海将・九鬼嘉隆の戦略

谷鋭二

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【伊勢湾制圧編・特別回】北畠一族の末路

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   話しは多少前後するが、大河内城では、織田方と北畠方の過酷な攻城戦が行われていた。
 
   
   九月に入り、織田方にもようやく焦りの色が見えはじめた。南方に陣をかまえる稲葉一鉄・池田恒興・丹羽長秀の三将が、信長の許しをえて、夜襲を計画したのは九月八日のことだった。
 三将は、比較的防備の手薄な西搦手を狙い行動をおこした。しかしこの夜襲は、散々な結果に終わる。おりからの雨で鉄砲が使えないうえに、信じがたいことがおきた。見事二の丸への侵入には成功したものの、兵士の一部がそこを本丸と思い違いし、勝ち鬨をあげてしまったのである。
 

 即座に北畠方の安保大蔵少輔・家城主水等の軍勢が闇の中、馬蹄の音とともに出現し、織田方と激戦になった。乱戦は数刻に及んだ後、状況の不利を悟り三将は撤退。
 この時、池田恒興隊を逃すため、迫りくる北畠隊の前に立ちはだかった者がいた。信長の馬廻り衆をつとめていた朝日孫八郎という者だった。恐らく、この孫八郎なる者は信長の本陣警護の任にあたっていたが、池田隊の苦戦を見かね、かけつけたものとおもわれる。しかし劣勢を挽回することはできなかった。
  馬廻衆の名誉に賭けて、池田隊の最前線に躍り出た孫八郎は、敵方の攻撃を一身に受け、ひとりでも多くの池田隊の兵を逃すことを図り、 ついに力尽き倒れた。ちなみに『信長公記』は曰く、「此者死去ノ後、信長馬廻ノ武士、勇功ノカセキ軽クナレルトイハレタルホトノ勇士也」と……。
 織田軍は天下に弱兵と軽侮されながらも、信長の覇業を支えたものは、実はこのような命知らずの武者の犠牲であったのかもしれない。しかし例えば赤母衣衆出身の前田利家などが、加賀百万石の始祖となったことなどと比べると、その生涯はあまりにも儚い……。


  焦る信長は内応工作にでた。敵の将の寝返りを画策したのである。しかし応じたのは野呂左近将監なる者ただ一人で、その野呂も城中で切り捨てられ、内応作戦は失敗に終わる。
  いらだちを募らせる信長は、次に挑発作戦にでた。足軽の一人を本陣近くの大木に登らせ、具教の子具房に対し「大腹御所(具房)の餅食い」などと罵倒を浴びせかけたのである。
 北畠具教の嫡子具房は、幼い頃から馬に乗るにも苦労するほど柔弱な若者で、しかもひどく肥満していた。
 これに激怒した北畠側では、北畠の重臣秋山右近の家来で、弓の名手の諸木野弥三郎という者が敵味方の見守る中矢を放った。そして五町(約五百メートル)先にいる、木の上の織田方の武者の体を見事に射抜いた。さすがの信長もこれには驚き、諸将もまた驚愕した。信長は諸木野の放った矢を、引出物とともに城中に返したといわれる。


 だが、九月も半ばを過ぎ事態は急変する。あの木下藤吉郎が、北畠氏の本拠ともいうべき多芸御所を襲撃したのである。多芸御所には北畠具教の正室はじめ女達もいた。
「誰ぞ、多芸御所に赴く者はおらんか?」
 具教は珍しく動揺の色を浮かべたが、居並ぶ家臣達の中で、自ら名乗りでる者はいなかった。城は完全に囲まれているのである。僅かな手勢では、多芸御所までたどりつくことさえできないであろう。
「恐れながら、それがしが参りまする」
 末席に近いところから声をあげる者がいた。
「見慣れぬ顔であるな。そちは誰じゃ?」
 具教はまず疑念をもった。
「お忘れですか? 土衛門にござりまする」(志摩騒乱編・船戦 参照)
「おお、そちはあの時の若造か?」
 具教は珍しいものでも見るかのような目をした。
「恐れながら、それがしはあの際、本来なら臆病者として大殿に斬り捨てられているところを、格別の慈悲により生かしていただき、おかげで妻と子をもうけることもできました」
「いや待て、わしは別に手加減などした覚えはないぞ」
 具教は苦笑しながらいった。
「殿、それがし例え及ばずとも、一隊を率い多芸御所に救援に赴く所存。こたびこそは……決して逃げませぬ」
 土衛門もまた、かすかに笑みをうかべながらいった。
「そうかうれしく思うぞ。行け、行くがよい」
「殿、こたびこそ大殿の大恩に報いまする。御免!」
 土衛門は、わずかな百ほどの手勢を率い、多芸御所へ救援に赴こうとするも、ついに織田勢の重囲を突破することはできなかった。最後は逃げることもなく、壮絶な散りぎわをとげたのであった。


 やがて事態は、北畠方にとり一刻の猶予も許されぬほど深刻なものとなる。九鬼嘉隆の織田水軍が、大淀城次いで松ヶ島城をも陥落せしめたという報が、具教や重臣達の耳にもはいったからである。
  籠城すること五十日あまり、城内の食糧はほぼ尽きた。ことここに至って、さしもの北畠具教も覚悟を決めねばならなかった。十月三日大河内城開城。和睦の条件は、信長の三男織田信雄をして、北畠具教の娘婿とし、北畠の家を継がせるというものであった。具教は断腸の思いでこの条件をのんだ。北畠の家に確実に秋が迫っていた。
 


  以下は後日のことになる。
 大河内城開城後の北畠具教は、三瀬谷を隠居所として、憂悶の日々を過ごしていた。
 三瀬谷は大河内城の西南約二十五キロの場所にあり、天険の要害とでもいうべき渓谷の地にある。非常に不便な場所であり、隠居であるのか幽閉であるのかわからぬ有様であった。
 大河内城開城からすでに八年目、天正四年(一五七六)の十一月をむかえていた。この間、具教の動きらしい動きといえば、元亀三年(一五七二)の武田信玄の上洛に呼応して、織田信長に対し反逆を計画したという噂だけである。むろん真相はわからない。しかし信長を刺激したことは確かである。また信長にとり北畠具教などという人物は、邪魔者意外の何者でもなかった。
 すでに前年、信長は長篠で武田勝頼に勝利し、宿願の天下布武への道は、まさに開かれようとしていた。そして北畠家の家督も、正式に信長の三男信雄が継いでいた。ここでついに信長と信雄は、北畠具教抹殺を計画するのであった。
 
 
 その日、北畠具教は近在の寺の近くに設けられた舞台にて、猿楽の宴に招かれた。夜を徹しての宴を楽しみ、酒の飲み、久々に酔った。ところが具教自らが般若の面をかぶり、シテ(主役)として舞台に上がっている最中に異変はおこった。
 織田(北畠)信雄の命を受けた刺客五十名ほどが、鎧・甲冑姿で舞台に乱入したのである。座はたちまち大混乱となった。
 
 
 この時、具教は舞いの最中だったので、剣を携えていなかった。手にしていたのは舞台用の飾りに等しい木刀だった。
「お命頂戴つかまつる」
 刺客は早くも剣を高々とふりあげ、具教を亡き者にしようとした。その時、窮地に追いこまれた北畠具教は、飾りの木刀で刺客の顔面を強打した。信じられないことがおこった。具教の強烈な一撃で、刺客の脳漿が吹き飛び、眼球も飛び散ったのである。手にしていた刀が地に落ち、具教はそれを拾い、面を被ったまま身構えた。
「さあ来い!」
 刺客達に動揺がはしった。具教を取り囲んだまま、しばし躊躇した。


「恐れながら、かようなものを被っていては、ぼやけてろくに敵の姿も見えますまい。面を取られるがよろしかろう」
 刺客の一人が、具教を哀れむかのようにいった。
「かまわぬ。汝等ごとき面をかぶったままで十分。我が生涯最後の舞い、とくと拝観するがよい」
「しからば御免!」
 刺客達が一斉に襲いかかる。しかし相手がかの剣豪・北畠具教である。刺客達はたちまち斬りふせられ、臓器の血生ぐさい臭気があたりに満ちた。


 後の世も また後の世もめぐりあえ 

 染む紫の 雲の上まで……

 
 具教は敵を斬りふせながらも、なお剣を手にし優雅に舞い、その舞う様は実に流麗だった。
「だめだ手に負えん。遠巻きにして火矢を放て!」
 たちまち、炎が具教の五体を包んだ。
「ならば今こそ拝観するがよい。秘伝・一の太刀を……」
 具教が剣を振りかざすと、徐々に炎が退いてゆくではないか。やがて火は消失し、またしても具教は優雅に舞った。

 
 六道の ちまたの末に 待てよ君 

 遅れ先立つ 習いありとも


「いかん退け! 撤退! この人数では足りん。みな退くのだ」
 ついに刺客達は逃げ出した。しばし立ちつくしていた具教だったが、やがて苦しげなうめきとともに、その場にがっくりと崩れ落ちた。
「殿、いつもながら見事な太刀さばき、感服いたしましたぞ……」
 といっていざり寄ったのは、老臣・鳥尾屋石見守だった。しかし具教はいつの間に敵に斬られたのか、半ば臓器が飛び出しており大量に出血していた。石見守は驚愕した、これほどの深手を負いながら、なおあれほどの大立ち回りを演じる具教の剣の腕、そして精神力にである。


「殿! しっかりなされませ!」
 石見守が声をかけるも、具教はすでに蒼白の形相をしていた。
「石見守よ……。どうやら名門北畠家にも最後の時がきたようだ。北畠の歴史とは一体なんであったろうか? この国の歴史に何を残せたであろうか……?」
 石見守はしばし沈黙した後、
「わかりませんぬ。百年先、いや二百年先になってみないと答えはでぬかと」
「石見守よ……。もうじき夜明けであるな。わしはもう目が見えぬ。生きていたい。せめて夜が明けるまで……。わしを女々しいとおもうか」
 石見守はゆっくり首をふった。
 やがて朝日が、東の空をおぼろげながら照らしはじめた。
「天よ……。アマテラスよ……」
 

 具教はさらに何事かをいおうとしたが、すでにその力は残されていなかった。北畠具教は享年四十九歳。ほぼ時を同じくし、具教の次男具藤もまた刺客の刃にかかった。嫡男の具房は生かされたが、この人物は生まれながらにして凡庸で、むろん滅びゆく北畠の家を再び興すことなど、不可能に近かった。具教の死から四年後の天正八年(一五八〇)病のため忽然と逝去。享年三十四歳であった。
 まさに北畠の家は、舞台の上で悲しく舞う演者のように、その歴史に幕をおろしたのであった。


      
  
 
 
 






   
 
  
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