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【第三章】鳥羽・伏見の戦い
阿波沖海戦
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一方海では、榎本による兵庫港封鎖作戦が実行されていた。
三日夕刻、開陽はじめとして幕府艦隊に海上封鎖された薩摩側では、この事態にどう対応するかをめぐって激しい議論が展開される。議論は深夜にまで及び、最終結論は強行突破だった。
「正直、春日では幕府側の開陽には勝ち目がごわはん。じゃっどんこげんなったもんは仕方なか。最悪の場合、薩摩の武士らしく船と命運を共にするしかなかど」
と最終結論をくだしたのは赤塚源六だった。その場に異様な悲壮感が漂った。
翌、午前四時頃のことである。薩摩艦隊による強行突破作戦は決行された。この日、ほとんど自力航行が不可能なほど破損した翔鳳丸を、同じく薩摩艦の春日丸が太い綱で引きながら兵庫沖を移動することとなった。
ところがここに薩摩にとり、あまりに不幸な事故が勃発する。スピードを落として海上を移動していた春日丸と、後方の翔鳳丸が不覚にも衝突してしまったのである。しかも不幸はそれだけではなかった。その衝撃で翔鳳丸の甲板上の野砲が無人もまま実弾を発射してしまった。鈍い衝撃音が静かな海洋に響きわたった。
「こいは何とした不覚!」
赤塚は真っ青になった。恐らく敵に聞こえたであろう。これで計画は台無しになったかのように思えた。しかしここに薩摩側にとり奇跡的な幸運がおこる。ちょうど同じ頃、大坂方面で火の手があがり、これに開陽はじめ幕府艦隊は対応を迫られることとなった。その隙をついて薩摩艦隊は兵庫港の封鎖を突破してしまう。
やがて夜が明けた。次第、次第に暁が大海洋を照らしていく。薩摩艦隊の乗り組み員たちは半ば死を覚悟していただけに、この光景はあまりに感動的であった。
しかし榎本も黙って薩摩艦隊を逃がしはしない。春日丸は十六ノット、十二ノットの開陽丸より船足だけは早い。しかし破損した翔凰丸を手綱で引きながらの航行である。逃げ切れるわけもなく、由良の瀬戸で開陽丸につかまってしまった。
やむなく春日丸は翔凰丸と自船との手綱を切った。榎本は停戦合図の空砲を放つも、薩摩側は丸に十字の旗印を高々と掲げた。これは戦闘を受けて立つという意味の合図といってよい。とにかく春日丸としてはできるだけ時を稼ぎ、その間に翔凰丸を逃がそうというのである。
これにより榎本もまた戦闘を覚悟した。開陽丸は左に大きく舵を切る。そして四キロ、三キロ、二キロとじりじりと敵春日丸との距離と縮めていく。
「目標! 左舷前方二千五百。クルップ砲角度三・五!」
叫んだのは沢太郎左衛門だった。
「左一番、左二番撃てぃ!」
雷管式激発器が下ろされ、十六センチ施条砲が火薬の臭いと共に火を噴いた。しかし最初の一撃は春日丸の左舷二十メートルの場所に落下。二発目も当たらなかった。
双眼鏡でこの様子を見守った榎本は、これではだめだと思った。さらに船を接近させる必要がある。開陽丸は、春日丸までおよそ一・五キロの位置まで接近した。
しかしここで薩摩側も反撃にでてくる。アームストロング砲を放ってくるも、これも開陽丸に命中しなかった。
この光景を、榎本の隣で顔を紅潮させながら見守る男がいた。砲術長で、かっての浦賀与力。あの日本人として初めて黒船に乗りこんだ中島三郎助だった。三郎助はこの時四十七歳になっていた。黒船を初めてみた嘉永六年には、未知の西洋文明に畏怖すら覚えたものだった。しかし日本も、ここまで来たという思いが三郎助にはあった。
つい数カ月前、三郎助は目と鼻の先で工事がすすんでいる横須賀造船所を、二人の息子と共に見学に赴いたものだった。次男の恒太郎は二十歳、三男の英次郎は十七歳になっていた。三郎助はそこに日本国と子供たちの未来を思い描いていたのである。
この造船所の設計を計画したのは幕府の小栗上野介である。アメリカへ赴き、ネジという当時世界最先端の技術を持ち帰った小栗と、フランス人技術者フランソワ・レオンス・ヴェルニーが巨額の費用を投じて建造したものだった。
小栗自身はその完成を見る前に非業の最期をとげるも、ヴェルニーがその志を継承した。一八七一年には一号ドックが完成。蒸気の力でハンマーを上下させ金属を加工するスチームハンマーなど、当時の世界でも最先端の技術が用いられた。一八八四年には、東洋一の規模を誇る二号ドックも完成した。
ヴェルニーは人材の育成も必要であるとして、自らも学んだフランスの最高学府エコール・ポリテクニークを模して技術者養成学校を設立。造船学、微分積分、建築学など高度な教育が行われた。
やがて横須賀鎮守府が設置され、横須賀は軍港として大きく発展していく。一八八九年に横須賀線開通。一九〇五年には一万八千トンの国産初の戦艦・薩摩が完成する。横須賀では日本で初めてメートル法も使用され、さらに月給制、日曜休日制、そして近代式簿記が給与計算に使用されたという。
はるか後年のことになるが日露戦争を勝利に導いた東郷平八郎は、日本の勝利は小栗上野介が浦賀に製造した造船所のおかげであるとして、子孫を探して感謝の言葉をのべたという。その東郷平八郎は、この時まだ二十二歳にして目の前の春日丸に下士官として乗船していた。もちろんそのような未来のことは三郎助も、そして二人の息子たちもまた知るよしもないわけではあるが……。
(後の大日本帝国海軍の薩摩出身者。このうち東郷、伊東、井上は阿波沖海戦に参加)
この「海の鳥羽・伏見の戦い」は、開陽丸がカノン砲を、薩摩の春日丸がアームストロング砲を激しく撃ち合う。しかし双方共に実戦経験の不足のため、敵艦に致命の一撃を加えることなくおよそ二時間がすぎた。
東郷平八郎が担当したのは左舷の四十ポンド砲の砲長である。春日丸は右舷もしくは左舷の砲を使用した後、百八十度回転して片側の舷の砲を使用するのである。敵、開陽丸は東郷の視界におよそ小指ほどの大きさに見えた。四十ポンド砲をはなつも開陽丸の手前、およそ三十五メートルほどの場所に落下してしまう。
「火薬の量が足りなかったか?」
東郷がため息をついた時、驚くべきことがおきた。砲弾は海面を跳躍して、開陽丸の後方マストの帆桁を吹き飛ばしてしまったのである。
「開陽丸の砲員はこれに激し、十三門の右舷砲を連発せしか、一弾春日の車輪に触れ、反対側に躍りこえる」(東郷平八郎詳伝)
しかしこの一撃も開陽丸にとり致命傷にはならなかった。時が過ぎ、開陽丸が右舷側の砲を撃ち終えて百八十度回転しようとした時異変がおきた。春日丸が走力をあげて逃げにかかったのである。船の性能を考えれば、長引けば長引くほど春日丸は不利である。春日丸は十六ノット。対する開陽丸は十二ノットである。榎本は追撃は不可能と悟り、この海戦の最中行方をくらました翔凰丸の行方を追うこととした。
その翔凰丸は、阿波沖の蒲生田岬と伊島の間の橋杭の瀬を通過中だった。船体の破損がひどい。浸水が始まっており、それが蒸気機関にまで及ぼうとしていた。薩摩人たちは手に手に桶を持って、ずぶ濡れになりながら水をくみ出そうとする。しかしやがてそれも限界に近づいた。
「こげんなったもんは致し方ごわはん! 全員離艦、カッターをおろせ」
艦長の命令で乗り組み員たちは、次から次へと小舟で翔凰丸から離れていく。全員が船から離れた後、翔凰丸に火がかけられた。開陽丸がようやく翔凰丸を発見した時には、すでに船は炎上した後だった。
「敵ながらあっぱれな連中だ」
榎本はその光景を見ながら、思わず感嘆した。
この阿波沖海戦を榎本は勝利とした。しかし薩摩側は引き分けと記した。榎本は開陽丸と共に一月六日午後、天保山沖に停泊した。艦長の榎本が陸上での戦いの様子を知るため大坂城に入っている間に、信じられない事態が勃発する。
三日夕刻、開陽はじめとして幕府艦隊に海上封鎖された薩摩側では、この事態にどう対応するかをめぐって激しい議論が展開される。議論は深夜にまで及び、最終結論は強行突破だった。
「正直、春日では幕府側の開陽には勝ち目がごわはん。じゃっどんこげんなったもんは仕方なか。最悪の場合、薩摩の武士らしく船と命運を共にするしかなかど」
と最終結論をくだしたのは赤塚源六だった。その場に異様な悲壮感が漂った。
翌、午前四時頃のことである。薩摩艦隊による強行突破作戦は決行された。この日、ほとんど自力航行が不可能なほど破損した翔鳳丸を、同じく薩摩艦の春日丸が太い綱で引きながら兵庫沖を移動することとなった。
ところがここに薩摩にとり、あまりに不幸な事故が勃発する。スピードを落として海上を移動していた春日丸と、後方の翔鳳丸が不覚にも衝突してしまったのである。しかも不幸はそれだけではなかった。その衝撃で翔鳳丸の甲板上の野砲が無人もまま実弾を発射してしまった。鈍い衝撃音が静かな海洋に響きわたった。
「こいは何とした不覚!」
赤塚は真っ青になった。恐らく敵に聞こえたであろう。これで計画は台無しになったかのように思えた。しかしここに薩摩側にとり奇跡的な幸運がおこる。ちょうど同じ頃、大坂方面で火の手があがり、これに開陽はじめ幕府艦隊は対応を迫られることとなった。その隙をついて薩摩艦隊は兵庫港の封鎖を突破してしまう。
やがて夜が明けた。次第、次第に暁が大海洋を照らしていく。薩摩艦隊の乗り組み員たちは半ば死を覚悟していただけに、この光景はあまりに感動的であった。
しかし榎本も黙って薩摩艦隊を逃がしはしない。春日丸は十六ノット、十二ノットの開陽丸より船足だけは早い。しかし破損した翔凰丸を手綱で引きながらの航行である。逃げ切れるわけもなく、由良の瀬戸で開陽丸につかまってしまった。
やむなく春日丸は翔凰丸と自船との手綱を切った。榎本は停戦合図の空砲を放つも、薩摩側は丸に十字の旗印を高々と掲げた。これは戦闘を受けて立つという意味の合図といってよい。とにかく春日丸としてはできるだけ時を稼ぎ、その間に翔凰丸を逃がそうというのである。
これにより榎本もまた戦闘を覚悟した。開陽丸は左に大きく舵を切る。そして四キロ、三キロ、二キロとじりじりと敵春日丸との距離と縮めていく。
「目標! 左舷前方二千五百。クルップ砲角度三・五!」
叫んだのは沢太郎左衛門だった。
「左一番、左二番撃てぃ!」
雷管式激発器が下ろされ、十六センチ施条砲が火薬の臭いと共に火を噴いた。しかし最初の一撃は春日丸の左舷二十メートルの場所に落下。二発目も当たらなかった。
双眼鏡でこの様子を見守った榎本は、これではだめだと思った。さらに船を接近させる必要がある。開陽丸は、春日丸までおよそ一・五キロの位置まで接近した。
しかしここで薩摩側も反撃にでてくる。アームストロング砲を放ってくるも、これも開陽丸に命中しなかった。
この光景を、榎本の隣で顔を紅潮させながら見守る男がいた。砲術長で、かっての浦賀与力。あの日本人として初めて黒船に乗りこんだ中島三郎助だった。三郎助はこの時四十七歳になっていた。黒船を初めてみた嘉永六年には、未知の西洋文明に畏怖すら覚えたものだった。しかし日本も、ここまで来たという思いが三郎助にはあった。
つい数カ月前、三郎助は目と鼻の先で工事がすすんでいる横須賀造船所を、二人の息子と共に見学に赴いたものだった。次男の恒太郎は二十歳、三男の英次郎は十七歳になっていた。三郎助はそこに日本国と子供たちの未来を思い描いていたのである。
この造船所の設計を計画したのは幕府の小栗上野介である。アメリカへ赴き、ネジという当時世界最先端の技術を持ち帰った小栗と、フランス人技術者フランソワ・レオンス・ヴェルニーが巨額の費用を投じて建造したものだった。
小栗自身はその完成を見る前に非業の最期をとげるも、ヴェルニーがその志を継承した。一八七一年には一号ドックが完成。蒸気の力でハンマーを上下させ金属を加工するスチームハンマーなど、当時の世界でも最先端の技術が用いられた。一八八四年には、東洋一の規模を誇る二号ドックも完成した。
ヴェルニーは人材の育成も必要であるとして、自らも学んだフランスの最高学府エコール・ポリテクニークを模して技術者養成学校を設立。造船学、微分積分、建築学など高度な教育が行われた。
やがて横須賀鎮守府が設置され、横須賀は軍港として大きく発展していく。一八八九年に横須賀線開通。一九〇五年には一万八千トンの国産初の戦艦・薩摩が完成する。横須賀では日本で初めてメートル法も使用され、さらに月給制、日曜休日制、そして近代式簿記が給与計算に使用されたという。
はるか後年のことになるが日露戦争を勝利に導いた東郷平八郎は、日本の勝利は小栗上野介が浦賀に製造した造船所のおかげであるとして、子孫を探して感謝の言葉をのべたという。その東郷平八郎は、この時まだ二十二歳にして目の前の春日丸に下士官として乗船していた。もちろんそのような未来のことは三郎助も、そして二人の息子たちもまた知るよしもないわけではあるが……。
(後の大日本帝国海軍の薩摩出身者。このうち東郷、伊東、井上は阿波沖海戦に参加)
この「海の鳥羽・伏見の戦い」は、開陽丸がカノン砲を、薩摩の春日丸がアームストロング砲を激しく撃ち合う。しかし双方共に実戦経験の不足のため、敵艦に致命の一撃を加えることなくおよそ二時間がすぎた。
東郷平八郎が担当したのは左舷の四十ポンド砲の砲長である。春日丸は右舷もしくは左舷の砲を使用した後、百八十度回転して片側の舷の砲を使用するのである。敵、開陽丸は東郷の視界におよそ小指ほどの大きさに見えた。四十ポンド砲をはなつも開陽丸の手前、およそ三十五メートルほどの場所に落下してしまう。
「火薬の量が足りなかったか?」
東郷がため息をついた時、驚くべきことがおきた。砲弾は海面を跳躍して、開陽丸の後方マストの帆桁を吹き飛ばしてしまったのである。
「開陽丸の砲員はこれに激し、十三門の右舷砲を連発せしか、一弾春日の車輪に触れ、反対側に躍りこえる」(東郷平八郎詳伝)
しかしこの一撃も開陽丸にとり致命傷にはならなかった。時が過ぎ、開陽丸が右舷側の砲を撃ち終えて百八十度回転しようとした時異変がおきた。春日丸が走力をあげて逃げにかかったのである。船の性能を考えれば、長引けば長引くほど春日丸は不利である。春日丸は十六ノット。対する開陽丸は十二ノットである。榎本は追撃は不可能と悟り、この海戦の最中行方をくらました翔凰丸の行方を追うこととした。
その翔凰丸は、阿波沖の蒲生田岬と伊島の間の橋杭の瀬を通過中だった。船体の破損がひどい。浸水が始まっており、それが蒸気機関にまで及ぼうとしていた。薩摩人たちは手に手に桶を持って、ずぶ濡れになりながら水をくみ出そうとする。しかしやがてそれも限界に近づいた。
「こげんなったもんは致し方ごわはん! 全員離艦、カッターをおろせ」
艦長の命令で乗り組み員たちは、次から次へと小舟で翔凰丸から離れていく。全員が船から離れた後、翔凰丸に火がかけられた。開陽丸がようやく翔凰丸を発見した時には、すでに船は炎上した後だった。
「敵ながらあっぱれな連中だ」
榎本はその光景を見ながら、思わず感嘆した。
この阿波沖海戦を榎本は勝利とした。しかし薩摩側は引き分けと記した。榎本は開陽丸と共に一月六日午後、天保山沖に停泊した。艦長の榎本が陸上での戦いの様子を知るため大坂城に入っている間に、信じられない事態が勃発する。
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