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第三話 新任教諭

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 めた時、ピートはすでに隣にいなかった。
 サイドテーブルには、メモと宿やどだいには十分な額の銀貨が残されて。

『アーティーくん。有り難う』

 あれだけ激しく求め合ったというのに。メモはたったそれだけ。ここは一夜限りの関係を求める者たちの宿。仕方ないとは思うけれど。何だが、ひどく寂しかった。

 ──本当に、あの人は初めてだったのかな?

 相手を喜ばせるために、そんなうそをつく者もいる。それでも、構いはしない。あれだけ良く乱れ、甘く鳴き、温かく包み込んでくれる『さや』ならば。

「……また、ここに来てくれれば良いけど」

 アーティーはひとちて、身支度を調えるために浴室へ向かった。



「ふあぁあ……っ」

 大きな欠伸あくびをどうにかころす。身体にはまだ、昨日のいんが残っている。アーティーと名乗っていた青年は、もとを擦りながら列に並んだ。

「よ、アーネスト。おはよう」
「んー。おはようー」

 朝から元気の良い同僚が隣に立つ。

「なんだ。まだ眠そうだな? 昨日はお楽しみか?」
「まあね。そんなトコだよ」

 アーティー──アーネストはだるげにくちもとを拭い、小さく息を吐いた。
 彼らが集まっているのは、たんれん場の脇にある教師用の一室。もうじき朝礼が始まる。それが終われば授業時間だ。
 アーネストが務めているのは、武を持って世に出ようと志す学生たちのための専門院、『けんとういん』。この街、『がつきゆうやかた』にある由緒ある教育機関の一つだ。
 アーネストはそこで、生徒たちに剣技を教える教員の一人だった。

「ほどほどにしとけよ? 生徒たちの前で欠伸なんかしてみろ、学院長にどやされるぞ」
「うん。解ってる」

 ──でも、昨夜は本当に素晴らしい一夜だったから。

 ピートと名乗っていた男の顔を、思い返す。整った横顔、羞恥に染まるほお、もっともっと……とせがんで乱れる唇……
ああ。思い出しただけで、胸がときめく。顔がにやけてしまう。

「はあ……」

 また、会えると良いけど。そんなアーネストの横顔をあきに眺めて、同僚は肩をすくめる。

「……昨日の相手は、よっぽど良かったんだな」
「ああ、うん。すごわいくて……素敵な人だった」
「はいはい。ごそうさま! あんまりにやけてると馬鹿に見えるぞ。……お! 学院長来た!」

 もう、朝礼が始まってしまう。アーネストと同僚は、慌てて姿勢を正した。

「……諸君。おはよう。本日の朝礼を始める」

 六十を目前にした学院長は、立派なあごひげを蓄えた筋骨たくましい男。教師たちを目前にして、威厳に満ちた低音で語りかける。

「一学年生の実習は予定通り行う。二学年生は……」

 一通り伝達事項を告げてから、主任は学年主任たちからの報告を受けた。
 それから、有り難い訓示を少々。いつもと変わらない、日常の朝礼。ただ今日は一つだけ違っていた。

「……以上。朝礼は終わりだ。だが、解散の前に一つだけ。新任の主任教諭を紹介する。レゼダ君、入りたまえ」

 扉を開けて、誰かが入ってくる。アーネストはぼんやりと新任教諭を眺めた。
 整った顔立ち。藍色の髪にはしばみ色のひとみ。優しげな目許、口許には控え目な黒子ほくろ。そこにいたのは。

「……私は、ピエトロ・レゼダと申します。みなさん、よろしくお願いいたします」

 昨夜の晩に出会って別れたばかりのピート、その人だった。



 アーネストの姿を見つけて、ピート──ピエトロは一瞬目を見張った。……ように見えた。
 アーネストは、喜びとそれよりも大きな驚きに打たれて、思わず固まってしまった。

「レゼダ君は先月まで『しつこくの騎士団』の副団長だった。その職を退しりぞいて、後進育成のためにこの学院に着任したのだ」

 院長がピエトロを紹介する間、彼は静かな表情を浮かべて、院長の隣に立っていた。

「レゼダ君は素晴らしい腕の持ち主だ。剣技だけでなく、弓術、そうじゆつ、馬術にも秀でている。いずれは私の跡を継ぐことになるやもしれん。皆、よく助けてやってくれ」
「院長先生、それは過分なお言葉です」

 ほほんでけんそんするピエトロは、昼の光の中でもりんとして美しかった。

 ──ああ。騎士であったのだ。あの人は。通りで。良くきたえられた肉体はそのためのモノだった。

 アーネストの視線は、皆に対して礼を向けるピエトロにくぎつげだった。

「諸君らの自己紹介は……追い追いしていけば良いだろう。レゼダ君、解らないことは皆に聞いてくれれば良い。さあ、授業の時間だ」

 学院長の言葉と同時に、教師たちは速やかに次の行動に移る。

「あ、あ……あの……!」

 部屋から退出していく教師たちをかき分けて、アーネストはピエトロに近づいた。

「……はい。何か?」

 ピエトロの表情はわずかに硬い。榛色の眸がいぶかしげに細められる。

「あ、あのっ……俺は、アーネスト・ベルランゴーと、言います!」
「……初めまして。アーネスト、先生。私は、ピエトロ・レゼダと」

 ピエトロは、昨夜とはまるで別人のような礼儀正しさで、アーネストに頭を下げた。

 ──でも間違いない。『ピート』はこの人だ。口許の黒子、整えられたひげ、榛色の眸。柔らかでそれでいてセクシーな声。絶対に間違うはずが無い!

「あの……!」
「アーネスト先生。よろしくお願いします。教室はどちらでしょうか?」

 素っ気ない口調。昨日のことは、無かったことにしたいのか。ピエトロはなく、アーネストから視線をそらした。
 内心落胆して、アーネストはどうにか微笑む。

「……あ、はい……ご案内します。こちらです」
「有り難うございます」

 二人が自己紹介をしている内に、部屋から誰もいなくなった。沈黙が、二人の間を通りすぎていく。
 アーネストも部屋を出ようと、扉に手をかけた瞬間に。背後から遠慮がちな声が届く。

「……あ、の……昨夜のことは……」

 ──やっぱり! 『ピート』はこの人だ!

 喜びで眸を輝かせるアーネストに、ピエトロは緊張に堅くなった表情で告げた。彼は唇をんで、困ったようにを伏せていた。

「あ、はい。誰にも言ったりしませんから、安心して下さい」
「有り難うございます……っ」

 ほっとあんしたように、ピエトロの顔に笑みが咲く。
 その笑顔に、アーネストの胸はどきりと高鳴った。



 朝の授業が済んで、昼休憩の時間になった。ピエトロは、アーネストに付いて授業を見学していた。
あの人ピート』が俺の仕事を見ている。それだけで、アーネストは舞い上がり、いつも以上に張り切って生徒たちを指導した。

「ネスト先生ー何か今日、やたらとキツくないっすかー?」
「俺が熱心なのはいつもだろ。ほら、ぐちたたいてないで、打ち込み百本ー!」

 ぶつぶつと不満を漏らす生徒たちに、課題をくれる。ピエトロはメモを取りながら、生徒たちとアーネストのやりとりを眺めていた。



 生徒たちが実習に使用した用具を片付けている間に、アーネストはピエトロの隣に立った。

「……レゼダ先生。あの、この後、なんですが……」
「あ……ピエトロ、で良いですよ。アーネスト先生」

 メモから顔を上げて、ピエトロはキョトンと首をかしげる。

「あ、えと……それじゃあ、ピエトロ先生。昼休憩はどこで食っても良いことになっています。今日はとりあえず、食堂にご案内しますね。場所、ごぞんじゃ無いでしょう?」
「はい。食堂はまだ行ったことがありません。有り難うございます」

 ふわりとピエトロが微笑む。それだけで、アーネストの心は踊り出しそうになった。
 生徒たちを解散させて、二人は食堂に向かう。その道すがらに、学院内の案内をする。
 ここは実習棟、あちらは座学棟、あちらは剣技実習のための円形剣闘場……ピエトロは生真面目にメモを取りながら、アーネストの後を付いてくる。
 食堂にたどり着き、昼食を手に入れると、二人は端の方の席に腰掛けた。二人がけの席、これで邪魔は入らない。

「あ、あの……」
「あ、え、と……」

 二人して、互いを意識してしまうのか、うつむき合ってしまう。

「……アーネスト先生」

 先に言葉見つけたのは、ピエトロだった。

「はい!」
「……え、と。先ほどの授業で、際だってすじの良かった……数名の生徒の名前を教えて下さい」
「あ、え……あ、はい」

 てっきり昨夜の話題が出るのかと思っていたアーネストは、かたかしを食らった。ピエトロがメモしていた生徒の特徴を元に、生徒の名を教える。ピエトロは何度もうなずきながら、「では、このクラスはこの生徒たちを中心に……」と、生徒の指導について持論を述べていく。
 それは的を射て、ピエトロは確かに生徒たちのことをよく見ていた。

 ──この人は、本気で教師になろうとしている。

 そんな熱意が伝わってきて、アーネストは表情を改めた。
 自分とて、教師である。プライベートは仕事に持ち込まないだけの分別もある。……つもりだ。
 結局、昼休みは昼食を食べ、授業に付いての話をしただけで終わってしまった。
 昼の予鈴が鳴る。次の鐘までに教室に行かねばならない。ごりしく席を立とうとしたアーネストに、ピエトロが微笑みかける。

「次の授業は他のクラスにお邪魔します。アーネスト先生、有り難うございました」

 一礼しながら差し出された右手に、メモの切れ端が乗せられている。アーネストがそれを受けとると、ピエトロは一足先に食堂を出て行った。

『三日後の夜、あの店で』

 メモにはその一文。アーネストはぼうぜんと立ち尽くし、やがておどりしながら次の授業に向かった。
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