14 / 19
【伊勢湾制圧編・特別回】北畠一族の末路
しおりを挟む
話しは多少前後するが、大河内城では、織田方と北畠方の過酷な攻城戦が行われていた。
九月に入り、織田方にもようやく焦りの色が見えはじめた。南方に陣をかまえる稲葉一鉄・池田恒興・丹羽長秀の三将が、信長の許しをえて、夜襲を計画したのは九月八日のことだった。
三将は、比較的防備の手薄な西搦手を狙い行動をおこした。しかしこの夜襲は、散々な結果に終わる。おりからの雨で鉄砲が使えないうえに、信じがたいことがおきた。見事二の丸への侵入には成功したものの、兵士の一部がそこを本丸と思い違いし、勝ち鬨をあげてしまったのである。
即座に北畠方の安保大蔵少輔・家城主水等の軍勢が闇の中、馬蹄の音とともに出現し、織田方と激戦になった。乱戦は数刻に及んだ後、状況の不利を悟り三将は撤退。
この時、池田恒興隊を逃すため、迫りくる北畠隊の前に立ちはだかった者がいた。信長の馬廻り衆をつとめていた朝日孫八郎という者だった。恐らく、この孫八郎なる者は信長の本陣警護の任にあたっていたが、池田隊の苦戦を見かね、かけつけたものとおもわれる。しかし劣勢を挽回することはできなかった。
馬廻衆の名誉に賭けて、池田隊の最前線に躍り出た孫八郎は、敵方の攻撃を一身に受け、ひとりでも多くの池田隊の兵を逃すことを図り、 ついに力尽き倒れた。ちなみに『信長公記』は曰く、「此者死去ノ後、信長馬廻ノ武士、勇功ノカセキ軽クナレルトイハレタルホトノ勇士也」と……。
織田軍は天下に弱兵と軽侮されながらも、信長の覇業を支えたものは、実はこのような命知らずの武者の犠牲であったのかもしれない。しかし例えば赤母衣衆出身の前田利家などが、加賀百万石の始祖となったことなどと比べると、その生涯はあまりにも儚い……。
焦る信長は内応工作にでた。敵の将の寝返りを画策したのである。しかし応じたのは野呂左近将監なる者ただ一人で、その野呂も城中で切り捨てられ、内応作戦は失敗に終わる。
いらだちを募らせる信長は、次に挑発作戦にでた。足軽の一人を本陣近くの大木に登らせ、具教の子具房に対し「大腹御所(具房)の餅食い」などと罵倒を浴びせかけたのである。
北畠具教の嫡子具房は、幼い頃から馬に乗るにも苦労するほど柔弱な若者で、しかもひどく肥満していた。
これに激怒した北畠側では、北畠の重臣秋山右近の家来で、弓の名手の諸木野弥三郎という者が敵味方の見守る中矢を放った。そして五町(約五百メートル)先にいる、木の上の織田方の武者の体を見事に射抜いた。さすがの信長もこれには驚き、諸将もまた驚愕した。信長は諸木野の放った矢を、引出物とともに城中に返したといわれる。
だが、九月も半ばを過ぎ事態は急変する。あの木下藤吉郎が、北畠氏の本拠ともいうべき多芸御所を襲撃したのである。多芸御所には北畠具教の正室はじめ女達もいた。
「誰ぞ、多芸御所に赴く者はおらんか?」
具教は珍しく動揺の色を浮かべたが、居並ぶ家臣達の中で、自ら名乗りでる者はいなかった。城は完全に囲まれているのである。僅かな手勢では、多芸御所までたどりつくことさえできないであろう。
「恐れながら、それがしが参りまする」
末席に近いところから声をあげる者がいた。
「見慣れぬ顔であるな。そちは誰じゃ?」
具教はまず疑念をもった。
「お忘れですか? 土衛門にござりまする」(志摩騒乱編・船戦 参照)
「おお、そちはあの時の若造か?」
具教は珍しいものでも見るかのような目をした。
「恐れながら、それがしはあの際、本来なら臆病者として大殿に斬り捨てられているところを、格別の慈悲により生かしていただき、おかげで妻と子をもうけることもできました」
「いや待て、わしは別に手加減などした覚えはないぞ」
具教は苦笑しながらいった。
「殿、それがし例え及ばずとも、一隊を率い多芸御所に救援に赴く所存。こたびこそは……決して逃げませぬ」
土衛門もまた、かすかに笑みをうかべながらいった。
「そうかうれしく思うぞ。行け、行くがよい」
「殿、こたびこそ大殿の大恩に報いまする。御免!」
土衛門は、わずかな百ほどの手勢を率い、多芸御所へ救援に赴こうとするも、ついに織田勢の重囲を突破することはできなかった。最後は逃げることもなく、壮絶な散りぎわをとげたのであった。
やがて事態は、北畠方にとり一刻の猶予も許されぬほど深刻なものとなる。九鬼嘉隆の織田水軍が、大淀城次いで松ヶ島城をも陥落せしめたという報が、具教や重臣達の耳にもはいったからである。
籠城すること五十日あまり、城内の食糧はほぼ尽きた。ことここに至って、さしもの北畠具教も覚悟を決めねばならなかった。十月三日大河内城開城。和睦の条件は、信長の三男織田信雄をして、北畠具教の娘婿とし、北畠の家を継がせるというものであった。具教は断腸の思いでこの条件をのんだ。北畠の家に確実に秋が迫っていた。
以下は後日のことになる。
大河内城開城後の北畠具教は、三瀬谷を隠居所として、憂悶の日々を過ごしていた。
三瀬谷は大河内城の西南約二十五キロの場所にあり、天険の要害とでもいうべき渓谷の地にある。非常に不便な場所であり、隠居であるのか幽閉であるのかわからぬ有様であった。
大河内城開城からすでに八年目、天正四年(一五七六)の十一月をむかえていた。この間、具教の動きらしい動きといえば、元亀三年(一五七二)の武田信玄の上洛に呼応して、織田信長に対し反逆を計画したという噂だけである。むろん真相はわからない。しかし信長を刺激したことは確かである。また信長にとり北畠具教などという人物は、邪魔者意外の何者でもなかった。
すでに前年、信長は長篠で武田勝頼に勝利し、宿願の天下布武への道は、まさに開かれようとしていた。そして北畠家の家督も、正式に信長の三男信雄が継いでいた。ここでついに信長と信雄は、北畠具教抹殺を計画するのであった。
その日、北畠具教は近在の寺の近くに設けられた舞台にて、猿楽の宴に招かれた。夜を徹しての宴を楽しみ、酒の飲み、久々に酔った。ところが具教自らが般若の面をかぶり、シテ(主役)として舞台に上がっている最中に異変はおこった。
織田(北畠)信雄の命を受けた刺客五十名ほどが、鎧・甲冑姿で舞台に乱入したのである。座はたちまち大混乱となった。
この時、具教は舞いの最中だったので、剣を携えていなかった。手にしていたのは舞台用の飾りに等しい木刀だった。
「お命頂戴つかまつる」
刺客は早くも剣を高々とふりあげ、具教を亡き者にしようとした。その時、窮地に追いこまれた北畠具教は、飾りの木刀で刺客の顔面を強打した。信じられないことがおこった。具教の強烈な一撃で、刺客の脳漿が吹き飛び、眼球も飛び散ったのである。手にしていた刀が地に落ち、具教はそれを拾い、面を被ったまま身構えた。
「さあ来い!」
刺客達に動揺がはしった。具教を取り囲んだまま、しばし躊躇した。
「恐れながら、かようなものを被っていては、ぼやけてろくに敵の姿も見えますまい。面を取られるがよろしかろう」
刺客の一人が、具教を哀れむかのようにいった。
「かまわぬ。汝等ごとき面をかぶったままで十分。我が生涯最後の舞い、とくと拝観するがよい」
「しからば御免!」
刺客達が一斉に襲いかかる。しかし相手がかの剣豪・北畠具教である。刺客達はたちまち斬りふせられ、臓器の血生ぐさい臭気があたりに満ちた。
後の世も また後の世もめぐりあえ
染む紫の 雲の上まで……
具教は敵を斬りふせながらも、なお剣を手にし優雅に舞い、その舞う様は実に流麗だった。
「だめだ手に負えん。遠巻きにして火矢を放て!」
たちまち、炎が具教の五体を包んだ。
「ならば今こそ拝観するがよい。秘伝・一の太刀を……」
具教が剣を振りかざすと、徐々に炎が退いてゆくではないか。やがて火は消失し、またしても具教は優雅に舞った。
六道の ちまたの末に 待てよ君
遅れ先立つ 習いありとも
「いかん退け! 撤退! この人数では足りん。みな退くのだ」
ついに刺客達は逃げ出した。しばし立ちつくしていた具教だったが、やがて苦しげなうめきとともに、その場にがっくりと崩れ落ちた。
「殿、いつもながら見事な太刀さばき、感服いたしましたぞ……」
といっていざり寄ったのは、老臣・鳥尾屋石見守だった。しかし具教はいつの間に敵に斬られたのか、半ば臓器が飛び出しており大量に出血していた。石見守は驚愕した、これほどの深手を負いながら、なおあれほどの大立ち回りを演じる具教の剣の腕、そして精神力にである。
「殿! しっかりなされませ!」
石見守が声をかけるも、具教はすでに蒼白の形相をしていた。
「石見守よ……。どうやら名門北畠家にも最後の時がきたようだ。北畠の歴史とは一体なんであったろうか? この国の歴史に何を残せたであろうか……?」
石見守はしばし沈黙した後、
「わかりませんぬ。百年先、いや二百年先になってみないと答えはでぬかと」
「石見守よ……。もうじき夜明けであるな。わしはもう目が見えぬ。生きていたい。せめて夜が明けるまで……。わしを女々しいとおもうか」
石見守はゆっくり首をふった。
やがて朝日が、東の空をおぼろげながら照らしはじめた。
「天よ……。アマテラスよ……」
具教はさらに何事かをいおうとしたが、すでにその力は残されていなかった。北畠具教は享年四十九歳。ほぼ時を同じくし、具教の次男具藤もまた刺客の刃にかかった。嫡男の具房は生かされたが、この人物は生まれながらにして凡庸で、むろん滅びゆく北畠の家を再び興すことなど、不可能に近かった。具教の死から四年後の天正八年(一五八〇)病のため忽然と逝去。享年三十四歳であった。
まさに北畠の家は、舞台の上で悲しく舞う演者のように、その歴史に幕をおろしたのであった。
九月に入り、織田方にもようやく焦りの色が見えはじめた。南方に陣をかまえる稲葉一鉄・池田恒興・丹羽長秀の三将が、信長の許しをえて、夜襲を計画したのは九月八日のことだった。
三将は、比較的防備の手薄な西搦手を狙い行動をおこした。しかしこの夜襲は、散々な結果に終わる。おりからの雨で鉄砲が使えないうえに、信じがたいことがおきた。見事二の丸への侵入には成功したものの、兵士の一部がそこを本丸と思い違いし、勝ち鬨をあげてしまったのである。
即座に北畠方の安保大蔵少輔・家城主水等の軍勢が闇の中、馬蹄の音とともに出現し、織田方と激戦になった。乱戦は数刻に及んだ後、状況の不利を悟り三将は撤退。
この時、池田恒興隊を逃すため、迫りくる北畠隊の前に立ちはだかった者がいた。信長の馬廻り衆をつとめていた朝日孫八郎という者だった。恐らく、この孫八郎なる者は信長の本陣警護の任にあたっていたが、池田隊の苦戦を見かね、かけつけたものとおもわれる。しかし劣勢を挽回することはできなかった。
馬廻衆の名誉に賭けて、池田隊の最前線に躍り出た孫八郎は、敵方の攻撃を一身に受け、ひとりでも多くの池田隊の兵を逃すことを図り、 ついに力尽き倒れた。ちなみに『信長公記』は曰く、「此者死去ノ後、信長馬廻ノ武士、勇功ノカセキ軽クナレルトイハレタルホトノ勇士也」と……。
織田軍は天下に弱兵と軽侮されながらも、信長の覇業を支えたものは、実はこのような命知らずの武者の犠牲であったのかもしれない。しかし例えば赤母衣衆出身の前田利家などが、加賀百万石の始祖となったことなどと比べると、その生涯はあまりにも儚い……。
焦る信長は内応工作にでた。敵の将の寝返りを画策したのである。しかし応じたのは野呂左近将監なる者ただ一人で、その野呂も城中で切り捨てられ、内応作戦は失敗に終わる。
いらだちを募らせる信長は、次に挑発作戦にでた。足軽の一人を本陣近くの大木に登らせ、具教の子具房に対し「大腹御所(具房)の餅食い」などと罵倒を浴びせかけたのである。
北畠具教の嫡子具房は、幼い頃から馬に乗るにも苦労するほど柔弱な若者で、しかもひどく肥満していた。
これに激怒した北畠側では、北畠の重臣秋山右近の家来で、弓の名手の諸木野弥三郎という者が敵味方の見守る中矢を放った。そして五町(約五百メートル)先にいる、木の上の織田方の武者の体を見事に射抜いた。さすがの信長もこれには驚き、諸将もまた驚愕した。信長は諸木野の放った矢を、引出物とともに城中に返したといわれる。
だが、九月も半ばを過ぎ事態は急変する。あの木下藤吉郎が、北畠氏の本拠ともいうべき多芸御所を襲撃したのである。多芸御所には北畠具教の正室はじめ女達もいた。
「誰ぞ、多芸御所に赴く者はおらんか?」
具教は珍しく動揺の色を浮かべたが、居並ぶ家臣達の中で、自ら名乗りでる者はいなかった。城は完全に囲まれているのである。僅かな手勢では、多芸御所までたどりつくことさえできないであろう。
「恐れながら、それがしが参りまする」
末席に近いところから声をあげる者がいた。
「見慣れぬ顔であるな。そちは誰じゃ?」
具教はまず疑念をもった。
「お忘れですか? 土衛門にござりまする」(志摩騒乱編・船戦 参照)
「おお、そちはあの時の若造か?」
具教は珍しいものでも見るかのような目をした。
「恐れながら、それがしはあの際、本来なら臆病者として大殿に斬り捨てられているところを、格別の慈悲により生かしていただき、おかげで妻と子をもうけることもできました」
「いや待て、わしは別に手加減などした覚えはないぞ」
具教は苦笑しながらいった。
「殿、それがし例え及ばずとも、一隊を率い多芸御所に救援に赴く所存。こたびこそは……決して逃げませぬ」
土衛門もまた、かすかに笑みをうかべながらいった。
「そうかうれしく思うぞ。行け、行くがよい」
「殿、こたびこそ大殿の大恩に報いまする。御免!」
土衛門は、わずかな百ほどの手勢を率い、多芸御所へ救援に赴こうとするも、ついに織田勢の重囲を突破することはできなかった。最後は逃げることもなく、壮絶な散りぎわをとげたのであった。
やがて事態は、北畠方にとり一刻の猶予も許されぬほど深刻なものとなる。九鬼嘉隆の織田水軍が、大淀城次いで松ヶ島城をも陥落せしめたという報が、具教や重臣達の耳にもはいったからである。
籠城すること五十日あまり、城内の食糧はほぼ尽きた。ことここに至って、さしもの北畠具教も覚悟を決めねばならなかった。十月三日大河内城開城。和睦の条件は、信長の三男織田信雄をして、北畠具教の娘婿とし、北畠の家を継がせるというものであった。具教は断腸の思いでこの条件をのんだ。北畠の家に確実に秋が迫っていた。
以下は後日のことになる。
大河内城開城後の北畠具教は、三瀬谷を隠居所として、憂悶の日々を過ごしていた。
三瀬谷は大河内城の西南約二十五キロの場所にあり、天険の要害とでもいうべき渓谷の地にある。非常に不便な場所であり、隠居であるのか幽閉であるのかわからぬ有様であった。
大河内城開城からすでに八年目、天正四年(一五七六)の十一月をむかえていた。この間、具教の動きらしい動きといえば、元亀三年(一五七二)の武田信玄の上洛に呼応して、織田信長に対し反逆を計画したという噂だけである。むろん真相はわからない。しかし信長を刺激したことは確かである。また信長にとり北畠具教などという人物は、邪魔者意外の何者でもなかった。
すでに前年、信長は長篠で武田勝頼に勝利し、宿願の天下布武への道は、まさに開かれようとしていた。そして北畠家の家督も、正式に信長の三男信雄が継いでいた。ここでついに信長と信雄は、北畠具教抹殺を計画するのであった。
その日、北畠具教は近在の寺の近くに設けられた舞台にて、猿楽の宴に招かれた。夜を徹しての宴を楽しみ、酒の飲み、久々に酔った。ところが具教自らが般若の面をかぶり、シテ(主役)として舞台に上がっている最中に異変はおこった。
織田(北畠)信雄の命を受けた刺客五十名ほどが、鎧・甲冑姿で舞台に乱入したのである。座はたちまち大混乱となった。
この時、具教は舞いの最中だったので、剣を携えていなかった。手にしていたのは舞台用の飾りに等しい木刀だった。
「お命頂戴つかまつる」
刺客は早くも剣を高々とふりあげ、具教を亡き者にしようとした。その時、窮地に追いこまれた北畠具教は、飾りの木刀で刺客の顔面を強打した。信じられないことがおこった。具教の強烈な一撃で、刺客の脳漿が吹き飛び、眼球も飛び散ったのである。手にしていた刀が地に落ち、具教はそれを拾い、面を被ったまま身構えた。
「さあ来い!」
刺客達に動揺がはしった。具教を取り囲んだまま、しばし躊躇した。
「恐れながら、かようなものを被っていては、ぼやけてろくに敵の姿も見えますまい。面を取られるがよろしかろう」
刺客の一人が、具教を哀れむかのようにいった。
「かまわぬ。汝等ごとき面をかぶったままで十分。我が生涯最後の舞い、とくと拝観するがよい」
「しからば御免!」
刺客達が一斉に襲いかかる。しかし相手がかの剣豪・北畠具教である。刺客達はたちまち斬りふせられ、臓器の血生ぐさい臭気があたりに満ちた。
後の世も また後の世もめぐりあえ
染む紫の 雲の上まで……
具教は敵を斬りふせながらも、なお剣を手にし優雅に舞い、その舞う様は実に流麗だった。
「だめだ手に負えん。遠巻きにして火矢を放て!」
たちまち、炎が具教の五体を包んだ。
「ならば今こそ拝観するがよい。秘伝・一の太刀を……」
具教が剣を振りかざすと、徐々に炎が退いてゆくではないか。やがて火は消失し、またしても具教は優雅に舞った。
六道の ちまたの末に 待てよ君
遅れ先立つ 習いありとも
「いかん退け! 撤退! この人数では足りん。みな退くのだ」
ついに刺客達は逃げ出した。しばし立ちつくしていた具教だったが、やがて苦しげなうめきとともに、その場にがっくりと崩れ落ちた。
「殿、いつもながら見事な太刀さばき、感服いたしましたぞ……」
といっていざり寄ったのは、老臣・鳥尾屋石見守だった。しかし具教はいつの間に敵に斬られたのか、半ば臓器が飛び出しており大量に出血していた。石見守は驚愕した、これほどの深手を負いながら、なおあれほどの大立ち回りを演じる具教の剣の腕、そして精神力にである。
「殿! しっかりなされませ!」
石見守が声をかけるも、具教はすでに蒼白の形相をしていた。
「石見守よ……。どうやら名門北畠家にも最後の時がきたようだ。北畠の歴史とは一体なんであったろうか? この国の歴史に何を残せたであろうか……?」
石見守はしばし沈黙した後、
「わかりませんぬ。百年先、いや二百年先になってみないと答えはでぬかと」
「石見守よ……。もうじき夜明けであるな。わしはもう目が見えぬ。生きていたい。せめて夜が明けるまで……。わしを女々しいとおもうか」
石見守はゆっくり首をふった。
やがて朝日が、東の空をおぼろげながら照らしはじめた。
「天よ……。アマテラスよ……」
具教はさらに何事かをいおうとしたが、すでにその力は残されていなかった。北畠具教は享年四十九歳。ほぼ時を同じくし、具教の次男具藤もまた刺客の刃にかかった。嫡男の具房は生かされたが、この人物は生まれながらにして凡庸で、むろん滅びゆく北畠の家を再び興すことなど、不可能に近かった。具教の死から四年後の天正八年(一五八〇)病のため忽然と逝去。享年三十四歳であった。
まさに北畠の家は、舞台の上で悲しく舞う演者のように、その歴史に幕をおろしたのであった。
0
お気に入りに追加
25
あなたにおすすめの小説
戦国九州三国志
谷鋭二
歴史・時代
戦国時代九州は、三つの勢力が覇権をかけて激しい争いを繰り返しました。南端の地薩摩(鹿児島)から興った鎌倉以来の名門島津氏、肥前(現在の長崎、佐賀)を基盤にした新興の龍造寺氏、そして島津同様鎌倉以来の名門で豊後(大分県)を中心とする大友家です。この物語ではこの三者の争いを主に大友家を中心に描いていきたいと思います。
陸のくじら侍 -元禄の竜-
陸 理明
歴史・時代
元禄時代、江戸に「くじら侍」と呼ばれた男がいた。かつて武士であるにも関わらず鯨漁に没頭し、そして誰も知らない理由で江戸に流れてきた赤銅色の大男――権藤伊佐馬という。海の巨獣との命を削る凄絶な戦いの果てに会得した正確無比な投げ銛術と、苛烈なまでの剛剣の使い手でもある伊佐馬は、南町奉行所の戦闘狂の美貌の同心・青碕伯之進とともに江戸の悪を討ちつつ、日がな一日ずっと釣りをして生きていくだけの暮らしを続けていた……
鬼嫁物語
楠乃小玉
歴史・時代
織田信長家臣筆頭である佐久間信盛の弟、佐久間左京亮(さきょうのすけ)。
自由奔放な兄に加え、きっつい嫁に振り回され、
フラフラになりながらも必死に生き延びようとする彼にはたして
未来はあるのか?
毛利隆元 ~総領の甚六~
秋山風介
歴史・時代
えー、名将・毛利元就の目下の悩みは、イマイチしまりのない長男・隆元クンでございました──。
父や弟へのコンプレックスにまみれた男が、いかにして自分の才覚を知り、毛利家の命運をかけた『厳島の戦い』を主導するに至ったのかを描く意欲作。
史実を捨てたり拾ったりしながら、なるべくポップに書いておりますので、歴史苦手だなーって方も読んでいただけると嬉しいです。
独裁者・武田信玄
いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます!
平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。
『事実は小説よりも奇なり』
この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに……
歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。
過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い
【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形
【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人
【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある
【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)
豊家軽業夜話
黒坂 わかな
歴史・時代
猿楽小屋や市で賑わう京の寺院にて、軽業師の竹早は日の本一の技を見せる。そこに、参詣に訪れていた豊臣秀吉の側室・松の丸殿が通りがかり、竹早は伏見城へ行くことに。やがて竹早は秀頼と出会い…。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる