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【志摩騒乱編】謀略・裏切り・調略・下克上・騙し討ち
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(一)
浄隆が死んだ後、麻鳥はいずこかへ姿を消してしまった。
浄隆の死を幸いとし、志摩の他の十二の地頭達は、しばしば九鬼一族をおびやかすも、一族を背負うことになった嘉隆はよくこれに耐えた。幾度となく他の地頭達を撃退し、自らの土地には一歩たりとも近づけなかったのである。
いつしか浄隆の死から六年の歳月が過ぎ、嘉隆は二十四歳の逞しい若者に変貌していた。すでに妻をめとっており二人の子供もいた。長男の藤四郎成隆は八歳。次男の彦三郎徳隆は四歳である。浄隆の子澄隆もまた十四に成長していた。
そして側室もいた。近隣の農家で行き倒れていた篤と名乗る出自不明の女が気に入り、側近くにおいていた。
時に永禄八年(一五六五)である。浄隆の死という窮地を乗り越え、順風満帆に思えた九鬼一族の前途に、この年またしても暗雲がたちこめる。今まで個別に九鬼一族の領国を侵していた志摩の十二地頭が、ついに連合して波切に攻めよせてきたのである。その数およそ千二百、九鬼一族の動員できる兵力は、いかほど多く見積もっても二百程度である。
青い海と入り組んだリアス式海岸線、点在する島々、その背後に広がる太平洋。大王崎の港の風景は人を魅了してやまない。その風景の中に溶けこむように二つの人影があった。
嘉隆は久方ぶりに夢で篠と会っていた。その膝枕の上で、嵐の前の至福の一時を楽しんでいた。
「篠よ、もうじき夢でなくとも、そなたと会える日が来るぞ」
嘉隆は沈痛な表情で語りだした。
「志摩の国の他の地頭達が手を結んで攻めてきたので、討ち死にを覚悟なのですね」
「さすが全てお見通しだな。今回ばかりは俺もお手上げだな。武士らしい最期なら本望といったところだ」
「いえ、まだあきらめるの早いのでは」
「どういうことだ?」
篠はしばし沈黙した後、
「戦の勝敗は、必ずしも兵の数によって決まるとは限りません。緻密な作戦を立て、天の時と地の利を知る者が、最後の勝ちを制するのです」
篠は一息にいったが、嘉隆は乗る気でない。
「何かよい策でもあったら教えてほしいものだな」
と、半ば投げやりにいった。
「ご存知ですか厳島の合戦を?」
「昨今中国地方全域を支配している毛利氏が、数倍の陶晴賢に勝利した戦であろう。噂でなら聞いたことがある」
なにしろこの永禄八年という時点では、後の織田信長も武田信玄も、せいぜい一カ国か二カ国を所領としているにすぎない。それに対し毛利氏はすでに山陰・山陽のほぼ全域を領有し、ゆくゆく天下の覇権を握るは毛利と、当時の人々が思ってもおおげさではなかった。むろんその存在の巨大さは、志摩のような天下の片隅のようなところでも噂されるほどだった。
「いかようにして勝利したかご存知で?」
「詳しく知らん」
相変わらず嘉隆は投げ槍である。
「毛利元就様の知略と作戦は、それは素晴らしいものだったとのことです」
こうして篠は、厳島の合戦を語りだしたのだった……。
(二)
天文二十年(一五五一)八月、いわゆる大寧寺の変により、一時は足利将軍家をも凌ぐ実力を持つとまでいわれた、名門大内家は事実上瓦解した。大内氏の第三十一代当主大内義隆は自害して果て、実権は謀反人陶隆房の手に落ちた。
陶隆房は表向きは大内家の再興をとなえ、九州の名門大友家より、国主大友義鎮(宗麟)の弟晴英を新たな当主として迎え、自らはこれを補佐する立場を内外に示した。
これ以後、隆房は晴賢と改名し、晴英もまた義長と名を改めた。
中国地方では、長年周防・長門(いずれも山口県)から北九州一体に広大な勢力圏を持つ大内氏と、主に山陰に勢力を持つ尼子氏が覇権をかけて争ってきた。
その狭間で長年屈従を強いられてきたのが、この時ようやく安芸(広島県)を支配下に治めんとしていた毛利元就であった。
毛利元就という人物石橋を叩いても渡らない、ある種臆病ともいえるほど慎重な男である。しかし齢五十九にして、人生最大の二つに一つの決断を迫られる。一つ目の道は謀反人陶晴賢に従い、その配下に甘んじる道。今一つの道は、陶を倒し自ら戦国大名として自立する道であった。
しばし事態を静観していた元就であったが、旗幟を鮮明にしなければならぬ事態が勃発する。
石見国津和野三本松城の城主吉見正頼が、謀反人陶晴賢討伐を掲げて決起したのである。吉見正頼は亡き大内義隆の妹婿である。ほどなく元就のもとには晴賢、正頼双方から加勢を求める書状が届いた。
毛利家では実権は元就が掌握しているとはいえ、事実上の当主は元就の嫡男隆元であった。その隆元は、いわば強硬派であり陶との決戦を声高に叫んだ。一方の元就は穏健派であった。兵力からしてみれば、どう逆立ちしても毛利では陶に到底及ばない。陶に頭下げるより他道なしというのが、元就の結論であった。
「恐れながら父上! 父上は甘うござる。父上は陶という男を知らないのでござる」
毛利家の居城郡山城、軍議の席上、多くの諸将が見守る中で隆元は思わず声を荒げた。
「ならば聞こう。いかようにしたら陶の軍事力に抗うすべがあると、隆元は申すか?」
そういわれると隆元にもなんら策があるわけでもなく、しばし沈黙せざるをえなかった。
「確かに勝てぬかもしれませぬ。なれど父上は晴賢という男を知らなすぎる。それがしは昔、この毛利の家の人質として山口で数年過ごし、晴賢という男を存じておりまする。到底融通のきく相手ではござりませぬぞ」
隆元の訴えにも元就は沈黙したままである。この様子を見て、次に口を開いたのは次男で吉川家に養子にだされた吉川元春であった。
「それがしも兄上に賛成でござる。陶晴賢という男は決して妥協は許しませんぞ。我等が無理難題を一つ飲めば、必ず次の無理難題を突きつけてくるは必定でござる」
と、戦国きっての武勇の者として後に天下に聞こえることになる元春は、声を大にして主張した。
「ならば、次の無理難題を突きつけられた時に考えればよろしいかと。今、吉見殿と我等が兵を合わせたところで、陶殿には到底及びませぬ。意気込みだけで勝てるほど戦は甘くはござらぬぞ」
と横槍をいれたのは、小早川家に養子に入った元就の三男隆景だった。戦国きっての智将として、後に豊臣秀吉もその器量を認め、ついには豊臣政権下で五大老の一人にまでなる人物である。
「よいですか兄上達、今、陶殿は焦っておいでになられる。聞けば瀬戸内の水軍の特権を廃止し、厳島神社始め寺社勢力の特権も廃止し、商いをする者達の特権も廃止したとのこと。全てを己一手に握る腹でござる。しかしこのようなやり方では、いずれ何人もついてこなくなるは必定。おまけに大友家より迎えた、新たな大内の当主様との間も、うまくいっていないとのこと。
時を待つのです。さすれば必ずや我等にも付け入る時が訪れましょう。その時まで膝を屈するより他ござらん」
今度は隆元も元春も沈黙した。結局議論は平行線のまま決着をみなかった。
だが、やはりこの時陶晴賢という人物を最も見抜いていたのは、元就ではなく隆元だった。のらりくらりと出兵をしぶる毛利に、晴賢は業を煮やし強攻策にでた。すなわち苗代返しといい、毛利領の稲の苗が育っている田畑を、次から次へと兵馬で踏みにじったのである。
元就は覚悟した。戦して血路を開かねば、いつか毛利は滅ぼされる。ここから五十九歳の毛利元就は、鬼とも人ともつかむほど迅速に動く。
天文二十三(一五五四)五月十一日、元就は隆元の連署により、晴賢との絶縁の告げる書状を神仏に捧げると、翌十二日に郡山城を出立。三千の軍勢をもって、まず佐東銀山城を落とす。次いで己斐城を落とし、草津・桜尾の両城をも陥落せしめ、ついには仁保城をも落とした。
たった一日で、広島湾をのぞむ諸城はことごとく毛利のものとなる。さらに元就は渡海し、厳島神社をのぞむ瀬戸内の要衝・厳島を押さえた。まさに神業である。これほど素早い軍事行動の背後には元就のみならず、隆元、元春、隆景の三人の息子の尽力があったと思われる。
元就死した後、早世した隆元はともかく元春と隆景の二人は、やがて織田信長の天下布武の前にも立ちはだかる。九鬼嘉隆にとっても生涯最大の敵となるのである。
(三)
そしてもう一人、後に嘉隆にとり生涯最大の敵となる男がいた。村上武吉である。村上武吉は海賊である。それも瀬戸内で最大の海賊の頭といっていい。
もともと村上氏は、河内源氏の庶流信濃村上氏が起源といわれる。戦国のこの時代もともと一つだった村上氏は、能島村上家、来島村上家、因島村上家の三つの流れにわかれていた。
中でも最大勢力といっていいのが能島村上水軍であり、その頭領が村上武吉だった。この時村上武吉は二十一歳である。
村上武吉は背丈はそれほどでもない。しかし赤銅色に日焼けした逞しい体躯は、いかにも海の男のそれである。そして知恵の発達を物がたるかのように、前額部が大きく盛り上がり、眼光はまるで鮫のように鋭い。
その能島村上水軍の拠点は瀬戸内海の芸予諸島にあった。周囲約一キロの無人島能島である。
能島は島全体がほぼ要塞化され、本丸・二の丸・三の丸・出丸などの曲輪が残る。島の中心の山頂を削平して本丸となる曲輪を設け、その下の段に第ニの曲輪がとりつき、さらに海上にむかって三方に延びる岬上の南端に出丸、北端に三の丸、東端に矢櫃(やびつ)の曲輪を配している。さらに、西下段の削平地には、船着場兼倉庫などの施設があったと考えられる。
そして防御の要は、なんといっても周辺の海域そのものである。なにしろこの周辺一体は潮流が早く、いわば周辺の海域自体が、巨大な天然の水堀なのである。
「御屋形様、久方ぶりに伊予の河野氏の配下の者と見られる船を拿捕いたしましたぞ。いかが致しまする?」
天文二十三年も暮れにさしかかったある日のことである。犬猿の仲といっていい伊予の河野氏の船を捕らえたというのである。
「女はいるか?」
「二十人ほどおりまする。しかも上玉ばかりでござる」
「よしここに連れて来い。今日は乱交を許す。皆で好きなだけ女子(おなご)達をあさるがよいぞ。わしはそれを肴にして酒をあおることとしよう」
こうして阿鼻叫喚の中、武吉は大杯で酒を浴びるほど飲んだ。ところが恥辱に耐えかねた女達の一人が、どういうわけか床に転がっていた小刀を奪うと、
「覚悟!」
と、武吉めがけて投げつけた。だが武吉は難なくかわし、逆に脇差で女の腹をえぐった。
「女だからとて容赦はせんぞ!」
武吉は酒のせいで気持ちが高ぶっていた。
やがて夜がおとずれて宴も一段落する頃、配下の者が密かに武吉にたずねた。
「恐れながら、陶と毛利の間が緊張の度合いを増しているとか。御屋形はいずれに味方する所存か?」
「うむ実はのう二人に会ってきたのだ。陶晴賢と毛利元就いずれにつくか、わしは今、様子見といったところだ」
と、武吉は酒臭い息をはきながら晴賢と元就双方を語りだした。
(四)
元就と陶晴賢は、一旦それぞれの本拠である郡山城と山口へと戻っていった。
武吉が元就を訪ねた時、元就は床に地図を広げて思案にふけっている最中だった。
『これが元就か?』
武吉は想像とは異なる元就という人物像に、かすかに驚きの色をうかべた。元就は髪に白いものがちらつく初老の男で、戦国武将にしては優しげな男だった。
「村上武吉殿とはそのほうか? 陶晴賢を滅ぼすため水軍の力がほしい」
と、元就は本題からきりだした。
「条件次第では力になってやってもいい。我等海に生きる者は、陸に生きる者よりはるかに将来を見る。戦は兵の数のみをもって決まるにあらず。その者将来にいかなる展望を抱くかによって、思いもかけぬ事態もおこりうるものだ。
元就殿が陶に勝利したとして、その後上洛して天下を取るため、いかなる計画をたてているかうかがいたい」
と武吉は床に広げられた地図に、かすかに目をやりながら一息にいった。
「まずわしは、天下を取る気も上洛する気もない」
「なんと?」
武吉はまったく想定外の返答に、しばし言葉を失った。
「聞けば都は荒廃し、帝の住む御所でさえ雨もりするほどとか、わしはじき六十になる。物見遊山ならともかく政(まつりごと)のために、かようなところに出向いていくのは気が進まぬのじゃ。いや……わしはかような都に、この日の本の将来があるとは到底思えぬ」
「ならば、元就殿はいずこに日の本の将来があるとお考えか?」
武吉の問いに対し元就は扇子で瀬戸内の海を指した。
「わしがつらつら考えるに、我が国は四面海に囲まれながら、あまりにも海をないがしろにしてきたような気がしてならんのじゃ。聞けば昨今は唐・天竺よりはるか遠方からも、人が訪れているとか。かような時代に何故に陸地にこだわるのか? 陸で狭い土地を巡って争うかぎり、この日の本の国土は荒廃していくのみのような気がしてならぬ」
「具体的にはいかようにするつもりじゃ?」
「そうよのう。都を目指さず、九州に進出して博多でも押さえるのが面白いかもしれぬ。聞けば今、北九州を支配している大友義鎮と申す輩、家臣に凶暴な猿をけしかけ、動揺する様を見てあざ笑うようなうつけと聞く。その者を滅ぼして大陸との接点にあたる博多を押さえ、ゆくゆくは明国や朝鮮国との商いで儲けたいとわしは思うておるのじゃ。
都などと……。天下を背負うは天下を敵に回すことじゃ。わしはこの齢になり、そこまで修羅の道を歩みたくはないのでのう」
武吉は今一度、毛利元就という男を見た。一見すると好々爺とでもいうべきであろうか。なるほど頭もよさげだし、世渡りもうまいほうであろう。恐らく戦の世ではなく平和な世なら、あれいは殺し合いや切り合いとは、まったく無縁の人生を歩んでいたかもしれない。
しかしこのような男が、果たして陶晴賢と戦って勝てるのであろうか? 一方で武吉は戦の世だからこそ、眼前にいる優しげな男が天下を取った世を見てみたいとも思った。むろん元就自身は、天下を取ることさえ望んでいない様子ではあるが。
(五)
武吉は、陶晴賢とも会った。晴賢はこの年三十五歳。かっては西国一の美貌とまでうたわれた晴賢も、今はでっぷりと太っていた。しかし眼光は光を失っていない。頭は入道して丸め眼前に立つと人を圧するものがあった。
「駄別銭のこと、考えなおしてやってもよいぞ」
と、晴賢は話をきりだした。駄別銭とは、村上水軍が瀬戸内の海を通行する船を、安全に渡れるよう警護すると同時に、その見返りとして通行料を徴収するというものだった。海賊もまた略奪行為のみでは生計が成り立たず、駄別銭は貴重な収入源だった。それを晴賢は一方的に禁止してきたのである。これは村上水軍にとり死活問題であった。
「まことか? 口約束だけなら受けつけんぞ」
武吉は、やや声を荒げながらいった。
「なんなら起請文を書いてやってもいいぞ。天下人の言葉に二言はない!」
「天下人じゃと? そのほう早、己が天下を取ったつもりか?」
「いずれそうなる。村上武吉とやら、小さきことにはこだわらぬほうがよいぞ。我等と事を共にすれば、末は必ず栄耀栄華を見られるというもの」
「天下取るため先々いかなる計略をめぐらすつもりだ? まずそれを聞こう」
武吉は晴賢の自信過剰ぶりに、半ば呆れながらたずねた。
「計略? かようなものはない。ただこの刀にかけて、さしあたっての戦には一戦たりとも負けぬだけじゃ」
と晴賢は脇差しを抜きはなっていった。武吉はいよいよ驚いた。
「意気込みだけか? まこと意気込みだけで天下を取るつもりか? なれど眼下の毛利や尼子と戦う前に、そなたの敵は内にあるのではないか?」
「どういうことかな?」
「聞けば大友より迎えた義長様とは、馬があっていないとか。そなたこの先どうするつもりだ? 義長様とて、いつまでも汝の思い通りになってはいまい。大友家のこともある。もしやそなたまた主を殺すつもりか? それで天下諸侯がついてくるとでも?」
次第、次第に晴賢の表情が険しくなった。
「まず、何故そなたは大内の殿様を討った? 大内の殿より政のすべてを任されておったのであろう。殺さずともよかった。隠居か出家願えばそれでよかったのではないか? 義隆様を出家させ、その後に義尊様を後釜にすえ、そしてそなたが後見するのが最良の道だったのではあるまいか」
大内義隆には、七つになる大内義尊という側室に産ませた子があったが、大寧寺の変の後、晴賢はその命を奪っていた。
「まるで飾り雛のような大内の殿を滅ぼし、大友から新たに、飾りにすぎない主君を迎えたところで、せんなきことと思うがいかに? もしやその方、大友義鎮に大内の家を売ったか? 聞けば大友義鎮と申す者、阿呆とみせかけて中々にしたたかと聞く。大内の家を自ら潰し、新たな後ろ盾として大友の名を欲したか? 己の足元さえおぼつかないそなたでは、天下など夢の夢ではないのか」
若いだけに武吉は、晴賢相手でも遠慮しなかった。
「やかましい!」
ついに晴賢は怒号をあげた。
「部外者のそなたに何がわかる。わしはのう、亡き御屋形様を本気で愛しておったのだ。だがあの方は、あまりに京風文化にのめりこみすぎた。武将であることさえ忘れてしまった。あの有様ではいずれ大内は滅ぼされる。いやそれ以前に、わしが討たずとも、誰ぞがあの方の命奪っていたであろう。人の手にかけるくらいなら、わしのこの手で死を賜わったまでじゃ。この無念いかばかりか汝にはわかるまい」
そういって、晴賢は顔をおおって男泣きをはじめた。武吉は困惑した。
『この男は駄目だ。感情につき動かされるだけで、将来に対する展望などなにもない。しかし、男として男が惚れる男でもある。この男と事を共にしたい気もする。しかし駄別銭のこともある。一体どうしたらいい?』
結局、武吉は晴賢に味方する決心を固めた。そのため、まだ幼子にすぎない我が子を、人質として晴賢にあずけたのである。
(六)
両軍はにらみ合ったまま、戦の勝敗は翌天文二十四年(一五五五)にもちこされた。この間も両者の水面下の駆け引きは続いていた。特に毛利方の調略は凄まじかった。
まず毛利が陶と決戦に及ぶに際し、後顧の憂いといっていいのが、山陰の尼子氏の存在だった。その主力部隊ともいうべき存在が、尼子新宮党といわれる一派である。尼子新宮党を率いる尼子国久という人物は、元就が間者を使ってまいた謀反の噂により、尼子の当主晴久自身の手により成敗されてしまった。これにより尼子は羽をもがれた鳥同然となり、動くに動けぬ体と化してしまった。
さらに元就の調略の魔の手は、陶晴賢の懐深くにまで及んでいた。
天文二十四年三月十六日、陶晴賢の片腕とまでいわれる猛将江良房栄は、酒宴のため晴賢に山口の城に呼ばれた。一同に酒がふるまわれ、房栄もまた酒を口にした時異変はおこった。突如苦しげなうめきとともに、房栄は血を吐いて倒れたのである。気がつくと目の前に晴賢が立っていた。
「何故、わしに毒など? 気でも違われたか!」
「そなた何故わしを裏切った。この書状に覚えがあろう。まぎれもなくそなたの筆跡であろう」
書状は房栄が元就にあてたものだった。房栄が晴賢を亡き者とした後、恩賞が少なすぎると元就に不満をのべる内容だった。
「己、かような偽手紙で長年の忠臣であるわしを疑うとは! 尼子国久も同じ手でやられた。晴賢よ汝は小者じゃ、到底天下を取れる器ではないわ!」
房栄は、最後まで晴賢をあざ笑いながら無念の死を遂げた。
もとよりこれも元就の調略であり、戦わずして勝つという元就の信念は、少しずつ成果をあげ始めていたのである。
(七)
うむ戦とは兵の数にあらず、頭を使ってやるものだな。そして時の流れを知る者が勝つ。
相変わらず、嘉隆はしのの膝の上でつぶやいた。
「左様でございます。そして毛利、陶両軍が最も重視したのが、瀬戸内海に浮かぶ厳島だったのです」
安芸・厳島は長さ十キロ、幅三.五キロ、周囲三十キロ。かって平清盛も信仰したといわれる厳島神社の大鳥居をシンボルとする、瀬戸内に浮かぶ巨大な浮島である。
清盛の時代から日宋交易で栄えた厳島は、この時代でも中国大陸と九州、そして上方とを結ぶ天然の良港であった。当時の記録を見ると、鎖国が行われる江戸時代初期まで羅紗(ラシャ)、虎皮(こひ)、繻珍(シチン)等が売買され、当時の厳島を描いた屏風絵には、南蛮人らしきものまで描かれていた。加えて、現在ユネスコ世界遺産にまで登録されている厳島神社は、瀬戸内人の精神的支柱でもある。
厳島の重要性は晴賢、元就なり両人とも熟知しており、両軍の決戦の場が厳島となったのは、いわば必然であった(陰徳太平記では、家臣の桂元澄を偽って晴賢に寝返らせる、元就のすぐれた知略が強調されているが、真偽のほどは定かでない)
まず元就が先に厳島の北西に宮尾城を築いた。標高三十メートルの小高い丘の上に築かれた宮尾城は、当時は現在と違い、城北部の山麓まで海が迫っていたといわれる。三方海に面し、水軍の運用も可能で、元就がここに目をつけたのも当然であった。
先に厳島を占拠された晴賢は、九月二十一日に厳島へ上陸。城へ通じる水源をことごとく断ち、断水作戦にでた。
九月二十六日、元就は小早川水軍率いる三男の隆景に出兵を要請する。元就の本体と隆景の小早川水軍合わせて四千ほど。対する陶軍はざっと二万である。
だがこの合戦の勝敗の鍵をにぎるのは、一にも二にも村上水軍だった。元就は、まだ旗幟をはっきりさせない村上水軍にも、援軍を要請する使者を度々送った。そして二十八日、ついに元就が待ちに待った村上水軍の船三百隻が姿を現したのだった。
しかし実は村上武吉は陶と通じていた。元就が厳島へ渡海したおりには、味方とみせかけて背後から元就を襲う手筈となっていた。ただ武吉はこの時になってもまだ、いずこに味方するか迷っていた。
「御屋形様、まこと陶に味方いたす所存でござるか」
側近が疑念をていすると武吉は、
「いやまだだ、まだ決めかねておる。わしは今潮の流れを読んでおるところじゃ。時流に乗る者は潮の流れにも乗る。潮を流れを見極めて、いずこが勝利するか読むつもりじゃ」
と武吉は、なにやら謎めいてことをいった。
そして九月二十九日を迎えた。宮尾城はすでに一日と持ちこたえられない状況だった。厳島の対岸地御前に陣を構えた元就は、未明渡海の覚悟を決めた。だが元就が決戦を覚悟したその夜、不幸にして嵐が行く手をさえぎったのである。
(八)
「父上、隆元は断固反対にござる!」
元就の嫡男隆元は、血相をかえて元就の考えに反対した。元就が、嵐の海を渡海しての厳島奇襲を提案したのである。
「恐れながら父上、それがしも兄上に同意でござる。確かに宮尾城の運命は今日か明日。なれどこの嵐では、宮尾城より先に我等が海の藻屑と化してしまいまするぞ」
と元春も反対した。だが元就の決意は変わらない。色々威腹巻(いろいろおどしはらまき)を着用し、刀身四十九センチほどの打刀拵(うちがたなこしらえ)を手にした元就は、地御前から対岸の厳島の方画を遠望しながら語りだした。
「お前達は南宋の張世傑の故事を知っているか?」
南宋の張世傑とは、十三世紀にモンゴルに攻められて存亡の危機にたたされた、中国南宋王朝の忠臣である。最後は海上でモンゴルに追いつめられ『天が宋を滅ぼそうとするなら、この船を覆せ』と叫び、ついに嵐により海中に没したといわれる。
「わしが古今の歴史を思うに時流を読めぬ者、天が味方せぬ者が乗った船は、必ず沈むさだめにあるのだ。そして今、わしは眼前の潮の流れを読んでおる。天がわしに味方するなら、我等の船は決して沈むことはない。よもや陶とて、この嵐の最中、我等が現れるとはおもってもいないだろう。
そして村上水軍、あやつらは信用できぬ。いつ我等を裏切るか予想できぬ奴等よ。恐らくあの村上武吉とかいう者も、潮の流れを読んでいるであろう。潮を流れが我等に味方するか否かをな。あやつらがいらぬ野心を抱かぬうちに、我等迅速に行動し、陶を討たねばならぬのだ」
元就は静かな闘志を胸中に秘めながらいった。
結局毛利全軍は、この夜嵐の海を厳島に向かって渡海した。陶に動きを気取られぬため、先頭をゆく元就の船のみかがり火を燃やし、その後に全軍の船が従った。
「なに元就が渡海しただと? この嵐の中連中は正気か?」
武吉は、嵐の瀬戸内の海を眼下に見据え、そして四半刻(約三十分)もの間、沈黙したまま潮の流れを読んだ。
「よし、我等は毛利に味方するぞ」
「なれどこの嵐では、果たして毛利軍は無事厳島まどたどりつくことできますかな」
側近の一人が不安を口にした。
「なに案ずることはない。潮は明らかに元就に味方しておる。今宵こそ元就が天運をつかむ時じゃ」
「さりながら、御屋形は陶にわが子を人質として預けたのでは」
「なにも心配することはない。あれはわしの子ではない。偽者じゃ」
そういって武吉はからからと笑った。
(九)
結局、毛利勢は見事嵐の海を厳島へと全軍渡り切った。そして、その名も博打尾といわれる本来なら人が踏み込まない、原生林の生い茂る急峻な山道を越えるのである。そしてついに陶軍の陣地の背後へ回りこむことに成功したのは、ちょうど日付が変わる時分のことであった。元就ははやる心を抑えつつ夜明けを待つ。
一方、第二軍の隆景率いる小早川水軍は、天を真っ二つにするかのような激しい嵐のため、目指す厳島神社の西側に上陸することが不可能となっていた。
ここで、後に智将として世に知られることとなる隆景が機知を見せる。旗指物をすべて隠し、なんと敵の見張りのいる場所に、堂々と乗り込んだのである。むろん敵もまた激しい風と雨のため、いずこの何者か察しがつかなかった。
「我等は筑前から加勢に来た者でござる。陶殿にお目通りしたい」
と隆景はいい、ついに敵の正面を堂々と突破してしまう。厳島神社の大鳥居に全軍が伏せ、やはり夜明けを待つのである。
(十)
未明、博打尾の尾根がわれるかのような鬨の声が一斉にあがった。その叫びとも、雄叫びともとれる声は、まだ夢うつつにあった陶軍を動揺させるのに十分だった。
陶晴賢は、さすが歴戦の勇将だけあって、毛利軍の奇襲と知っても動揺をすぐ静めた。素早く寝床から起き上がり、即座に鎧・甲冑に身を包むと、
「怯むな、敵は小勢じゃ! 蹴散らせ!」
と、大音声で全軍に指令を発した。とにかく陶晴賢は胆力が半端ではない。そして率いる兵卒も晴賢と心を一つにし、毛利の奇襲というこの一大事にも簡単には崩れなかった。
やがて第二軍として小早川勢が加わるも、自ら死兵と化し乱戦の中白刃を奮う晴賢のもと、陶軍は崩れない。やがて晴賢が待ちに待っていたことがおこった。嵐が去った厳島に、赤い羽織に身をつつみ、その背には丸に『上』の字。村上水軍が姿を現したのである。
だがここに、晴賢が予想だにしていない事態が待ち構えていた。村上水軍の兵卒の放った矢は、ことごとく毛利ではなく、陶の軍勢めがけて放たれたのである。
「己、血迷ったか村上武吉!」
晴賢は歯ぎしりしたが、真実を知った時は、もはや後の祭りであった。
村上水軍は、この頃ようやく日本にも普及し始めた火縄銃の他に、焙烙といわれる恐ろしい兵器をも所有していた。
焙烙とは、料理器具である焙烙ないしはそれに似た陶器に火薬を入れ、導火線に火を点けて敵方に投げ込む手榴弾のような兵器である。射程は三十丁(約三キロ)にまで達したといわれる。爆発の威力自体はさほどでもないが、その鈍い衝撃音により、敵兵に与える心的ダメージはかなりのものであった。
この村上水軍の毛利勢への加勢により、さすがの陶軍も崩れだした。しかし晴賢は、ついに敵兵が本陣へなだれこむ事態に至っても、心折れることなく、阿修羅ような形相で敵をきりまくった。だが一本の流れ矢が、晴賢の右の肩を貫いた。
「御屋形様、お逃げくだされ! ここは危険にござります!」
側近の言葉も、晴賢には聞こえていなかった。
『前へ……前へ進むのだ……。前へ……そして都へ」
やがて、さらに数本の矢が、晴賢の今度は左の肩を貫いた。
「御屋形様を離脱させよ」
兵士達が盾になって、晴賢を戦場から離脱させた。
(十一)
夜が明けきった厳島の対岸を、晴賢は傷の痛みをこらえつつ、毛利勢の勝ち鬨の声がかすかに響く中、対岸へ渡る船を探していた。だが沖合いはすでに村上水軍により抑えられており、船は全て焼きはらわれていた。さしも陶晴賢も、ここにおいて自らの命運尽きたことを悟った。
「力は山を抜き、気は夜を覆う……。なれど時利あらずか……。天へ帰る時がきた。この瀬戸内の海は、かって平家が海中に没し、巨大な権勢を誇った大内の家も、わし亡き後もはや立つことかなうまい。悲しいのう……。毛利もまたいずれ必ず命運尽きる時がこよう。元就よう覚えておくがよい」
静かだった。まるで先刻までの激しい嵐と戦が夢であったかのように、瀬戸内の海は穏やかだった。その穏やかな海をあおぎ見ながら、陶晴賢は三十五年の生涯を閉じた。辞世の句は、
何を惜しみ 何を恨みん 元よりも この有様の 定まれる身に
定めに殉じた生涯であった。ほどなくその変わり果てた姿を、村上武吉が間のあたりにする。生きるがごとく見開いた眼光を静かに閉じると、冷たくなったむくろを担ぎあげ、
「わしは男として、おまえに惚れた。おまえと戦うは本意ではなかった。なれどこれも乱世の宿命ならば致仕方なし。俺にできることは、お前の屍を丁重に葬ることだけだ」
武吉は表情を険しくしていった。
「陶を裏切り我等に味方した者達がおったな。その者ども捕らえて釜茹でにするがいい」
背後を振り返ることなく武吉は厳命した。ほどなく釜茹では武吉が見ている前で実行に移され、多くの者が目をそむける中、武吉は平然と酒をあおり続けたのであった。
(十二)
「うぬ、ようわかったぞ。圧倒的大軍を前にしても、合戦に勝てる気がしていたぞ。礼をいう」
嘉隆はかすかに自信をもった。
「最後に一つだけ申しておきます。今、側近くに仕えている篤とかいう者、あの者は敵のまわし者にござります。お気を付けくだされ」
そういって、しのの幻は消えた。夢から覚めた嘉隆はただちに、九鬼家の存亡をかけた戦いに乗り出すのである。
浄隆が死んだ後、麻鳥はいずこかへ姿を消してしまった。
浄隆の死を幸いとし、志摩の他の十二の地頭達は、しばしば九鬼一族をおびやかすも、一族を背負うことになった嘉隆はよくこれに耐えた。幾度となく他の地頭達を撃退し、自らの土地には一歩たりとも近づけなかったのである。
いつしか浄隆の死から六年の歳月が過ぎ、嘉隆は二十四歳の逞しい若者に変貌していた。すでに妻をめとっており二人の子供もいた。長男の藤四郎成隆は八歳。次男の彦三郎徳隆は四歳である。浄隆の子澄隆もまた十四に成長していた。
そして側室もいた。近隣の農家で行き倒れていた篤と名乗る出自不明の女が気に入り、側近くにおいていた。
時に永禄八年(一五六五)である。浄隆の死という窮地を乗り越え、順風満帆に思えた九鬼一族の前途に、この年またしても暗雲がたちこめる。今まで個別に九鬼一族の領国を侵していた志摩の十二地頭が、ついに連合して波切に攻めよせてきたのである。その数およそ千二百、九鬼一族の動員できる兵力は、いかほど多く見積もっても二百程度である。
青い海と入り組んだリアス式海岸線、点在する島々、その背後に広がる太平洋。大王崎の港の風景は人を魅了してやまない。その風景の中に溶けこむように二つの人影があった。
嘉隆は久方ぶりに夢で篠と会っていた。その膝枕の上で、嵐の前の至福の一時を楽しんでいた。
「篠よ、もうじき夢でなくとも、そなたと会える日が来るぞ」
嘉隆は沈痛な表情で語りだした。
「志摩の国の他の地頭達が手を結んで攻めてきたので、討ち死にを覚悟なのですね」
「さすが全てお見通しだな。今回ばかりは俺もお手上げだな。武士らしい最期なら本望といったところだ」
「いえ、まだあきらめるの早いのでは」
「どういうことだ?」
篠はしばし沈黙した後、
「戦の勝敗は、必ずしも兵の数によって決まるとは限りません。緻密な作戦を立て、天の時と地の利を知る者が、最後の勝ちを制するのです」
篠は一息にいったが、嘉隆は乗る気でない。
「何かよい策でもあったら教えてほしいものだな」
と、半ば投げやりにいった。
「ご存知ですか厳島の合戦を?」
「昨今中国地方全域を支配している毛利氏が、数倍の陶晴賢に勝利した戦であろう。噂でなら聞いたことがある」
なにしろこの永禄八年という時点では、後の織田信長も武田信玄も、せいぜい一カ国か二カ国を所領としているにすぎない。それに対し毛利氏はすでに山陰・山陽のほぼ全域を領有し、ゆくゆく天下の覇権を握るは毛利と、当時の人々が思ってもおおげさではなかった。むろんその存在の巨大さは、志摩のような天下の片隅のようなところでも噂されるほどだった。
「いかようにして勝利したかご存知で?」
「詳しく知らん」
相変わらず嘉隆は投げ槍である。
「毛利元就様の知略と作戦は、それは素晴らしいものだったとのことです」
こうして篠は、厳島の合戦を語りだしたのだった……。
(二)
天文二十年(一五五一)八月、いわゆる大寧寺の変により、一時は足利将軍家をも凌ぐ実力を持つとまでいわれた、名門大内家は事実上瓦解した。大内氏の第三十一代当主大内義隆は自害して果て、実権は謀反人陶隆房の手に落ちた。
陶隆房は表向きは大内家の再興をとなえ、九州の名門大友家より、国主大友義鎮(宗麟)の弟晴英を新たな当主として迎え、自らはこれを補佐する立場を内外に示した。
これ以後、隆房は晴賢と改名し、晴英もまた義長と名を改めた。
中国地方では、長年周防・長門(いずれも山口県)から北九州一体に広大な勢力圏を持つ大内氏と、主に山陰に勢力を持つ尼子氏が覇権をかけて争ってきた。
その狭間で長年屈従を強いられてきたのが、この時ようやく安芸(広島県)を支配下に治めんとしていた毛利元就であった。
毛利元就という人物石橋を叩いても渡らない、ある種臆病ともいえるほど慎重な男である。しかし齢五十九にして、人生最大の二つに一つの決断を迫られる。一つ目の道は謀反人陶晴賢に従い、その配下に甘んじる道。今一つの道は、陶を倒し自ら戦国大名として自立する道であった。
しばし事態を静観していた元就であったが、旗幟を鮮明にしなければならぬ事態が勃発する。
石見国津和野三本松城の城主吉見正頼が、謀反人陶晴賢討伐を掲げて決起したのである。吉見正頼は亡き大内義隆の妹婿である。ほどなく元就のもとには晴賢、正頼双方から加勢を求める書状が届いた。
毛利家では実権は元就が掌握しているとはいえ、事実上の当主は元就の嫡男隆元であった。その隆元は、いわば強硬派であり陶との決戦を声高に叫んだ。一方の元就は穏健派であった。兵力からしてみれば、どう逆立ちしても毛利では陶に到底及ばない。陶に頭下げるより他道なしというのが、元就の結論であった。
「恐れながら父上! 父上は甘うござる。父上は陶という男を知らないのでござる」
毛利家の居城郡山城、軍議の席上、多くの諸将が見守る中で隆元は思わず声を荒げた。
「ならば聞こう。いかようにしたら陶の軍事力に抗うすべがあると、隆元は申すか?」
そういわれると隆元にもなんら策があるわけでもなく、しばし沈黙せざるをえなかった。
「確かに勝てぬかもしれませぬ。なれど父上は晴賢という男を知らなすぎる。それがしは昔、この毛利の家の人質として山口で数年過ごし、晴賢という男を存じておりまする。到底融通のきく相手ではござりませぬぞ」
隆元の訴えにも元就は沈黙したままである。この様子を見て、次に口を開いたのは次男で吉川家に養子にだされた吉川元春であった。
「それがしも兄上に賛成でござる。陶晴賢という男は決して妥協は許しませんぞ。我等が無理難題を一つ飲めば、必ず次の無理難題を突きつけてくるは必定でござる」
と、戦国きっての武勇の者として後に天下に聞こえることになる元春は、声を大にして主張した。
「ならば、次の無理難題を突きつけられた時に考えればよろしいかと。今、吉見殿と我等が兵を合わせたところで、陶殿には到底及びませぬ。意気込みだけで勝てるほど戦は甘くはござらぬぞ」
と横槍をいれたのは、小早川家に養子に入った元就の三男隆景だった。戦国きっての智将として、後に豊臣秀吉もその器量を認め、ついには豊臣政権下で五大老の一人にまでなる人物である。
「よいですか兄上達、今、陶殿は焦っておいでになられる。聞けば瀬戸内の水軍の特権を廃止し、厳島神社始め寺社勢力の特権も廃止し、商いをする者達の特権も廃止したとのこと。全てを己一手に握る腹でござる。しかしこのようなやり方では、いずれ何人もついてこなくなるは必定。おまけに大友家より迎えた、新たな大内の当主様との間も、うまくいっていないとのこと。
時を待つのです。さすれば必ずや我等にも付け入る時が訪れましょう。その時まで膝を屈するより他ござらん」
今度は隆元も元春も沈黙した。結局議論は平行線のまま決着をみなかった。
だが、やはりこの時陶晴賢という人物を最も見抜いていたのは、元就ではなく隆元だった。のらりくらりと出兵をしぶる毛利に、晴賢は業を煮やし強攻策にでた。すなわち苗代返しといい、毛利領の稲の苗が育っている田畑を、次から次へと兵馬で踏みにじったのである。
元就は覚悟した。戦して血路を開かねば、いつか毛利は滅ぼされる。ここから五十九歳の毛利元就は、鬼とも人ともつかむほど迅速に動く。
天文二十三(一五五四)五月十一日、元就は隆元の連署により、晴賢との絶縁の告げる書状を神仏に捧げると、翌十二日に郡山城を出立。三千の軍勢をもって、まず佐東銀山城を落とす。次いで己斐城を落とし、草津・桜尾の両城をも陥落せしめ、ついには仁保城をも落とした。
たった一日で、広島湾をのぞむ諸城はことごとく毛利のものとなる。さらに元就は渡海し、厳島神社をのぞむ瀬戸内の要衝・厳島を押さえた。まさに神業である。これほど素早い軍事行動の背後には元就のみならず、隆元、元春、隆景の三人の息子の尽力があったと思われる。
元就死した後、早世した隆元はともかく元春と隆景の二人は、やがて織田信長の天下布武の前にも立ちはだかる。九鬼嘉隆にとっても生涯最大の敵となるのである。
(三)
そしてもう一人、後に嘉隆にとり生涯最大の敵となる男がいた。村上武吉である。村上武吉は海賊である。それも瀬戸内で最大の海賊の頭といっていい。
もともと村上氏は、河内源氏の庶流信濃村上氏が起源といわれる。戦国のこの時代もともと一つだった村上氏は、能島村上家、来島村上家、因島村上家の三つの流れにわかれていた。
中でも最大勢力といっていいのが能島村上水軍であり、その頭領が村上武吉だった。この時村上武吉は二十一歳である。
村上武吉は背丈はそれほどでもない。しかし赤銅色に日焼けした逞しい体躯は、いかにも海の男のそれである。そして知恵の発達を物がたるかのように、前額部が大きく盛り上がり、眼光はまるで鮫のように鋭い。
その能島村上水軍の拠点は瀬戸内海の芸予諸島にあった。周囲約一キロの無人島能島である。
能島は島全体がほぼ要塞化され、本丸・二の丸・三の丸・出丸などの曲輪が残る。島の中心の山頂を削平して本丸となる曲輪を設け、その下の段に第ニの曲輪がとりつき、さらに海上にむかって三方に延びる岬上の南端に出丸、北端に三の丸、東端に矢櫃(やびつ)の曲輪を配している。さらに、西下段の削平地には、船着場兼倉庫などの施設があったと考えられる。
そして防御の要は、なんといっても周辺の海域そのものである。なにしろこの周辺一体は潮流が早く、いわば周辺の海域自体が、巨大な天然の水堀なのである。
「御屋形様、久方ぶりに伊予の河野氏の配下の者と見られる船を拿捕いたしましたぞ。いかが致しまする?」
天文二十三年も暮れにさしかかったある日のことである。犬猿の仲といっていい伊予の河野氏の船を捕らえたというのである。
「女はいるか?」
「二十人ほどおりまする。しかも上玉ばかりでござる」
「よしここに連れて来い。今日は乱交を許す。皆で好きなだけ女子(おなご)達をあさるがよいぞ。わしはそれを肴にして酒をあおることとしよう」
こうして阿鼻叫喚の中、武吉は大杯で酒を浴びるほど飲んだ。ところが恥辱に耐えかねた女達の一人が、どういうわけか床に転がっていた小刀を奪うと、
「覚悟!」
と、武吉めがけて投げつけた。だが武吉は難なくかわし、逆に脇差で女の腹をえぐった。
「女だからとて容赦はせんぞ!」
武吉は酒のせいで気持ちが高ぶっていた。
やがて夜がおとずれて宴も一段落する頃、配下の者が密かに武吉にたずねた。
「恐れながら、陶と毛利の間が緊張の度合いを増しているとか。御屋形はいずれに味方する所存か?」
「うむ実はのう二人に会ってきたのだ。陶晴賢と毛利元就いずれにつくか、わしは今、様子見といったところだ」
と、武吉は酒臭い息をはきながら晴賢と元就双方を語りだした。
(四)
元就と陶晴賢は、一旦それぞれの本拠である郡山城と山口へと戻っていった。
武吉が元就を訪ねた時、元就は床に地図を広げて思案にふけっている最中だった。
『これが元就か?』
武吉は想像とは異なる元就という人物像に、かすかに驚きの色をうかべた。元就は髪に白いものがちらつく初老の男で、戦国武将にしては優しげな男だった。
「村上武吉殿とはそのほうか? 陶晴賢を滅ぼすため水軍の力がほしい」
と、元就は本題からきりだした。
「条件次第では力になってやってもいい。我等海に生きる者は、陸に生きる者よりはるかに将来を見る。戦は兵の数のみをもって決まるにあらず。その者将来にいかなる展望を抱くかによって、思いもかけぬ事態もおこりうるものだ。
元就殿が陶に勝利したとして、その後上洛して天下を取るため、いかなる計画をたてているかうかがいたい」
と武吉は床に広げられた地図に、かすかに目をやりながら一息にいった。
「まずわしは、天下を取る気も上洛する気もない」
「なんと?」
武吉はまったく想定外の返答に、しばし言葉を失った。
「聞けば都は荒廃し、帝の住む御所でさえ雨もりするほどとか、わしはじき六十になる。物見遊山ならともかく政(まつりごと)のために、かようなところに出向いていくのは気が進まぬのじゃ。いや……わしはかような都に、この日の本の将来があるとは到底思えぬ」
「ならば、元就殿はいずこに日の本の将来があるとお考えか?」
武吉の問いに対し元就は扇子で瀬戸内の海を指した。
「わしがつらつら考えるに、我が国は四面海に囲まれながら、あまりにも海をないがしろにしてきたような気がしてならんのじゃ。聞けば昨今は唐・天竺よりはるか遠方からも、人が訪れているとか。かような時代に何故に陸地にこだわるのか? 陸で狭い土地を巡って争うかぎり、この日の本の国土は荒廃していくのみのような気がしてならぬ」
「具体的にはいかようにするつもりじゃ?」
「そうよのう。都を目指さず、九州に進出して博多でも押さえるのが面白いかもしれぬ。聞けば今、北九州を支配している大友義鎮と申す輩、家臣に凶暴な猿をけしかけ、動揺する様を見てあざ笑うようなうつけと聞く。その者を滅ぼして大陸との接点にあたる博多を押さえ、ゆくゆくは明国や朝鮮国との商いで儲けたいとわしは思うておるのじゃ。
都などと……。天下を背負うは天下を敵に回すことじゃ。わしはこの齢になり、そこまで修羅の道を歩みたくはないのでのう」
武吉は今一度、毛利元就という男を見た。一見すると好々爺とでもいうべきであろうか。なるほど頭もよさげだし、世渡りもうまいほうであろう。恐らく戦の世ではなく平和な世なら、あれいは殺し合いや切り合いとは、まったく無縁の人生を歩んでいたかもしれない。
しかしこのような男が、果たして陶晴賢と戦って勝てるのであろうか? 一方で武吉は戦の世だからこそ、眼前にいる優しげな男が天下を取った世を見てみたいとも思った。むろん元就自身は、天下を取ることさえ望んでいない様子ではあるが。
(五)
武吉は、陶晴賢とも会った。晴賢はこの年三十五歳。かっては西国一の美貌とまでうたわれた晴賢も、今はでっぷりと太っていた。しかし眼光は光を失っていない。頭は入道して丸め眼前に立つと人を圧するものがあった。
「駄別銭のこと、考えなおしてやってもよいぞ」
と、晴賢は話をきりだした。駄別銭とは、村上水軍が瀬戸内の海を通行する船を、安全に渡れるよう警護すると同時に、その見返りとして通行料を徴収するというものだった。海賊もまた略奪行為のみでは生計が成り立たず、駄別銭は貴重な収入源だった。それを晴賢は一方的に禁止してきたのである。これは村上水軍にとり死活問題であった。
「まことか? 口約束だけなら受けつけんぞ」
武吉は、やや声を荒げながらいった。
「なんなら起請文を書いてやってもいいぞ。天下人の言葉に二言はない!」
「天下人じゃと? そのほう早、己が天下を取ったつもりか?」
「いずれそうなる。村上武吉とやら、小さきことにはこだわらぬほうがよいぞ。我等と事を共にすれば、末は必ず栄耀栄華を見られるというもの」
「天下取るため先々いかなる計略をめぐらすつもりだ? まずそれを聞こう」
武吉は晴賢の自信過剰ぶりに、半ば呆れながらたずねた。
「計略? かようなものはない。ただこの刀にかけて、さしあたっての戦には一戦たりとも負けぬだけじゃ」
と晴賢は脇差しを抜きはなっていった。武吉はいよいよ驚いた。
「意気込みだけか? まこと意気込みだけで天下を取るつもりか? なれど眼下の毛利や尼子と戦う前に、そなたの敵は内にあるのではないか?」
「どういうことかな?」
「聞けば大友より迎えた義長様とは、馬があっていないとか。そなたこの先どうするつもりだ? 義長様とて、いつまでも汝の思い通りになってはいまい。大友家のこともある。もしやそなたまた主を殺すつもりか? それで天下諸侯がついてくるとでも?」
次第、次第に晴賢の表情が険しくなった。
「まず、何故そなたは大内の殿様を討った? 大内の殿より政のすべてを任されておったのであろう。殺さずともよかった。隠居か出家願えばそれでよかったのではないか? 義隆様を出家させ、その後に義尊様を後釜にすえ、そしてそなたが後見するのが最良の道だったのではあるまいか」
大内義隆には、七つになる大内義尊という側室に産ませた子があったが、大寧寺の変の後、晴賢はその命を奪っていた。
「まるで飾り雛のような大内の殿を滅ぼし、大友から新たに、飾りにすぎない主君を迎えたところで、せんなきことと思うがいかに? もしやその方、大友義鎮に大内の家を売ったか? 聞けば大友義鎮と申す者、阿呆とみせかけて中々にしたたかと聞く。大内の家を自ら潰し、新たな後ろ盾として大友の名を欲したか? 己の足元さえおぼつかないそなたでは、天下など夢の夢ではないのか」
若いだけに武吉は、晴賢相手でも遠慮しなかった。
「やかましい!」
ついに晴賢は怒号をあげた。
「部外者のそなたに何がわかる。わしはのう、亡き御屋形様を本気で愛しておったのだ。だがあの方は、あまりに京風文化にのめりこみすぎた。武将であることさえ忘れてしまった。あの有様ではいずれ大内は滅ぼされる。いやそれ以前に、わしが討たずとも、誰ぞがあの方の命奪っていたであろう。人の手にかけるくらいなら、わしのこの手で死を賜わったまでじゃ。この無念いかばかりか汝にはわかるまい」
そういって、晴賢は顔をおおって男泣きをはじめた。武吉は困惑した。
『この男は駄目だ。感情につき動かされるだけで、将来に対する展望などなにもない。しかし、男として男が惚れる男でもある。この男と事を共にしたい気もする。しかし駄別銭のこともある。一体どうしたらいい?』
結局、武吉は晴賢に味方する決心を固めた。そのため、まだ幼子にすぎない我が子を、人質として晴賢にあずけたのである。
(六)
両軍はにらみ合ったまま、戦の勝敗は翌天文二十四年(一五五五)にもちこされた。この間も両者の水面下の駆け引きは続いていた。特に毛利方の調略は凄まじかった。
まず毛利が陶と決戦に及ぶに際し、後顧の憂いといっていいのが、山陰の尼子氏の存在だった。その主力部隊ともいうべき存在が、尼子新宮党といわれる一派である。尼子新宮党を率いる尼子国久という人物は、元就が間者を使ってまいた謀反の噂により、尼子の当主晴久自身の手により成敗されてしまった。これにより尼子は羽をもがれた鳥同然となり、動くに動けぬ体と化してしまった。
さらに元就の調略の魔の手は、陶晴賢の懐深くにまで及んでいた。
天文二十四年三月十六日、陶晴賢の片腕とまでいわれる猛将江良房栄は、酒宴のため晴賢に山口の城に呼ばれた。一同に酒がふるまわれ、房栄もまた酒を口にした時異変はおこった。突如苦しげなうめきとともに、房栄は血を吐いて倒れたのである。気がつくと目の前に晴賢が立っていた。
「何故、わしに毒など? 気でも違われたか!」
「そなた何故わしを裏切った。この書状に覚えがあろう。まぎれもなくそなたの筆跡であろう」
書状は房栄が元就にあてたものだった。房栄が晴賢を亡き者とした後、恩賞が少なすぎると元就に不満をのべる内容だった。
「己、かような偽手紙で長年の忠臣であるわしを疑うとは! 尼子国久も同じ手でやられた。晴賢よ汝は小者じゃ、到底天下を取れる器ではないわ!」
房栄は、最後まで晴賢をあざ笑いながら無念の死を遂げた。
もとよりこれも元就の調略であり、戦わずして勝つという元就の信念は、少しずつ成果をあげ始めていたのである。
(七)
うむ戦とは兵の数にあらず、頭を使ってやるものだな。そして時の流れを知る者が勝つ。
相変わらず、嘉隆はしのの膝の上でつぶやいた。
「左様でございます。そして毛利、陶両軍が最も重視したのが、瀬戸内海に浮かぶ厳島だったのです」
安芸・厳島は長さ十キロ、幅三.五キロ、周囲三十キロ。かって平清盛も信仰したといわれる厳島神社の大鳥居をシンボルとする、瀬戸内に浮かぶ巨大な浮島である。
清盛の時代から日宋交易で栄えた厳島は、この時代でも中国大陸と九州、そして上方とを結ぶ天然の良港であった。当時の記録を見ると、鎖国が行われる江戸時代初期まで羅紗(ラシャ)、虎皮(こひ)、繻珍(シチン)等が売買され、当時の厳島を描いた屏風絵には、南蛮人らしきものまで描かれていた。加えて、現在ユネスコ世界遺産にまで登録されている厳島神社は、瀬戸内人の精神的支柱でもある。
厳島の重要性は晴賢、元就なり両人とも熟知しており、両軍の決戦の場が厳島となったのは、いわば必然であった(陰徳太平記では、家臣の桂元澄を偽って晴賢に寝返らせる、元就のすぐれた知略が強調されているが、真偽のほどは定かでない)
まず元就が先に厳島の北西に宮尾城を築いた。標高三十メートルの小高い丘の上に築かれた宮尾城は、当時は現在と違い、城北部の山麓まで海が迫っていたといわれる。三方海に面し、水軍の運用も可能で、元就がここに目をつけたのも当然であった。
先に厳島を占拠された晴賢は、九月二十一日に厳島へ上陸。城へ通じる水源をことごとく断ち、断水作戦にでた。
九月二十六日、元就は小早川水軍率いる三男の隆景に出兵を要請する。元就の本体と隆景の小早川水軍合わせて四千ほど。対する陶軍はざっと二万である。
だがこの合戦の勝敗の鍵をにぎるのは、一にも二にも村上水軍だった。元就は、まだ旗幟をはっきりさせない村上水軍にも、援軍を要請する使者を度々送った。そして二十八日、ついに元就が待ちに待った村上水軍の船三百隻が姿を現したのだった。
しかし実は村上武吉は陶と通じていた。元就が厳島へ渡海したおりには、味方とみせかけて背後から元就を襲う手筈となっていた。ただ武吉はこの時になってもまだ、いずこに味方するか迷っていた。
「御屋形様、まこと陶に味方いたす所存でござるか」
側近が疑念をていすると武吉は、
「いやまだだ、まだ決めかねておる。わしは今潮の流れを読んでおるところじゃ。時流に乗る者は潮の流れにも乗る。潮を流れを見極めて、いずこが勝利するか読むつもりじゃ」
と武吉は、なにやら謎めいてことをいった。
そして九月二十九日を迎えた。宮尾城はすでに一日と持ちこたえられない状況だった。厳島の対岸地御前に陣を構えた元就は、未明渡海の覚悟を決めた。だが元就が決戦を覚悟したその夜、不幸にして嵐が行く手をさえぎったのである。
(八)
「父上、隆元は断固反対にござる!」
元就の嫡男隆元は、血相をかえて元就の考えに反対した。元就が、嵐の海を渡海しての厳島奇襲を提案したのである。
「恐れながら父上、それがしも兄上に同意でござる。確かに宮尾城の運命は今日か明日。なれどこの嵐では、宮尾城より先に我等が海の藻屑と化してしまいまするぞ」
と元春も反対した。だが元就の決意は変わらない。色々威腹巻(いろいろおどしはらまき)を着用し、刀身四十九センチほどの打刀拵(うちがたなこしらえ)を手にした元就は、地御前から対岸の厳島の方画を遠望しながら語りだした。
「お前達は南宋の張世傑の故事を知っているか?」
南宋の張世傑とは、十三世紀にモンゴルに攻められて存亡の危機にたたされた、中国南宋王朝の忠臣である。最後は海上でモンゴルに追いつめられ『天が宋を滅ぼそうとするなら、この船を覆せ』と叫び、ついに嵐により海中に没したといわれる。
「わしが古今の歴史を思うに時流を読めぬ者、天が味方せぬ者が乗った船は、必ず沈むさだめにあるのだ。そして今、わしは眼前の潮の流れを読んでおる。天がわしに味方するなら、我等の船は決して沈むことはない。よもや陶とて、この嵐の最中、我等が現れるとはおもってもいないだろう。
そして村上水軍、あやつらは信用できぬ。いつ我等を裏切るか予想できぬ奴等よ。恐らくあの村上武吉とかいう者も、潮の流れを読んでいるであろう。潮を流れが我等に味方するか否かをな。あやつらがいらぬ野心を抱かぬうちに、我等迅速に行動し、陶を討たねばならぬのだ」
元就は静かな闘志を胸中に秘めながらいった。
結局毛利全軍は、この夜嵐の海を厳島に向かって渡海した。陶に動きを気取られぬため、先頭をゆく元就の船のみかがり火を燃やし、その後に全軍の船が従った。
「なに元就が渡海しただと? この嵐の中連中は正気か?」
武吉は、嵐の瀬戸内の海を眼下に見据え、そして四半刻(約三十分)もの間、沈黙したまま潮の流れを読んだ。
「よし、我等は毛利に味方するぞ」
「なれどこの嵐では、果たして毛利軍は無事厳島まどたどりつくことできますかな」
側近の一人が不安を口にした。
「なに案ずることはない。潮は明らかに元就に味方しておる。今宵こそ元就が天運をつかむ時じゃ」
「さりながら、御屋形は陶にわが子を人質として預けたのでは」
「なにも心配することはない。あれはわしの子ではない。偽者じゃ」
そういって武吉はからからと笑った。
(九)
結局、毛利勢は見事嵐の海を厳島へと全軍渡り切った。そして、その名も博打尾といわれる本来なら人が踏み込まない、原生林の生い茂る急峻な山道を越えるのである。そしてついに陶軍の陣地の背後へ回りこむことに成功したのは、ちょうど日付が変わる時分のことであった。元就ははやる心を抑えつつ夜明けを待つ。
一方、第二軍の隆景率いる小早川水軍は、天を真っ二つにするかのような激しい嵐のため、目指す厳島神社の西側に上陸することが不可能となっていた。
ここで、後に智将として世に知られることとなる隆景が機知を見せる。旗指物をすべて隠し、なんと敵の見張りのいる場所に、堂々と乗り込んだのである。むろん敵もまた激しい風と雨のため、いずこの何者か察しがつかなかった。
「我等は筑前から加勢に来た者でござる。陶殿にお目通りしたい」
と隆景はいい、ついに敵の正面を堂々と突破してしまう。厳島神社の大鳥居に全軍が伏せ、やはり夜明けを待つのである。
(十)
未明、博打尾の尾根がわれるかのような鬨の声が一斉にあがった。その叫びとも、雄叫びともとれる声は、まだ夢うつつにあった陶軍を動揺させるのに十分だった。
陶晴賢は、さすが歴戦の勇将だけあって、毛利軍の奇襲と知っても動揺をすぐ静めた。素早く寝床から起き上がり、即座に鎧・甲冑に身を包むと、
「怯むな、敵は小勢じゃ! 蹴散らせ!」
と、大音声で全軍に指令を発した。とにかく陶晴賢は胆力が半端ではない。そして率いる兵卒も晴賢と心を一つにし、毛利の奇襲というこの一大事にも簡単には崩れなかった。
やがて第二軍として小早川勢が加わるも、自ら死兵と化し乱戦の中白刃を奮う晴賢のもと、陶軍は崩れない。やがて晴賢が待ちに待っていたことがおこった。嵐が去った厳島に、赤い羽織に身をつつみ、その背には丸に『上』の字。村上水軍が姿を現したのである。
だがここに、晴賢が予想だにしていない事態が待ち構えていた。村上水軍の兵卒の放った矢は、ことごとく毛利ではなく、陶の軍勢めがけて放たれたのである。
「己、血迷ったか村上武吉!」
晴賢は歯ぎしりしたが、真実を知った時は、もはや後の祭りであった。
村上水軍は、この頃ようやく日本にも普及し始めた火縄銃の他に、焙烙といわれる恐ろしい兵器をも所有していた。
焙烙とは、料理器具である焙烙ないしはそれに似た陶器に火薬を入れ、導火線に火を点けて敵方に投げ込む手榴弾のような兵器である。射程は三十丁(約三キロ)にまで達したといわれる。爆発の威力自体はさほどでもないが、その鈍い衝撃音により、敵兵に与える心的ダメージはかなりのものであった。
この村上水軍の毛利勢への加勢により、さすがの陶軍も崩れだした。しかし晴賢は、ついに敵兵が本陣へなだれこむ事態に至っても、心折れることなく、阿修羅ような形相で敵をきりまくった。だが一本の流れ矢が、晴賢の右の肩を貫いた。
「御屋形様、お逃げくだされ! ここは危険にござります!」
側近の言葉も、晴賢には聞こえていなかった。
『前へ……前へ進むのだ……。前へ……そして都へ」
やがて、さらに数本の矢が、晴賢の今度は左の肩を貫いた。
「御屋形様を離脱させよ」
兵士達が盾になって、晴賢を戦場から離脱させた。
(十一)
夜が明けきった厳島の対岸を、晴賢は傷の痛みをこらえつつ、毛利勢の勝ち鬨の声がかすかに響く中、対岸へ渡る船を探していた。だが沖合いはすでに村上水軍により抑えられており、船は全て焼きはらわれていた。さしも陶晴賢も、ここにおいて自らの命運尽きたことを悟った。
「力は山を抜き、気は夜を覆う……。なれど時利あらずか……。天へ帰る時がきた。この瀬戸内の海は、かって平家が海中に没し、巨大な権勢を誇った大内の家も、わし亡き後もはや立つことかなうまい。悲しいのう……。毛利もまたいずれ必ず命運尽きる時がこよう。元就よう覚えておくがよい」
静かだった。まるで先刻までの激しい嵐と戦が夢であったかのように、瀬戸内の海は穏やかだった。その穏やかな海をあおぎ見ながら、陶晴賢は三十五年の生涯を閉じた。辞世の句は、
何を惜しみ 何を恨みん 元よりも この有様の 定まれる身に
定めに殉じた生涯であった。ほどなくその変わり果てた姿を、村上武吉が間のあたりにする。生きるがごとく見開いた眼光を静かに閉じると、冷たくなったむくろを担ぎあげ、
「わしは男として、おまえに惚れた。おまえと戦うは本意ではなかった。なれどこれも乱世の宿命ならば致仕方なし。俺にできることは、お前の屍を丁重に葬ることだけだ」
武吉は表情を険しくしていった。
「陶を裏切り我等に味方した者達がおったな。その者ども捕らえて釜茹でにするがいい」
背後を振り返ることなく武吉は厳命した。ほどなく釜茹では武吉が見ている前で実行に移され、多くの者が目をそむける中、武吉は平然と酒をあおり続けたのであった。
(十二)
「うぬ、ようわかったぞ。圧倒的大軍を前にしても、合戦に勝てる気がしていたぞ。礼をいう」
嘉隆はかすかに自信をもった。
「最後に一つだけ申しておきます。今、側近くに仕えている篤とかいう者、あの者は敵のまわし者にござります。お気を付けくだされ」
そういって、しのの幻は消えた。夢から覚めた嘉隆はただちに、九鬼家の存亡をかけた戦いに乗り出すのである。
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