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夕里の『すき』という言葉どおり、本当に、柊に恋愛感情を抱いているのだとしたら……?なんでも都合のいい方に考えてひとり赤面するときもあれば、全て悪い方に受け止めて絶望的な気持ちになったりもする。
自分の感情なのにままならなくて、泣きたくなってくる。こっちはなにもかも初心者なのだ。
とにかく夕里に会わないと。あの別れ方はきっと、あまり良くなかった。
いくらキャパオーバーだったからと言って、失礼な態度だっただろう。彼も罪悪感を抱いているかもしれない。
帰りに泣き顔で電車に乗る勇気はなくタクシーを捕まえたとき、財布の中を確認して驚いたのだ。
(全く減ってなかった……)
直前に店で財布を開いていたから残金は覚えていた。中華料理屋での支払いはそんなに高くなかっただろうが、そもそも奢るつもりで付いて行ったのに。
食事代を渡すか、せめてお礼は伝えたい。それで……いきなり帰ってしまったことを謝らないと。
夕里が柊に対して内心どう思っているのか知りたいような、知りたくないような。あれはただの酔った勢いで、なかったことにしたいと思われている可能性もある。
柊は、なかったことにしたいとは思わない。というか初めての経験が衝撃的すぎて忘れることもできない。でもこのまま夕里がなにも言わずに仕事を辞めてしまえば、簡単になかったことになる。それはとても寂しいことだ。
連絡先も知らない、セラピストとただの客という関係から一歩踏み込んだ先。一夜の過ちで気まずくなったまま別れが訪れるのだけは嫌だと、強く思った。
◇
「ひいちゃん噂されてたよ。部署の若い子たちに」
「えー……聞きたくない」
今日も今日とて休憩エリアで千尋と喋っていた。千尋の部署は年度末が繁忙期のため、ここのところ毎日残業が続いているようだ。それは千尋の部署に限らないことで、定時後でも社内はひと気が多かった。こういう時は時間の感覚が曖昧になる。
柊の部署もここ半年で進めてきたプロジェクトの大詰めで、ひとつのターニングポイントを迎えようとしている。相変わらず忙しいが、来月には一旦業務も落ち着くだろう。
それが見えているからこそ柊はやる気に満ちていたし、部下もそれを感じ取って積極的に仕事を進めてくれていた。柊が言わなくても改善点に気づき、対応策を提案してくれる。ちゃんと部下を育てられる上司になれている自信はあまりないが、彼らに成長が見えて嬉しい。
しかしやっぱり噂の対象にはなってしまうようだ。陰で不満をぶちまけられるのは、上司という立場の宿命かもしれない。
「『よく見たら美形』だって」
「は?」
「『わかる~!』って盛り上がってたよ」
「どこがだ……?」
手を自分の頬に当てる。まさか見た目のことを言われているとは。柊はどこにでもいそうな記憶にも残りにくい顔だと自覚していて、初対面じゃなくても『はじめまして』とよく言われる。
人と違うところといえば、持っている色素が薄く髪や目は薄茶色に近いことだろうか。それも光に当てるとわかる程度だ。
日焼けするような趣味もないためいつも肌は若干青褪めている。慢性疲労が改善されたおかげで、近ごろ血色がよくなってきたとは思う。本当に、それだけ。
「いや~なんか儚げな雰囲気あるよ。元からね。私キツめの顔してるからさ、研修の時ひいちゃんを苛めてるんじゃないかって一瞬疑われたもん」
「あ~そんなこともあったな……」
「あはは、今となっては笑い話だよね。やっぱあれじゃない?怖い人ってイメージからのギャップが大きすぎる!」
「狙ってないんですけど。千尋もキツい顔だからギャップでみんなに好かれてるってことか?――痛っ。嘘だって!」
「こんな冗談言う子だとはみんな思わないよ……なーんか雰囲気が丸くなったよね。もしかして恋でもしてる?」
「っえ!?」
あからさまに動揺してしまって、千尋が面白がる。赤くなった頬をツンツン指先でつつかれて「ひゃあ!や、やめろっ」と逃げ回り、金曜日に二人で飲みに行く約束までさせられてしまった。
彼女の事情聴取から逃げられる気がしない。
自分の感情なのにままならなくて、泣きたくなってくる。こっちはなにもかも初心者なのだ。
とにかく夕里に会わないと。あの別れ方はきっと、あまり良くなかった。
いくらキャパオーバーだったからと言って、失礼な態度だっただろう。彼も罪悪感を抱いているかもしれない。
帰りに泣き顔で電車に乗る勇気はなくタクシーを捕まえたとき、財布の中を確認して驚いたのだ。
(全く減ってなかった……)
直前に店で財布を開いていたから残金は覚えていた。中華料理屋での支払いはそんなに高くなかっただろうが、そもそも奢るつもりで付いて行ったのに。
食事代を渡すか、せめてお礼は伝えたい。それで……いきなり帰ってしまったことを謝らないと。
夕里が柊に対して内心どう思っているのか知りたいような、知りたくないような。あれはただの酔った勢いで、なかったことにしたいと思われている可能性もある。
柊は、なかったことにしたいとは思わない。というか初めての経験が衝撃的すぎて忘れることもできない。でもこのまま夕里がなにも言わずに仕事を辞めてしまえば、簡単になかったことになる。それはとても寂しいことだ。
連絡先も知らない、セラピストとただの客という関係から一歩踏み込んだ先。一夜の過ちで気まずくなったまま別れが訪れるのだけは嫌だと、強く思った。
◇
「ひいちゃん噂されてたよ。部署の若い子たちに」
「えー……聞きたくない」
今日も今日とて休憩エリアで千尋と喋っていた。千尋の部署は年度末が繁忙期のため、ここのところ毎日残業が続いているようだ。それは千尋の部署に限らないことで、定時後でも社内はひと気が多かった。こういう時は時間の感覚が曖昧になる。
柊の部署もここ半年で進めてきたプロジェクトの大詰めで、ひとつのターニングポイントを迎えようとしている。相変わらず忙しいが、来月には一旦業務も落ち着くだろう。
それが見えているからこそ柊はやる気に満ちていたし、部下もそれを感じ取って積極的に仕事を進めてくれていた。柊が言わなくても改善点に気づき、対応策を提案してくれる。ちゃんと部下を育てられる上司になれている自信はあまりないが、彼らに成長が見えて嬉しい。
しかしやっぱり噂の対象にはなってしまうようだ。陰で不満をぶちまけられるのは、上司という立場の宿命かもしれない。
「『よく見たら美形』だって」
「は?」
「『わかる~!』って盛り上がってたよ」
「どこがだ……?」
手を自分の頬に当てる。まさか見た目のことを言われているとは。柊はどこにでもいそうな記憶にも残りにくい顔だと自覚していて、初対面じゃなくても『はじめまして』とよく言われる。
人と違うところといえば、持っている色素が薄く髪や目は薄茶色に近いことだろうか。それも光に当てるとわかる程度だ。
日焼けするような趣味もないためいつも肌は若干青褪めている。慢性疲労が改善されたおかげで、近ごろ血色がよくなってきたとは思う。本当に、それだけ。
「いや~なんか儚げな雰囲気あるよ。元からね。私キツめの顔してるからさ、研修の時ひいちゃんを苛めてるんじゃないかって一瞬疑われたもん」
「あ~そんなこともあったな……」
「あはは、今となっては笑い話だよね。やっぱあれじゃない?怖い人ってイメージからのギャップが大きすぎる!」
「狙ってないんですけど。千尋もキツい顔だからギャップでみんなに好かれてるってことか?――痛っ。嘘だって!」
「こんな冗談言う子だとはみんな思わないよ……なーんか雰囲気が丸くなったよね。もしかして恋でもしてる?」
「っえ!?」
あからさまに動揺してしまって、千尋が面白がる。赤くなった頬をツンツン指先でつつかれて「ひゃあ!や、やめろっ」と逃げ回り、金曜日に二人で飲みに行く約束までさせられてしまった。
彼女の事情聴取から逃げられる気がしない。
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