廸子さん。

黒谷

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昼河柚黄のお話。

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 山の入口で下車した僕らを、タクシードライバーは少し不審な目つきで見送った。
 当然だ。
 スーツ姿の会社員と、制服姿の女子高生が山で下りる。
 事件性を感じない方が難しいだろう。
「口止めしといたほうがよかったかなあ」
「え?」
「いや、僕らのこと」
「ああ~」
 財布を覗く。まだ金はある。
 持たせたところでどうなるわけでもないが、方法はあったかもしれない。
「ま、大丈夫でしょ。ほら、ちゃっちゃとのぼっていかないと。日が暮れちゃう」
 そんなふうに、赤野茉理は僕の背を押す。
「あたし、死にたいけど熊に食べられるとか、そういうのはイヤ。痛そうだもん」
 自殺の名所と名高いその場所は山の中腹にある滝つぼだという。
 そこで僕らは睡眠薬をのみ、滝つぼが奏でる幸せな音に意識を預けながら死ぬ。
 ──それが、赤野茉理が考え出した、『自身の結末』だ。
(本当に死ねるんだろうか)
 睡眠薬を服薬しての自殺、というものに僕自身はぴんときていなかった。
 小説やドラマなんかでは常套句だが、実際、目にしたことはない。
 いや、目にしたことがある人間なんて、稀有だろうけど。
「柚黄くん?」
 少し先で、赤野茉理が僕を待っていた。
 立ち止まって考え込む僕を、不安そうな目で見つめている。
「いまいくよ」
 僕らは。
 今日出会って、今日死ぬ。
 そう考えると、おかしな話に思えてきたのは事実だ。
 けれどあの時、赤野茉理の手を振り払えなかった僕というのもまた、事実なのだ。
「結構、な、山道、だね」
「うん」
 山道というよりは獣道を、僕らは進む。
 先導するのは赤野茉理で、その足取りはしっかりとしていた。
 息切れをする僕とは雲泥の差だ。
「きたこと、あるの?」
「うん」
 赤野茉理の背が遠い。
 急がないと、置いていかれてしまいそうだ。
「うっ」
 急激な吐き気に、僕は足を止めた。
 体中がここを登ることを拒絶しているかのようだった。
 胃の中のものが、喉へと駆けあがってくる。
(胃酸で植物を死なせるわけには)
 精一杯、口からは出ていかないように踏ん張る。
 歯を食いしばって、蓋をする。
「……フーッ、フーッ」
 何とか、持ちこたえることができた。
 ずるずると、そのまま木の幹にもたれこむ。
(何やってんだろ、僕)
 あの頃から何一つ変わっていないのかもしれなかった。
 誘われたら断れないこととか。
 何を言われても嫌といえないこととか。
 サイアクは泣くか、倒れるしかないこと、とか。
(……いつこ)
 彼女の名前だって、呼び捨てにすることはついにできなかった。
 空想の中、頭の中では何度も呼び捨てにした。
 けれど。
 本人を目の前にしたら、苗字にさん付けなどという他人行儀な呼び方以外、口にはできていない。
(よく、『いつになったら名前で呼んでくれるんだ?』ときかれたっけ)
 幸せだった。
 彼女は僕よりも男前で、綺麗で、かっこよくて、可愛くて、──素敵なひとだった。
(いつこ、いつこ、いつこ)
 最期の時は。
 せめて口に出して、名を呼びたいものだ。
 そんなことを思いながら、ぐぐ、と足に力を入れる。
「あ、あれ?」
 いない。
 前方を向いた僕の視界に、赤野茉理がいない。
 そんな馬鹿な、とすでに悲鳴をあげている体を必死に前に動かして、彼女を探す。
「赤野さ……ッ」
「シーッ」
 ぐい、と引っ張られて、僕は草わらに連れ込まれた。
 体が大きく傾いて、柔らかい地面に肘を強打。痛い。

「うふ」

 何するんだよ、と言いかけた言葉を飲み込む。
 そこにいたのは、確かに、確かに女子高生ではあったけれど──赤野茉理ではなかった。
 彼女と同じ、ブラックセーラー服に身を包んだ女子高生が僕の腕をつかんでにっこりと笑っていた。
「だ、だれッぐむ!」
 言葉を紡ごうとした僕を、取り押さえるように彼女はその手で口をふさぐ。
 手慣れている。何者なんだ、この子。
「静かに。気付かれちゃいますよ?」
 す、と、女子高生の指さす先。
 滝つぼを目の前にして、ぼうっと立ち尽くす彼女がいた。
 赤野茉理だ。
(何を……?)
 僕を探すでもなく。
 彼女は、ただ、じっと滝つぼを見つめている。
 ほどなくして、女子高生は僕の口から手を放した。
「ところでお兄さんは、なぜここに?」
「え、っと、僕は……」
 死ににきました、とか。
 そういうことをいう勇気もなく、僕は口ごもった。
(どういえばいい? あの子と一緒に死ぬ約束をした、なんて!)
 いやそれよりも、だ。
 僕には尋ねるべきことがある。
「き、キミこそ、なんだ。誰なんだ。ここに、一体、何をしに……」
 どもりながら、口にして、その最中にハッとした。
 ここは、自殺の名所。
 そういったのはまぎれもなく赤野茉理で、そのセーラー服と同じものを身にまとった彼女が目の前にいる。
 ということは。
 この子も、そういうつもりで、ここにきたのでは。
 けれどそんな心配はすぐに杞憂であることがわかった。
 彼女の表情が、ぱっと明るくなったからだ。
「私ですか?」
 待ってましたとばかりだった。
 得意げに、胸をどんと叩く。

「廸子さん、とお呼びください!」

 真っ黒な髪。
 真っ赤な目。
 真っ白な肌。
 孤を描く口元から、わずかに見える鋭い八重歯。
 綺麗に整った顔立ちだった。
 赤野茉理とは色合い的に正反対で、とてもじゃないがイマドキといったふうではなかったが──。
(──寒気がする)
 僕は、ふと。
 頭の端っこで、『この子は化け物だ』と予感していた。
「あ」
 そうして。
 赤野、茉理は。
「落ちた」
 そんな女子高生の軽めのつぶやきと共に、滝つぼへと足を踏み出した。
 僕は慌てて草わらから飛び出して、もう夢中になって走った。
 転びそうになりながら、もつれる足を精一杯動かして、手を伸ばす。

ガシッ

 すんでのところで、僕の手は赤野茉理の手をつかんでいた。
「……あ、あれ……」
 下の方から、赤野茉理の声がする。
「なんで」
「なんでじゃねーよ!」
 僕は声を張り上げていた。
 生まれて初めて出す、大声であり、罵声であり、怒声だった。
「僕と一緒に睡眠薬で穏やかに死ぬって、さっきそう言ったじゃん! 僕は置き去りかよ!」
 つないだ手に、涙が落ちる。
 滑る、と思い僕は空いてる方の手で、なんとか目をぐしぐしとこすった。
 それから、踏ん張る。
 踏ん張って、彼女の体を引き上げる。
「ぐ、うう、ぐぬ、ううううう!」
 腹から声が出た。
 使ったことが一度もなかったであろう筋肉を使って、力を振り絞る。
 女子高生とはいえ、人を一人、崖から救い上げるなどと、そんなヒーローみたいなことは軽々しくできない。
 それが僕だ。
 きっとこういうとき、彼女だったら、いつこだったなら、なんてこともない顔をしてやり遂げるんだろうな。
 そう思った瞬間に、彼女の体は大きく跳ねて、地面へと戻ってきた。

 ──そう、思った。

「せっかく死ねルとこだったのニ」
 低い声がした。
 慌てて赤野茉理を確認する。
「!」
 違う。
 違う。違う。違う。違う!
 こいつ、こい、こいつは、赤野茉理じゃない!
「ひ、あ、ばけ、化け物……!」
 僕が必死に掴んだ手はどろりと溶けて。
 黒い液体になって、地面に染み込んだ。
 赤野茉理の肉体を模していたものが、どろどろと、どろどろと、溶けていく。
 腐敗して、ウジがわき、骨が露出した、そんな姿へと、変わっていく。
「柚黄クン」
 顔が、こちらを向く。
 目玉の抜け落ちた顔が、こちらを向く。
「うわ、あ、ああ、く、来るな、来るな!」
 僕は後ずさった。
 その体を蹴り飛ばして、みっともなく地べたを這いずり逃げる。
「おや、どうして逃げるんです」
 僕の行く手を阻むように、さっきの女子高生が立っていた。
「お兄さんも死にに来たのでしょう?  あれに任せれば確実に死ねますよ?」
「ふっ、ふざけんな! 死にたいわけ、ないだろ!」
 思わず口から飛び出した言葉に、はっとして口を紡ぐ。
 けれど遅かった。
 女子高生が、自分の背後を見て、
「ですって」
 と、誰かに告げる。
 そこから見えたのは。
「……柚黄くん」
 赤野茉理だった。
「……ち、ちがう、ちが……」
 否定の言葉を口にする。
 意味のないことだとわかっていても、口にせざるを得ない。
 その真っ黒な瞳には、もう光がない。
 おまけに、彼女の手にはどこから持ってきたのか、カッターナイフが握られている。

「嘘はもう、たくさんなの」
 
 ざしゅっ。

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