9 / 33
9.
しおりを挟む
あれから僕は、部長から露骨に嫌がらせを受けるようになった。
嫌がらせ、というかセクシャル・ハラスメントだ。
部長は仲がいい者同士みたいな気安さを装って、事あるごとに身体に触れてくる。これが女性相手だったら違うと思うが、男だと誰も気づかない。
僕が不快に思っているだけで、大したことではないのかも。
けれど、仕事中に社内チャットで「今度ふたりきりで飲もう」と誘ってくるのは社会人として終わっていると感じざるを得ない。
セクハラは声を上げにくいと言うけれど、男はもっとだろう。
ジェンダーに柔軟な考えを持つこの会社であっても……情けないかな。僕は言い出せる気がしなかった。
部長から受けるストレスで、僕はまた精神的に疲弊していた。
バーで優しくしてもらった件で一時的には癒やされていたものの、さいきんは胃薬も欠かせない。食事もゼリー飲料に頼る日々。
はぁ、癒やされたい。
そんなつらい日常はある事件をきっかけに……唐突に終わりを告げた。
○ ○ ○ ○ ○
ある日、会議室でひとりミーティングの準備をしていたときのことだった。
「私は君の心配をしているんだよ。見え透いた嘘で上司の誘いを断るのはどうなのかな」
「……嘘じゃないです。それに、ご心配いただくようなことはありません」
開けておいたドアがガチャ、と閉じる。
部長はスタスタと僕の方に近づいてきて、肩を寄せて声をひそめた。
「涌田くん。私は気づいてしまったんだ。きみ、ソッチなんだろう?」
「は……?――ひッ……嫌!」
“そっち”って――まさかと思っていると、無遠慮に尻を掴まれて思わず声を上げた。部長の指の感触に、怖気が全身を襲う。
いやだ!!!
逃げようとした身体が長テーブルにぶつかって、大きな音がする。その痛みよりも何よりも、恐怖が大きかった。
「身体は寂しがっているんじゃないか?私は妻がいるが、男なら――」
喋っていた部長が突如、目の前から消えた。
「おいっ、なんだ?朝霧か、離せ!」
部長は朝霧にスーツの襟首を掴まれていた。
突然のことになにが起きたのか分からなかったけど、目の前の部長は短い首が締まって、ちょっと苦しそうだ。
「現行犯逮捕、っと」
「おーい、りょーちん。暴力はだめだぞー」
スマホ片手に形だけの注意をしているのは舟橋だ。
「録画してたんで、決定的な証拠っすね。さぁさぁ席に戻って。懲戒処分が下るまではちゃんと働いてくださいね。ぶ・ちょ・う!」
楽しそうな舟橋に、部長は青褪めた。が、次の瞬間わなわなと震えて顔を赤黒く変化させた。
「涌田ぁ!図ったのか!うぐ……」
「あなたの行動が目に余っただけですよ」
朝霧はさらにキリキリと部長を締め上げながら、重そうな男を引きずっていると思えないほど颯爽と会議室を出ていった。
僕は顔が真っ青になっていたらしく、心配した舟橋が医務室まで連れて行ってくれた。
どうやら部長はセクハラが常習的になっていたあまり、舟橋――後ろから見るとほんのちょっとだけ僕に似ている――の尻を触ってしまったらしい。
そこで「間違えた」と失言をして去っていったのだが、その話を聞いた朝霧がまさか?と僕に対する部長の態度を注視してくれたようだった。
『見ればみるほどクロ』だと確信したことで、決定的な証拠をふたりが掴んでくれたというわけだ。
「すみません……助かりました」
「当然のことをしただけですよ。ま、俺は笑って受け流しちゃって全然気づかなかったんで、あいつがすごいっすわ」
保険医が来て舟橋は仕事に戻っていった。
ぶつけた腰が痛かったけど、大きな怪我はない。簡単な診察だけ受けて、僕は会議が始まる時間までありがたく休ませてもらうことにする。
横になって目を閉じても、考えるのはさっきの出来事だ。
――また、助けられちゃったなぁ。
(もう大丈夫。もう我慢しなくていいんだ……)
そう安堵しただけで目頭が熱くなった。我ながら、我慢しすぎたのだと思う。
こんなの、頼もしい部下たちには見せられない……弱々しい姿だ。
自分でも誤魔化しきれない、胸が痛くなるほどの想いが溢れる。
(好きになっちゃったなぁ……)
閉じた目尻からひと筋、涙が伝った。
嫌がらせ、というかセクシャル・ハラスメントだ。
部長は仲がいい者同士みたいな気安さを装って、事あるごとに身体に触れてくる。これが女性相手だったら違うと思うが、男だと誰も気づかない。
僕が不快に思っているだけで、大したことではないのかも。
けれど、仕事中に社内チャットで「今度ふたりきりで飲もう」と誘ってくるのは社会人として終わっていると感じざるを得ない。
セクハラは声を上げにくいと言うけれど、男はもっとだろう。
ジェンダーに柔軟な考えを持つこの会社であっても……情けないかな。僕は言い出せる気がしなかった。
部長から受けるストレスで、僕はまた精神的に疲弊していた。
バーで優しくしてもらった件で一時的には癒やされていたものの、さいきんは胃薬も欠かせない。食事もゼリー飲料に頼る日々。
はぁ、癒やされたい。
そんなつらい日常はある事件をきっかけに……唐突に終わりを告げた。
○ ○ ○ ○ ○
ある日、会議室でひとりミーティングの準備をしていたときのことだった。
「私は君の心配をしているんだよ。見え透いた嘘で上司の誘いを断るのはどうなのかな」
「……嘘じゃないです。それに、ご心配いただくようなことはありません」
開けておいたドアがガチャ、と閉じる。
部長はスタスタと僕の方に近づいてきて、肩を寄せて声をひそめた。
「涌田くん。私は気づいてしまったんだ。きみ、ソッチなんだろう?」
「は……?――ひッ……嫌!」
“そっち”って――まさかと思っていると、無遠慮に尻を掴まれて思わず声を上げた。部長の指の感触に、怖気が全身を襲う。
いやだ!!!
逃げようとした身体が長テーブルにぶつかって、大きな音がする。その痛みよりも何よりも、恐怖が大きかった。
「身体は寂しがっているんじゃないか?私は妻がいるが、男なら――」
喋っていた部長が突如、目の前から消えた。
「おいっ、なんだ?朝霧か、離せ!」
部長は朝霧にスーツの襟首を掴まれていた。
突然のことになにが起きたのか分からなかったけど、目の前の部長は短い首が締まって、ちょっと苦しそうだ。
「現行犯逮捕、っと」
「おーい、りょーちん。暴力はだめだぞー」
スマホ片手に形だけの注意をしているのは舟橋だ。
「録画してたんで、決定的な証拠っすね。さぁさぁ席に戻って。懲戒処分が下るまではちゃんと働いてくださいね。ぶ・ちょ・う!」
楽しそうな舟橋に、部長は青褪めた。が、次の瞬間わなわなと震えて顔を赤黒く変化させた。
「涌田ぁ!図ったのか!うぐ……」
「あなたの行動が目に余っただけですよ」
朝霧はさらにキリキリと部長を締め上げながら、重そうな男を引きずっていると思えないほど颯爽と会議室を出ていった。
僕は顔が真っ青になっていたらしく、心配した舟橋が医務室まで連れて行ってくれた。
どうやら部長はセクハラが常習的になっていたあまり、舟橋――後ろから見るとほんのちょっとだけ僕に似ている――の尻を触ってしまったらしい。
そこで「間違えた」と失言をして去っていったのだが、その話を聞いた朝霧がまさか?と僕に対する部長の態度を注視してくれたようだった。
『見ればみるほどクロ』だと確信したことで、決定的な証拠をふたりが掴んでくれたというわけだ。
「すみません……助かりました」
「当然のことをしただけですよ。ま、俺は笑って受け流しちゃって全然気づかなかったんで、あいつがすごいっすわ」
保険医が来て舟橋は仕事に戻っていった。
ぶつけた腰が痛かったけど、大きな怪我はない。簡単な診察だけ受けて、僕は会議が始まる時間までありがたく休ませてもらうことにする。
横になって目を閉じても、考えるのはさっきの出来事だ。
――また、助けられちゃったなぁ。
(もう大丈夫。もう我慢しなくていいんだ……)
そう安堵しただけで目頭が熱くなった。我ながら、我慢しすぎたのだと思う。
こんなの、頼もしい部下たちには見せられない……弱々しい姿だ。
自分でも誤魔化しきれない、胸が痛くなるほどの想いが溢れる。
(好きになっちゃったなぁ……)
閉じた目尻からひと筋、涙が伝った。
113
お気に入りに追加
260
あなたにおすすめの小説
家事代行サービスにdomの溺愛は必要ありません!
灯璃
BL
家事代行サービスで働く鏑木(かぶらぎ) 慧(けい)はある日、高級マンションの一室に仕事に向かった。だが、住人の男性は入る事すら拒否し、何故かなかなか中に入れてくれない。
何度かの押し問答の後、なんとか慧は中に入れてもらえる事になった。だが、男性からは冷たくオレの部屋には入るなと言われてしまう。
仕方ないと気にせず仕事をし、気が重いまま次の日も訪れると、昨日とは打って変わって男性、秋水(しゅうすい) 龍士郎(りゅうしろう)は慧の料理を褒めた。
思ったより悪い人ではないのかもと慧が思った時、彼がdom、支配する側の人間だという事に気づいてしまう。subである慧は彼と一定の距離を置こうとするがーー。
みたいな、ゆるいdom/subユニバース。ふんわり過ぎてdom/subユニバースにする必要あったのかとか疑問に思ってはいけない。
※完結しました!ありがとうございました!
敏感リーマンは大型ワンコをうちの子にしたい
おもちDX
BL
社畜のサラリーマン柊(ひいらぎ)はある日、ヘッドマッサージの勧誘にあう。怪しいマッサージかと疑いながらもついて行くと、待っていたのは――極上の癒し体験だった。柊は担当であるイケメンセラピスト夕里(ゆり)の技術に惚れ込むが、彼はもう店を辞めるという。柊はなんとか夕里を引き止めたいが、通ううちに自分の痴態を知ってしまった。ただのマッサージなのに敏感体質で喘ぐ柊に、夕里の様子がおかしくなってきて……?
敏感すぎるリーマンが、大型犬属性のセラピストを癒し、癒され、懐かれ、蕩かされるお話。
心に傷を抱えたセラピスト(27)×疲れてボロボロのサラリーマン(30)
現代物。年下攻め。ノンケ受け。
※表紙のイラスト(攻め)はPicrewの「人間(男)メーカー(仮)」で作成しました。
ワンナイトした男がハイスペ弁護士だったので付き合ってみることにした
おもちDX
BL
弁護士なのに未成年とシちゃった……!?と焦りつつ好きになったので突き進む攻めと、嘘をついて付き合ってみたら本気になっちゃってこじれる受けのお話。
初めてワンナイトした相手に即落ちした純情男 × 誰とも深い関係にならない遊び人の大学生
有能社長秘書のマンションでテレワークすることになった平社員の俺
高菜あやめ
BL
【マイペース美形社長秘書×平凡新人営業マン】会社の方針で社員全員リモートワークを義務付けられたが、中途入社二年目の営業・野宮は困っていた。なぜならアパートのインターネットは遅すぎて仕事にならないから。なんとか出社を許可して欲しいと上司に直談判したら、社長の呼び出しをくらってしまい、なりゆきで社長秘書・入江のマンションに居候することに。少し冷たそうでマイペースな入江と、ちょっとビビりな野宮はうまく同居できるだろうか? のんびりほのぼのテレワークしてるリーマンのラブコメディです
相性最高な最悪の男 ~ラブホで会った大嫌いな同僚に執着されて逃げられない~
柊 千鶴
BL
【執着攻め×強気受け】
人付き合いを好まず、常に周囲と一定の距離を置いてきた篠崎には、唯一激しく口論を交わす男がいた。
その仲の悪さから「天敵」と称される同期の男だ。
完璧人間と名高い男とは性格も意見も合わず、顔を合わせればいがみ合う日々を送っていた。
ところがある日。
篠崎が人肌恋しさを慰めるため、出会い系サイトで男を見繕いホテルに向かうと、部屋の中では件の「天敵」月島亮介が待っていた。
「ど、どうしてお前がここにいる⁉」「それはこちらの台詞だ…!」
一夜の過ちとして終わるかと思われた関係は、徐々にふたりの間に変化をもたらし、月島の秘められた執着心が明らかになっていく。
いつも嫌味を言い合っているライバルとマッチングしてしまい、一晩だけの関係で終わるには惜しいほど身体の相性は良く、抜け出せないまま囲われ執着され溺愛されていく話。小説家になろうに投稿した小説の改訂版です。
合わせて漫画もよろしくお願いします。(https://www.alphapolis.co.jp/manga/763604729/304424900)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる