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「お、邪魔、します」
震える声を絞り出し、不法侵入を試みた。ギシリと軋んだ床の音が、耳鳴りがするほど静かな空間に響く。異様なほど高鳴る心臓が、口から飛び出そうだ。大丈夫、俺はティエリの安否を確認したいだけだ。だから、これは犯罪行為じゃない。「ティエリ?」。彼の名前を呼んでみる。返答はない。部屋中を探し回るが、彼の残り香さえ感じない。
────ここを、見ていない。
部屋を捜索しまわった俺は、ある扉に目が釘付けになった。玄関から入って左にある扉。固く閉ざされていたそこが、薄く開いている。もしかして。俺は急いで扉を開けた。中は、真っ暗だった。倉庫特有の埃っぽさが鼻腔を擽る。「ティエリ?」。名前を呼んでみる。手探りでライトのスイッチを探す。指先に感じた突起を押すと、電気がついた。
「ティエリ!」
俺は思わず叫んだ。備蓄された食料や、もう使われていない自転車が収納された地下倉庫に、ティエリは居た。壁に這ったパイプに手錠で左手を固定された彼は、ぐったりと顔を俯かせ座り込んでいる。俺の声に反応したのか、緩やかに顔を上げた。
「あれ……君は……」。掠れた声を溢し、ティエリが無理に微笑む。その顔には大きな痣があり、悲鳴をあげた。階段を急ぎ足で駆け下り、彼の元へ向かう。
ティエリは不気味なほどに穏やかだった。こんな倉庫に監禁されているにも関わらず、彼は落ち着き払っている。俺は手錠を外すため、手を伸ばした。
「レムシュ、大丈夫だ。気にしないで」
「き、気にしないで……って……」
ティエリは元々白い顔をさらに白くさせている。カサついた唇は割れていて、血が固まっていた。ぼんやりとした瞳を彷徨わせ、乖離しかけていた意識をなんとか繋ぎ止めている。
「大丈夫、いつものことだから」
いつものこと。俺はその言葉を身に受け、心臓が跳ねた。こんなことが、いつものこと? 意味が分からず、何も言えないまま固まった。「気にしないで。僕は平気だから」。俺を混乱させまいとしているのか、やけに静かな声でつぶやいた。
「ほ、本当に大丈夫なの? 嘘だろ? こんな状況で?」
「うん、大丈夫。あぁ、そうだ。一つ、お願いをしていいかな?」
なんでも言ってくれ、と前のめりになる。ティエリはフフと微笑み、手錠で拘束されていない右手をゆっくりと動かす。扉を指差した。
「キッチンの戸棚にある、食べかけのクッキーを一つ持ってきて。一つだけでいいから」
今にも消えてしまいそうなほど疲れ切った声音が鼓膜を掠め、不安になる。「水は? 水を飲んだ方がいいよ」。俺の言葉に、ティエリが弱々しく首を横に振った。
「大丈夫。飲んだら、漏らしちゃうから。あはは。ね? だから、クッキーだけで良い。お願い」
グゥ。彼が言葉を発したと同時に、腹が鳴った。俺は頷き、駆け足で階段を上がる。キッチンへ向かい、戸棚を開いた。隅々まで探し回り、ようやく箱を見つける。食べかけのバタークッキーが中に入っていて、湿気で柔らかくなっていた。一つで良いのだろうか? と思案し、けれど彼に言われた通り一つを摘んだ。
「ありがとう」
ティエリの元に急いで帰り、彼の口元にクッキーを押し付けた。狐色のそれを喰み、咀嚼した彼が苦しそうに嚥下する。喉がカラカラに乾いているから、飲み込みにくいのだろう。俺はその薄い背中を摩った。
「弟に、こんなことをされたの?」
震える声が倉庫内に響く。ティエリが否定も肯定もしない表情を浮かべた。
「母さんを呼んでくる。この程度の手錠なら、壊せるペンチが家にあるはずだ」
立ち上がった俺の服を、ティエリが掴んだ。
「本当に平気だよ、いつものことなんだ。だから心配しないで」
瞬間、外から車のエンジン音が聞こえた。二人の間に流れていた空気が一気に凍る。「早く出ていって」。ティエリが鋭い声を上げる。衝動的に体を起こし、踵を返した。
「君まで巻き込みたくない。ほら、早く」
振り返るとティエリが微笑んでいた。じゃあね、と手を振る彼に後ろ髪を引かれながら階段を駆け上がる。扉をゆっくりと閉め、裏口に向かった。同時に、玄関が開く音が聞こえる。静かに家から抜け出し、自宅まで全速力で走る。
「どうしたのよ、あんた」
家の中に入り、扉を閉める。全身に汗を滲ませ、呼吸を乱す俺を見て、ちょうど玄関先にいた母が目を見開いた。驚いた表情を浮かべた彼女を見て、一気に安堵感が押し寄せた。その場に倒れそうになり、母に抱きつく。「何よ、甘えて」と何処か嬉しそうな声を上げた。
脳裏に、あの光景が浮かぶ。手錠で拘束されたティエリ。本当に助けなくて良かったのだろうか、と後悔の念が俺を襲う。母に縋った手に力が籠る。きっと、俺が踏み込んでは行けない領域だったのだ。そう自分に言い聞かせる。
「暖かいココアでも飲む?」
母の穏やかな笑みに促され、リビングへ向かう。地下に閉じ込められたティエリのことを思い出さないよう、必死に記憶の底へ閉じ込めた。
震える声を絞り出し、不法侵入を試みた。ギシリと軋んだ床の音が、耳鳴りがするほど静かな空間に響く。異様なほど高鳴る心臓が、口から飛び出そうだ。大丈夫、俺はティエリの安否を確認したいだけだ。だから、これは犯罪行為じゃない。「ティエリ?」。彼の名前を呼んでみる。返答はない。部屋中を探し回るが、彼の残り香さえ感じない。
────ここを、見ていない。
部屋を捜索しまわった俺は、ある扉に目が釘付けになった。玄関から入って左にある扉。固く閉ざされていたそこが、薄く開いている。もしかして。俺は急いで扉を開けた。中は、真っ暗だった。倉庫特有の埃っぽさが鼻腔を擽る。「ティエリ?」。名前を呼んでみる。手探りでライトのスイッチを探す。指先に感じた突起を押すと、電気がついた。
「ティエリ!」
俺は思わず叫んだ。備蓄された食料や、もう使われていない自転車が収納された地下倉庫に、ティエリは居た。壁に這ったパイプに手錠で左手を固定された彼は、ぐったりと顔を俯かせ座り込んでいる。俺の声に反応したのか、緩やかに顔を上げた。
「あれ……君は……」。掠れた声を溢し、ティエリが無理に微笑む。その顔には大きな痣があり、悲鳴をあげた。階段を急ぎ足で駆け下り、彼の元へ向かう。
ティエリは不気味なほどに穏やかだった。こんな倉庫に監禁されているにも関わらず、彼は落ち着き払っている。俺は手錠を外すため、手を伸ばした。
「レムシュ、大丈夫だ。気にしないで」
「き、気にしないで……って……」
ティエリは元々白い顔をさらに白くさせている。カサついた唇は割れていて、血が固まっていた。ぼんやりとした瞳を彷徨わせ、乖離しかけていた意識をなんとか繋ぎ止めている。
「大丈夫、いつものことだから」
いつものこと。俺はその言葉を身に受け、心臓が跳ねた。こんなことが、いつものこと? 意味が分からず、何も言えないまま固まった。「気にしないで。僕は平気だから」。俺を混乱させまいとしているのか、やけに静かな声でつぶやいた。
「ほ、本当に大丈夫なの? 嘘だろ? こんな状況で?」
「うん、大丈夫。あぁ、そうだ。一つ、お願いをしていいかな?」
なんでも言ってくれ、と前のめりになる。ティエリはフフと微笑み、手錠で拘束されていない右手をゆっくりと動かす。扉を指差した。
「キッチンの戸棚にある、食べかけのクッキーを一つ持ってきて。一つだけでいいから」
今にも消えてしまいそうなほど疲れ切った声音が鼓膜を掠め、不安になる。「水は? 水を飲んだ方がいいよ」。俺の言葉に、ティエリが弱々しく首を横に振った。
「大丈夫。飲んだら、漏らしちゃうから。あはは。ね? だから、クッキーだけで良い。お願い」
グゥ。彼が言葉を発したと同時に、腹が鳴った。俺は頷き、駆け足で階段を上がる。キッチンへ向かい、戸棚を開いた。隅々まで探し回り、ようやく箱を見つける。食べかけのバタークッキーが中に入っていて、湿気で柔らかくなっていた。一つで良いのだろうか? と思案し、けれど彼に言われた通り一つを摘んだ。
「ありがとう」
ティエリの元に急いで帰り、彼の口元にクッキーを押し付けた。狐色のそれを喰み、咀嚼した彼が苦しそうに嚥下する。喉がカラカラに乾いているから、飲み込みにくいのだろう。俺はその薄い背中を摩った。
「弟に、こんなことをされたの?」
震える声が倉庫内に響く。ティエリが否定も肯定もしない表情を浮かべた。
「母さんを呼んでくる。この程度の手錠なら、壊せるペンチが家にあるはずだ」
立ち上がった俺の服を、ティエリが掴んだ。
「本当に平気だよ、いつものことなんだ。だから心配しないで」
瞬間、外から車のエンジン音が聞こえた。二人の間に流れていた空気が一気に凍る。「早く出ていって」。ティエリが鋭い声を上げる。衝動的に体を起こし、踵を返した。
「君まで巻き込みたくない。ほら、早く」
振り返るとティエリが微笑んでいた。じゃあね、と手を振る彼に後ろ髪を引かれながら階段を駆け上がる。扉をゆっくりと閉め、裏口に向かった。同時に、玄関が開く音が聞こえる。静かに家から抜け出し、自宅まで全速力で走る。
「どうしたのよ、あんた」
家の中に入り、扉を閉める。全身に汗を滲ませ、呼吸を乱す俺を見て、ちょうど玄関先にいた母が目を見開いた。驚いた表情を浮かべた彼女を見て、一気に安堵感が押し寄せた。その場に倒れそうになり、母に抱きつく。「何よ、甘えて」と何処か嬉しそうな声を上げた。
脳裏に、あの光景が浮かぶ。手錠で拘束されたティエリ。本当に助けなくて良かったのだろうか、と後悔の念が俺を襲う。母に縋った手に力が籠る。きっと、俺が踏み込んでは行けない領域だったのだ。そう自分に言い聞かせる。
「暖かいココアでも飲む?」
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