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五日目(後ろ神編)
鬼籍予定帳
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【5日目】
目を覚ますと、全身に大量の汗をかいていた。
夢の内容は覚えてないが、だいぶうなされていたようだ。
朝になっても、胸騒ぎはとまらない。
────八橋のことが気がかりだった。
「……かと言って、俺にできる事はもうない」
悪縁であり、自ら縁を切った以上は関らない事が最良の選択だった。
一階に降りると、良い匂いがした。
楓姉が朝食を作っていた。
「おはよー。朝ご飯出来てるわよ。やっぱり仕事明けは胃に優しい野菜スープよねー」
トーストや卵の他と共に、具沢山のポトフが盛り付けられていた。
「ソーセージ・ジャガイモがてんこ盛り……とても胃に優しいとは思えないな」
「まだまだ一仕事残ってるからね。精をつけなきゃ!」
「あんなに寝てないのにまだ仕事か……」
相変わらずの楓姉のタフさには恐れ入る。
「まあせっかく紅葉が繋いでくれた縁だもんね。無下にするとバチが当たるわよ。……! ……あんたの事は残念だったわね」
八橋との縁の件の事を、楓姉は気にしていた。
「良いんだ……運命を捻じ曲げてしまっていた。元の状態に戻っただけさ」
「……違う」
ふすまの向こうで紅葉の声が聞こえた。
「紅葉?」
「修一郎とあの人は繋がっていた。……強く結んだだけ」
哀しみのせいだろうか、紅葉は少し気枯れていた。
「そうそう、紅葉はきっかけを与えただけで美生ちゃんの気持ちは本物よ。あんたの気持ちも本物だって、分身の吽狛が証明してるわ」
そう言って、楓姉は阿狛を取り憑かせた。
「紅葉は気に病みすぎよ。あとでしっかりと気生めてあげるからね!」
楓姉は手をくねくねと不気味に動かしていた。
「気生めは……修一郎が良い」
紅葉は楓姉の手の動きが怖かったのか、後ろに隠れてしまった。
「あらら、やっぱり修一郎は妖にはモテるわねー。ほらほら紅葉、ソーセージあげるから怖がらないで」
紅葉はますます怖がってた。
楓姉は基本的に妖が大好きだが、怖がられる事が多い。
それは分身の阿狛も一緒だった。
通学路で徘徊している妖を発見すると、嬉しそうな顔をする。
だが妖は、怖がって逃げていく。
吽狛は不機嫌な顔をしているのに、妖が寄って来る。
もう吽狛と交換した方が良いんじゃないかと思った。
おかげで何の障害もなく学校に到着した。
いつもより余裕がある時間帯だ。
登校して来る生徒達も見慣れない顔ぶればかりだった。
「おはよう」
────突然、一人の女生徒がこちらにお辞儀をしてきた。
「お、おはよう」
「ふふ、今朝は早いんだね、稲生くん。彼女とは一緒じゃないの?」
御堂紗都梨だった。
あのふさふさの妖も一緒だ。
「何で俺が遅い事を知ってるんだ? ……彼女って?」
「ほら、昨日の……八橋さんだっけ? 二人とも校門が締まるギリギリに駆け込んでくる事が多かったから」
悪名は、隣のクラスにまで伝播していた。
「……八橋とは家が逆方向だ。一緒に登校してるわけじゃないよ」
「そうなの? ふふ、じゃあよっぽど縁があるのね」
御堂は可笑しそうに笑う。
だが、御堂はふと何かに気付いたかのように笑うのを止める。
ふさふさの妖の眼が、じっとこちらを見ていた。
「……稲生くん。昨日の悩みは解決したの? 何だか更に深刻そうだけど」
「え? ああ、その件は解決は……したんだ」
「本当? じゃあ、何かまた別の悩み?」
御堂は心配そうに覗き込む。
────そんなに深刻そうに見えたのだろうか。
八橋の死は回避出来た。
ただ、縁切りをしなければ手遅れだったかもしれないと言う漠然とした不安感がつきまとっているだけだった。
「……本当を言うとね、昨日あなたが見ているモノが幻想だとか言った事を後悔している。私がそう信じて安心したかっただけなの。あなたにひと言、謝ろうと思っていたのよ。……ごめんなさい」
そう言って、御堂は深々とお辞儀をした。
その様子に周囲の視線が集まった。
「か、顔をあげてくれよ。身内以外にこんな秘密を打ち明けられる相手なんていなかった。……御堂のおかげで、一時的だったけど安心出来たんだ」
「……私は秘密を暴いただけだよ。恥ずべき行為だわ。もし、何か困った事があったら相談してね。それが私に出来るせめてもの────償いだから」
そう言って、御堂は去って行った。
教室には、猫柳が既に来ていた。
いつも通り朝練をして来た様子だ。
「よう! 見てたぜえ、修一郎。あんなに謝られて、お前も紗都梨ちゃんにフラれたか?」
猫柳は嬉しそうに背中をバンバン叩く。
否定しようとしたが、諦めた。
「……どうだ? だいぶ落ち着いたか? まあ深くは聞かねえけど、後で美生にちゃんと謝っておけよ」
猫柳は馴れ馴れしいが、デリケートな部分には触れてこない。
いつものように接してくれた事に安心した。
HRの鐘が鳴っても八橋は来なかった。
教師が来て、朝礼を始める直前に、八橋が走りこんで来た。
「お……遅れてすみません!」
教師は、またかと呆れ顔になったが、八橋の姿を見て躊躇した。
右手には包帯を巻いており、更に両足にも包帯が巻かれていた。
「その怪我……どうしたんだ? 大丈夫か?」
「は、はい。目眩で、石段でちょっと転んじゃって……保健室に行ってました。……見た目ほど大した事ないですよ」
だが、その表情にはいつもの快活さはなく、青白く元気がない。
体調の悪さを物語っていた。
「……八橋」
八橋と目が合うと、にっこりと微笑み返す。
安心するものの、どこかしら空元気のように感じた。
休み時間の間、八橋の周りに人だかりが出来ていた。
怪我の様子を聞きたかったが、あの状態では声はかけられない。
人だかりも、最初は怪我の心配かと思っていたが……徐々に様子がおかしい事に気付く。八橋は体調が優れなさそうにも関らず、色々と質問されている。
あまり普段話さないようなクラスメイトも混ざっていた。
昼休みになり、不穏な空気が教室内に漂っているのを感じた。
時折、八橋を取り巻く集団から視線を感じる。
そんな中、購買部から帰って来た猫柳が集団に色々尋ねられていた。
猫柳はその後、八橋と会話を交わした。
そしてそのまま焦るように、机に戻ってきた。
「おい、何かヤバイ雰囲気だぜ? 美生の怪我の原因は────お前の家の呪いだって噂話になってる」
「え? 八橋がそう言ったのか?」
「いや、美生がそんな事言う訳ねえだろ? あいつ……昨日、お前の家に行くって嬉しそうに話してたらしくてさ。────そしたら、今日はあの様だ。しかも怪我の原因を誤魔化してるから、勝手に話に尾ひれがついてるんだよ」
「怪我の原因の発端は俺だ。俺のせいだって、言えば良いじゃないか」
「んー……気を悪くしないで聞いてくれよ? 元々、お前の家はオバケ屋敷だって、そう言う噂はあったんだ。しかも八橋が怪我したのは、『魔の丁字路』とか言われている心霊スポットらしくてな。他にも『慰霊の森』とか『口裂け犬』とか……怪談ブームみてえになってるんだよ」
「……『魔の丁字路』? 猫柳、ちょっとそれについて詳しく教えてくれないか?」
「ああ、いつもの神社の裏門にある三叉路だよ。あそこはここ数年交通事故が多いらしくてさ。事故の場所はいつも同じ場所なんだと。ほら、何かいつも花が置かれてる場所があるじゃねえか」
……例の場所だ。
(八橋には昨日、再三注意したにも関らず、今朝も立ち寄っていたと言うのか?)
「美生も怖がってる。根も葉もねえ噂だって言って、安心させてやろうぜ。お前は怒って良いんだぜ?」
────とにかく八橋にはあの場所には近付かないように、注意を促さなければいけない。
八橋の元へ行こうと立ち上がった瞬間、怒声が響いた。
「いい加減にしてよ!!」
叫んだのは────八橋だった。
教室中に響き渡り、周囲はどよめく。
「何よぉ、あの気味が悪い神社は、以前に“神隠し”があったって怪談もあるし、稲生は……中学のころ『神社に住む少年』とか噂されてた少年に似てるんだって! 関係ありそうじゃん────心配して言ってあげてんのよ?」
俺の名前が出て来たが、相手とはあまり面識がない。
八橋の友達ではなく、普段は別グループに居る女子生徒だ。
「うるさいよ! 修ちゃんのこと、何も知らない癖に!」
顔を真っ赤にして八橋は相手に詰め寄った。
「おい、ちょっと待てよ。さっきから俺の名前が出てるけど何の話だ?」
「げ、稲生……ッ」
その女生徒はぎょっとした表情で俺を見た。
「い、いやね。何か中学時代に学校の怪談が流行ってね、夜の神社に出入りしてる不気味な少年がいるって怪談もあったのよ」
冗談だと言う素振りを見せるが、引きつった笑顔だった。
────夜中に気生めに行く事は多い。
まさか、家だけではなく自分自身が怪談になっているとは思わなかった。
「怪我だって不自然でしょ? 何で火傷の理由だけ隠してるの?」
……どうやら火傷の理由は伏せている様子だった。
「ひどいよ! 修ちゃんの家の話も、夜中の神社の話も、全部ただの噂じゃない! 何でそれがあたしの怪我や丁字路の事故と関係して来るの? あんまり勝手な事ばかり言ってると許さないよ!」
「八橋、落ち着けよ。俺は気にしてないからさ」
「しゅ、修ちゃん……」
八橋が感情的になる事は珍しく、周囲も戸惑っているようだ。
「別に……無関係じゃないだろ。俺は夜中に神社に行く事も多いし、俺の家は昔からオバケ屋敷だと言われて心霊現象の目撃例も多いんだ。八橋の怪我の原因は────俺にある」
「や、やっぱり……」
女生徒が怯えた様子で後退る。
「違うでしょ! どうしてわざわざ誤解されるような事を言うの!?」
八橋は怪我をしていた。
顔色の悪さも相まって、とても弱っているように見えた。
「……誤解じゃない。不吉なのは事実だ」
八橋の不幸を招いたのは俺との縁だ。
今の八橋は、とても危うく思えた。
「そんな事より、あの丁字路には二度と近付くな。────あの場所は呪われている」
一番危険な場所に釘を刺した。
怪談が浸透しているせいか、説得力が増したようだ。
だが、八橋だけは納得がいかずにうつむいている。
「修ちゃん……オバケなんか存在しないって言ってたじゃない」
怪談を必死に否定していた八橋は落胆し、座り込む。
「八橋……」
歩み寄るが、かける言葉がみつからなかった。
「……嘘つき」
ふらふらと八橋は立ち上がる。
その目にはうっすら涙を浮かべていた。
八橋は気分を悪くし、そのまま医務室に向かっていった。
教室を出て行く八橋を背にした瞬間────首筋が反応した。
“後ろ神”が、追うなと言っているのだろうか。
それとも────。
結局、振り向く事は出来なかった。
結局、八橋はそのまま午後は早退する事になった。
「美生のやつ、大丈夫かな? あいつがあんなに怒るの、初めて見たぜ。……ったく、わかってんのか? お前の為に怒ってたんだぜ?」
「……ああ、わかってるよ」
気遣いが嬉しかった。
しかし、あの状態では家で大人しく休んでいてもらった方が安心する。
「お前も何でああも簡単に認めちまうかね。立場は悪くなるだろうし……まるで何だか本物っぽいじゃねえか」
猫柳は若干震えていた。
「なあ修一郎、昨日の動く傘は……トリックだよな? 祟りとかねえよな?」
ああ言った手前、何と答えたら良いかわからない。
黙っていると、猫柳はふん、と息を荒くした。
「まあ、俺はピンピンしてるからよ。俺に不幸が訪れたらその祟りってのも信じてやるよ」
本当は言いたい事は山ほどあるんだろう。
だが、猫柳は変わらず接してくれた。
教室の不穏な空気は残ったままだった。
怪談の流行は治まることはなく、広まっていく。
「しっかし何でまた怪談ってのは流行るのかねえ?」
「……わからない」
どうして敢えて怖い話に興味を持ち、近付くのか……理解出来ない感情だった。
教室は、いつも明るい八橋が居ない分、居心地の悪さを感じた。
HRが終了し、放課後になった。
今日の部活は、休ませてもらう事にした。
猫柳とは部室まで付き合うと言うことで、一緒に廊下を歩いていた。
「あーあ、今日は課外部活はなしか。あとで美生の見舞いにでも行くか?」
「……いや、そっとして置こうと思う」
少なくとも、八橋の死を回避した事を確認出来るまでは、近付くべきではなかった。
そんな時、数人の女生徒がやって来た。
「あの……稲生君、私たちオカルト研究会のものですけど……」
それから怪談についての考察を色々と伝えられ、質問をされた。
陰湿な感じではなく、純粋な好奇心で聞かれて戸惑った。
今まではこんな事はなかったからだ。
とりあえず、適当に答えて誤魔化した。
「稲生君の家の近くで『人語を喋る猫』がいたとか……」
「え?『二又尾の猫』じゃないの?」
「違うよ、『下から覗く猫』じゃない? 短いスカートを履くと現れるとか」
とりあえす、その猫と稲生家との関係性は全力否定した。
女生徒たちは、怖がりながらもはしゃいでいた。
「モテモテだな、修一郎。どんな気分だ?」
「……毒気に当てられた気分だよ」
否定されつつも認められているような……何とも言えない奇妙な心地だった。
「稲生君」
図書室を通り過ぎた後、また呼び止められる。
頭上の阿狛が吼えて────首筋が反応した。
……妖の気配だ。
振り向くと、図書室の前に御堂が立っていた。
「稲生君、ちょっと良い? 話があるんだけど」
「お、おお! 紗都梨ちゃんじゃないですか! 一昨日はどうも失礼しました!」
「あ……この前の傘の人? あの時はごめんなさい。すごいスピードだったから、思わず怖くなって逃げてしまったの」
「いえいえ! 短距離選手に全速力で追いかけられたら誰でも逃げますって!」
「……100M11秒台か。そりゃ逃げるよな」
「自己ベストは10秒99だ! 追い風アリだが!」
「ええ、追い着かれてとっても怖かったわ」
にっこりと御堂は微笑む。
微笑みかけられて、猫柳は嬉しそうだった。
「少しだけ、稲生君をお借りしても大丈夫でしょうか」
「はいはい、どうぞ持って行って下さい……って、紗都梨ちゃん、こいつと仲良いんですか?」
「ええ、仲良くしたいと思っているわ」
猫柳は絶句した。
「くそ……! 最近はオカルト系男子がモテるのか?」
勝手に変な造語を作られてしまった。
猫柳は報告を期待する、と耳打ちをして陸上部に戻って行った。
御堂と一緒に、屋上へと向かう。
怪談の影響で澱んだ空気だったので、新鮮な外の空気が心地良かった。
「最近、怪談が流行ってるらしいわね」
────御堂の言葉で我に返る。
怪談は隣のクラスにまで広まっていた。
「稲生君の家や、稲生君自身の事も、結構話題に出たよ。だからちょっと気になって、声をかけたの。……私の発言が原因だったんじゃないかって」
御堂は申し訳なさそうに見つめる。
「そんな事はないよ、たまたま不幸が重なっただけだ」
「昨日会った彼女……八橋さんも、怪我したって話だけど……喧嘩もしてたとか」
……八橋の怪我は、正直ぞっとした。
怪談と繋げる心理も理解出来る。
誰よりも怖がっていたのは、俺自身なのかもしれない。
御堂に、八橋の事を相談した。
「ただ、何でこうも怪談は流行るんだろうな」
猫柳との疑問を投げかけた。
すると、御堂は思いがけない返答をする。
「私……稲生君の事を“怖い”って言ったよね? 相手に“怖い”って感情を抱くのは……同時に魅力も感じてるんだと思う」
「────え?」
八橋も俺の事を“怖い”と言っていた。
「魅力……だって?」
思わず、御堂と見つめ合う。
御堂は少し頬を紅潮させて、咳払いをした。
「そうでなければ、こんなに怪談が浸透するはずはないわ。遊園地と同じよ、人はエンターテインメントを求めてオバケ屋敷やジェットコースターに乗るわ」
「でもそれは、安全を確保できているからだろう?」
「ふふ、でも遊園地にも怪談は付き物よ。以前読んだ本では、ある科学者が、人間が恐怖を楽しむのは────人間が進化したからと提唱したわ。恐怖と快感は同じ器官で感じているそうよ」
“怖い”と言う感情は、“後ろ神”が憑くまでは余り意識しなかった。
今も御堂に対して抱いている感情は、恐怖と魅力が混在している。
御堂の顔を見ると、微笑んだ。
「ふふ、私の事……まだ怖い?」
“後ろ神”は御堂に反応していた。
憑人に“後ろ神”が伝えたい事は────恐怖を乗り越えた先にあるものなのかもしれない。
「……いいや」
首を振って、御堂に笑いかけた。
憑いている妖も、勘の鋭さも、まだまだ御堂には恐怖を感じる部分が多い。
だが、それ以上に魅力を感じていた。
「少しは……罪滅ぼしになったかな? 八橋さんにも変なプレッシャー与えちゃったから……、早く元気になって、仲直り出来ると良いね」
御堂は立ち上がり、背を向けて歩き出した。
残念ながら────縁はもう切れている。
その喪失感を、つい御堂にぶつけてしまいそうになった。
一瞬、立ち止まった御堂が振り返る。
「……稲生くん、まだまだあなたの悩みは大きいみたいだけど。私で良かったら、いつでも相談に乗るからね」
御堂はまだ何か言いたげだったが、憂いを帯びた表情を残したまま再び歩き出した。
そのまま御堂は、階下へと消えて行った。
……まだ、妙な胸騒ぎが残っていた。
まだしばらく外の景色を眺めて落ち着きたかった。
────その時、後ろ神から臆病風を吹きかけられる。
阿狛も吼えた。
「……御堂か?」
だが、その感覚は御堂に憑く妖に対してのものではない。
背後からは────強大な妖の存在を感じた。
「────!!」
屋上の昇降口付近に、黒いシルエットが浮かび上がる。
夕闇を背にした────八咫烏が立っていた。
その眼は、じっとこちらを見ている。
(……どうして、こんな所に死神が?)
八橋は早退して家に帰ったはずだ。
いや、そもそも八橋の死の原因は取り除かれた筈だった。
八咫烏はゆっくりと近づく。
嫌な汗が頬を伝った。
漆黒の手には、黒い手帳が握られていた。
手帳の中身を確認するように俺を見据えている。
「貴様の死相を確認しに来た」
「俺の……?」
思いがけない言葉に、驚愕する。
「気が付かなかったのか? 俺はあの娘と同時に、貴様の死相も監察していたのだ」
「何だって!?」
────戦慄が走る。
「だが、貴様の死相だけが消えた……またもや大きな因縁が働いたようだ。貴様────何をした?」
八咫烏は訝しげに語る。
……おそらく、縁の糸の影響だろう。
だが、聞き捨てならない言葉を口にしていた。
「待てよ、俺の死相“だけ”がって何だ? 八橋の死相は────消えてないのか!?」
八咫烏はますます訝しげな顔をした。
「ほう、まるであの娘の死の回避をはかったような言い草だな? 残念だが、人の運命はそう簡単には変わらない。……貴様が異常なのだ」
初めて感情を顕わにして、睨みつけてきた。
だが、直ぐに冷静さを取り戻した。
「……言葉が過ぎたようだ。もう貴様に用はない。────失礼する」
そう言って、外套をひるがえす。
「待て……ッ! 八橋は……ッ! 八橋はいつ死ぬんだ! 何とか回避する方法はないのか!!」
「答える訳にはいかん……そう言う決まりだと言った筈だ」
八咫烏は手帳を手にしていた。
────鬼籍予定帳と言うやつだ。
「その手帳に……書いてあるんだろう!?」
手帳を奪おうとした。
だが、返す片腕で掴まれる。
八咫烏の腕は、炎のように熱かった。
「……うわッ!」
「命知らずの阿呆だな。死亡時刻や場所を知って赴いたところで……貴様も道連れになるだけだぞ?」
「構うものか……見捨てるよりずっとマシだ!」
右腕が焼けるように熱い。
残った左腕で手帳を掴もうとした。
だが、八咫烏の左腕を掴んだ瞬間────左腕が痺れるように感覚がなくなった。
「────え?」
「……軽い瘴気だ。しばらくはその手は使い物にならんだろう」
そしてそのまま、蹴り飛ばされた。
屋上のフェンスに、激突する。
「アー!!」
だが、その瞬間を狙って────阿狛が八咫烏の腕から手帳を奪った。
「────何ッ!?」
阿狛は勝ち誇ったように手帳を放り投げた。
目の前に手帳が落ちる。
そこには────【八橋美生】の名前と顔と今日の日付……そして【滅】の文字が載っているだけだった。
「今日……!?」
突如、首根っこを掴まえられる。
そしてそのままフェンスの上の高さまで、持ち上げられた。
「……ふざけた真似を。運命を捻じ曲げるなど許される事ではない。かつての死者達に対する冒涜だ。貴様は本来は死すべき運命だった────理を乱す存在を許さない」
八咫烏は、憤っていた。
手帳を広げ、眼の前に突き出す。
すると────【稲生修一郎】の名前と顔と今日の日付……そして【呻】の文字が浮かび上がってくる。
「……ここで転落死として刻まれるか?」
「アーッ!!」
阿狛が八咫烏の腕に喰らいつき、動きを制する。
だが、そのまま阿狛もろとも地面に叩きつけられた。
「ぐわっ!」
「アァッ!!」
八咫烏の瘴気の影響か、身体が痺れて動かなかった。
「日付を確認していたな? どう足掻いたところで、もう手遅れだ。だが……今度邪魔立てすると容赦はせんぞ」
吐き捨てるように、八咫烏は言い残し────去って行った。
身体は動かず……意識がだんだんと遠のいていった。
「お、おい! 修一郎、しっかりしろ!」
目を開けると、そこには────猫柳の顔があった。
「ね、猫柳……?」
「あんまり遅いからよ、様子見に来たら……ぶったまげたぜ? ま、まさか紗都梨ちゃんにやられたのか?」
「み、御堂なわけがないだろ……それより、今何時だ?」
「ん? ちょうど17時半かな?」
「17時のチャイムの音を聞いていない。……30分以上は気絶していたという事か」
阿狛も気絶していたが、鼻ちょうちんとよだれで、居眠りしているように見える。
「お前、一体紗都梨ちゃんにナニされたんだよ!?」
「だから御堂は関係ないって。……そうだ猫柳、八橋に電話をかけてくれないか?」
「お? おう」
……鬼籍予定帳には、今日の日付が記載されていた。
八橋の死亡予定時刻は────今日だ。
身体は未だ痺れが残っていたが、何とか自由が効くようになってきた。
「……ダメだ。ドライブモードらしい」
「ドライブモード?」
「運転中に呼び出し音が鳴らない設定だよ。ってか、あいつ……両親は旅行中じゃなかったっけ? 誰の車に載ってるんだ? しかも運転手じゃねえだろ? 映画館か電車とかか?」
……良くわからないが、八橋は今は電話に出れない状態らしかった。
「猫柳……頼みがある。八橋と連絡が取れたら、俺の家に連絡をくれないか? 時間がないんだ。────頼む」
急いで階段を駆け下りて、校門を出る。
まずは楓姉に相談しなければいけない。
自宅に向かって、走って帰ろうと運動靴の紐を結び直す。
「稲生くん」
その時、声をかけられた。
────御堂だ。
「稲生くん、どうしたの? すごい形相……あれから何かあった?」
「い、いや……ごめん、時間がないんだ。また今度……無事だったらゆっくり話すよ」
そう言って、走ろうとするとまた声をかけられた。
「待って! 何だか……変だよ? 無事だったら……って、まるで危険な場所に行くみたい。稲生くんの悩み……どんどん大きくなってる。話してくれたら協力するよ?」
“後ろ神”が反応した。
ここは立ち止まれと言う事だろうか。
「じ、じゃあ、ちょっと尋ねたい事がある。【滅】と【呻】って文字に……何か時刻に関係があると思うんだけど、心当たりはないか?」
────楓姉に聞こうと思っていた質問だ。
頭の良い御堂なら、何か手がかりを得る事が出来るかもしれない。
「【滅】【呻】? ちょっと待ってて」
御堂は腕組みして、真剣に考える。
「時刻……って事は、【呻】はもしかして【申】……【申の刻】なんじゃないかしら? ちょうど16時を中心とした2時間よ」
「何だって? ……ちょうど俺が屋上に居た時間帯じゃないか。じゃあ【滅】は?」
「うーん……【滅】はわからないわ」
時刻を表している可能性は高い。
二人とも、今日の日付を印していた。
「今日の残りの時刻を表してるとしたら?」
「酉の刻と戌の刻と亥の刻があるね。漢字の形が一番近いのは【戌の刻】ね。20時を中心とした2時間よ」
「……それで正解しれない。あと1時間弱から3時間……か。裏付けしてる暇はないな」
御堂に深くお礼を言う。
「不思議だね……稲生くん、さっきより重い悩みを抱えているのに今のあなたはとても逞しく感じるわ」
「え?」
「私は覚悟を決めて、あなたに近付いた。……恐怖は、人の限界を乗り越える為にあるのかもしれない」
そう言って、御堂は一歩ずつ歩み寄ってくる。
胸が高鳴った。
「恐怖に立ち向かう事を────勇気と呼ぶわ」
そして、そっと俺の身体を包み込むように抱き締めた。
「な、何を……?」
鼓動がどんどん早くなる。
御堂の身体は柔らかく、頭がおかしくなりそうだった。
「でも……引き返す勇気も必要よ」
妖と御堂の二つの瞳が、重く心に突き刺さった。
……これ以上死神に関れば間違いなく死ぬだろう。
まるで、その事をわかってるかのように、深刻な表情で俺を見ている。
御堂は俺の胸に、顔をうずめた後────校舎の方向に去って行った。
呆然と立ち尽くしたあと、胸元に手を置くと────わずかに濡れていた。
自宅に到着する頃には18時を回っていた。
「ただいま……楓姉、大変だ!」
だが、楓姉の姿の返事はなく、姿は見当たらない。
携帯電話に電話したが、繋がらなかった。
すると、留守電が入ってる事に気が付く。
『あーもしもし、猫柳です。修一郎に連絡するように伝えておいて下さい』
……と言って、留守電は切れた。
リダイヤルすると、すぐに繋がった。
『おう、修一郎か? 美生と連絡ついたぜ。何か電波悪いらしんだが、メールで“裏山にいる”って、入ってたんだが……」
「裏山!? 一体どうしてそんな場所に!?」
『さあ、意味不明だぜ。何か電話もブチブチ切れて良くわからんかったんだが、誰かと一緒みたいだったぜ? また連絡入ったら報告するわ』
電話は切れ、茫然とした。
裏山なんかに一体……何の用だ?
もう、あと小一時間もすれば日が完全に沈んでしまう。
捜索するのは不可能だった。
「……修一郎」
電話の前で頭を抱えていると、居間から紅葉が出て来た。
「紅葉、楓姉がどこに行ったか知らないか?」
「楓は……あの人と出かけた」
「あの人って?」
「修一郎と……縁で結ばれていた人」
「────八橋が!? 楓姉と!? いつ!? どこへ!?」
驚いて声が大きくなった。
八橋は家に帰らずに……稲生家に来た?
「おやつの時間……裏山」
大きな声を出されて、紅葉は少ししょんぼりしていた。
「紅葉……お願いがある。八橋と俺の縁を────また繋げる事は出来るか?」
「え……でも悪縁の……色」
「良いんだ、縁を切ったところで……八橋の死は回避出来なかった。それに……縁が切れてると、八橋に出会う事が出来ない」
────八橋の死を招いたのは、俺との縁ではなかった。
他に理由があるはずだ。
「……結んだ」
紅葉は、両手で遊ばせながら、そっと顔を上げる。
「はは、この家に縁の糸が残っていた事はありがたいな。……待てよ? だったら、糸を辿って八橋の元に向かうのは可能か?」
「……できるかも」
こくり、と紅葉は頷いた。
自転車はパンクしたままだった。
……修理している時間はない。
紅葉を背負って、裏山まで走る事にした。
引き続き、阿狛が憑いているおかげで夜道でも妖に遭遇する事はなく安心だった。
紅葉の身体は軽く、ほとんど重さを感じない。
「修一郎の縁の糸の色……どんどん怖い色になっていく」
泣きそうな声で、紅葉はぎゅっと背中にしがみつく。
俺の死が近付いていると言う事は、八橋に近付いている事でもあった。
だがもう、19時まで残り僅かとなっていた。
19時を越えると、いよいよ八橋の死亡予定時刻に突入するかもしれない。
陸上の練習の時よりも早く、裏山へと急いだ。
「……糸は裏山の方に伸びている」
神社の正門前まで辿り着くと、紅葉は山の方向を指差した。
「裏山へは、神社を通り抜けた方が早いな」
石段を登って、裏門への道を駆け抜ける。
裏門の鳥居を出て、石段を降りた。
────例の丁字路だ。
前方には八橋の家へのルートがあり、逆丁字路の形をしている。
茂みには相変わらず、大きな“渦”が見える。
「縁の糸が……絡まりあってる」
「え?」
右手の裏山に向かおうとすると、背中の紅葉が不思議な事を言い出した。
「あっちとこっち」
紅葉が指差した方向は、右折の裏山と、左折の学校と繁華街への道だった。
……直進の八橋邸の方向に糸は伸びてはいないらしい。
「家に帰ってないのか。どっちに向かえば良いんだ?」
「絡まってて……わからない」
紅葉は首を振る。
だが、もう時刻は19時に指しかかろうとしていた。
思い切って、裏山の方向の右折を選んだ。
────すると、首筋に臆病風が吹いた。
「……後ろ神か?」
「びっくり……! この子、誰?」
紅葉は、突然出現した“後ろ神”に驚いていた。
「アー?」
阿狛は頭上で警戒している。
恐怖に震えながらも、賑やかな背中だった。
……とりあえず振り返る事を選択した。
横断歩道の脇の茂みには相変わらず“渦”が不気味に存在している。
────もう19時を過ぎていた。
ここで迷っている暇はない。
「“後ろ神”……可愛い」
何故か紅葉は“後ろ神”の事を気に入ったようだ。
ゆっくりと“渦”の方向へと進む。
うかつに近寄る場所じゃない。
危険な事は重々に承知していた。
だが、左の道を選んでも、また後ろ神が臆病風を吹き付ける。
「……?」
……“後ろ神”は恐怖を与えるが、危険に近付かせる為の妖じゃない。
その事は御堂で証明出来た。
「……分岐点。もしくは、何かを伝えたくて────導いているのか?」
右でも左でもない原点に立ち止まって考える。
ここは怪談で『魔の丁字路』と噂される場所だった。
「……一番危険な場所だ」
恐怖と向き合わなければいけない。
「ここが……立ち止まるべき場所なんだ!」
またもや、臆病風が吹いた。
石段を背にして、意を決して────振り返った。
見上げた石段の頂点には鳥居があった。
鳥居の中央で真っ直ぐにこちらを見つめている存在が居た。
────八咫烏だ。
この高位な妖には、神社の境界は意味をなさないのだろう。
八咫烏は挑発するように神の境界に立っていた。
「修一郎……怖い」
ぎゅ、と紅葉は背中に隠れてうずくまる。
「紅葉、どこかに隠れてるんだ」
後ろ神で隠すように紅葉を降ろす。
そして、ゆっくりと石段を登り詰めていく。
一歩、一歩近付くに連れて、首筋が凍るような感覚がした。
まるで強烈な引き戻しのように感じた。
だが、こいつが出現していると言う事は────八橋の死が近い前兆だった。
石段を登り切り、八咫烏と対峙する。
「むざむざこの場所を訪れるとはな。警告の意味はなかったか」
八咫烏は嘲笑した。
「……八橋は、必ずここに現れる。この場所に居れば死を妨げる事が出来る。お前を見て……そう、確信した」
「言った筈だ。運命はそうたやすく変わるものではない────と。そればかりか、貴様の顔……死相が見えるぞ。死に逝く者への手向けだ、見せてやろう」
そう言って、八咫烏は手帳を見せる。
【稲生修一郎】の名前と顔と今日の日付……そして【滅】の文字が浮かび上がってくる。「【滅】とは草木が枯れる状態……【戌の刻】を表している。丁度……現在の時刻だ」
「御堂の考察は正しかったな……俺は【呻】……【申の刻】に死んでいたかもしれない訳だ」
「ほお? まるでその【申の刻】とは別人のようだな?」
「……来るなら来いよ」
阿狛が身を乗り出し、威嚇する。
今は強力な阿狛の存在が、とても心強かった。
「────勘違いするな。死は俺が直接手を下すものではない……見届けるのみ。貴様に対するあれは────云わば脅しだ。死は自ずと訪れて来るだろう」
「……何だって?」
「────修一郎!!」
その時、石段の下から慣れ親しんだ声が聞こえた。
石段を駆け上がってくる影があった。
────楓姉だ。
「か、楓姉!? 何でこの場所に!?」
「そりゃこっちの台詞だっつーの! ……って、八咫烏? あー、どうも。お久しぶりです」
楓姉はぺこぺこと八咫烏にお辞儀をする。
「……誰だ? 貴様など知らんぞ」
「あー、覚えてないかー……何せ子供の時だもんね。曾婆ちゃんの時とかお世話になったわ」
曾婆ちゃんは天寿を全うしたはずだった。
その頃はまだ俺は産まれてない。
「修一郎、わたしは美生ちゃんの相談を受けて此処まで来たのよ」
「八橋の相談? ……それで裏山に行ったんじゃなかったのか?」
「何で知ってるの? まあ、結果的にね。ここが『魔の丁字路』って怪談で噂されてるのは知ってるでしょ? あんたが美生ちゃんに近付くなって釘を刺すくらいだもんね」
頷くと楓姉は続けた。
*
八橋は学校を早退後、稲生家を訪れた。
楓姉は、八橋に『魔の丁字路』の事を調べたい旨の相談を受けて事故多発の原因を探る事にした。
警察に問い合わせた結果、この丁字路は片側しか信号がなく、直進車と右折車の接触事故が多い事がわかった。
そして丁字路は工事される前は地形が違っていて、事故地点には本来は道祖神があった事もわかる。
……道祖神とは、道の辻に設置される厄除けの依代(よりしろ)の事だ。
去年に八橋が最初に発見した頃には、道祖神は既に工事の際に崩れていた半身だった。
八橋の接触によって割れた道祖神の跡地には、さらなる激しい交通事故が起こった。
あらためて八橋が訪れた際に、何も無くなっていたのは解体業者により、回収されたからだと言う。
*
「それで……道祖神を探していたって言うのか?」
「そうなのよ、でもこれがまた酷い解体業者でねえ……しつこく問い合わせしたんだけど。バラバラになった道祖神は────裏山に不法投棄されていた事がわかったの」
「だから……裏山に?」
「不法投棄のゴミも酷かったわ……月並だけど、人間が一番怖いってことかしら? でもね、その中でも道祖神の存在感は強かったわ」
「そうか……妖が見える楓姉なら」
「うん、大体は見つけて回収出来たと思う。美生ちゃんも、手伝ってくれたのよ」
「────!? ……八橋!! そうだ、今……八橋はどこにいるんだ?」
「? 美生ちゃんなら下で待っててもらってるけど? バイクで一緒に回ったんだよね」……楓姉は未だ────八橋の死は回避出来ていない事を知らない。
説明している時間がなかった。
その時、首筋に強烈な悪寒が走った。
振り返ると、勾配が急な石段の下に────……八橋が立っていた。
「……八橋ッ!!」
「修ちゃん!」
八橋は嬉しそうに叫んだ。
その腕には、大きなガラ袋を重そうに抱えている。
傍には吽狛も一緒だ。
「────!」
ふと八橋の背後を見ると、横断歩道の先の直進道路から右折ダンプ車がこちらに向かって来るのが見えた。
────何故か、あのダンプ車に妙な胸騒ぎを感じた。
────こちらに突っ込んでくるかもしれない。
「八橋!! その場所は危ない!! 逃げろ!!」
「え! え? 違うよ! もうこれで……大丈夫なんだよ!!」
嬉しそうにガラ袋を持ち上げる。
「……違うんだッ!! ……後ろだッ!!」
────ダンプ車は、どんどん近付いて来た。
もう、埒があかない。
石段を降りようと、足を踏み出した。
だが、背後から引っ張られる感覚がして身動きが取れない。
────またもや後ろ神だ。
後ろ神が“危険”に進む事を許さなかった。
「……離せッ!!」
阿狛が後ろ神に、襲い掛かる。
────背後で、阿狛が後ろ神を捕える感覚がした。
そのまま、振り切った勢いで、石段をかけおりた。
だが、その拍子に────足を踏み外した。
そのまま、石段を転がり落ちてしまった。
「────修一郎!!」
……上段から楓姉の叫びが聞こえる。
「────修ちゃん!!」
……下段から八橋の叫び声も聞こえた。
スローモーション映像のように周囲の状況が展開した。
まるで世界が上下に反転したかのようだった。
────右折のダンプ車が迫って来る。
────横断歩道には、もう一台の乗用車が迫って来た。
乗用車は信号を前に、スピードを上げて直進する。
右折のダンプ車は、突然現れた乗用車に驚いたのか、大きなクラクションを鳴らした。
────だが、それでも八橋は後ろを振り向かずに、心配そうな顔でじっとこちらを見ていた。
(俺を見るな……ッ!!)
(後ろを振り返れ……ッ!!)
心の叫びも空しく、ハンドルを切り損ねたダンプ車は八橋を目掛けて迫って来る。
その瞬間────八橋の背後に、後ろ神が出現した。
八橋は振り向く素振りをするが────手遅れだった。
ダンプ車と八橋の距離には、もう、余裕は残されていなかった。
石段に身体を打ち付けられる。
視界の映像は────暗転した。
身体が石段の入口まで滑り落ちる。
激痛が身体を支配した。
同時に、激しいブレーキ音と巨大な衝突音が聞こえた。
うっすら眼を開けると────歩道にダンプ車が乗り上げていた。
「…………あ」
ダンプは例の“黒い渦”のある場所の直前で、緊急停止していた。
フロントガラスにはひびが入っている。
運転手は、エアバックの向こうで意識を失っていた。
……どうやら、命に別状はないようだ。
だが、八橋の姿はどこにもなかった。
茂みの前の柵は捻じ曲がり、茂みとダンプ事故車の間には大きな“渦”が広がっていた。眼を凝らすと────“渦”の中から八橋の……“腕”の部分が見えた。
その“腕”には昨日の火傷の包帯が巻かれている。
ダンプ車のフロントは、大きく変形していた。
大きな衝突音の時のものだろう。
茂みとダンプ車の間には、ただ黒い渦があるばかりで────隙間はない。
「……う、うわあああ……」
……絶望が……そこにあった。
いくら嘆いても……眼の前の景色は変わらなかった。
引き摺るように身体を動かし、“渦”の外に出ている八橋の“腕”に手を伸ばした。
その手に触れるが、それ以上────身動きが取れないでいた。
「修一郎!!」
楓姉の声で、我に返る。
俺と八橋の手を掴んだ楓姉は、“渦”を外から覗き込む。
そして八橋の“腕”を力強く────引き抜いた。
ずるり、と八橋の身体が、ダンプと茂みの間から出て来た。
「…………え?」
────……一瞬、我が眼を疑った。
八橋の身体は、元々あった腕や足の包帯以外は────かすり傷程度しか、負っていなかった。
「……わたし達には“渦”にしか見えないけど」
ぽん、と楓姉が肩を叩いた。
「そこは去年の大事故で、防空壕みたいな大きな穴が開いてるのよ。……助かったわね」
気絶した八橋は、胸元にガラ袋を抱えていた。
「中には……道祖神の欠片が」
「それと────まだ功労者がいるわ」
楓姉は、ダンプ車のフロント部分から一匹の妖を引っ張り上げる。
────吽狛だった。
「吽狛が……ダンプ車に正面から衝突したって言うのか?」
「ええ、あんたの分身がね。吽狛はあんたの精神に比例して力を発揮するわ。ぱっと見、念動力なんだろうけど……とんでもない物理力ね」
自分でも信じられなかった。
吽狛は、八橋を守れと言う命令を遂行していた。
気絶していた吽狛は、やがて大きく息を吐き立ち上がった。
「あんたが死なない限り、吽狛も死なないもんね。……まあ、そろそろわたしの阿狛を解放しなさいよ」
────気が付くと、阿狛は俺の下敷きになってのびていた。
あちこちに打撲を受けたが、阿狛がクッションになっていたお陰で致命傷には至らなかった。
「あと一匹の功労者は……この子の中の……後ろ神かもね」
……今の八橋の身体には、後ろ神が憑いているのだろう。
暗転する直前までの映像記憶を思い出す。
あの防空壕のような穴まで八橋を引っ張り込むように誘導したのは────後ろ神だった。
……大きな安堵のため息を吐いた。
すると、石段から八咫烏が降りて来た。
「八咫烏……八橋の死は回避出来たんだよな?」
確認するように尋ねると、八咫烏は大きく首を振った。
「死亡時刻だ。戌の刻────八橋美生は死んだ」
そう言って、八咫烏は手帳を見せた。
手帳には、未だに八橋の名前は刻まれていた。
「な……? なぜ? 八橋は……無事じゃないか」
八咫烏の言葉は、全く理解できなかった。
「そして稲生修一郎。お前もまもなく────死亡時刻だ」
「な!! あんた何言ってんの!? 適当な事言ってるとぶっとばすわよ!?」
楓姉はいきり立って、八橋の腕を手に取る。
だが、一瞬で楓姉の顔は青ざめた。
「息……してないわ! 心臓の音も……聞こえない」
「────う……嘘だ!」
慌てて八橋の身体に近付く、その腕は力を無くし……まるで眠るように死んでいた。
「八橋……ッ!?」
抱き寄せるが、反応はなかった。
だが────首筋にひと際強い臆病風が吹き込まれる。
振り向くと、そこには大きな“渦”が広がっていた。
導かれるように……“渦”へと歩み寄る。
「ちょ、ちょっと修一郎どうしたの?」
「……ここの“渦”には、まだ────“穴”以外の“何か”がある」
意を決して“渦”の中に顔を突っ込み────覗き込んだ。
すると、逆に複数の眼に覗き返される。
底無しの闇の中の深部に────八橋の姿があった。
「八橋ッ!!」
思わず手を伸ばす。
すると、逆に“渦”黒いもやに腕を掴まれた。
「うわっ!?」
「修一郎!!」
“渦”の中には、複数の亡者が居た。
誘い込むように、複数の黒い腕が手招きしていた。
「八橋の魂が……取り込まれている」
「ええ!? あ……そうだわ。確かに此処は、事故多発地帯……厄を受け止める道祖神が無くなった後は、行き場のなくなった事故死者の霊がうごめく場所になっていたのかもしれないわね」
亡者達の“渦”は広がりをみせて、空間を歪ませていた。
事故を誘発させていたと言うよりも、事故により覚醒したのかもしれない。
「ちょっと八咫烏!! どうにかならないの!? こんな死に方って悪趣味よ……あんまりだわ!」
楓姉は憤慨しながら、八咫烏に詰め寄った。
「……俺は死相を監察し、死を見届け、彼岸へと送り届ける存在に過ぎん。この結果は────俺にとっても望む所ではない」
八咫烏も亡者に対しては、想定外だったようだ。
苦虫を噛み潰したような顔をしている。
「八咫烏……お前は死神だろう? こんな亡者達をどうして放置しているんだ!」
「無念により此岸に執着し続け、もはや人ではなくなった魂はそれまで……監査対象外だ」
「だったら……八橋はまともに彼岸にも行けずに、此処に止まり続けるって事か!? ……そんな事はさせない!!」
「八橋の魂は……あの中か」
道祖神を抱き“渦”に向かって突き進む。
考える時間は残されてはいなかった。
「ちょ、ちょっと……修一郎!! 何をする気!?」
“渦”の中に右眼を凝らし────八橋の魂を探した。
────“渦”から複数の黒い腕が出てきて、捕らえられる。
そしてそのまま────魂を引き抜かれるように“渦”の中に取り込まれて行った。
「修一郎!!」
「……死亡時刻だ。戌の刻────稲生修一郎は死んだ」
それが、最後に聞こえたこの世の言葉だった。
暗い闇の中に閉じ込められた。
周りに光は無く、ただ無限の闇が広がっていた。
亡者達の姿は闇に溶け込むように、人ではない形をしている。
八橋の姿は見えない。
深淵の中では、捜し出すのは困難だ。
だが、瞳を凝らすと、闇の中にうっすらと糸のようなモノが浮かび上がる。
『まさか……“縁の糸”か?』
手探りで糸を辿る。
闇の中では目立たないが、おそらくどす黒い色をしているのだろう。
『……あ』
糸を辿った先の、奥の方に八橋の姿が見えた。
八橋の魂に向かって呼びかけた。
『────八橋!!』
『あ……修ちゃん? あ、あたし……死んじゃったみたいだね』
こんな状況にも関らず、八橋は落ち着いていた。
だが、八橋は虚ろな目をしていた。
感情そのものの起伏がほとんど感じられなかった。
『……ごめんね、言う事聞かなくて。オバケの存在を否定しようと思ったのに、あたしがオバケになっちゃったね』
『ああ……俺が認めてしまったからか……』
八橋は自分が死者になった事に諦めを感じていた。
次第に自分自身も倦怠感に支配されて行くのを感じた。
……恐怖心は失われていく。
此処に来た目的も見失っていく。
────何もかも失われていきそうだった。
『八橋から後ろ神を────恐怖を取り除いた事が……そもそもの間違いだったんだ』
八橋の元へと歩み寄る。
空虚な状態で、身を委ねていた。
『真の恐怖は……恐怖すら感じないことかもしれない。臆病なのは……悪いことじゃない』
『……修ちゃんが怖かったよ。えへへ……今でも怖いかな。何だか不安定な気持ちになって……ドキドキしてた……』
『ああ……もっと、もっと不安定になるんだ────そうすれば』
八橋の身体を引き寄せる。
身体が重なり合って、八橋の背中には────“後ろ神”が出現した。
“後ろ神”は、俺にそうしていたように、八橋に向かって臆病風を吹き付けた。
『ひゃう!? あ……え? な、何? いやああ……修ちゃん、怖い……怖いよお』
八橋は怯えて、震え出した。
『そうだ……ここは怖い場所なんだ。早く帰ろう、八橋』
『で、でも……どうやって?』
『わからない。でも、怖いものからは、全力で逃げるしかないよな』
死んだと言われるなら、受け入れて諦めるしかない。
だが、ここは止まる場所じゃなかった。
だが、二人で歩み出した瞬間────亡者達の群れが動き出した。
此処は深海のようにどこにも出口はなかった。
底無しの暗闇の中をもがく。
もがけばもがくほど、亡者達は追ってくる。
『修ちゃん……! こっちは危険……!』
後ろ神に憑かれた八橋は、危険を察知した。
逃げながらもがき続けると……眼の前に────暗闇の中に無数の亀裂が浮かび上がって来た。
亀裂に触れると、光が洩れてくる。
中を覗き込むと、真っ白なまばゆい光に包まれた。
だが、その隙間は狭かった。
八橋を先に、光の外へと行かせた。
自分もそれに続く……だが、足元に亡者の黒いモノが絡みつく。
『────!?』
足に……腕に……目に……亡者達が絡みつく。
『は……離せ!』
亡者の意識が流れ込むように────光に対しても、恐怖を感じるようになる。
まるでそれは……産まれ出る恐怖だった。
闇に呑み込まれ、意識は深淵へと堕ちていった。
遠のく意識で、最後に感じたのは、“後ろ神”が吹き付ける臆病風だった。
《五日目 終了 全六日》
目を覚ますと、全身に大量の汗をかいていた。
夢の内容は覚えてないが、だいぶうなされていたようだ。
朝になっても、胸騒ぎはとまらない。
────八橋のことが気がかりだった。
「……かと言って、俺にできる事はもうない」
悪縁であり、自ら縁を切った以上は関らない事が最良の選択だった。
一階に降りると、良い匂いがした。
楓姉が朝食を作っていた。
「おはよー。朝ご飯出来てるわよ。やっぱり仕事明けは胃に優しい野菜スープよねー」
トーストや卵の他と共に、具沢山のポトフが盛り付けられていた。
「ソーセージ・ジャガイモがてんこ盛り……とても胃に優しいとは思えないな」
「まだまだ一仕事残ってるからね。精をつけなきゃ!」
「あんなに寝てないのにまだ仕事か……」
相変わらずの楓姉のタフさには恐れ入る。
「まあせっかく紅葉が繋いでくれた縁だもんね。無下にするとバチが当たるわよ。……! ……あんたの事は残念だったわね」
八橋との縁の件の事を、楓姉は気にしていた。
「良いんだ……運命を捻じ曲げてしまっていた。元の状態に戻っただけさ」
「……違う」
ふすまの向こうで紅葉の声が聞こえた。
「紅葉?」
「修一郎とあの人は繋がっていた。……強く結んだだけ」
哀しみのせいだろうか、紅葉は少し気枯れていた。
「そうそう、紅葉はきっかけを与えただけで美生ちゃんの気持ちは本物よ。あんたの気持ちも本物だって、分身の吽狛が証明してるわ」
そう言って、楓姉は阿狛を取り憑かせた。
「紅葉は気に病みすぎよ。あとでしっかりと気生めてあげるからね!」
楓姉は手をくねくねと不気味に動かしていた。
「気生めは……修一郎が良い」
紅葉は楓姉の手の動きが怖かったのか、後ろに隠れてしまった。
「あらら、やっぱり修一郎は妖にはモテるわねー。ほらほら紅葉、ソーセージあげるから怖がらないで」
紅葉はますます怖がってた。
楓姉は基本的に妖が大好きだが、怖がられる事が多い。
それは分身の阿狛も一緒だった。
通学路で徘徊している妖を発見すると、嬉しそうな顔をする。
だが妖は、怖がって逃げていく。
吽狛は不機嫌な顔をしているのに、妖が寄って来る。
もう吽狛と交換した方が良いんじゃないかと思った。
おかげで何の障害もなく学校に到着した。
いつもより余裕がある時間帯だ。
登校して来る生徒達も見慣れない顔ぶればかりだった。
「おはよう」
────突然、一人の女生徒がこちらにお辞儀をしてきた。
「お、おはよう」
「ふふ、今朝は早いんだね、稲生くん。彼女とは一緒じゃないの?」
御堂紗都梨だった。
あのふさふさの妖も一緒だ。
「何で俺が遅い事を知ってるんだ? ……彼女って?」
「ほら、昨日の……八橋さんだっけ? 二人とも校門が締まるギリギリに駆け込んでくる事が多かったから」
悪名は、隣のクラスにまで伝播していた。
「……八橋とは家が逆方向だ。一緒に登校してるわけじゃないよ」
「そうなの? ふふ、じゃあよっぽど縁があるのね」
御堂は可笑しそうに笑う。
だが、御堂はふと何かに気付いたかのように笑うのを止める。
ふさふさの妖の眼が、じっとこちらを見ていた。
「……稲生くん。昨日の悩みは解決したの? 何だか更に深刻そうだけど」
「え? ああ、その件は解決は……したんだ」
「本当? じゃあ、何かまた別の悩み?」
御堂は心配そうに覗き込む。
────そんなに深刻そうに見えたのだろうか。
八橋の死は回避出来た。
ただ、縁切りをしなければ手遅れだったかもしれないと言う漠然とした不安感がつきまとっているだけだった。
「……本当を言うとね、昨日あなたが見ているモノが幻想だとか言った事を後悔している。私がそう信じて安心したかっただけなの。あなたにひと言、謝ろうと思っていたのよ。……ごめんなさい」
そう言って、御堂は深々とお辞儀をした。
その様子に周囲の視線が集まった。
「か、顔をあげてくれよ。身内以外にこんな秘密を打ち明けられる相手なんていなかった。……御堂のおかげで、一時的だったけど安心出来たんだ」
「……私は秘密を暴いただけだよ。恥ずべき行為だわ。もし、何か困った事があったら相談してね。それが私に出来るせめてもの────償いだから」
そう言って、御堂は去って行った。
教室には、猫柳が既に来ていた。
いつも通り朝練をして来た様子だ。
「よう! 見てたぜえ、修一郎。あんなに謝られて、お前も紗都梨ちゃんにフラれたか?」
猫柳は嬉しそうに背中をバンバン叩く。
否定しようとしたが、諦めた。
「……どうだ? だいぶ落ち着いたか? まあ深くは聞かねえけど、後で美生にちゃんと謝っておけよ」
猫柳は馴れ馴れしいが、デリケートな部分には触れてこない。
いつものように接してくれた事に安心した。
HRの鐘が鳴っても八橋は来なかった。
教師が来て、朝礼を始める直前に、八橋が走りこんで来た。
「お……遅れてすみません!」
教師は、またかと呆れ顔になったが、八橋の姿を見て躊躇した。
右手には包帯を巻いており、更に両足にも包帯が巻かれていた。
「その怪我……どうしたんだ? 大丈夫か?」
「は、はい。目眩で、石段でちょっと転んじゃって……保健室に行ってました。……見た目ほど大した事ないですよ」
だが、その表情にはいつもの快活さはなく、青白く元気がない。
体調の悪さを物語っていた。
「……八橋」
八橋と目が合うと、にっこりと微笑み返す。
安心するものの、どこかしら空元気のように感じた。
休み時間の間、八橋の周りに人だかりが出来ていた。
怪我の様子を聞きたかったが、あの状態では声はかけられない。
人だかりも、最初は怪我の心配かと思っていたが……徐々に様子がおかしい事に気付く。八橋は体調が優れなさそうにも関らず、色々と質問されている。
あまり普段話さないようなクラスメイトも混ざっていた。
昼休みになり、不穏な空気が教室内に漂っているのを感じた。
時折、八橋を取り巻く集団から視線を感じる。
そんな中、購買部から帰って来た猫柳が集団に色々尋ねられていた。
猫柳はその後、八橋と会話を交わした。
そしてそのまま焦るように、机に戻ってきた。
「おい、何かヤバイ雰囲気だぜ? 美生の怪我の原因は────お前の家の呪いだって噂話になってる」
「え? 八橋がそう言ったのか?」
「いや、美生がそんな事言う訳ねえだろ? あいつ……昨日、お前の家に行くって嬉しそうに話してたらしくてさ。────そしたら、今日はあの様だ。しかも怪我の原因を誤魔化してるから、勝手に話に尾ひれがついてるんだよ」
「怪我の原因の発端は俺だ。俺のせいだって、言えば良いじゃないか」
「んー……気を悪くしないで聞いてくれよ? 元々、お前の家はオバケ屋敷だって、そう言う噂はあったんだ。しかも八橋が怪我したのは、『魔の丁字路』とか言われている心霊スポットらしくてな。他にも『慰霊の森』とか『口裂け犬』とか……怪談ブームみてえになってるんだよ」
「……『魔の丁字路』? 猫柳、ちょっとそれについて詳しく教えてくれないか?」
「ああ、いつもの神社の裏門にある三叉路だよ。あそこはここ数年交通事故が多いらしくてさ。事故の場所はいつも同じ場所なんだと。ほら、何かいつも花が置かれてる場所があるじゃねえか」
……例の場所だ。
(八橋には昨日、再三注意したにも関らず、今朝も立ち寄っていたと言うのか?)
「美生も怖がってる。根も葉もねえ噂だって言って、安心させてやろうぜ。お前は怒って良いんだぜ?」
────とにかく八橋にはあの場所には近付かないように、注意を促さなければいけない。
八橋の元へ行こうと立ち上がった瞬間、怒声が響いた。
「いい加減にしてよ!!」
叫んだのは────八橋だった。
教室中に響き渡り、周囲はどよめく。
「何よぉ、あの気味が悪い神社は、以前に“神隠し”があったって怪談もあるし、稲生は……中学のころ『神社に住む少年』とか噂されてた少年に似てるんだって! 関係ありそうじゃん────心配して言ってあげてんのよ?」
俺の名前が出て来たが、相手とはあまり面識がない。
八橋の友達ではなく、普段は別グループに居る女子生徒だ。
「うるさいよ! 修ちゃんのこと、何も知らない癖に!」
顔を真っ赤にして八橋は相手に詰め寄った。
「おい、ちょっと待てよ。さっきから俺の名前が出てるけど何の話だ?」
「げ、稲生……ッ」
その女生徒はぎょっとした表情で俺を見た。
「い、いやね。何か中学時代に学校の怪談が流行ってね、夜の神社に出入りしてる不気味な少年がいるって怪談もあったのよ」
冗談だと言う素振りを見せるが、引きつった笑顔だった。
────夜中に気生めに行く事は多い。
まさか、家だけではなく自分自身が怪談になっているとは思わなかった。
「怪我だって不自然でしょ? 何で火傷の理由だけ隠してるの?」
……どうやら火傷の理由は伏せている様子だった。
「ひどいよ! 修ちゃんの家の話も、夜中の神社の話も、全部ただの噂じゃない! 何でそれがあたしの怪我や丁字路の事故と関係して来るの? あんまり勝手な事ばかり言ってると許さないよ!」
「八橋、落ち着けよ。俺は気にしてないからさ」
「しゅ、修ちゃん……」
八橋が感情的になる事は珍しく、周囲も戸惑っているようだ。
「別に……無関係じゃないだろ。俺は夜中に神社に行く事も多いし、俺の家は昔からオバケ屋敷だと言われて心霊現象の目撃例も多いんだ。八橋の怪我の原因は────俺にある」
「や、やっぱり……」
女生徒が怯えた様子で後退る。
「違うでしょ! どうしてわざわざ誤解されるような事を言うの!?」
八橋は怪我をしていた。
顔色の悪さも相まって、とても弱っているように見えた。
「……誤解じゃない。不吉なのは事実だ」
八橋の不幸を招いたのは俺との縁だ。
今の八橋は、とても危うく思えた。
「そんな事より、あの丁字路には二度と近付くな。────あの場所は呪われている」
一番危険な場所に釘を刺した。
怪談が浸透しているせいか、説得力が増したようだ。
だが、八橋だけは納得がいかずにうつむいている。
「修ちゃん……オバケなんか存在しないって言ってたじゃない」
怪談を必死に否定していた八橋は落胆し、座り込む。
「八橋……」
歩み寄るが、かける言葉がみつからなかった。
「……嘘つき」
ふらふらと八橋は立ち上がる。
その目にはうっすら涙を浮かべていた。
八橋は気分を悪くし、そのまま医務室に向かっていった。
教室を出て行く八橋を背にした瞬間────首筋が反応した。
“後ろ神”が、追うなと言っているのだろうか。
それとも────。
結局、振り向く事は出来なかった。
結局、八橋はそのまま午後は早退する事になった。
「美生のやつ、大丈夫かな? あいつがあんなに怒るの、初めて見たぜ。……ったく、わかってんのか? お前の為に怒ってたんだぜ?」
「……ああ、わかってるよ」
気遣いが嬉しかった。
しかし、あの状態では家で大人しく休んでいてもらった方が安心する。
「お前も何でああも簡単に認めちまうかね。立場は悪くなるだろうし……まるで何だか本物っぽいじゃねえか」
猫柳は若干震えていた。
「なあ修一郎、昨日の動く傘は……トリックだよな? 祟りとかねえよな?」
ああ言った手前、何と答えたら良いかわからない。
黙っていると、猫柳はふん、と息を荒くした。
「まあ、俺はピンピンしてるからよ。俺に不幸が訪れたらその祟りってのも信じてやるよ」
本当は言いたい事は山ほどあるんだろう。
だが、猫柳は変わらず接してくれた。
教室の不穏な空気は残ったままだった。
怪談の流行は治まることはなく、広まっていく。
「しっかし何でまた怪談ってのは流行るのかねえ?」
「……わからない」
どうして敢えて怖い話に興味を持ち、近付くのか……理解出来ない感情だった。
教室は、いつも明るい八橋が居ない分、居心地の悪さを感じた。
HRが終了し、放課後になった。
今日の部活は、休ませてもらう事にした。
猫柳とは部室まで付き合うと言うことで、一緒に廊下を歩いていた。
「あーあ、今日は課外部活はなしか。あとで美生の見舞いにでも行くか?」
「……いや、そっとして置こうと思う」
少なくとも、八橋の死を回避した事を確認出来るまでは、近付くべきではなかった。
そんな時、数人の女生徒がやって来た。
「あの……稲生君、私たちオカルト研究会のものですけど……」
それから怪談についての考察を色々と伝えられ、質問をされた。
陰湿な感じではなく、純粋な好奇心で聞かれて戸惑った。
今まではこんな事はなかったからだ。
とりあえず、適当に答えて誤魔化した。
「稲生君の家の近くで『人語を喋る猫』がいたとか……」
「え?『二又尾の猫』じゃないの?」
「違うよ、『下から覗く猫』じゃない? 短いスカートを履くと現れるとか」
とりあえす、その猫と稲生家との関係性は全力否定した。
女生徒たちは、怖がりながらもはしゃいでいた。
「モテモテだな、修一郎。どんな気分だ?」
「……毒気に当てられた気分だよ」
否定されつつも認められているような……何とも言えない奇妙な心地だった。
「稲生君」
図書室を通り過ぎた後、また呼び止められる。
頭上の阿狛が吼えて────首筋が反応した。
……妖の気配だ。
振り向くと、図書室の前に御堂が立っていた。
「稲生君、ちょっと良い? 話があるんだけど」
「お、おお! 紗都梨ちゃんじゃないですか! 一昨日はどうも失礼しました!」
「あ……この前の傘の人? あの時はごめんなさい。すごいスピードだったから、思わず怖くなって逃げてしまったの」
「いえいえ! 短距離選手に全速力で追いかけられたら誰でも逃げますって!」
「……100M11秒台か。そりゃ逃げるよな」
「自己ベストは10秒99だ! 追い風アリだが!」
「ええ、追い着かれてとっても怖かったわ」
にっこりと御堂は微笑む。
微笑みかけられて、猫柳は嬉しそうだった。
「少しだけ、稲生君をお借りしても大丈夫でしょうか」
「はいはい、どうぞ持って行って下さい……って、紗都梨ちゃん、こいつと仲良いんですか?」
「ええ、仲良くしたいと思っているわ」
猫柳は絶句した。
「くそ……! 最近はオカルト系男子がモテるのか?」
勝手に変な造語を作られてしまった。
猫柳は報告を期待する、と耳打ちをして陸上部に戻って行った。
御堂と一緒に、屋上へと向かう。
怪談の影響で澱んだ空気だったので、新鮮な外の空気が心地良かった。
「最近、怪談が流行ってるらしいわね」
────御堂の言葉で我に返る。
怪談は隣のクラスにまで広まっていた。
「稲生君の家や、稲生君自身の事も、結構話題に出たよ。だからちょっと気になって、声をかけたの。……私の発言が原因だったんじゃないかって」
御堂は申し訳なさそうに見つめる。
「そんな事はないよ、たまたま不幸が重なっただけだ」
「昨日会った彼女……八橋さんも、怪我したって話だけど……喧嘩もしてたとか」
……八橋の怪我は、正直ぞっとした。
怪談と繋げる心理も理解出来る。
誰よりも怖がっていたのは、俺自身なのかもしれない。
御堂に、八橋の事を相談した。
「ただ、何でこうも怪談は流行るんだろうな」
猫柳との疑問を投げかけた。
すると、御堂は思いがけない返答をする。
「私……稲生君の事を“怖い”って言ったよね? 相手に“怖い”って感情を抱くのは……同時に魅力も感じてるんだと思う」
「────え?」
八橋も俺の事を“怖い”と言っていた。
「魅力……だって?」
思わず、御堂と見つめ合う。
御堂は少し頬を紅潮させて、咳払いをした。
「そうでなければ、こんなに怪談が浸透するはずはないわ。遊園地と同じよ、人はエンターテインメントを求めてオバケ屋敷やジェットコースターに乗るわ」
「でもそれは、安全を確保できているからだろう?」
「ふふ、でも遊園地にも怪談は付き物よ。以前読んだ本では、ある科学者が、人間が恐怖を楽しむのは────人間が進化したからと提唱したわ。恐怖と快感は同じ器官で感じているそうよ」
“怖い”と言う感情は、“後ろ神”が憑くまでは余り意識しなかった。
今も御堂に対して抱いている感情は、恐怖と魅力が混在している。
御堂の顔を見ると、微笑んだ。
「ふふ、私の事……まだ怖い?」
“後ろ神”は御堂に反応していた。
憑人に“後ろ神”が伝えたい事は────恐怖を乗り越えた先にあるものなのかもしれない。
「……いいや」
首を振って、御堂に笑いかけた。
憑いている妖も、勘の鋭さも、まだまだ御堂には恐怖を感じる部分が多い。
だが、それ以上に魅力を感じていた。
「少しは……罪滅ぼしになったかな? 八橋さんにも変なプレッシャー与えちゃったから……、早く元気になって、仲直り出来ると良いね」
御堂は立ち上がり、背を向けて歩き出した。
残念ながら────縁はもう切れている。
その喪失感を、つい御堂にぶつけてしまいそうになった。
一瞬、立ち止まった御堂が振り返る。
「……稲生くん、まだまだあなたの悩みは大きいみたいだけど。私で良かったら、いつでも相談に乗るからね」
御堂はまだ何か言いたげだったが、憂いを帯びた表情を残したまま再び歩き出した。
そのまま御堂は、階下へと消えて行った。
……まだ、妙な胸騒ぎが残っていた。
まだしばらく外の景色を眺めて落ち着きたかった。
────その時、後ろ神から臆病風を吹きかけられる。
阿狛も吼えた。
「……御堂か?」
だが、その感覚は御堂に憑く妖に対してのものではない。
背後からは────強大な妖の存在を感じた。
「────!!」
屋上の昇降口付近に、黒いシルエットが浮かび上がる。
夕闇を背にした────八咫烏が立っていた。
その眼は、じっとこちらを見ている。
(……どうして、こんな所に死神が?)
八橋は早退して家に帰ったはずだ。
いや、そもそも八橋の死の原因は取り除かれた筈だった。
八咫烏はゆっくりと近づく。
嫌な汗が頬を伝った。
漆黒の手には、黒い手帳が握られていた。
手帳の中身を確認するように俺を見据えている。
「貴様の死相を確認しに来た」
「俺の……?」
思いがけない言葉に、驚愕する。
「気が付かなかったのか? 俺はあの娘と同時に、貴様の死相も監察していたのだ」
「何だって!?」
────戦慄が走る。
「だが、貴様の死相だけが消えた……またもや大きな因縁が働いたようだ。貴様────何をした?」
八咫烏は訝しげに語る。
……おそらく、縁の糸の影響だろう。
だが、聞き捨てならない言葉を口にしていた。
「待てよ、俺の死相“だけ”がって何だ? 八橋の死相は────消えてないのか!?」
八咫烏はますます訝しげな顔をした。
「ほう、まるであの娘の死の回避をはかったような言い草だな? 残念だが、人の運命はそう簡単には変わらない。……貴様が異常なのだ」
初めて感情を顕わにして、睨みつけてきた。
だが、直ぐに冷静さを取り戻した。
「……言葉が過ぎたようだ。もう貴様に用はない。────失礼する」
そう言って、外套をひるがえす。
「待て……ッ! 八橋は……ッ! 八橋はいつ死ぬんだ! 何とか回避する方法はないのか!!」
「答える訳にはいかん……そう言う決まりだと言った筈だ」
八咫烏は手帳を手にしていた。
────鬼籍予定帳と言うやつだ。
「その手帳に……書いてあるんだろう!?」
手帳を奪おうとした。
だが、返す片腕で掴まれる。
八咫烏の腕は、炎のように熱かった。
「……うわッ!」
「命知らずの阿呆だな。死亡時刻や場所を知って赴いたところで……貴様も道連れになるだけだぞ?」
「構うものか……見捨てるよりずっとマシだ!」
右腕が焼けるように熱い。
残った左腕で手帳を掴もうとした。
だが、八咫烏の左腕を掴んだ瞬間────左腕が痺れるように感覚がなくなった。
「────え?」
「……軽い瘴気だ。しばらくはその手は使い物にならんだろう」
そしてそのまま、蹴り飛ばされた。
屋上のフェンスに、激突する。
「アー!!」
だが、その瞬間を狙って────阿狛が八咫烏の腕から手帳を奪った。
「────何ッ!?」
阿狛は勝ち誇ったように手帳を放り投げた。
目の前に手帳が落ちる。
そこには────【八橋美生】の名前と顔と今日の日付……そして【滅】の文字が載っているだけだった。
「今日……!?」
突如、首根っこを掴まえられる。
そしてそのままフェンスの上の高さまで、持ち上げられた。
「……ふざけた真似を。運命を捻じ曲げるなど許される事ではない。かつての死者達に対する冒涜だ。貴様は本来は死すべき運命だった────理を乱す存在を許さない」
八咫烏は、憤っていた。
手帳を広げ、眼の前に突き出す。
すると────【稲生修一郎】の名前と顔と今日の日付……そして【呻】の文字が浮かび上がってくる。
「……ここで転落死として刻まれるか?」
「アーッ!!」
阿狛が八咫烏の腕に喰らいつき、動きを制する。
だが、そのまま阿狛もろとも地面に叩きつけられた。
「ぐわっ!」
「アァッ!!」
八咫烏の瘴気の影響か、身体が痺れて動かなかった。
「日付を確認していたな? どう足掻いたところで、もう手遅れだ。だが……今度邪魔立てすると容赦はせんぞ」
吐き捨てるように、八咫烏は言い残し────去って行った。
身体は動かず……意識がだんだんと遠のいていった。
「お、おい! 修一郎、しっかりしろ!」
目を開けると、そこには────猫柳の顔があった。
「ね、猫柳……?」
「あんまり遅いからよ、様子見に来たら……ぶったまげたぜ? ま、まさか紗都梨ちゃんにやられたのか?」
「み、御堂なわけがないだろ……それより、今何時だ?」
「ん? ちょうど17時半かな?」
「17時のチャイムの音を聞いていない。……30分以上は気絶していたという事か」
阿狛も気絶していたが、鼻ちょうちんとよだれで、居眠りしているように見える。
「お前、一体紗都梨ちゃんにナニされたんだよ!?」
「だから御堂は関係ないって。……そうだ猫柳、八橋に電話をかけてくれないか?」
「お? おう」
……鬼籍予定帳には、今日の日付が記載されていた。
八橋の死亡予定時刻は────今日だ。
身体は未だ痺れが残っていたが、何とか自由が効くようになってきた。
「……ダメだ。ドライブモードらしい」
「ドライブモード?」
「運転中に呼び出し音が鳴らない設定だよ。ってか、あいつ……両親は旅行中じゃなかったっけ? 誰の車に載ってるんだ? しかも運転手じゃねえだろ? 映画館か電車とかか?」
……良くわからないが、八橋は今は電話に出れない状態らしかった。
「猫柳……頼みがある。八橋と連絡が取れたら、俺の家に連絡をくれないか? 時間がないんだ。────頼む」
急いで階段を駆け下りて、校門を出る。
まずは楓姉に相談しなければいけない。
自宅に向かって、走って帰ろうと運動靴の紐を結び直す。
「稲生くん」
その時、声をかけられた。
────御堂だ。
「稲生くん、どうしたの? すごい形相……あれから何かあった?」
「い、いや……ごめん、時間がないんだ。また今度……無事だったらゆっくり話すよ」
そう言って、走ろうとするとまた声をかけられた。
「待って! 何だか……変だよ? 無事だったら……って、まるで危険な場所に行くみたい。稲生くんの悩み……どんどん大きくなってる。話してくれたら協力するよ?」
“後ろ神”が反応した。
ここは立ち止まれと言う事だろうか。
「じ、じゃあ、ちょっと尋ねたい事がある。【滅】と【呻】って文字に……何か時刻に関係があると思うんだけど、心当たりはないか?」
────楓姉に聞こうと思っていた質問だ。
頭の良い御堂なら、何か手がかりを得る事が出来るかもしれない。
「【滅】【呻】? ちょっと待ってて」
御堂は腕組みして、真剣に考える。
「時刻……って事は、【呻】はもしかして【申】……【申の刻】なんじゃないかしら? ちょうど16時を中心とした2時間よ」
「何だって? ……ちょうど俺が屋上に居た時間帯じゃないか。じゃあ【滅】は?」
「うーん……【滅】はわからないわ」
時刻を表している可能性は高い。
二人とも、今日の日付を印していた。
「今日の残りの時刻を表してるとしたら?」
「酉の刻と戌の刻と亥の刻があるね。漢字の形が一番近いのは【戌の刻】ね。20時を中心とした2時間よ」
「……それで正解しれない。あと1時間弱から3時間……か。裏付けしてる暇はないな」
御堂に深くお礼を言う。
「不思議だね……稲生くん、さっきより重い悩みを抱えているのに今のあなたはとても逞しく感じるわ」
「え?」
「私は覚悟を決めて、あなたに近付いた。……恐怖は、人の限界を乗り越える為にあるのかもしれない」
そう言って、御堂は一歩ずつ歩み寄ってくる。
胸が高鳴った。
「恐怖に立ち向かう事を────勇気と呼ぶわ」
そして、そっと俺の身体を包み込むように抱き締めた。
「な、何を……?」
鼓動がどんどん早くなる。
御堂の身体は柔らかく、頭がおかしくなりそうだった。
「でも……引き返す勇気も必要よ」
妖と御堂の二つの瞳が、重く心に突き刺さった。
……これ以上死神に関れば間違いなく死ぬだろう。
まるで、その事をわかってるかのように、深刻な表情で俺を見ている。
御堂は俺の胸に、顔をうずめた後────校舎の方向に去って行った。
呆然と立ち尽くしたあと、胸元に手を置くと────わずかに濡れていた。
自宅に到着する頃には18時を回っていた。
「ただいま……楓姉、大変だ!」
だが、楓姉の姿の返事はなく、姿は見当たらない。
携帯電話に電話したが、繋がらなかった。
すると、留守電が入ってる事に気が付く。
『あーもしもし、猫柳です。修一郎に連絡するように伝えておいて下さい』
……と言って、留守電は切れた。
リダイヤルすると、すぐに繋がった。
『おう、修一郎か? 美生と連絡ついたぜ。何か電波悪いらしんだが、メールで“裏山にいる”って、入ってたんだが……」
「裏山!? 一体どうしてそんな場所に!?」
『さあ、意味不明だぜ。何か電話もブチブチ切れて良くわからんかったんだが、誰かと一緒みたいだったぜ? また連絡入ったら報告するわ』
電話は切れ、茫然とした。
裏山なんかに一体……何の用だ?
もう、あと小一時間もすれば日が完全に沈んでしまう。
捜索するのは不可能だった。
「……修一郎」
電話の前で頭を抱えていると、居間から紅葉が出て来た。
「紅葉、楓姉がどこに行ったか知らないか?」
「楓は……あの人と出かけた」
「あの人って?」
「修一郎と……縁で結ばれていた人」
「────八橋が!? 楓姉と!? いつ!? どこへ!?」
驚いて声が大きくなった。
八橋は家に帰らずに……稲生家に来た?
「おやつの時間……裏山」
大きな声を出されて、紅葉は少ししょんぼりしていた。
「紅葉……お願いがある。八橋と俺の縁を────また繋げる事は出来るか?」
「え……でも悪縁の……色」
「良いんだ、縁を切ったところで……八橋の死は回避出来なかった。それに……縁が切れてると、八橋に出会う事が出来ない」
────八橋の死を招いたのは、俺との縁ではなかった。
他に理由があるはずだ。
「……結んだ」
紅葉は、両手で遊ばせながら、そっと顔を上げる。
「はは、この家に縁の糸が残っていた事はありがたいな。……待てよ? だったら、糸を辿って八橋の元に向かうのは可能か?」
「……できるかも」
こくり、と紅葉は頷いた。
自転車はパンクしたままだった。
……修理している時間はない。
紅葉を背負って、裏山まで走る事にした。
引き続き、阿狛が憑いているおかげで夜道でも妖に遭遇する事はなく安心だった。
紅葉の身体は軽く、ほとんど重さを感じない。
「修一郎の縁の糸の色……どんどん怖い色になっていく」
泣きそうな声で、紅葉はぎゅっと背中にしがみつく。
俺の死が近付いていると言う事は、八橋に近付いている事でもあった。
だがもう、19時まで残り僅かとなっていた。
19時を越えると、いよいよ八橋の死亡予定時刻に突入するかもしれない。
陸上の練習の時よりも早く、裏山へと急いだ。
「……糸は裏山の方に伸びている」
神社の正門前まで辿り着くと、紅葉は山の方向を指差した。
「裏山へは、神社を通り抜けた方が早いな」
石段を登って、裏門への道を駆け抜ける。
裏門の鳥居を出て、石段を降りた。
────例の丁字路だ。
前方には八橋の家へのルートがあり、逆丁字路の形をしている。
茂みには相変わらず、大きな“渦”が見える。
「縁の糸が……絡まりあってる」
「え?」
右手の裏山に向かおうとすると、背中の紅葉が不思議な事を言い出した。
「あっちとこっち」
紅葉が指差した方向は、右折の裏山と、左折の学校と繁華街への道だった。
……直進の八橋邸の方向に糸は伸びてはいないらしい。
「家に帰ってないのか。どっちに向かえば良いんだ?」
「絡まってて……わからない」
紅葉は首を振る。
だが、もう時刻は19時に指しかかろうとしていた。
思い切って、裏山の方向の右折を選んだ。
────すると、首筋に臆病風が吹いた。
「……後ろ神か?」
「びっくり……! この子、誰?」
紅葉は、突然出現した“後ろ神”に驚いていた。
「アー?」
阿狛は頭上で警戒している。
恐怖に震えながらも、賑やかな背中だった。
……とりあえず振り返る事を選択した。
横断歩道の脇の茂みには相変わらず“渦”が不気味に存在している。
────もう19時を過ぎていた。
ここで迷っている暇はない。
「“後ろ神”……可愛い」
何故か紅葉は“後ろ神”の事を気に入ったようだ。
ゆっくりと“渦”の方向へと進む。
うかつに近寄る場所じゃない。
危険な事は重々に承知していた。
だが、左の道を選んでも、また後ろ神が臆病風を吹き付ける。
「……?」
……“後ろ神”は恐怖を与えるが、危険に近付かせる為の妖じゃない。
その事は御堂で証明出来た。
「……分岐点。もしくは、何かを伝えたくて────導いているのか?」
右でも左でもない原点に立ち止まって考える。
ここは怪談で『魔の丁字路』と噂される場所だった。
「……一番危険な場所だ」
恐怖と向き合わなければいけない。
「ここが……立ち止まるべき場所なんだ!」
またもや、臆病風が吹いた。
石段を背にして、意を決して────振り返った。
見上げた石段の頂点には鳥居があった。
鳥居の中央で真っ直ぐにこちらを見つめている存在が居た。
────八咫烏だ。
この高位な妖には、神社の境界は意味をなさないのだろう。
八咫烏は挑発するように神の境界に立っていた。
「修一郎……怖い」
ぎゅ、と紅葉は背中に隠れてうずくまる。
「紅葉、どこかに隠れてるんだ」
後ろ神で隠すように紅葉を降ろす。
そして、ゆっくりと石段を登り詰めていく。
一歩、一歩近付くに連れて、首筋が凍るような感覚がした。
まるで強烈な引き戻しのように感じた。
だが、こいつが出現していると言う事は────八橋の死が近い前兆だった。
石段を登り切り、八咫烏と対峙する。
「むざむざこの場所を訪れるとはな。警告の意味はなかったか」
八咫烏は嘲笑した。
「……八橋は、必ずここに現れる。この場所に居れば死を妨げる事が出来る。お前を見て……そう、確信した」
「言った筈だ。運命はそうたやすく変わるものではない────と。そればかりか、貴様の顔……死相が見えるぞ。死に逝く者への手向けだ、見せてやろう」
そう言って、八咫烏は手帳を見せる。
【稲生修一郎】の名前と顔と今日の日付……そして【滅】の文字が浮かび上がってくる。「【滅】とは草木が枯れる状態……【戌の刻】を表している。丁度……現在の時刻だ」
「御堂の考察は正しかったな……俺は【呻】……【申の刻】に死んでいたかもしれない訳だ」
「ほお? まるでその【申の刻】とは別人のようだな?」
「……来るなら来いよ」
阿狛が身を乗り出し、威嚇する。
今は強力な阿狛の存在が、とても心強かった。
「────勘違いするな。死は俺が直接手を下すものではない……見届けるのみ。貴様に対するあれは────云わば脅しだ。死は自ずと訪れて来るだろう」
「……何だって?」
「────修一郎!!」
その時、石段の下から慣れ親しんだ声が聞こえた。
石段を駆け上がってくる影があった。
────楓姉だ。
「か、楓姉!? 何でこの場所に!?」
「そりゃこっちの台詞だっつーの! ……って、八咫烏? あー、どうも。お久しぶりです」
楓姉はぺこぺこと八咫烏にお辞儀をする。
「……誰だ? 貴様など知らんぞ」
「あー、覚えてないかー……何せ子供の時だもんね。曾婆ちゃんの時とかお世話になったわ」
曾婆ちゃんは天寿を全うしたはずだった。
その頃はまだ俺は産まれてない。
「修一郎、わたしは美生ちゃんの相談を受けて此処まで来たのよ」
「八橋の相談? ……それで裏山に行ったんじゃなかったのか?」
「何で知ってるの? まあ、結果的にね。ここが『魔の丁字路』って怪談で噂されてるのは知ってるでしょ? あんたが美生ちゃんに近付くなって釘を刺すくらいだもんね」
頷くと楓姉は続けた。
*
八橋は学校を早退後、稲生家を訪れた。
楓姉は、八橋に『魔の丁字路』の事を調べたい旨の相談を受けて事故多発の原因を探る事にした。
警察に問い合わせた結果、この丁字路は片側しか信号がなく、直進車と右折車の接触事故が多い事がわかった。
そして丁字路は工事される前は地形が違っていて、事故地点には本来は道祖神があった事もわかる。
……道祖神とは、道の辻に設置される厄除けの依代(よりしろ)の事だ。
去年に八橋が最初に発見した頃には、道祖神は既に工事の際に崩れていた半身だった。
八橋の接触によって割れた道祖神の跡地には、さらなる激しい交通事故が起こった。
あらためて八橋が訪れた際に、何も無くなっていたのは解体業者により、回収されたからだと言う。
*
「それで……道祖神を探していたって言うのか?」
「そうなのよ、でもこれがまた酷い解体業者でねえ……しつこく問い合わせしたんだけど。バラバラになった道祖神は────裏山に不法投棄されていた事がわかったの」
「だから……裏山に?」
「不法投棄のゴミも酷かったわ……月並だけど、人間が一番怖いってことかしら? でもね、その中でも道祖神の存在感は強かったわ」
「そうか……妖が見える楓姉なら」
「うん、大体は見つけて回収出来たと思う。美生ちゃんも、手伝ってくれたのよ」
「────!? ……八橋!! そうだ、今……八橋はどこにいるんだ?」
「? 美生ちゃんなら下で待っててもらってるけど? バイクで一緒に回ったんだよね」……楓姉は未だ────八橋の死は回避出来ていない事を知らない。
説明している時間がなかった。
その時、首筋に強烈な悪寒が走った。
振り返ると、勾配が急な石段の下に────……八橋が立っていた。
「……八橋ッ!!」
「修ちゃん!」
八橋は嬉しそうに叫んだ。
その腕には、大きなガラ袋を重そうに抱えている。
傍には吽狛も一緒だ。
「────!」
ふと八橋の背後を見ると、横断歩道の先の直進道路から右折ダンプ車がこちらに向かって来るのが見えた。
────何故か、あのダンプ車に妙な胸騒ぎを感じた。
────こちらに突っ込んでくるかもしれない。
「八橋!! その場所は危ない!! 逃げろ!!」
「え! え? 違うよ! もうこれで……大丈夫なんだよ!!」
嬉しそうにガラ袋を持ち上げる。
「……違うんだッ!! ……後ろだッ!!」
────ダンプ車は、どんどん近付いて来た。
もう、埒があかない。
石段を降りようと、足を踏み出した。
だが、背後から引っ張られる感覚がして身動きが取れない。
────またもや後ろ神だ。
後ろ神が“危険”に進む事を許さなかった。
「……離せッ!!」
阿狛が後ろ神に、襲い掛かる。
────背後で、阿狛が後ろ神を捕える感覚がした。
そのまま、振り切った勢いで、石段をかけおりた。
だが、その拍子に────足を踏み外した。
そのまま、石段を転がり落ちてしまった。
「────修一郎!!」
……上段から楓姉の叫びが聞こえる。
「────修ちゃん!!」
……下段から八橋の叫び声も聞こえた。
スローモーション映像のように周囲の状況が展開した。
まるで世界が上下に反転したかのようだった。
────右折のダンプ車が迫って来る。
────横断歩道には、もう一台の乗用車が迫って来た。
乗用車は信号を前に、スピードを上げて直進する。
右折のダンプ車は、突然現れた乗用車に驚いたのか、大きなクラクションを鳴らした。
────だが、それでも八橋は後ろを振り向かずに、心配そうな顔でじっとこちらを見ていた。
(俺を見るな……ッ!!)
(後ろを振り返れ……ッ!!)
心の叫びも空しく、ハンドルを切り損ねたダンプ車は八橋を目掛けて迫って来る。
その瞬間────八橋の背後に、後ろ神が出現した。
八橋は振り向く素振りをするが────手遅れだった。
ダンプ車と八橋の距離には、もう、余裕は残されていなかった。
石段に身体を打ち付けられる。
視界の映像は────暗転した。
身体が石段の入口まで滑り落ちる。
激痛が身体を支配した。
同時に、激しいブレーキ音と巨大な衝突音が聞こえた。
うっすら眼を開けると────歩道にダンプ車が乗り上げていた。
「…………あ」
ダンプは例の“黒い渦”のある場所の直前で、緊急停止していた。
フロントガラスにはひびが入っている。
運転手は、エアバックの向こうで意識を失っていた。
……どうやら、命に別状はないようだ。
だが、八橋の姿はどこにもなかった。
茂みの前の柵は捻じ曲がり、茂みとダンプ事故車の間には大きな“渦”が広がっていた。眼を凝らすと────“渦”の中から八橋の……“腕”の部分が見えた。
その“腕”には昨日の火傷の包帯が巻かれている。
ダンプ車のフロントは、大きく変形していた。
大きな衝突音の時のものだろう。
茂みとダンプ車の間には、ただ黒い渦があるばかりで────隙間はない。
「……う、うわあああ……」
……絶望が……そこにあった。
いくら嘆いても……眼の前の景色は変わらなかった。
引き摺るように身体を動かし、“渦”の外に出ている八橋の“腕”に手を伸ばした。
その手に触れるが、それ以上────身動きが取れないでいた。
「修一郎!!」
楓姉の声で、我に返る。
俺と八橋の手を掴んだ楓姉は、“渦”を外から覗き込む。
そして八橋の“腕”を力強く────引き抜いた。
ずるり、と八橋の身体が、ダンプと茂みの間から出て来た。
「…………え?」
────……一瞬、我が眼を疑った。
八橋の身体は、元々あった腕や足の包帯以外は────かすり傷程度しか、負っていなかった。
「……わたし達には“渦”にしか見えないけど」
ぽん、と楓姉が肩を叩いた。
「そこは去年の大事故で、防空壕みたいな大きな穴が開いてるのよ。……助かったわね」
気絶した八橋は、胸元にガラ袋を抱えていた。
「中には……道祖神の欠片が」
「それと────まだ功労者がいるわ」
楓姉は、ダンプ車のフロント部分から一匹の妖を引っ張り上げる。
────吽狛だった。
「吽狛が……ダンプ車に正面から衝突したって言うのか?」
「ええ、あんたの分身がね。吽狛はあんたの精神に比例して力を発揮するわ。ぱっと見、念動力なんだろうけど……とんでもない物理力ね」
自分でも信じられなかった。
吽狛は、八橋を守れと言う命令を遂行していた。
気絶していた吽狛は、やがて大きく息を吐き立ち上がった。
「あんたが死なない限り、吽狛も死なないもんね。……まあ、そろそろわたしの阿狛を解放しなさいよ」
────気が付くと、阿狛は俺の下敷きになってのびていた。
あちこちに打撲を受けたが、阿狛がクッションになっていたお陰で致命傷には至らなかった。
「あと一匹の功労者は……この子の中の……後ろ神かもね」
……今の八橋の身体には、後ろ神が憑いているのだろう。
暗転する直前までの映像記憶を思い出す。
あの防空壕のような穴まで八橋を引っ張り込むように誘導したのは────後ろ神だった。
……大きな安堵のため息を吐いた。
すると、石段から八咫烏が降りて来た。
「八咫烏……八橋の死は回避出来たんだよな?」
確認するように尋ねると、八咫烏は大きく首を振った。
「死亡時刻だ。戌の刻────八橋美生は死んだ」
そう言って、八咫烏は手帳を見せた。
手帳には、未だに八橋の名前は刻まれていた。
「な……? なぜ? 八橋は……無事じゃないか」
八咫烏の言葉は、全く理解できなかった。
「そして稲生修一郎。お前もまもなく────死亡時刻だ」
「な!! あんた何言ってんの!? 適当な事言ってるとぶっとばすわよ!?」
楓姉はいきり立って、八橋の腕を手に取る。
だが、一瞬で楓姉の顔は青ざめた。
「息……してないわ! 心臓の音も……聞こえない」
「────う……嘘だ!」
慌てて八橋の身体に近付く、その腕は力を無くし……まるで眠るように死んでいた。
「八橋……ッ!?」
抱き寄せるが、反応はなかった。
だが────首筋にひと際強い臆病風が吹き込まれる。
振り向くと、そこには大きな“渦”が広がっていた。
導かれるように……“渦”へと歩み寄る。
「ちょ、ちょっと修一郎どうしたの?」
「……ここの“渦”には、まだ────“穴”以外の“何か”がある」
意を決して“渦”の中に顔を突っ込み────覗き込んだ。
すると、逆に複数の眼に覗き返される。
底無しの闇の中の深部に────八橋の姿があった。
「八橋ッ!!」
思わず手を伸ばす。
すると、逆に“渦”黒いもやに腕を掴まれた。
「うわっ!?」
「修一郎!!」
“渦”の中には、複数の亡者が居た。
誘い込むように、複数の黒い腕が手招きしていた。
「八橋の魂が……取り込まれている」
「ええ!? あ……そうだわ。確かに此処は、事故多発地帯……厄を受け止める道祖神が無くなった後は、行き場のなくなった事故死者の霊がうごめく場所になっていたのかもしれないわね」
亡者達の“渦”は広がりをみせて、空間を歪ませていた。
事故を誘発させていたと言うよりも、事故により覚醒したのかもしれない。
「ちょっと八咫烏!! どうにかならないの!? こんな死に方って悪趣味よ……あんまりだわ!」
楓姉は憤慨しながら、八咫烏に詰め寄った。
「……俺は死相を監察し、死を見届け、彼岸へと送り届ける存在に過ぎん。この結果は────俺にとっても望む所ではない」
八咫烏も亡者に対しては、想定外だったようだ。
苦虫を噛み潰したような顔をしている。
「八咫烏……お前は死神だろう? こんな亡者達をどうして放置しているんだ!」
「無念により此岸に執着し続け、もはや人ではなくなった魂はそれまで……監査対象外だ」
「だったら……八橋はまともに彼岸にも行けずに、此処に止まり続けるって事か!? ……そんな事はさせない!!」
「八橋の魂は……あの中か」
道祖神を抱き“渦”に向かって突き進む。
考える時間は残されてはいなかった。
「ちょ、ちょっと……修一郎!! 何をする気!?」
“渦”の中に右眼を凝らし────八橋の魂を探した。
────“渦”から複数の黒い腕が出てきて、捕らえられる。
そしてそのまま────魂を引き抜かれるように“渦”の中に取り込まれて行った。
「修一郎!!」
「……死亡時刻だ。戌の刻────稲生修一郎は死んだ」
それが、最後に聞こえたこの世の言葉だった。
暗い闇の中に閉じ込められた。
周りに光は無く、ただ無限の闇が広がっていた。
亡者達の姿は闇に溶け込むように、人ではない形をしている。
八橋の姿は見えない。
深淵の中では、捜し出すのは困難だ。
だが、瞳を凝らすと、闇の中にうっすらと糸のようなモノが浮かび上がる。
『まさか……“縁の糸”か?』
手探りで糸を辿る。
闇の中では目立たないが、おそらくどす黒い色をしているのだろう。
『……あ』
糸を辿った先の、奥の方に八橋の姿が見えた。
八橋の魂に向かって呼びかけた。
『────八橋!!』
『あ……修ちゃん? あ、あたし……死んじゃったみたいだね』
こんな状況にも関らず、八橋は落ち着いていた。
だが、八橋は虚ろな目をしていた。
感情そのものの起伏がほとんど感じられなかった。
『……ごめんね、言う事聞かなくて。オバケの存在を否定しようと思ったのに、あたしがオバケになっちゃったね』
『ああ……俺が認めてしまったからか……』
八橋は自分が死者になった事に諦めを感じていた。
次第に自分自身も倦怠感に支配されて行くのを感じた。
……恐怖心は失われていく。
此処に来た目的も見失っていく。
────何もかも失われていきそうだった。
『八橋から後ろ神を────恐怖を取り除いた事が……そもそもの間違いだったんだ』
八橋の元へと歩み寄る。
空虚な状態で、身を委ねていた。
『真の恐怖は……恐怖すら感じないことかもしれない。臆病なのは……悪いことじゃない』
『……修ちゃんが怖かったよ。えへへ……今でも怖いかな。何だか不安定な気持ちになって……ドキドキしてた……』
『ああ……もっと、もっと不安定になるんだ────そうすれば』
八橋の身体を引き寄せる。
身体が重なり合って、八橋の背中には────“後ろ神”が出現した。
“後ろ神”は、俺にそうしていたように、八橋に向かって臆病風を吹き付けた。
『ひゃう!? あ……え? な、何? いやああ……修ちゃん、怖い……怖いよお』
八橋は怯えて、震え出した。
『そうだ……ここは怖い場所なんだ。早く帰ろう、八橋』
『で、でも……どうやって?』
『わからない。でも、怖いものからは、全力で逃げるしかないよな』
死んだと言われるなら、受け入れて諦めるしかない。
だが、ここは止まる場所じゃなかった。
だが、二人で歩み出した瞬間────亡者達の群れが動き出した。
此処は深海のようにどこにも出口はなかった。
底無しの暗闇の中をもがく。
もがけばもがくほど、亡者達は追ってくる。
『修ちゃん……! こっちは危険……!』
後ろ神に憑かれた八橋は、危険を察知した。
逃げながらもがき続けると……眼の前に────暗闇の中に無数の亀裂が浮かび上がって来た。
亀裂に触れると、光が洩れてくる。
中を覗き込むと、真っ白なまばゆい光に包まれた。
だが、その隙間は狭かった。
八橋を先に、光の外へと行かせた。
自分もそれに続く……だが、足元に亡者の黒いモノが絡みつく。
『────!?』
足に……腕に……目に……亡者達が絡みつく。
『は……離せ!』
亡者の意識が流れ込むように────光に対しても、恐怖を感じるようになる。
まるでそれは……産まれ出る恐怖だった。
闇に呑み込まれ、意識は深淵へと堕ちていった。
遠のく意識で、最後に感じたのは、“後ろ神”が吹き付ける臆病風だった。
《五日目 終了 全六日》
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