 イズミの中に隠れていたミチルが、母の助けを呼んでいる。
 ミチルが呼んでいるのは、島本さんだ。
 ミチルは、島本さんの思念が創り上げた模造の心だ。その心が、母親を呼んでいる。

 すると、イズミの頭がカクンと一度揺れ、
「ミノルさん、もう一体、ドールが来ます」と言った。
 今度はいつものイズミの可愛い声。
 夫人のお仲間のドールが来るのか?
 まずいな、出口から来られたんじゃ、挟み撃ちだ。
 イズミの言葉を聞いた山田瞳子が、
「あら、さすがは、外製のドールねえ。察知力もあるし、それに、他に別人格があるようね。本当に興味深いわ」とニヤリと笑った。

 そんな山田夫人に、
「悪いけれど、奥さんと話したくないんだ。それにイズミも貸さないし、もう奥さんの思念を読ませたりはしない」
 これっきり、夫人とは関わらない。そう宣言するように言った。
 だが、夫人の方ではそうではなかったようだ。

「あら、井村さん、私にそんなことを言っていいのかしら? 私の力で、あなたの社会的地位なんてどうとでもなるのよ」
 脅す気かよ。
 山田瞳子の夫の山田課長がどれほどの力を持っているかはわからない。だが、草壁会長のブログに山田夫人が登場しているということは、会長とも懇意にしていると推測される。
 仮に会長からの圧力があれば、僕のような小さな立場の人間は、埃を振り払うよりも簡単かもしれない。
 だが、こんな言い方をされてまで会社にしがみ付くつもりもない。そんな気になった。

 僕は、イズミの手を引き、すっと立ち上がった。
 その様子を見た山田瞳子は、「チッ」と大きな舌打ちをした。そして、傍らの男型ドールに、こう言った。
「その幼女ドール、無理やりにでも担いで、私の家に運んできて頂戴!」
 夫人は、こちらの気持ちなどお構いなしだ。おそらくそんなやり方でこれまでやってきたのだろう。

 男型ドールの腕がイズミに伸びてきた。相手は男のドール。おそらく、その力は僕など及ぶところではないだろう。
 僕はイズミをしっかりと抱き寄せた。イズミも僕にしがみ付くように抱きついた。
 イズミ・・僕が守るからな。
 そう決心し、この場を去ろうとする僕の肩を男型ドールが掴んだ。掴まれ、そして、ねじられた。
 手加減はなかった。
「いてええっ!」
 静かな廊下に僕の声が響き渡った。
 そんな声を出したのは何年ぶりだろう。おそらく子供の時以来だ。
 あまりの痛さに、イズミを抱いていた両腕の力が緩んだ。
 その僅かな隙に、男型ドールがイズミの腰を掴み込み、ぐいと引いた。
「お母さん!」
 またイズミの声がミチルに変わった。「お母さん、助けて!」そう言った。

「おほほっ」
 山田夫人が声高らかに笑った。そして、
「お嬢ちゃん、あなたのお母さんなんて、どこにもいないし、誰も助けになんて来ないわよ」とふざけ口調で言った。

 その時だった。
 ツカツカと、ヒールの音が響くのが聞こえた。こちらに近づいてくる。速い!
 もう一人のドールは、女性型なのか?
 そう思った瞬間。
 ブーンッ、とスラックスの長い脚が僕の目の前を横切った。
 パンツスーツを着た女性の脚。いや、A型ドールの脚だ。見覚えがある。
 グシャッ、
 異様な音が聞こえた。何かが破壊された音だ。見ると、
 女型ドールのつま先が、男ドールの下腹部に沈み込んでいた。女ドールの瞬発力は、男型ドールを遥かに上回っていたようだ。
 回し蹴りの脚を元の位置に戻した女型ドールは、サングラスを外し、その碧い瞳を見せた。
 その髪型は、いつか見たポニーテールだ。ふわっと香水の匂いがした。山田瞳子とは別の匂いだ。

 その様子を見た山田夫人が、大きくこう言った。
「カオリ!」
 その女型ドールは、新タイプのA型ドールの如月カオリだった。
 相変わらず、そのイメージは女スパイ、もしくは女豹のようだ。あのお色気ドールのローズとはまた異なる雰囲気を持つ。

 如月カオリは、震えているイズミを眺めて、
「ミチルが、目覚めたのね」
 と、言った。その目は優しかった。

 如月カオリの脳に当たる部分は、草壁会長の亡き妻の思念のコピーだ。
 それは同時に、草壁ミチルの育ての母親の思念でもある。

 如月カオリにとって、ミチルは娘に当たるわけだが、
 当のイズミ本人は、島本さんの思念で創られたドールだ。その中にミチルという心が住んでいるに過ぎない。
 如月カオリは、イズミにとっても、イズミの別人格のミチルにとっても全く接点はない。
 如月カオリにとっての娘は、ホール内でピアノを弾いている人間の草壁ミチルだ。
 だが、草壁ミチルは、自分の義母の脳をコピーしたドールがいるとは夢にも思っていないだろう。
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