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旅立ち
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(一)
時は文久三年(一八六三)二月、江戸では浪人の一団およそ二百人が、遠く京都を目指し長い旅に出立した。
これは庄内出身の郷士清川八郎の献策だった。昨今、治安がおおいに乱れている京の秩序維持と、近々上洛する手はずになっている将軍警護のため、大々的に行われた浪士募集に応じた者たちであった。その中に近藤勇を頭とする試衛館出身者もまじっていた。
やがて一行は東海道を西進し、駿河の国に入り富士を仰ぎみることとなる。
「そりゃこの日の本一の豪傑といったら神君家康公に決まってるわな」
富士を見上げながら旅姿の試衛館一行の間で、日本国の歴史上一番の英傑は誰かという議論が始まった。最初に口を開いたのは館長の近藤勇だった。
「果たして本当にそうでござろうか? 権現様とてかの武田信玄公にはまるで歯がたたなかったはず」
と次に発言したのは近藤、土方と同じ日野の出身で井上源三郎だった。この時三十四歳で剣は天然理心流だった。荒れくれ者の多い試衛館のメンバーの中で人柄は至って温厚であったといわれる。
「信玄公か? まあ甲州がもう少し豊かな土地であったらなあ……」
近藤はぼそりと言った。
「いや、家康公にせよ数多の戦国武将にせよ、室町幕府をつくった足利尊氏公にせよ、多くの武家にとり見本となったのはやはり源頼朝公であろう」
と持論を展開したのは、松前藩出身の永倉新八だった。剣は神道無念流と心形刀流を学び試衛館メンバーの中でも最強の呼び声も高いつわものだった。この時二十四歳である。
「自分たち奥州者としては頼朝公より義経公こそ武家の誉れでしょう。おごる平家を西海に追いやり滅亡まで追いこんだ軍事の才はずばぬけていた。義経公あっての頼朝公といっていいでしょう」
とにこにこしながらいったのは、白河藩出身のあの沖田総司だった。この時二十一歳である。
「奥州者は単純でよいのう。義経公あっての頼朝公ではない。その逆、頼朝公あっての義経公なのだ。頼朝がいなければ義経もその軍事の才を存分に発揮することはできなかっただろう。まあ奥州藤原氏は愚かだったな。義経のような厄介者さえ、招きいれなければ奥州藤原氏も今すこし存続したであろうに」
反論したのは伊予の国出身で原田左之助で、種田流の槍術の達人であったといわれる。この時二十三歳であった。
「いやそれは違いますぞ。義経殿がいてもいなくても頼朝公は藤原秀衡殿さえ世を去れば、例え針の穴ほどのことでも口実を見つけて藤原氏を滅ぼしていたでしょう。むしろ藤原氏のとるべき道は、軍事の天才義経公とともに及ばずとも、鎌倉と一戦まじえることだったでしょう」
とこれまた反論したのは、やはり奥州仙台藩出身で山南敬助だった。
「まあいずれにせよ英雄豪傑なんてものは儚いものだな。家康公はともかく、信玄公も謙信公も信長公も天下を望みながら志半ばで世を去り、源氏や平家は天下は取っても後が続かなかった」
近藤が、しみじみというと一同の間にしばし静寂があった。
「皆、一人大事な方を忘れておられるぞ!」
突然口を開いたのは、今まで沈黙していた土方歳三でこの時二十九歳。
「ここにおわす近藤さんこそ、日本国第一の英雄であるぞ!」
土方が半ば真剣な顔でいうので一同大笑いした。当の近藤も笑った。彼らは後に新選組の中核を構成していくメンバーであり、この時はそのいずれもがゆくゆくは天下を取るほどの気概でいた。しかし、彼らの中でかろうじて明治の世を迎えられたのは数えるほどしかいなかったのである。
土方が試衛館に入門したのは安政六年(一八五九)のことだったといわれる。この時はまだ道場の主は先代の天然理心流三代目近藤周助だった。その養子の勇は、この時は勝太と名乗っていた。
勝太は土方を幼い頃からよく知っていた。子供の時分からバラガキの歳といわれるほど気性の荒い一方で、何をやってあきやすく辛抱の足りない男だった。
農家の末っ子に生まれ、十一で上野松阪屋に最初の奉公にだされた。この時は番頭と大喧嘩をして店を追い出されたという。
十七歳で日本橋大伝馬町のさる呉服店に再び奉公したが、この時は女中に手を出して店を追い出されたという。
それ以来石田散薬という土方家伝来の薬の行商をしながら、もう二十五にもなる。
「年齢も年齢だし、今から本格的に剣術修行をしても果たしてものになるかどうか?」
勝太な難色をしめしたが結局は入門を許可することになった。当時試衛館の経営を経済的に支えていたスポンサーといっていい佐藤彦五郎という豪農の紹介であったからである。
ようやく入塾を許可された土方であったが、初稽古の相手原田左之助に羽目板まで飛ばされたうえ、強力な面をくらいその場に昏倒してしまう。
「おめえさんは剣術修行には向かない。石田村に帰ったほうがいい」
あまりに不甲斐ない有様を見かねた勝太は、自分の部屋に土方を呼ぶと背を向けたままでいった。
「そんなこといわないでくれ。俺はガキの時からあんたが好きだった。俺はずっとあんたと一緒にいたいんだ。どんな辛い修行にもたえるつもりでいる」
「歳三よ、おめえ自分の顔鏡で見たことあるかい? おめえさんのその面じゃ、どう考えても剣術を志すより役者を目指したほうがいい。稽古で切り傷だらけになったら、せっかくの色男が台無しってもんだぜ」
近藤は苦笑しながらいう。
「いや、俺はあんたと一緒にいたら天下だって取れるような気がするんだ。顔なんてどうなったっていい。頼むこの通りだ! そばに置いてくれ!」
地に頭をこすりつけて頼むので近藤は困惑し、一つだけ条件を提示した。
「そういや最近日野のあたりじゃ、人食い狼が出没して村人が困っているそうだ。どうだおめえさん行ってそいつを退治してくれねえか? 五日以内に狼を退治して、ここに連れてくれば入門を許可してやってもいいぜ」
近藤にしてみれば半ば冗談のつもりだった。しかし土方は本気にした。そして約束の五日目の夕刻、土方は全身泥と切り傷にまみれ、ぼろぼろの袴姿で道場に姿を現わした。背中に狼の死骸を背負っていた。
「俺はあんたと一緒に天下を……」
そこまでいうと、土方はその場に力尽き倒れてしまった。
こうして正式に入門を許された土方は、近藤たちの予想に反して厳しい修行にもよく耐えた。最も、それでも剣の腕前からすれば天然理心流の階級でいえば中位目録程度。いわば下から三番目ほどである。沖田総司や永倉新八といった天性の剣士からすると、遠く及ばないものであった。
(二)
さて江戸幕府による功績は多くあるが道路網の整備は、そのなかでも最も大きなものといえるだろう。江戸期以前には、この国には宿といわれるものは存在しなかった。旅人は基本的に野宿するか、近在の寺に一夜の宿を求めるしかなかったのである。もちろん夜盗や盗賊の類もいて危険極まりない。徳川時代道路網が整備され、旅人のために宿が提供されるようになった背景には、あの参勤交代の影響も大きかったといわれる。
ちなみに当時だと一里は約四キロほどだった。今、近藤たちが歩いている東海道は江戸から京まで続き約一二六里つまりおよそ四九四キロほどということになる。その間五十三箇所ほどの宿場が存在した。この時代、女性の一人旅も珍しくなく、治安ということになると、恐らく世界でもっとも安全な国だっただろう。当時は一日に、四十キロも歩いた人間もいるというから驚きである。それが飛脚ともなると、その健脚ぶりは幕末日本を訪れた外国人を驚嘆させたほどであった。
一行を仕切るのは奥州・庄内藩出身の清川八郎という男である。清川はこの時三十三歳。武士の家ではなく、かなり裕福な豪農の家に生まれたという清川は、庄内の男らしく色白であった。そして顔が角張り、眼光が鋭く、かなりの美男子だった。剣は北辰一刀流の免許皆伝。学問は江戸・昌平黌に学んだ秀才だった。また天才的な弁論術をもっていた。
「世が世なら俺は天下を取っていたはずだ」
と心中思うほどに自負心は強い。一時ささいなことで人を斬って幕吏に追われる身だったというこの男は、野心家でなにより筋金入りの食わせ者だった。都に到着するや否やたちまち本性を現すのである。
三月十六日、まだ長旅の疲れもいえていないというにも関わらず、近藤たち試衛館出身者をはじめ、浪士集団およそ二百名は壬生新徳寺本堂に参集させられた。この時の清川は黒羽二重の紋付き袷に七子の羽織、大小は朱鞘でいかにもシャレ者といった風情である。
「諸君! 長旅ご苦労であった。我々が集ったのはもちろん表向きは将軍警護のためである」
清川は演説をはじめた。実によく通る声である。
「しかし真の目的は他にある。帝を奉じて尊王攘夷を決行するにある!」
座はどよめき始めた。それから清川はその天才的な雄弁術の限りをつくして、自らの尊王の大義を説いた。ゆくゆく帝を自らの掌中のものとする。勅命を得て、天下の有志の者を結集して幕府をも倒し、もって攘夷を決行する。清川がどこまで本気で考えていたかはわからないが、それがための第一歩を踏みだすのは今をおいて他にない。そして清川は演説の最後にこう言った。
「もし帝の命に背くというなら幕府の者といえど容赦はしない。またもし私の考えに納得がいかない。我々と行動を共にできぬという者があらば、諸君にもしばし考える時間を与える。遠慮なく申しでるがよい」
演説が終わると座はしばしまたどよめいた。近藤勇他試衛館出身者の驚きもたいへんなものだった。
数日が過ぎた。清川は同士で親友といっていい山岡鉄太郎(後の鉄舟)から浪士たちの様子を聞かされた。
「反対している組は二つほどある」
と鉄太郎は小声でいった。
「一つは芹沢鴨を中心とした水戸出身者の組でござる」
芹沢鴨は三十七歳。水戸天狗党の出身であるらしい。剣は神道無念流の達人であるが、かなり酒癖悪く酔うと誰も止められなかった。つねに巨大な鉄扇を持ち歩き、自らを尽忠愛国の士であると主張してはばからなかった。
「芹沢か? 例の宿割りの一件で試衛館の近藤を散々に悩ませたという……」
事件は一行が中山道の本庄の宿に入った時おこった。芹沢が己の宿がないといって怒号をあげたのである。これは宿割りを命じられた近藤勇の致命的なミスだった。近藤は、やむなく芹沢の前にでて平謝りに謝った。芹沢はようやく近藤を許す気にはなったようである。しかし、その見返りとして手下の水戸出身浪士新見錦、平山五郎などに命じ木材を集めさせ、菜種油をかけて盛大に焚き木をした。
「うむ、あいつは問題が多すぎる。むしろ京に残るというのは好都合だな。もう一派はどこの何者の組だ」
「その近藤を頭とする試衛館の者たちです」
すると清川はしばし沈黙して考えこんだ。
「宿割りではしくじったとはいえ、俺が見たところあの男はあれで使い道がありそうだ。よしそいつは俺が説得することにしよう」
(三)
翌日のことだった。清川は、さる禅宗の寺に近藤を呼びだした。
「おう、おめえさん達は京に残るそうだな。生活の当てはあるのかい?」
「今、皆で相談しつてを探しているところです」
近藤は生真面目に答えた。
「まあ聞きなよ。将軍家に忠義立てするのはいいが、おめえさん達は公方様ってのは本当は何者か考えたことがあるのかい? こういっちゃなんだが、代々ろくでもない奴ばっかしだぜ」
「私たちは将軍が何者であろうと、ただ忠義を尽くすだけです」
もともと口の重い近藤は、それぐらいしか言葉が見当たらなかった。
「今まではそれでよかったろう。だが世の中は急速に変わろうとしている。だいたい将軍家だけでない。三百諸侯なんてものも、たいがいはろくでなしばっかりだ。そしてそれに仕える侍も、ただ上の鼻息をうかがうだけで、いざとなれば槍の使い方もわからない」
そこで清川はキセルをポンと叩いて、近藤の様子をうかがった。近藤はよほど口が重いのか沈黙したままでいる。
「それでは清川殿は、これからの世の中は誰がいかように動かすと?」
近藤はようやく口を開いた。
「知れたことよ、俺たちみたいな郷士が動かすのさ。まあ郷士っていったって語弊があるわな? とにかくそこいらのひょろい旗本連中じゃだめだ。だいたい三百諸国の中じゃ系図をさかのぼるとやれ平家だ源氏だいってるのはいくらでもいる。その大半はかなり胡散臭いな。だが系図が胡散臭いことは実は恥でもなんでもねえ。元亀、天正の頃に氏も素性もない一介の浪人みたいのが、腕一本で世の中をのし上がっていったという、その証拠みたいなもんよ」
「つまり清川殿は我らのような多摩の農民あがりでも、戦国の頃のように、ゆくゆくは一国一城の主になれて世の中を動かすことができると?」
近藤の眉がかすかに動いた。この話は確かに近藤にとっても魅力的ではあった。
「おう、そうよ! そういうことだな。だいたい俺は奥州の出だ。奥州もんってのは特に米ってものには敏感でよぅ。考えてもみろ徳川の世ってのは武士が俸禄として米を支給されて成り立っている。米が流通経済の要だ。だが世の中で物の値段はどんどん上がっているのに、武士に支給される米は幕府創業の頃と変わっていない。そんなことじゃ幕府はいずれ根本から破綻する。食えなくなった侍が大量に浪人になる。そして世の中を動かしていくんだ」
清川のいうところは、例えば吉田松陰がとなえた「草莽崛起」論と通じるところがある。しかし清川の悲劇は松陰同様、歴史という舞台に登場するには早すぎたことだった。
「とにかくこれからは幕府じゃだめだ。京におわす帝がこの国を動かす」
それから清川は、近藤にむかって延々と自らの尊王論を説き続けた。帝を担ぎ詔勅をもって無能な幕府、大名それに仕えている腰抜け侍を国政から遠ざける。そして帝の周りに真に有能な郷士が集い、新たな政府を樹立する。というのが清川の論の趣旨だった。
近藤の額にかすかに脂汗がうかんだ。近藤は清川に比べるとお世辞にも怜悧とはいえず、むしろ比較すると愚鈍なほどの男である。清川のいうところを全ては理解できなかったが、恐るべき計画であることだけは理解できた。
「それで具体的に、あんたどうするつもりなんだ?」
そこで清川はさらに驚くべきことをいった。
「おめえさん生麦事件ってのを知ってるかい?」
「確か薩摩藩の行列を馬で横切った外国人の一行を、薩摩藩の侍が斬り捨てたとか?」
「おれそれよ! ついに薩摩は動いたんだ。俺たちも遅れをとってはいけねえ。江戸に戻り、それから横浜まで行って夷人の屋敷を片っ端から全部焼き討ちにする。どうだいいっしょにやらないかい?」
しかし近藤の返答はそっけないものだった。
「お断り申し上げる」
とあっさり言った。それから清川はその弁論術の限りをつくして近藤を説得したが、近藤は近藤で清川の弁を半分ほどしか理解できていない様子だった。ついに清川は見切りをつけた。
「そうかい、ここまで言ってもだめなら仕方ねえな。残念だが秘密を知った以上生かしておくわけにはいかねえ!」
清川は北辰一刀流の剣の達人である。殺気が両の眼光にうかび、腰の刀に手がかかった。しかしその刹那、動きが早かったのは近藤のほうだった。清川に殺意あると判断するとほぼ同時に、近藤の左手が清川の指ごと刀の柄をつかんでいた。しかも薬指と小指を握りこんで外側にひねった。たまらず清川が体制を崩す。そこに近藤の右拳がガツンという音とともに清川の顔面にめりこんだ。さしもの清川もその場に昏倒し、軽い脳しんとうをおこした。これが天然理心流の柄砕きの巻揚である。
「案ずることはない。攘夷はおおいに結構。存分にやりなさるがよい。それがしは公儀に訴えたりはせん。最もあんたが攘夷を実行なさる前に、恐らくあんた自身が公儀に潰されるでしょう。今から我々は我々の信じる道を行く。さらばにござる」
そういって近藤は平然とその場を去ってしまった。
「信じる道を行くだ? その前にてめえらこそ潰されるのがわからねえのか。いずれ時流という化物にな」
清川は鼻血をたらしながら毒づいた。
結局、近藤の予言は的中する。清川の動きは幕府をおおいに警戒させることとなった。そして江戸に戻ってほどなく、麻布一ノ橋付近で佐々木只三郎という者と遭遇する。剣の達人であった清川だが、あまり佐々木が慇懃に挨拶するので笠のひもに手をかけた。その刹那、只三郎の刀が一閃。背後にいた三人の刺客がいっせいに清川を斬りふせる。清川はたちまち無残な屍と化してしまった。
一方、江戸に残った近藤達は京都守護職をつとめている会津藩主・松平容保の傘下となる。やがて「誠」の旗印のもと新選組として歴史の舞台におどり出るも、やはり清川の予言通り、時流という化物が幾度にもわたってその前途に立ちふさがるのであった。
時は文久三年(一八六三)二月、江戸では浪人の一団およそ二百人が、遠く京都を目指し長い旅に出立した。
これは庄内出身の郷士清川八郎の献策だった。昨今、治安がおおいに乱れている京の秩序維持と、近々上洛する手はずになっている将軍警護のため、大々的に行われた浪士募集に応じた者たちであった。その中に近藤勇を頭とする試衛館出身者もまじっていた。
やがて一行は東海道を西進し、駿河の国に入り富士を仰ぎみることとなる。
「そりゃこの日の本一の豪傑といったら神君家康公に決まってるわな」
富士を見上げながら旅姿の試衛館一行の間で、日本国の歴史上一番の英傑は誰かという議論が始まった。最初に口を開いたのは館長の近藤勇だった。
「果たして本当にそうでござろうか? 権現様とてかの武田信玄公にはまるで歯がたたなかったはず」
と次に発言したのは近藤、土方と同じ日野の出身で井上源三郎だった。この時三十四歳で剣は天然理心流だった。荒れくれ者の多い試衛館のメンバーの中で人柄は至って温厚であったといわれる。
「信玄公か? まあ甲州がもう少し豊かな土地であったらなあ……」
近藤はぼそりと言った。
「いや、家康公にせよ数多の戦国武将にせよ、室町幕府をつくった足利尊氏公にせよ、多くの武家にとり見本となったのはやはり源頼朝公であろう」
と持論を展開したのは、松前藩出身の永倉新八だった。剣は神道無念流と心形刀流を学び試衛館メンバーの中でも最強の呼び声も高いつわものだった。この時二十四歳である。
「自分たち奥州者としては頼朝公より義経公こそ武家の誉れでしょう。おごる平家を西海に追いやり滅亡まで追いこんだ軍事の才はずばぬけていた。義経公あっての頼朝公といっていいでしょう」
とにこにこしながらいったのは、白河藩出身のあの沖田総司だった。この時二十一歳である。
「奥州者は単純でよいのう。義経公あっての頼朝公ではない。その逆、頼朝公あっての義経公なのだ。頼朝がいなければ義経もその軍事の才を存分に発揮することはできなかっただろう。まあ奥州藤原氏は愚かだったな。義経のような厄介者さえ、招きいれなければ奥州藤原氏も今すこし存続したであろうに」
反論したのは伊予の国出身で原田左之助で、種田流の槍術の達人であったといわれる。この時二十三歳であった。
「いやそれは違いますぞ。義経殿がいてもいなくても頼朝公は藤原秀衡殿さえ世を去れば、例え針の穴ほどのことでも口実を見つけて藤原氏を滅ぼしていたでしょう。むしろ藤原氏のとるべき道は、軍事の天才義経公とともに及ばずとも、鎌倉と一戦まじえることだったでしょう」
とこれまた反論したのは、やはり奥州仙台藩出身で山南敬助だった。
「まあいずれにせよ英雄豪傑なんてものは儚いものだな。家康公はともかく、信玄公も謙信公も信長公も天下を望みながら志半ばで世を去り、源氏や平家は天下は取っても後が続かなかった」
近藤が、しみじみというと一同の間にしばし静寂があった。
「皆、一人大事な方を忘れておられるぞ!」
突然口を開いたのは、今まで沈黙していた土方歳三でこの時二十九歳。
「ここにおわす近藤さんこそ、日本国第一の英雄であるぞ!」
土方が半ば真剣な顔でいうので一同大笑いした。当の近藤も笑った。彼らは後に新選組の中核を構成していくメンバーであり、この時はそのいずれもがゆくゆくは天下を取るほどの気概でいた。しかし、彼らの中でかろうじて明治の世を迎えられたのは数えるほどしかいなかったのである。
土方が試衛館に入門したのは安政六年(一八五九)のことだったといわれる。この時はまだ道場の主は先代の天然理心流三代目近藤周助だった。その養子の勇は、この時は勝太と名乗っていた。
勝太は土方を幼い頃からよく知っていた。子供の時分からバラガキの歳といわれるほど気性の荒い一方で、何をやってあきやすく辛抱の足りない男だった。
農家の末っ子に生まれ、十一で上野松阪屋に最初の奉公にだされた。この時は番頭と大喧嘩をして店を追い出されたという。
十七歳で日本橋大伝馬町のさる呉服店に再び奉公したが、この時は女中に手を出して店を追い出されたという。
それ以来石田散薬という土方家伝来の薬の行商をしながら、もう二十五にもなる。
「年齢も年齢だし、今から本格的に剣術修行をしても果たしてものになるかどうか?」
勝太な難色をしめしたが結局は入門を許可することになった。当時試衛館の経営を経済的に支えていたスポンサーといっていい佐藤彦五郎という豪農の紹介であったからである。
ようやく入塾を許可された土方であったが、初稽古の相手原田左之助に羽目板まで飛ばされたうえ、強力な面をくらいその場に昏倒してしまう。
「おめえさんは剣術修行には向かない。石田村に帰ったほうがいい」
あまりに不甲斐ない有様を見かねた勝太は、自分の部屋に土方を呼ぶと背を向けたままでいった。
「そんなこといわないでくれ。俺はガキの時からあんたが好きだった。俺はずっとあんたと一緒にいたいんだ。どんな辛い修行にもたえるつもりでいる」
「歳三よ、おめえ自分の顔鏡で見たことあるかい? おめえさんのその面じゃ、どう考えても剣術を志すより役者を目指したほうがいい。稽古で切り傷だらけになったら、せっかくの色男が台無しってもんだぜ」
近藤は苦笑しながらいう。
「いや、俺はあんたと一緒にいたら天下だって取れるような気がするんだ。顔なんてどうなったっていい。頼むこの通りだ! そばに置いてくれ!」
地に頭をこすりつけて頼むので近藤は困惑し、一つだけ条件を提示した。
「そういや最近日野のあたりじゃ、人食い狼が出没して村人が困っているそうだ。どうだおめえさん行ってそいつを退治してくれねえか? 五日以内に狼を退治して、ここに連れてくれば入門を許可してやってもいいぜ」
近藤にしてみれば半ば冗談のつもりだった。しかし土方は本気にした。そして約束の五日目の夕刻、土方は全身泥と切り傷にまみれ、ぼろぼろの袴姿で道場に姿を現わした。背中に狼の死骸を背負っていた。
「俺はあんたと一緒に天下を……」
そこまでいうと、土方はその場に力尽き倒れてしまった。
こうして正式に入門を許された土方は、近藤たちの予想に反して厳しい修行にもよく耐えた。最も、それでも剣の腕前からすれば天然理心流の階級でいえば中位目録程度。いわば下から三番目ほどである。沖田総司や永倉新八といった天性の剣士からすると、遠く及ばないものであった。
(二)
さて江戸幕府による功績は多くあるが道路網の整備は、そのなかでも最も大きなものといえるだろう。江戸期以前には、この国には宿といわれるものは存在しなかった。旅人は基本的に野宿するか、近在の寺に一夜の宿を求めるしかなかったのである。もちろん夜盗や盗賊の類もいて危険極まりない。徳川時代道路網が整備され、旅人のために宿が提供されるようになった背景には、あの参勤交代の影響も大きかったといわれる。
ちなみに当時だと一里は約四キロほどだった。今、近藤たちが歩いている東海道は江戸から京まで続き約一二六里つまりおよそ四九四キロほどということになる。その間五十三箇所ほどの宿場が存在した。この時代、女性の一人旅も珍しくなく、治安ということになると、恐らく世界でもっとも安全な国だっただろう。当時は一日に、四十キロも歩いた人間もいるというから驚きである。それが飛脚ともなると、その健脚ぶりは幕末日本を訪れた外国人を驚嘆させたほどであった。
一行を仕切るのは奥州・庄内藩出身の清川八郎という男である。清川はこの時三十三歳。武士の家ではなく、かなり裕福な豪農の家に生まれたという清川は、庄内の男らしく色白であった。そして顔が角張り、眼光が鋭く、かなりの美男子だった。剣は北辰一刀流の免許皆伝。学問は江戸・昌平黌に学んだ秀才だった。また天才的な弁論術をもっていた。
「世が世なら俺は天下を取っていたはずだ」
と心中思うほどに自負心は強い。一時ささいなことで人を斬って幕吏に追われる身だったというこの男は、野心家でなにより筋金入りの食わせ者だった。都に到着するや否やたちまち本性を現すのである。
三月十六日、まだ長旅の疲れもいえていないというにも関わらず、近藤たち試衛館出身者をはじめ、浪士集団およそ二百名は壬生新徳寺本堂に参集させられた。この時の清川は黒羽二重の紋付き袷に七子の羽織、大小は朱鞘でいかにもシャレ者といった風情である。
「諸君! 長旅ご苦労であった。我々が集ったのはもちろん表向きは将軍警護のためである」
清川は演説をはじめた。実によく通る声である。
「しかし真の目的は他にある。帝を奉じて尊王攘夷を決行するにある!」
座はどよめき始めた。それから清川はその天才的な雄弁術の限りをつくして、自らの尊王の大義を説いた。ゆくゆく帝を自らの掌中のものとする。勅命を得て、天下の有志の者を結集して幕府をも倒し、もって攘夷を決行する。清川がどこまで本気で考えていたかはわからないが、それがための第一歩を踏みだすのは今をおいて他にない。そして清川は演説の最後にこう言った。
「もし帝の命に背くというなら幕府の者といえど容赦はしない。またもし私の考えに納得がいかない。我々と行動を共にできぬという者があらば、諸君にもしばし考える時間を与える。遠慮なく申しでるがよい」
演説が終わると座はしばしまたどよめいた。近藤勇他試衛館出身者の驚きもたいへんなものだった。
数日が過ぎた。清川は同士で親友といっていい山岡鉄太郎(後の鉄舟)から浪士たちの様子を聞かされた。
「反対している組は二つほどある」
と鉄太郎は小声でいった。
「一つは芹沢鴨を中心とした水戸出身者の組でござる」
芹沢鴨は三十七歳。水戸天狗党の出身であるらしい。剣は神道無念流の達人であるが、かなり酒癖悪く酔うと誰も止められなかった。つねに巨大な鉄扇を持ち歩き、自らを尽忠愛国の士であると主張してはばからなかった。
「芹沢か? 例の宿割りの一件で試衛館の近藤を散々に悩ませたという……」
事件は一行が中山道の本庄の宿に入った時おこった。芹沢が己の宿がないといって怒号をあげたのである。これは宿割りを命じられた近藤勇の致命的なミスだった。近藤は、やむなく芹沢の前にでて平謝りに謝った。芹沢はようやく近藤を許す気にはなったようである。しかし、その見返りとして手下の水戸出身浪士新見錦、平山五郎などに命じ木材を集めさせ、菜種油をかけて盛大に焚き木をした。
「うむ、あいつは問題が多すぎる。むしろ京に残るというのは好都合だな。もう一派はどこの何者の組だ」
「その近藤を頭とする試衛館の者たちです」
すると清川はしばし沈黙して考えこんだ。
「宿割りではしくじったとはいえ、俺が見たところあの男はあれで使い道がありそうだ。よしそいつは俺が説得することにしよう」
(三)
翌日のことだった。清川は、さる禅宗の寺に近藤を呼びだした。
「おう、おめえさん達は京に残るそうだな。生活の当てはあるのかい?」
「今、皆で相談しつてを探しているところです」
近藤は生真面目に答えた。
「まあ聞きなよ。将軍家に忠義立てするのはいいが、おめえさん達は公方様ってのは本当は何者か考えたことがあるのかい? こういっちゃなんだが、代々ろくでもない奴ばっかしだぜ」
「私たちは将軍が何者であろうと、ただ忠義を尽くすだけです」
もともと口の重い近藤は、それぐらいしか言葉が見当たらなかった。
「今まではそれでよかったろう。だが世の中は急速に変わろうとしている。だいたい将軍家だけでない。三百諸侯なんてものも、たいがいはろくでなしばっかりだ。そしてそれに仕える侍も、ただ上の鼻息をうかがうだけで、いざとなれば槍の使い方もわからない」
そこで清川はキセルをポンと叩いて、近藤の様子をうかがった。近藤はよほど口が重いのか沈黙したままでいる。
「それでは清川殿は、これからの世の中は誰がいかように動かすと?」
近藤はようやく口を開いた。
「知れたことよ、俺たちみたいな郷士が動かすのさ。まあ郷士っていったって語弊があるわな? とにかくそこいらのひょろい旗本連中じゃだめだ。だいたい三百諸国の中じゃ系図をさかのぼるとやれ平家だ源氏だいってるのはいくらでもいる。その大半はかなり胡散臭いな。だが系図が胡散臭いことは実は恥でもなんでもねえ。元亀、天正の頃に氏も素性もない一介の浪人みたいのが、腕一本で世の中をのし上がっていったという、その証拠みたいなもんよ」
「つまり清川殿は我らのような多摩の農民あがりでも、戦国の頃のように、ゆくゆくは一国一城の主になれて世の中を動かすことができると?」
近藤の眉がかすかに動いた。この話は確かに近藤にとっても魅力的ではあった。
「おう、そうよ! そういうことだな。だいたい俺は奥州の出だ。奥州もんってのは特に米ってものには敏感でよぅ。考えてもみろ徳川の世ってのは武士が俸禄として米を支給されて成り立っている。米が流通経済の要だ。だが世の中で物の値段はどんどん上がっているのに、武士に支給される米は幕府創業の頃と変わっていない。そんなことじゃ幕府はいずれ根本から破綻する。食えなくなった侍が大量に浪人になる。そして世の中を動かしていくんだ」
清川のいうところは、例えば吉田松陰がとなえた「草莽崛起」論と通じるところがある。しかし清川の悲劇は松陰同様、歴史という舞台に登場するには早すぎたことだった。
「とにかくこれからは幕府じゃだめだ。京におわす帝がこの国を動かす」
それから清川は、近藤にむかって延々と自らの尊王論を説き続けた。帝を担ぎ詔勅をもって無能な幕府、大名それに仕えている腰抜け侍を国政から遠ざける。そして帝の周りに真に有能な郷士が集い、新たな政府を樹立する。というのが清川の論の趣旨だった。
近藤の額にかすかに脂汗がうかんだ。近藤は清川に比べるとお世辞にも怜悧とはいえず、むしろ比較すると愚鈍なほどの男である。清川のいうところを全ては理解できなかったが、恐るべき計画であることだけは理解できた。
「それで具体的に、あんたどうするつもりなんだ?」
そこで清川はさらに驚くべきことをいった。
「おめえさん生麦事件ってのを知ってるかい?」
「確か薩摩藩の行列を馬で横切った外国人の一行を、薩摩藩の侍が斬り捨てたとか?」
「おれそれよ! ついに薩摩は動いたんだ。俺たちも遅れをとってはいけねえ。江戸に戻り、それから横浜まで行って夷人の屋敷を片っ端から全部焼き討ちにする。どうだいいっしょにやらないかい?」
しかし近藤の返答はそっけないものだった。
「お断り申し上げる」
とあっさり言った。それから清川はその弁論術の限りをつくして近藤を説得したが、近藤は近藤で清川の弁を半分ほどしか理解できていない様子だった。ついに清川は見切りをつけた。
「そうかい、ここまで言ってもだめなら仕方ねえな。残念だが秘密を知った以上生かしておくわけにはいかねえ!」
清川は北辰一刀流の剣の達人である。殺気が両の眼光にうかび、腰の刀に手がかかった。しかしその刹那、動きが早かったのは近藤のほうだった。清川に殺意あると判断するとほぼ同時に、近藤の左手が清川の指ごと刀の柄をつかんでいた。しかも薬指と小指を握りこんで外側にひねった。たまらず清川が体制を崩す。そこに近藤の右拳がガツンという音とともに清川の顔面にめりこんだ。さしもの清川もその場に昏倒し、軽い脳しんとうをおこした。これが天然理心流の柄砕きの巻揚である。
「案ずることはない。攘夷はおおいに結構。存分にやりなさるがよい。それがしは公儀に訴えたりはせん。最もあんたが攘夷を実行なさる前に、恐らくあんた自身が公儀に潰されるでしょう。今から我々は我々の信じる道を行く。さらばにござる」
そういって近藤は平然とその場を去ってしまった。
「信じる道を行くだ? その前にてめえらこそ潰されるのがわからねえのか。いずれ時流という化物にな」
清川は鼻血をたらしながら毒づいた。
結局、近藤の予言は的中する。清川の動きは幕府をおおいに警戒させることとなった。そして江戸に戻ってほどなく、麻布一ノ橋付近で佐々木只三郎という者と遭遇する。剣の達人であった清川だが、あまり佐々木が慇懃に挨拶するので笠のひもに手をかけた。その刹那、只三郎の刀が一閃。背後にいた三人の刺客がいっせいに清川を斬りふせる。清川はたちまち無残な屍と化してしまった。
一方、江戸に残った近藤達は京都守護職をつとめている会津藩主・松平容保の傘下となる。やがて「誠」の旗印のもと新選組として歴史の舞台におどり出るも、やはり清川の予言通り、時流という化物が幾度にもわたってその前途に立ちふさがるのであった。
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