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【第二章】長州の反撃
四境戦争・大島口、芸州口
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(一)
慶応二年(一八六六)一月二十一日、薩摩藩家老・小松帯刀邸にて、薩長の同盟は正式に文章とされ締結された。主な内容はおよそ次のようだったといわれる。
1.長州藩が幕府と戦争になったら、薩摩藩はすぐに2000ほどの兵を差し向かわせ、在京の兵と合し、大阪にも1000人ほどを配置して京都、大阪の両所を固める
1.長州藩が勝利する戦況になった場合、朝廷に進言してかならず調停に力を尽くす
1.万が一、長州藩が負けた場合でも1年や半年で壊滅するようなことはないだろうから、その間は必ず長州藩を助ける為に尽力する
1.戦争が終わり幕府軍が東帰した場合には、薩摩は朝廷から長州藩の冤罪を免ずる運びになるよう力を尽くす
1.一橋、会津、桑名などが兵力を増強し、朝廷を利用して薩摩の妨害に出るようなら、薩摩も決戦に及ぶ他ないものとする
1.長州藩の冤罪御免しが得られたら、薩長双方は誠意を持ち力を合わせ、皇国のために力を尽くす。勝敗いずれの場合でも、国と天皇の威光の回復のために誠心誠意、力を尽くす
立会人となった土佐の脱藩浪人坂本龍馬が、この薩長同盟の内容を保障する裏書きをしたといわれる。
一方、このような事態の急転を知ってか知らずか幕府はもたついていた。
将軍家茂が第二次長州征討のため、大坂城に入ったのが慶応元年五月二十五日のことだった。この間、幕府としては藩主父子の謝罪などを命じてきたが、長州藩側では言を左右にしてこれに応じようとはしない。
しかも幕府にとりさらに不幸だったのは、この長州征伐に参陣を命じられた諸藩の多くが、戦いに大義がないとして、極めて消極的な姿勢だったことである。
慶応二年四月、広島に到着していた幕府老中小笠原長行は、長州藩主父子及び岩国藩主などの出頭を命じてきた。それでも長州藩側は時間稼ぎに終始して、事はいっこうに進展しなかった。
ついに長行は、長州藩側の使者に対し藩主父子の蟄居、十万石の削減という厳しい内容をつきつける。また尋問のため木戸貫治、高杉晋作をはじめとする長州人十二人を広島に出頭させるようとも命じてきた。
五月二十九日、長州藩は幕命拒否を正式に伝えてきた。これを受け小笠原長行は長州征討軍九州方面軍指揮として軍艦で小倉に向かう。征長総督の徳川茂承が広島に到着したのは六月五日のことだった。
(二)
長州藩国境は戦争は、もはやさけられぬものと異様な空気につつまれていた。幕軍は、すでに長州藩との四つの国境に大軍を配置していたのである。それが小倉口、石州口、芸州口、大島口だった。
六月七日、このうち大島口でついに戦闘が開始された。幕府のほこる軍艦富士山丸が長州藩領上関村沖に出現。猛烈な艦砲射撃の後、海岸沿いをゆったりと移動し進路を東にとる。今度は阿月村近くに出現し、十二門の砲をもって艦砲射撃をおこなった。事態はただちに山口へ早馬をもって知らされた。
「とうとう始まったか!」
山口にある藩庁政事堂は緊張した空気につつまれた。
「恐れながら、幕府は四国の諸藩に出兵を命じましたが、実際に動いたのは松山藩兵のみで約千五百、これに幕府軍が千三百ほどでござる。また富士山丸他四隻からなる洋式軍艦が周防大島を攻撃しているとのこと」
藩主である毛利敬親は、物見からの報告に一々鷹揚にうなずいて見せ、また家臣たちからの作戦上の進言にはそのつど「そうせい」と一言いった。
やがて大島の状況が刻一刻と物見の報告によりもたらされるたび、藩主敬親と側近たちの表情はけわしいものとなった。上陸した幕府軍は、島民を見れば子供でも容赦なく斬り捨て、そこかしこで婦女子が犯されているという。しかも軍議の結果は非情なものだった。圧倒的に兵力が足りていない長州側としては、大島は見捨てるより他ないというのである。
「やむをえぬ。そうせい」
と藩主が最終結論を下すと、居並ぶ重臣たちもまたしばし沈黙した。藩が見捨てたということになると、大島の防衛は、わずか数百にすぎない大島兵に委ねられることとなる。
「このこと、馬関にいる高杉晋作にはしらせるな。奴は血の気が多い。知れば何をしでかすかわからんからな」
敬親の側近は声を小さくしていった。しかし事はすぐに晋作にもれた。はたして晋作はすぐに動いた。
六月十日早朝、晋作とわずかな水兵だけを乗せた丙寅丸は、密かに馬関の港をはなれた。この時の汽罐方は土佐人の田中顕助、大砲方は山田市之允である。いずれも艦船での戦闘などまったく経験のないど素人だった。晋作自身もまた、鎧・甲冑を着るでもなく、まるで近所の湯屋に湯浴みにでもゆくような姿で軍艦に乗りこんだという。ちなみに丙寅丸は、五月に晋作が藩の許可をえることもなく、独断で長崎のトーマス・グラバーから購入した軍艦だった。
急ぎ瀬戸内の海を移動するも、その途上、高杉は熱がでてしばし寝室で横になった。市之允が心配そうに晋作の部屋をたずねると、意外にも晋作は元気そうだった。
「しばし夢を見ていた」
と晋作はまず口を開いた。
「夢の中にのう、リンカーンやエゲレスのヴィクトリア女王がでてきよった」
「リンカーンというのは、メリケン国の大統領のリンカーンですか?」
思わぬ名に、市之允はしばし驚きの色をうかべた。高杉は寝室からおきあがると甲板へ多少おぼつかない足取りで歩いてゆき、そこから瀬戸内の海を見た。
「のう市之允、メリケンやエゲレス国ちゅうんは、本当にあの海の彼方のどこかにあるんかいのう?」
「今更なにをいうんです? そのメリケンやエゲレスのおかげで、この日本国は大変なことになっちょるんじゃありませんか」
市之允は苦笑した。
「そうよのう。もしこの戦で生き残ることができたなら、一度でいいから見てみたいのうメリケンやエゲレスを……。じゃが幕府軍はおよそ十万、すべては夢じゃ夢じゃのう」
晋作は妙に感傷的になっていた。
やがて海面に四隻からなる幕府艦隊のシルエットが、満月に照らされ、鮮明に浮かびあがった。
「きれいだ……」
晋作はまるで、汚れのない処女の肢体でも見るような目で幕府艦隊を見た。そして一句よんだ。
海門千里 雲と連なり
碧瓦 錦楼 水に映じて鮮やかなり
前帝の幽魂 何れの処にか在る
渚煙 空しく鎖す 幽闇の天
幕府軍艦は久賀沖に錨をおろして停泊していた。海上での夜襲など予想しておらず、汽罐の火も落としていた。晋作の狙いはそこにあった。丙寅丸は幕府艦隊にゆっくりと近づく。
「市! 今だ撃てぇ!」
市之允は左舷四門の砲を走りながら砲手を叱咤する。まず幕軍の艦隊のうち翔鶴丸に四発みまった。翔鶴丸の乗組員たちは船体の激震で目を覚ました。しかしまだ何がおきているのかわからない。
続いて富士山丸に四発、八雲丸に二発みまった。幕軍の艦隊からは、かろうじて戦闘態勢をととのえた兵士たちが小銃などを乱射してくるが、肝心の艦船を動かすことができない。ようやく戦闘態勢をとる頃には、丙寅丸ははるか遠方へと逃げ去っていた。
しかしこの直後不幸はおこった。突如として晋作が吐血して、絶対安静の状態となったのである。
「このこと他の者には内密にしろ。今が正念場だ、わしが病だと知れれば長州は崩壊するやもしれぬ」
と高杉は恐ろしい顔でいった。
この後、馬関に戻った市之允は、藩の命令により引き続き芸州口へとおもむくこととなった。
「市、聞くところによると芸州口の先鋒隊は井伊の赤備隊らしい。奴らこそまさしく先生の仇じゃ。目にものみせちゃれ! 決してぬかるなよ」
市之允は小さくうなずいた。去り際、晋作がかすかにほほ笑んだのが印象的だった。そしてこれが両者の今生の別れとなるのである。
(三)
すでに芸州・広島城には五万の幕府軍が集結していた。迎え撃つ長州藩は岩国兵が主力である。これに市之允率いる御楯隊・吉敷隊などが加わり全て合わせても、およそ千ほどにすぎない。御盾隊は和木村の川岸の竹やぶに陣を敷き、息をこらして敵を待ち受けていた。大将は宍戸備前、総督は、岩国領主の吉川経幹(監物)である。主力部隊は関戸の峠を越えて小瀬村に入り、苦の坂に近い小原に陣を置いた。
「恐れながら、敵の先鋒は彦根藩の部隊のもよう。紀伊藩、与板藩の部隊が続き、油見村顕徳寺に陣を置いたとのことでござる。すでに彦根藩の五千の兵は大竹村の大瀧神社に進み、一部は小瀬川(現在の大和橋付近)に布陣しているもよう」
「うむ大儀であった」
物見の報告に対し、岩国兵をあずかる吉川経幹は湯漬けを食らいながらいった。
六月十三日未明のことである。彦根藩は、竹原七郎平と曽根佐十郎という者を使者に立て小瀬川を渡らせた。竹原七朗平は封書を高く掲げ川を渡るも、対岸の長州勢からはこれがよく見えなかった。川の中央にさしかかったとき、長州側からの銃撃に遭い二人は無情にも命を落とす。
これをきっかけに問答無用で戦闘開始となった。先陣の彦根勢は、関ケ原以来天下に精強をうたわれた井伊の赤備え隊である。全軍朱一色の部隊が一斉に小瀬川を渡る様は実に圧巻といっていい。数ではるかに劣る長州勢は、この炎のような部隊の中に消える運命であるかのように思えた。
しかし甲冑に陣羽織、槍刀や火縄銃、そして戦場では太鼓を打ちならし、法螺貝の音を合図にするという、いわば井伊隊は関ケ原の合戦時からなにもかわってはいなかった。一方の長州勢は軽装である。そして新式のミニェー銃を所持していた。そのため彦根藩兵は想定外の犠牲をだすことになる。
彦根藩兵は一時崩れるも、そこは数ではるかに勝る部隊である。次第に長州勢は押され気味になる。しかし昼頃になり新手の部隊が出現する。和木村から進出してきた市之允に率いられてきた御盾隊だった。この時、彦根藩兵は敵陣にさっそうとひるがえる不思議な旗を見た。そこには白地に何やら文字が書かれていた。
「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」
「見たか彦根の赤鬼ども! この句はな、安政の年に大老だったおまえらの主に無残にも殺された我が師松陰先生の辞世の句だ! 今こそ先生の無念晴らしてくれる」
御盾隊ひきいる市之允は、やや興奮した顔でいった。
この時、御盾隊は先頭部隊を広く散開させて、射撃により敵を攻撃する三兵戦術を用いた。戦史的にみると三兵戦術を最初に用いたのは、独立戦争時のアメリカであった。地形を利用した効率的な射撃で、密集隊形の英国軍を撃破したといわれる。また十九世紀にはいるとナポレオンもまた、烏合の衆にすぎないフランス国民軍をして、ヨーロッパでの戦いに勝ちぬくため三兵戦術を用いたといわれる。
これにより、彦根藩兵は腹背に敵を受けることとなった。
「よし! 今こそ我が岩国兵が、戦場でただ飯を食らっているだけではないことを天下に知らしめる好機ぞ!」
劣勢に立たされた岩国兵は、一気に反撃に転じた。なにしろ関ケ原の合戦時と同じ重い甲冑に身を包んだ彦根藩兵である。軽装で、素早く敵を迎え撃つ長州軍にいいようにほんろうされることとなった。兵としての練度においても、彦根藩兵にはすでに、徳川の最精鋭部隊と恐れられた面影はなかった。一旦崩れだすともはやたてなおす術はなく、後は「戦闘」ではなく「狩り」だった。川は赤い甲冑に身を包んだ兵士の屍と、流された血で朱にそまった。
しかし戦いはこれで終わったわけではなかった。六月十九日、大野四十八坂で再び戦闘が開始された。急勾配の坂の上に越後・与板藩の部隊が陣どっていた。この部隊を率いるのは藩主の井伊直安である。あの井伊直弼の四男だった。この時十五歳である。両軍が対峙し、いよいよ戦が始まろうとする頃、直安は坂の下の長州勢にむかって大音声をあげた。
「長州の者どもよく見よ! これはこの前の返礼だ! おまえたちに我が父の無念わかるか」
そこには、やはり白地に文字が書かれた旗が高々と掲げられていた。それはまさしく大老・井伊直弼が殺される直前によんだ句だった。
「咲きかけし 猛たけき心の 一房は 散りての後ぞ 世に匂いける」
「我が父がいかな断腸の思いでこの国を開き、いかな思いで死んでいったか貴様らにはわかるまい。お主等が師の思いと共に戦うなら、わしは父の思いと共に戦ってみせる! いつでも攻めかかってくるがいい!」
「己許せん! 鉄砲を放て!」
御盾隊の市之允は、半ばむきになり坂の上に陣どる与板藩の軍勢めがけてミニェー銃を撃ちかけた。この発砲が合図となり激戦が展開された。長州勢は戦いを優位にすすめるも、ここに新手の敵として紀州藩兵が出現する。紀州藩兵は軍の洋式訓練をすすめており彦根藩兵などよりもはるかに強かった。こうして芸州口の戦線は膠着状態に入るのである。
しかし長州側のいう四境戦争の最大の鍵は、やはり関門海峡を挟んだ小倉口にあるといっていいだろう。ここには長州の命運をにぎる高杉晋作がいた。しかしこの時、頼みの晋作の病は刻一刻と悪化していたのである。
慶応二年(一八六六)一月二十一日、薩摩藩家老・小松帯刀邸にて、薩長の同盟は正式に文章とされ締結された。主な内容はおよそ次のようだったといわれる。
1.長州藩が幕府と戦争になったら、薩摩藩はすぐに2000ほどの兵を差し向かわせ、在京の兵と合し、大阪にも1000人ほどを配置して京都、大阪の両所を固める
1.長州藩が勝利する戦況になった場合、朝廷に進言してかならず調停に力を尽くす
1.万が一、長州藩が負けた場合でも1年や半年で壊滅するようなことはないだろうから、その間は必ず長州藩を助ける為に尽力する
1.戦争が終わり幕府軍が東帰した場合には、薩摩は朝廷から長州藩の冤罪を免ずる運びになるよう力を尽くす
1.一橋、会津、桑名などが兵力を増強し、朝廷を利用して薩摩の妨害に出るようなら、薩摩も決戦に及ぶ他ないものとする
1.長州藩の冤罪御免しが得られたら、薩長双方は誠意を持ち力を合わせ、皇国のために力を尽くす。勝敗いずれの場合でも、国と天皇の威光の回復のために誠心誠意、力を尽くす
立会人となった土佐の脱藩浪人坂本龍馬が、この薩長同盟の内容を保障する裏書きをしたといわれる。
一方、このような事態の急転を知ってか知らずか幕府はもたついていた。
将軍家茂が第二次長州征討のため、大坂城に入ったのが慶応元年五月二十五日のことだった。この間、幕府としては藩主父子の謝罪などを命じてきたが、長州藩側では言を左右にしてこれに応じようとはしない。
しかも幕府にとりさらに不幸だったのは、この長州征伐に参陣を命じられた諸藩の多くが、戦いに大義がないとして、極めて消極的な姿勢だったことである。
慶応二年四月、広島に到着していた幕府老中小笠原長行は、長州藩主父子及び岩国藩主などの出頭を命じてきた。それでも長州藩側は時間稼ぎに終始して、事はいっこうに進展しなかった。
ついに長行は、長州藩側の使者に対し藩主父子の蟄居、十万石の削減という厳しい内容をつきつける。また尋問のため木戸貫治、高杉晋作をはじめとする長州人十二人を広島に出頭させるようとも命じてきた。
五月二十九日、長州藩は幕命拒否を正式に伝えてきた。これを受け小笠原長行は長州征討軍九州方面軍指揮として軍艦で小倉に向かう。征長総督の徳川茂承が広島に到着したのは六月五日のことだった。
(二)
長州藩国境は戦争は、もはやさけられぬものと異様な空気につつまれていた。幕軍は、すでに長州藩との四つの国境に大軍を配置していたのである。それが小倉口、石州口、芸州口、大島口だった。
六月七日、このうち大島口でついに戦闘が開始された。幕府のほこる軍艦富士山丸が長州藩領上関村沖に出現。猛烈な艦砲射撃の後、海岸沿いをゆったりと移動し進路を東にとる。今度は阿月村近くに出現し、十二門の砲をもって艦砲射撃をおこなった。事態はただちに山口へ早馬をもって知らされた。
「とうとう始まったか!」
山口にある藩庁政事堂は緊張した空気につつまれた。
「恐れながら、幕府は四国の諸藩に出兵を命じましたが、実際に動いたのは松山藩兵のみで約千五百、これに幕府軍が千三百ほどでござる。また富士山丸他四隻からなる洋式軍艦が周防大島を攻撃しているとのこと」
藩主である毛利敬親は、物見からの報告に一々鷹揚にうなずいて見せ、また家臣たちからの作戦上の進言にはそのつど「そうせい」と一言いった。
やがて大島の状況が刻一刻と物見の報告によりもたらされるたび、藩主敬親と側近たちの表情はけわしいものとなった。上陸した幕府軍は、島民を見れば子供でも容赦なく斬り捨て、そこかしこで婦女子が犯されているという。しかも軍議の結果は非情なものだった。圧倒的に兵力が足りていない長州側としては、大島は見捨てるより他ないというのである。
「やむをえぬ。そうせい」
と藩主が最終結論を下すと、居並ぶ重臣たちもまたしばし沈黙した。藩が見捨てたということになると、大島の防衛は、わずか数百にすぎない大島兵に委ねられることとなる。
「このこと、馬関にいる高杉晋作にはしらせるな。奴は血の気が多い。知れば何をしでかすかわからんからな」
敬親の側近は声を小さくしていった。しかし事はすぐに晋作にもれた。はたして晋作はすぐに動いた。
六月十日早朝、晋作とわずかな水兵だけを乗せた丙寅丸は、密かに馬関の港をはなれた。この時の汽罐方は土佐人の田中顕助、大砲方は山田市之允である。いずれも艦船での戦闘などまったく経験のないど素人だった。晋作自身もまた、鎧・甲冑を着るでもなく、まるで近所の湯屋に湯浴みにでもゆくような姿で軍艦に乗りこんだという。ちなみに丙寅丸は、五月に晋作が藩の許可をえることもなく、独断で長崎のトーマス・グラバーから購入した軍艦だった。
急ぎ瀬戸内の海を移動するも、その途上、高杉は熱がでてしばし寝室で横になった。市之允が心配そうに晋作の部屋をたずねると、意外にも晋作は元気そうだった。
「しばし夢を見ていた」
と晋作はまず口を開いた。
「夢の中にのう、リンカーンやエゲレスのヴィクトリア女王がでてきよった」
「リンカーンというのは、メリケン国の大統領のリンカーンですか?」
思わぬ名に、市之允はしばし驚きの色をうかべた。高杉は寝室からおきあがると甲板へ多少おぼつかない足取りで歩いてゆき、そこから瀬戸内の海を見た。
「のう市之允、メリケンやエゲレス国ちゅうんは、本当にあの海の彼方のどこかにあるんかいのう?」
「今更なにをいうんです? そのメリケンやエゲレスのおかげで、この日本国は大変なことになっちょるんじゃありませんか」
市之允は苦笑した。
「そうよのう。もしこの戦で生き残ることができたなら、一度でいいから見てみたいのうメリケンやエゲレスを……。じゃが幕府軍はおよそ十万、すべては夢じゃ夢じゃのう」
晋作は妙に感傷的になっていた。
やがて海面に四隻からなる幕府艦隊のシルエットが、満月に照らされ、鮮明に浮かびあがった。
「きれいだ……」
晋作はまるで、汚れのない処女の肢体でも見るような目で幕府艦隊を見た。そして一句よんだ。
海門千里 雲と連なり
碧瓦 錦楼 水に映じて鮮やかなり
前帝の幽魂 何れの処にか在る
渚煙 空しく鎖す 幽闇の天
幕府軍艦は久賀沖に錨をおろして停泊していた。海上での夜襲など予想しておらず、汽罐の火も落としていた。晋作の狙いはそこにあった。丙寅丸は幕府艦隊にゆっくりと近づく。
「市! 今だ撃てぇ!」
市之允は左舷四門の砲を走りながら砲手を叱咤する。まず幕軍の艦隊のうち翔鶴丸に四発みまった。翔鶴丸の乗組員たちは船体の激震で目を覚ました。しかしまだ何がおきているのかわからない。
続いて富士山丸に四発、八雲丸に二発みまった。幕軍の艦隊からは、かろうじて戦闘態勢をととのえた兵士たちが小銃などを乱射してくるが、肝心の艦船を動かすことができない。ようやく戦闘態勢をとる頃には、丙寅丸ははるか遠方へと逃げ去っていた。
しかしこの直後不幸はおこった。突如として晋作が吐血して、絶対安静の状態となったのである。
「このこと他の者には内密にしろ。今が正念場だ、わしが病だと知れれば長州は崩壊するやもしれぬ」
と高杉は恐ろしい顔でいった。
この後、馬関に戻った市之允は、藩の命令により引き続き芸州口へとおもむくこととなった。
「市、聞くところによると芸州口の先鋒隊は井伊の赤備隊らしい。奴らこそまさしく先生の仇じゃ。目にものみせちゃれ! 決してぬかるなよ」
市之允は小さくうなずいた。去り際、晋作がかすかにほほ笑んだのが印象的だった。そしてこれが両者の今生の別れとなるのである。
(三)
すでに芸州・広島城には五万の幕府軍が集結していた。迎え撃つ長州藩は岩国兵が主力である。これに市之允率いる御楯隊・吉敷隊などが加わり全て合わせても、およそ千ほどにすぎない。御盾隊は和木村の川岸の竹やぶに陣を敷き、息をこらして敵を待ち受けていた。大将は宍戸備前、総督は、岩国領主の吉川経幹(監物)である。主力部隊は関戸の峠を越えて小瀬村に入り、苦の坂に近い小原に陣を置いた。
「恐れながら、敵の先鋒は彦根藩の部隊のもよう。紀伊藩、与板藩の部隊が続き、油見村顕徳寺に陣を置いたとのことでござる。すでに彦根藩の五千の兵は大竹村の大瀧神社に進み、一部は小瀬川(現在の大和橋付近)に布陣しているもよう」
「うむ大儀であった」
物見の報告に対し、岩国兵をあずかる吉川経幹は湯漬けを食らいながらいった。
六月十三日未明のことである。彦根藩は、竹原七郎平と曽根佐十郎という者を使者に立て小瀬川を渡らせた。竹原七朗平は封書を高く掲げ川を渡るも、対岸の長州勢からはこれがよく見えなかった。川の中央にさしかかったとき、長州側からの銃撃に遭い二人は無情にも命を落とす。
これをきっかけに問答無用で戦闘開始となった。先陣の彦根勢は、関ケ原以来天下に精強をうたわれた井伊の赤備え隊である。全軍朱一色の部隊が一斉に小瀬川を渡る様は実に圧巻といっていい。数ではるかに劣る長州勢は、この炎のような部隊の中に消える運命であるかのように思えた。
しかし甲冑に陣羽織、槍刀や火縄銃、そして戦場では太鼓を打ちならし、法螺貝の音を合図にするという、いわば井伊隊は関ケ原の合戦時からなにもかわってはいなかった。一方の長州勢は軽装である。そして新式のミニェー銃を所持していた。そのため彦根藩兵は想定外の犠牲をだすことになる。
彦根藩兵は一時崩れるも、そこは数ではるかに勝る部隊である。次第に長州勢は押され気味になる。しかし昼頃になり新手の部隊が出現する。和木村から進出してきた市之允に率いられてきた御盾隊だった。この時、彦根藩兵は敵陣にさっそうとひるがえる不思議な旗を見た。そこには白地に何やら文字が書かれていた。
「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」
「見たか彦根の赤鬼ども! この句はな、安政の年に大老だったおまえらの主に無残にも殺された我が師松陰先生の辞世の句だ! 今こそ先生の無念晴らしてくれる」
御盾隊ひきいる市之允は、やや興奮した顔でいった。
この時、御盾隊は先頭部隊を広く散開させて、射撃により敵を攻撃する三兵戦術を用いた。戦史的にみると三兵戦術を最初に用いたのは、独立戦争時のアメリカであった。地形を利用した効率的な射撃で、密集隊形の英国軍を撃破したといわれる。また十九世紀にはいるとナポレオンもまた、烏合の衆にすぎないフランス国民軍をして、ヨーロッパでの戦いに勝ちぬくため三兵戦術を用いたといわれる。
これにより、彦根藩兵は腹背に敵を受けることとなった。
「よし! 今こそ我が岩国兵が、戦場でただ飯を食らっているだけではないことを天下に知らしめる好機ぞ!」
劣勢に立たされた岩国兵は、一気に反撃に転じた。なにしろ関ケ原の合戦時と同じ重い甲冑に身を包んだ彦根藩兵である。軽装で、素早く敵を迎え撃つ長州軍にいいようにほんろうされることとなった。兵としての練度においても、彦根藩兵にはすでに、徳川の最精鋭部隊と恐れられた面影はなかった。一旦崩れだすともはやたてなおす術はなく、後は「戦闘」ではなく「狩り」だった。川は赤い甲冑に身を包んだ兵士の屍と、流された血で朱にそまった。
しかし戦いはこれで終わったわけではなかった。六月十九日、大野四十八坂で再び戦闘が開始された。急勾配の坂の上に越後・与板藩の部隊が陣どっていた。この部隊を率いるのは藩主の井伊直安である。あの井伊直弼の四男だった。この時十五歳である。両軍が対峙し、いよいよ戦が始まろうとする頃、直安は坂の下の長州勢にむかって大音声をあげた。
「長州の者どもよく見よ! これはこの前の返礼だ! おまえたちに我が父の無念わかるか」
そこには、やはり白地に文字が書かれた旗が高々と掲げられていた。それはまさしく大老・井伊直弼が殺される直前によんだ句だった。
「咲きかけし 猛たけき心の 一房は 散りての後ぞ 世に匂いける」
「我が父がいかな断腸の思いでこの国を開き、いかな思いで死んでいったか貴様らにはわかるまい。お主等が師の思いと共に戦うなら、わしは父の思いと共に戦ってみせる! いつでも攻めかかってくるがいい!」
「己許せん! 鉄砲を放て!」
御盾隊の市之允は、半ばむきになり坂の上に陣どる与板藩の軍勢めがけてミニェー銃を撃ちかけた。この発砲が合図となり激戦が展開された。長州勢は戦いを優位にすすめるも、ここに新手の敵として紀州藩兵が出現する。紀州藩兵は軍の洋式訓練をすすめており彦根藩兵などよりもはるかに強かった。こうして芸州口の戦線は膠着状態に入るのである。
しかし長州側のいう四境戦争の最大の鍵は、やはり関門海峡を挟んだ小倉口にあるといっていいだろう。ここには長州の命運をにぎる高杉晋作がいた。しかしこの時、頼みの晋作の病は刻一刻と悪化していたのである。
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激動の時代、誠を貫いた新撰組の歴史と土方歳三の愛と人生、そして君菊の人生を描いたおはなし。
参考・引用文献
土方歳三 新撰組の組織者<増補新版>新撰組結成150年
図説 新撰組 横田淳
新撰組・池田屋事件顛末記 冨成博
富嶽を駆けよ
有馬桓次郎
歴史・時代
★☆★ 第10回歴史・時代小説大賞〈あの時代の名脇役賞〉受賞作 ★☆★
https://www.alphapolis.co.jp/prize/result/853000200
天保三年。
尾張藩江戸屋敷の奥女中を勤めていた辰は、身長五尺七寸の大女。
嫁入りが決まって奉公も明けていたが、女人禁足の山・富士の山頂に立つという夢のため、養父と衝突しつつもなお深川で一人暮らしを続けている。
許婚の万次郎の口利きで富士講の大先達・小谷三志と面会した辰は、小谷翁の手引きで遂に富士山への登拝を決行する。
しかし人目を避けるために選ばれたその日程は、閉山から一ヶ月が経った長月二十六日。人跡の絶えた富士山は、五合目から上が完全に真冬となっていた。
逆巻く暴風、身を切る寒気、そして高山病……数多の試練を乗り越え、無事に富士山頂へ辿りつくことができた辰であったが──。
江戸後期、史上初の富士山女性登頂者「高山たつ」の挑戦を描く冒険記。
大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜
佐倉 蘭
歴史・時代
★第9回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★
「近頃、吉原にて次々と遊女の美髪を根元より切りたる『髪切り』現れり。狐か……はたまた、物の怪〈もののけ〉或いは、妖〈あやかし〉の仕業か——」
江戸の人々が行き交う天下の往来で、声高らかに触れ回る讀賣(瓦版)を、平生は鳶の火消しでありながら岡っ引きだった亡き祖父に憧れて、奉行所の「手先」の修行もしている与太は、我慢ならぬ顔で見ていた。
「是っ非とも、おいらがそいつの正体暴いてよ——お縄にしてやるぜ」
※「今宵は遣らずの雨」 「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」に関連したお話でネタバレを含みます。
GAME CHANGER 日本帝国1945からの逆襲
俊也
歴史・時代
時は1945年3月、敗色濃厚の日本軍。
今まさに沖縄に侵攻せんとする圧倒的戦力のアメリカ陸海軍を前に、日本の指導者達は若者達による航空機の自爆攻撃…特攻 で事態を打開しようとしていた。
「バカかお前ら、本当に戦争に勝つ気があるのか!?」
その男はただの学徒兵にも関わらず、平然とそう言い放ち特攻出撃を拒否した。
当初は困惑し怒り狂う日本海軍上層部であったが…!?
姉妹作「新訳 零戦戦記」共々宜しくお願い致します。
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