あやかしよりまし

葉来緑

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続章【逢魔】追憶編⑥

魔道を往くもの

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空を見つめていた。
────静寂の中、満天の星空を。
「こうして星空を眺めているとさ」
ふと、隣から声がした。
隣には俯いた少年が座っている。
「……抑え付けられてるみたいな感じがしないかい? まるで重石おもしみたいに」
声の主はイサミだった。
その声は何処となく哀しそうに聞こえる。
「そうか? 吸い込まれそうにならないか? なんつーか、自分の殻が抜けて、すぅっと……みたいな」
「そっか……そうだね、トシゾーはそう感じるんだ」
イサミの沈んだ表情がほんの少しだけ明るくなった。
「ふふ、本当にそうなったら良いのにね。ピーター・パンみたいに空を飛べたら……」
「天狗の次はピーター・パンかよ」
「違うよ、ピーター・パンの次が天狗だったんだ」
イサミは渇いた声で笑った。
「遠くに行ったら……家族とか、心配するだろ」

イサミの表情が一瞬、強張った。
そして────小さく首を振る。
「ううん、心配なんてする訳がないよ。僕は……厄介者だから」
「? どうして……」
言いかけた言葉を、イサミは遮った。
「トシゾー……、君には憎い相手ってのはいるかい? ……例えば、殺したくなるような」
「────は?」
突然の言葉に戸惑った。
憎たらしい相手は居る。
だけど、殺したいなんて余程よほどじゃない限り、思わない。
仮に思ったとしても一瞬だ。
「僕には、いるよ。何度も……何度も殺してやろうかと思った」
急に物騒な言葉を発し、戸惑った。
「そんな相手と……一緒に僕は、住んでいるんだ」
イサミはまっすぐにこちらを見つめて、淡々と語る。
イサミの顔は、激しい憎悪の表情に満ちていた。
「……この気持ち、君にはわかるかい?」
うっすらと涙ぐんでいる。

「……わからねえよ」
そう答えるしかなかった。
イサミは顔を背けて、草むらを見つめた。
「……そうだよね、わかるはずがないんだ。僕の周りでは、もう誰もわかってくれる人はいない……」

「何で、そんなにそいつの事が憎いんだよ?」
イサミは、俯いたまま答えない。
目深に被り直した帽子のせいか、その表情は読めなかった。

「……母さんが死んだ」

「え……?」
「事故だって事になっている……。でも、違うんだ……事故じゃない。母さんは殺されたんだ……あいつに!」
────息をのむ。
殺したいだの、殺されただの、余りにも物騒過ぎて……言葉を失った。
茫然として、しばらく口が聞けなかった。
次第に……興奮気味だったイサミは、落ち着きを取り戻し、帽子で眼を隠した。
「……ごめん。何で僕は……こんな事を……話しているんだろう」
震えた声がとても痛々しかった。

長い沈黙が続いた。
すっと俯いたままだったイサミが顔を上げる。
「こうして星空を眺めているとさ」
やり直すかのようにイサミは、同じ言葉を口にした。
「自分がとてもちっぽけなんだって思う事って……ないかい?」
その声は驚くほどか細く、小さかった。

そんなイサミの問いに、答えを探した。
「……ねえな。むしろ俺は────」
向き直り、再び顔を上げた。

そよ風に揺られて、近くの川のせせらぎが聞こえる。
草むらの感触が心地良かった。
そんな草木や俺たちを────星空は照らしていた。

「ここに居るんだって思う」

「……え?」
「俺達が星を見ている様に、星も俺達を見ているのかなって……」
ぼりぼりと頭を掻く。
自分の思ってることを伝えるのは苦手だ。
ただ……感じたままを話した。

「うまく言えねえけど、そう感じる」
イサミはしばらく俺の顔を見つめた後、小さく笑った。
「……不思議だね。昔、君と同じような言葉をくれた人の事を思い出したよ」
「へえ?」

「その人はね、辛い時や苦しい時は……天を見上げろって言った。天は────見ていてくれてるって、正しい道を進んで願っていれば……天が道を照らしてくれるって」

「それ……何か俺も聞いた事があるような。まあ、お天道てんとう様が見ているってやつだな」
「ふふ、悪い事は出来ないって事だよね」


イサミは立ち上がり、大きく伸びをする。
「ねえ、トシゾー。嫌な事から逃げるって言うのは……悪い事なのかな」
「わかんねえよ。俺だって……」
そこまで言いかけて口を閉じた。
自分自身、逃げ出したい時なんて山ほどある。
本当に嫌な事なら逃げても……悪い事じゃないんじゃないかと思った。

「そっか……ありがとう、何だかすっきりしたよ」
少し元気を取り戻したのか、帽子を上げて、星空を見つめ直していた。



そんな中、遠くから花火の音が聞こえた。
「わあ……ほら、見てよ! 花火だ!」
「……言われなくてもわかるっての」
花火は河川敷の方で上がっていた。

星空の下、鮮やかな色彩の花火が景色を彩る。
二重三重と花が開き、二回三回と色が変わった。
火の粉がパラパラと、まるで星屑のように落ちていった。

「花火は……天まで昇るまでの姿が綺麗だとは思わない?」
イサミは眼を輝かせながら語りかけてくる。
またひとつ、花火が打ち上げられる。
錦色の光が上にシュルシュルと太い尾を引きながら舞い上がった。


「ああ、綺麗だな。でも……下の方は良く見えねえな」
花火の打ち上がる方向は、木の茂みで良く見えなかった。
近くの大きな木に登り、下の方を眺めようとする。
「あ、ずるいよ。僕も登る!」
「……仕方ねえな」
肩を貸して、木に登る手伝いをする。
コツが掴めたのか、前に比べてスムーズにイサミは木の上に登りきった。
「おー、良く見えるな」
二人で並んで花火を眺める。
木の上から観る花火は、打ち上げられる瞬間から炸裂するまで良く見えた。
「あがれ……あがれ」
イサミは、夢中で花火を眺めていた。
「……前に言ったよね。また木登り教えてくれたら良い事教えるって」
花火を眺めながら、イサミはぽつりと呟いた。
「ああ? そう言えばそんな事も言ってたよな」
「また会った時に……教えてあげるよ。次は────いつ会えるかな?」
「んー、今は夏休みだから……いつでも良いけど。もったいぶるなよ、今教えろ」
「明日は都合悪いから……明後日の15時頃! 神社の境内で待ってるよ!」
花火が終わる頃には、イサミは明るさを取り戻していた。
人と約束だなんて、初めての事かもしれない。
ほんの少し嬉しくて……明後日が楽しみだった。





二日明けて、イサミと約束した日になった。
────その日は快晴だった。
暖かい日差しに起こされ、布団を持って階下に下りた。
「おあよ……、布団はそこ置いといて~」
外の空気とは対照的な、どんよりとした声が洗濯物干し場から聞こえた。

見ると楓姉が、洗濯物を干していた。
昨晩は帰りが遅かった。
夜遅くまで友達と遊んで居たんだろう、寝不足気味に見える。
「……だ~る~♪ だ~る~……」
だるそうに鼻歌を歌いながら洗濯物を干している。
「楓姉、眠いんなら寝てろよ。後はやっとくから」
「……あれれ、どったの? ずいぶん珍しい事言ってくれるじゃない?」
眠そうだった楓姉は、目を覚ましテキパキと洗濯物を干し終え、こちらにやって来た。
ニヤニヤとほくそ笑みながらこちらを覗く。
「……な、何だよ。たまには手伝ってるだろ?」
「ふっふ~、それはわたしが言ったら、でしょ? 修一郎から言ってくるなんて珍しいわ。朝食作るから待っててね♪」
何が嬉しいのか、陽気に台所へと入って行った。
母さんと親父が居なくなってから、楓姉が家事は全部やってくれてる。
あらためて良く見ると、廊下も居間も雑巾ぞうきん掛けが済まされていた。


居間に座り、テレビを観ていると朝食が運ばれてくる。
ご飯と納豆と卵と海苔と味噌汁と焼き鮭が次々にテーブルに並べられる。
卵かけご飯に海苔を砕いて、納豆と鮭をおかずに食べる。
ありきたりだけど、朝食では一番好きなメニューだ。

「毎朝いつも眠そうにしてるのに……朝食作るのって、面倒臭くないのか?」
「別に? だって食べるのもそうだけど、作るのも楽しいじゃない? ……最近卵かけご飯に凝っているのよねえ」
楓姉は、ご飯の中に卵から鮭、納豆を全てぶち込み、混ぜる。
更に何か足りないと思ったのか、豆板醤やごま油をかけたり、ネギや薬味をふりかけている。
「焼いたら美味いかな……? 修一郎も焼く?」
「普通に食べる」

しばらくして、楓姉が帰ってきた。
お好み焼き風なご飯が出来上がってる。更にチーズや豚バラ肉も入れたらしい。
「いけるわ……ッ!!」
親指を立てて、ご満悦まんえつの様子だった。しかしもはやそれは、卵かけご飯じゃない。
「……普通に食べろ!」
確かに楓姉は楽しんで作ってるみたいだった。
「んで、修一郎はどんな良い事あったの?」
「?」
「何だか今日の修一郎は、表情が柔らかいのよねー」
頬杖を付きながら、こちらの顔をじっと眺めてきた。
「…………」
「う、うるせえな。何にもねえよ」
食べ終わった食器の上に箸を置き、立ち上がった。
「後で洗うから流しにつけといてねー」


背中の声に従い、食器を流しにつける。
台所のテーブルにはタッパーに入ったおにぎりがあった。
「どうせまた山に行くんでしょ? おにぎり作っといたから持って行きなさいよ」
昼食代わりのおにぎりを持って山に向かう。
夏休みに入ってからの、毎日の日課だった。
茂みを掻き分け、山中を歩く。
目指すのはいつもの様に────天狗の居る場所だ。
登っている間、色々な事が頭を過ぎる。
去年の大晦日、突然母さんが居なくなった。
三日三晩、探し回ったのを覚えている。
捜索打ち切りになった後も、親父や楓姉と一緒に手掛かりを捜し続けた。

そしてその数ヶ月後……親父も居なくなった。
その時、楓姉や爺ちゃんの態度は不自然だった。
“いつか帰ってくる”
と言う事以外、何も教えてくれなかった。
捜しに行こうともしない楓姉に八つ当たりした時期もあった。

どうして楓姉は平然と家に居られるのか不思議だった。
親父が出て行くと知っていたとしたら、
何故止めなかったのか……何故付いて行かなかったのか……と思った。

────だけど楓姉は家に残り、まるで母さんの代わりの様に俺の面倒を見た。
前にも増して明るく、家を居心地が良いものにしてくれようとしてくれてた。
ふと……家を出たいと言っていたイサミの事を思い出す。
楓姉が居なかったら、代わりに憎い奴が住んでいたら
……今頃自分はどうしていたんだろう。
────想像出来なかった。





奇岩が連なる地帯を乗り越え、いつもの天狗の相撲場にやって来た。
大きく息を吐き、呼吸を整える。
楓姉が買ってくれた新しい靴のおかげか、前ほど疲れなくなっていた。

『来たか、修の字』

突然背後から天狗の声がして、驚いた。
相変わらず気配が全く感じられない。
大抵の妖は吽狛うんこまが先に嗅ぎ付けてくれるが、こいつだけは別格だった。
六尺棒ろくしゃくぼうが飛んでくる。
吽狛が喰らいつくように受け止めたそれを、俺は手に取った。
「……今日こそは決着をつける」
『ほお、しばらく見ない間に良い容貌かおをする様になったな? ……うれいのあるまなこだ。これはたのしみじゃ』

天狗は胸の高さに水平に六尺棒を構える。
対して自身は、下段に構える。
吽狛が大きく唸った。
『────かか、桂も使うか。ますます愉しみじゃ』
天狗の言う桂とは吽狛の事だ。
天狗を睨みつけ、黙って頷く。

今までは次があると思っていた……負ける事に慣れてしまっていた。
吽狛を使用しない事を、勝てない言い訳にしていた。
天狗は吽狛の使用を認めている。
勝利条件は一本を取る事……敗北条件は俺が根をあげるまで。
今日こそは親父の居所を突き止める……。
ただ勝つ事のみに専念した。

そして、この試合が終わった後には────あいつとの約束がある。
勝って帰りたかった。
試合に勝って……あいつと会いたかった。

天狗は右横腹をめがけて、左片手で真一文字に払ってきた。
天狗の一撃は強烈で────弾き返す事は出来ない。
襲い掛かるタイミングを見計らい、大きく後方に飛び跳ねた。

即座に間合いを詰められ、更なる一撃が襲い掛かる。
天狗の棒は剣のように、槍のように、薙刀なぎなたのように変化をつけて襲い掛かる。
防ぎきれず、横腹に衝撃が走った。
「げほッ!」
激痛で目が眩む。だが、打ち込みは絶え間なく続いてくる。
後方に避けながら、一撃一撃の衝撃を受け流す。
首の脇を掠り、寸でのところでかわした。
「────吽狛ッ!!」
瞬間────天狗の六尺棒に吽狛が喰らい付いた。
そのまま六尺棒を引き、天狗のバランスを崩させる。

大きく前に踏み込み、自らの六尺棒を天狗の面に向かって突き上げた。
だが、天狗は上体を柔軟に反らし、吽狛から引き戻した得物えものを旋回し、突き上げた一撃を絡め取った。
「うッ……!?」
体が引っ張られる────自身の六尺棒が絡め取られ、形成はあっと言う間に不利になった。
絡め取られた状態のまま、上段からの一撃が襲い掛かる。

「喰らって……たまるかッ!!」

両手を離し、打ち下ろしをかわした。
わずかに肩に当たったが、直撃は免れた。
飛び退く瞬間に、自分の得物を奪い取った。
『ほお────!?』
再び間合いを計った。
互いに構えを戻し、対峙し合う。
『今の一撃をかわすか────……思ったより筋が良いな』
天狗は六尺棒を吽狛に指し示す。
『桂の使い方もまずまず。まだまだ面白い使い方が出来ると思うがな……』
天狗は見た事もないような顔で哂った。
天狗は六尺棒を垂直に持ち上げ、天に向かって掲げた。
「…………?」
今までに見た事がない構えだ。

『天を穿うがち────』

そう言い放った直後、上段から打ち下ろして来た。
────上段だ。
動きを読んで、こちらも上段に構え────天狗の両腕めがけて棒を打ち下ろした。
だが、天狗は構う事なく地面に向かい、棒身を打ち付けた。
余りに変化の激しい天狗の動きに、両腕目掛けた自身の六尺棒は空を切った。

『────地をう』

地面に叩きつけられた天狗の六尺棒が足元に襲い掛かる。
「なッ!?」
────足払いだ。潜り込む様に足元に絡みつく。
あっと言う間に転倒した。
そのまま天狗は容赦なく詰め寄り、面打ちをしてくる。
棒を縦にして防ごうとするが、その衝撃は余りにも大きい。
そのまま水平に弾き飛ばされた。
横転しながら、次の突きが襲い掛かるのが見えた。
────とどめの一撃だ。
両腕を棒ごと地面に叩きつけ、天狗の方向に跳ねる。
自身の棒は弧を描き、天狗の面に向かって振り下ろされる。
天狗はそれを避ける為に────くく、と上体を反らした。
「吽狛ッ!!」
六尺棒の腹に吽狛の体当たりが重なる。
軌道を変えた六尺棒はかわした天狗の面の先に重なり────わずかにかすめた。
『ぬ……?』
「あ……当った?」
微かな感触に気を取られた瞬間────両腕を激しい衝撃が襲った。
「うわッ!?」
腕が痺れ、そのまま六尺棒を落とす。

左側に廻り込まれ、押さえ付けられるような形で激しく地べたに叩きつけられた。
体全体に衝撃が走り、四肢の機能が失われた。
もはや完全に身動きが取れない状態となった。
相手を押さえ付けた状態で、天狗はかかか、と高らかに笑った。

意識が遠のいていく。
薄れる意識の中で、天狗の声が聞こえた気がした。
『……見事』



照りつける太陽の光で目が覚めた。
真上にある日光は、あれから余り時間が経過してない事を物語っていた。
程無くして木々の間を通る涼しい風に吹かれる。
体の節々が痛む。
大の字に寝転びながら、朦朧もうろうとした状態で起き上がる。
『気付いたか』
天狗の声がした。
天狗は近場の岩肌に腰掛けながらこちらに向かって語りかけてくる。

『約束だ。風太郎の居所が知りたいのであったな? ……教えてやろう』
あのかすめただけの一撃を……一本と認めてくれたのだろうか。
『いや、むしろ連れて行った方が良いのかもしれぬな』
天狗はそんな心中に構う事無く、話を続ける。
「親父の居る所に……? つ、連れて行って……くれるのか?」
居場所を聞くだけで充分だと思った。
思わぬ返答に胸が高鳴った。
『ああ、しかし────もう帰って来れぬかも知れんぞ。お前の親父が行った先は────そう言うところだ』
「帰って来れない……? どう言う……事だよ?」
懸命に起き上がる。天狗は遠い眼をしながら淡々と話し続ける。
『────異界だ。お前の親父はこの世の全て捨て去り、其処そこへ旅立った』
「異界…?」
『かか……お前には竜宮城やら鬼ヶ島と言った御伽噺おとぎばなしの方がわかりやすいか?』

────竜宮城と鬼ヶ島じゃえらい違いだ。
わかりやすいが、逆にわかりにくい……。
「……異界? な、何で? どうして親父はそんな処に……!?」
『求めるものが其処にあるからであろう。其処には人の欲望が全て混在する。平和的な理想郷でもあれば、お前の見るあやかしの様な#魑魅魍魎__ちみもうりょう_#が跋扈ばっこする世界でもある。仏の教えでたとえるなら六道界りくどうかい────天界・人間界・修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄界のどれにも属さぬ魔界よ。儂とても魔道まどうくもの……わば外れた存在と言う訳だ』
余計に話がこんがらがってきた。
だが、決して居心地が良いだけの世界じゃない事は伝わってくる。

「親父は……生きてるのか!? そこで!」
『さあ、な。平和に暮らせばそこは悠久の時を過ごせる極楽かも知れん。だが……風太郎の目指したのはそれではなかろうな。ある意味、修羅道に近いかも知れぬ……もはや生死の理も通用せぬ場所なのだ。“無”となる事も有り得る』
「……“無”だって?」
『何も残らぬと言う事だ。魂すらも、な……かか』
────天狗の渇いた哂いに戦慄が走った。
死んだら、それで終わりだと思っていた。
輪廻りんねの話は曾婆ひいばあちゃんから聞いた事がある。
その輪廻の輪から外れると言う事か……?
途方もない話に、言葉を失った。
『────お前にその気があれば連れて行ってやろう。わしと来るか? ……修の字』
天狗はしゃがみ込み、手を差し出した。


差し出された天狗の手を見つめ、様々な思いが交錯する。
この手を掴んだら……親父の元に行ける。
「そこに行けば……親父が……」
天狗の手を掴もうと手を伸ばす。

親父に付いて行きたかった。
親父の居場所を突き止めたら、どんな場所でも行く覚悟はあった。
いつだって面白くない事ばかりで……どこか遠い世界に行けたらと考えていた。


なぜかその時、イサミの顔が頭を過ぎった。
遠い世界に行きたいと言っていたイサミの事を。
あいつなら……どうするだろう。
迷わず、天狗に付いて行くんだろうか。


“明後日の15時頃! 神社の境内で待ってるよ!”


イサミとの約束を思い出した。
「や、約束……約束があるんだ。今は行けない」
『────次は無い。あったとしても十年先か百年先になるかも知れぬ』
「…………」
伸ばした手を止めた。
長い沈黙の中、小刻みに震えて止まらなかった。
『かか、やはり未練があると見える。では、ここでわしが無理矢理お前をさらったらどうするか?』
天狗が手を掴んでくる。
────……そして、楓姉の顔が頭を過ぎった。

「……駄目だ。俺が行ったら……楓姉は一人だ」
天狗の手を振り解いた。
『────人の道を選ぶか。それも良かろう。ならば儂とお前の関係は此処までと言う訳だ』
天狗は手を元に戻し、身をひるがえした。
「……天狗。もう、会えないのか?」
『元々此処ここを去ろうと思っていた矢先やさきよ。ほんの気まぐれでとどまっていたのだ』
天狗の表情は冷たく凍る。
「────たわむれは終わりだ。もはや会うことわりはなかろう。お前は人の道を往くが良い」


一陣の風と共に────天狗の姿は消えた。
それと同時に……辺りの景色も変わる。
天狗の相撲場だった神聖な空気が漂うその空間は────……何の変哲も無い森林に姿を変えた。
……もうここに来ても天狗には会えないのだと思った。
残された自分は……ただ、途方に暮れるしかなかった。
しばらく時が経つと、お腹が空いてきた。
楓姉の持たせてくれたおにぎりを食べる。
いつもの慣れ親しんだ味だ。
「家に帰るんだ……」


来た道を戻り、早足で下山して行く。
天狗に付いて行けなかった自分が、悔しかった。
妖に慣れ過ぎたせいで……今まで、怖いという感情を感じた事はほとんどなかった。
しかし……生まれて初めて怖いと感じた。
自分がこの世界から消えてなくなるという事に……震えを感じた。
無力感と、立っていられない程の不安に支配される。
……無性に誰かと会いたかった。

「────ッ!!」
ズザザ、と岩肌で足を滑らせバランスを崩し、崖状に切り立った場所に落ちそうになる。
吽狛がそれを喰い止めようとするが、力が及ばない。
滑り転げた後、岩の隙間に足首が挟まった。
「痛……ッ!」
何とか落ちずに済んだが、足首に激痛が走る。
吽狛が心配そうに覗いてきた。出血が起こり……かなり痛むが、歩けない程じゃない。

止血をする道具はなかった。
仕方が無いのでそのまま立ち上がる。
慎重に慎重に奇岩地帯を下った。

今日はいつもより下山に時間がかかった。
まだ、半分も降りてないのに日が下りかけて来ていた。
イサミとの約束の時間は15時だ。
「急がないと間に合わないな……」
普段なら、もう下山している頃なのに……。
『……クゥーン』
吽狛も俺に同調してか、どうも弱気だ。
日が沈むと……山のあやかし達は危険だ。
それなのに────痛む足首と妙に湧き上がってくる恐怖感が、歩調を緩めてしまっていた。




《追憶編⑥終了 追憶編⑦に続く》
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