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救世主
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薄暗くなった屋敷の廊下を走りながら、いつも使っている魔導書を抱え直す。窓に叩きつけられる雨は、先程より激しさを増していた。灰色のキャンバスに漆黒の黒インクがドロリと落ち、混じり合ったような色をした空を横目に見る。
先程まで太陽を見せていた空は昼にかけて徐々に崩れ始め、世界に大粒の雨を降らせた。庭に植えられている若い木々の葉が風に煽られ、ザワザワと音を立てる。それはまるで、森の奥深くに住まう魔女の囁きみたいだ。
外が一瞬ひかり、僕は恐怖で目を伏せる。やがて、地鳴りのような音が心臓に響く。近くに雷が落ちたのだなと息を漏らした。
廊下に敷かれた真紅の絨毯が、まるで酸化した血に似た色をしている。不気味さが足から侵食し、僕を食い尽くすような感覚に陥った。そんなはずはないと思っていても、どうも恐怖心は拭えない。けれど、足を止めることは許されなかった。
玄関まで向かうと、そこにはもうすでに準備を終えている仲間たちが居た。出発しようとしている背中に、声をかける。
「遅れました」
息切れで上擦った声は、大きく開けられたドアから入り込む雨音と風の音でかき消されそうになる。僕の声に気がついたギルドメンバーの一人が、こちらへ視線を投げた。冷たい眼差しに、喉の奥が狭まる。無理をして笑顔を作ると、彼が声を上げた。
「ヴァンサ、ティノが来たぞ」
数名いる男の中を掻き分け、見慣れた巨体の男が僕へ近づく。彼────ヴァンサは怒りを滲ませた表情をしていた。ぐいと僕の髪を掴み、視線を合わせるため顔を上に向かせる。痛いと思わず声を上げそうになり、それを押し殺した。変わらぬ笑顔を貼り付けたまま、ヴァンサを見上げる。
「ごめんなさい、遅れてしまいました」
「号令が出たらすぐに集合しろと、いつも言っているだろう」
「手が離せない状況で……」
突然の豪雨で干していた洗濯物を取り込まなければいけなくなり、そのせいで集合に遅れてしまった。と説明しても、目の前にいる血走った目で僕を睨みつけている男には通用しないだろう。
「今度からは、きちんと時間通りに行動します」といつも通り肩を竦め、おどけて見せる。痛みに顔を歪め、彼に言われた言葉を悲しげに受け止めることは、許されない。それこそ彼の機嫌を損ねてしまう。僕が長年彼との付き合いで身につけた対処法だ。いつも笑顔で、いつも穏やかで。そうしなければ、いけない。
ヴァンサはふんと鼻を鳴らした。やがて僕の肩を抱き、自身のそばへ近寄らせる。
「よし。では、麓に現れた魔物を倒しにいくぞ」
ヴァンサの一言で周りにいた男たちが、拳を振り上げ声を荒げた。僕もそれにつられて腕を上げてみる。どうせ僕はお荷物なんだから置いていってくれたらいいのに、と思う反面、まだ利用価値があり、仕事に参加させてもらえるのだなと安心できる。
この掛け声を上げられなくなったその時が、僕にとって死んだと同然の瞬間だ。
「ティノ、ぼんやりするな。さっさと乗れ」
ヴァンサの鋭い声で我に返る。フードを頭まですっぽりと被った彼が、僕に手を差し伸べている。無骨でざらざらとした手を借り、馬に乗った。その後ろに、ヴァンサが乗る。背中に彼のぬるい体温が伝わり、ほんの少しだけ顔を顰めた。手に持っていた魔導書を、強く抱きしめる。
手綱を握った彼が馬を見事に走らせた。土砂降りで泥濘んだ地面を蹴り、森を抜ける。見慣れたそこは薄暗さを孕んでいて、僕の恐怖心を煽る。
降り注ぐ雨は一向に止む気配がない。雷は轟き、その度に目を強く瞑った。
────こんな視界が悪い中で、うまく戦えるのだろうか。
タイミングの悪い依頼を受けたということもあり、ヴァンサは余計に機嫌を悪くしているのだろう。彼の心情を察し、ため息を漏らす。
今日は沢山の負傷者が出るに違いない。厄介だ。僕はこれから訪れるであろう出来事に、逃げ出したくなった。
「ヴァンサ、あれだ!」
劈くような声が響く。ギルドメンバーの誰かが、指を差した。その先には薙ぎ倒された木々がある。付近に魔物が出没した証だ。皆が馬を止め、降りる。「血痕はない。負傷者はいないみたいだな」。あたりを見渡した男が、まじまじと地面を眺める。水浸しになったそこには、誰かが襲われたであろう痕跡はない。よかったと胸を撫で下ろす。
瞬間、何処かで悲鳴に似た声が聞こえた。それはこの暗澹とした曇天に響く雷雨に似ている。
ギルドメンバーの皆が、身構えた。「魔豹だ。みんな、気をつけろ」。古くからこのギルドに所属しているアンドレイの声が響いた。そこでようやく、ヴァンサが馬から降りる。僕を見上げ「ここから一歩も動くな。いいな?」と鋭い声音で呟いた。こくりと頷くと、頬を撫でられる。そのまま踵を返し、ギルドメンバーを引き連れ、魔豹がどこにいるか探索を始めた。
彼らの背中をぼんやりと眺め、頭上から降り注ぐ雨の強さを感じる。徐々に体が冷え、悪寒が走った。
────早く帰りたいなぁ。屋敷内へ放り込んだ洗濯物はきっと生乾きだ。今日のギルドメンバーが着ている服も、洗わなきゃいけない。明日は晴れるといいなぁ────。
耽っている僕の背後で、鳴き声が聞こえる。ピシリと固まった背筋に、汗が滲んだ。おずおずと振り返ってみる。
そこには魔豹がいた。大型ではないが、その爪の鋭さは恐怖に値する。大きく裂けた口から、人間に似た白い歯が見えている。身体中についている目玉がぎょろぎょろと不規則に蠢いた。
僕は魔豹の姿を見て、固まる。いつ見ても慣れない容姿に、心臓が震えた。呼吸が乱れ、目の前が歪む。
先程まで太陽を見せていた空は昼にかけて徐々に崩れ始め、世界に大粒の雨を降らせた。庭に植えられている若い木々の葉が風に煽られ、ザワザワと音を立てる。それはまるで、森の奥深くに住まう魔女の囁きみたいだ。
外が一瞬ひかり、僕は恐怖で目を伏せる。やがて、地鳴りのような音が心臓に響く。近くに雷が落ちたのだなと息を漏らした。
廊下に敷かれた真紅の絨毯が、まるで酸化した血に似た色をしている。不気味さが足から侵食し、僕を食い尽くすような感覚に陥った。そんなはずはないと思っていても、どうも恐怖心は拭えない。けれど、足を止めることは許されなかった。
玄関まで向かうと、そこにはもうすでに準備を終えている仲間たちが居た。出発しようとしている背中に、声をかける。
「遅れました」
息切れで上擦った声は、大きく開けられたドアから入り込む雨音と風の音でかき消されそうになる。僕の声に気がついたギルドメンバーの一人が、こちらへ視線を投げた。冷たい眼差しに、喉の奥が狭まる。無理をして笑顔を作ると、彼が声を上げた。
「ヴァンサ、ティノが来たぞ」
数名いる男の中を掻き分け、見慣れた巨体の男が僕へ近づく。彼────ヴァンサは怒りを滲ませた表情をしていた。ぐいと僕の髪を掴み、視線を合わせるため顔を上に向かせる。痛いと思わず声を上げそうになり、それを押し殺した。変わらぬ笑顔を貼り付けたまま、ヴァンサを見上げる。
「ごめんなさい、遅れてしまいました」
「号令が出たらすぐに集合しろと、いつも言っているだろう」
「手が離せない状況で……」
突然の豪雨で干していた洗濯物を取り込まなければいけなくなり、そのせいで集合に遅れてしまった。と説明しても、目の前にいる血走った目で僕を睨みつけている男には通用しないだろう。
「今度からは、きちんと時間通りに行動します」といつも通り肩を竦め、おどけて見せる。痛みに顔を歪め、彼に言われた言葉を悲しげに受け止めることは、許されない。それこそ彼の機嫌を損ねてしまう。僕が長年彼との付き合いで身につけた対処法だ。いつも笑顔で、いつも穏やかで。そうしなければ、いけない。
ヴァンサはふんと鼻を鳴らした。やがて僕の肩を抱き、自身のそばへ近寄らせる。
「よし。では、麓に現れた魔物を倒しにいくぞ」
ヴァンサの一言で周りにいた男たちが、拳を振り上げ声を荒げた。僕もそれにつられて腕を上げてみる。どうせ僕はお荷物なんだから置いていってくれたらいいのに、と思う反面、まだ利用価値があり、仕事に参加させてもらえるのだなと安心できる。
この掛け声を上げられなくなったその時が、僕にとって死んだと同然の瞬間だ。
「ティノ、ぼんやりするな。さっさと乗れ」
ヴァンサの鋭い声で我に返る。フードを頭まですっぽりと被った彼が、僕に手を差し伸べている。無骨でざらざらとした手を借り、馬に乗った。その後ろに、ヴァンサが乗る。背中に彼のぬるい体温が伝わり、ほんの少しだけ顔を顰めた。手に持っていた魔導書を、強く抱きしめる。
手綱を握った彼が馬を見事に走らせた。土砂降りで泥濘んだ地面を蹴り、森を抜ける。見慣れたそこは薄暗さを孕んでいて、僕の恐怖心を煽る。
降り注ぐ雨は一向に止む気配がない。雷は轟き、その度に目を強く瞑った。
────こんな視界が悪い中で、うまく戦えるのだろうか。
タイミングの悪い依頼を受けたということもあり、ヴァンサは余計に機嫌を悪くしているのだろう。彼の心情を察し、ため息を漏らす。
今日は沢山の負傷者が出るに違いない。厄介だ。僕はこれから訪れるであろう出来事に、逃げ出したくなった。
「ヴァンサ、あれだ!」
劈くような声が響く。ギルドメンバーの誰かが、指を差した。その先には薙ぎ倒された木々がある。付近に魔物が出没した証だ。皆が馬を止め、降りる。「血痕はない。負傷者はいないみたいだな」。あたりを見渡した男が、まじまじと地面を眺める。水浸しになったそこには、誰かが襲われたであろう痕跡はない。よかったと胸を撫で下ろす。
瞬間、何処かで悲鳴に似た声が聞こえた。それはこの暗澹とした曇天に響く雷雨に似ている。
ギルドメンバーの皆が、身構えた。「魔豹だ。みんな、気をつけろ」。古くからこのギルドに所属しているアンドレイの声が響いた。そこでようやく、ヴァンサが馬から降りる。僕を見上げ「ここから一歩も動くな。いいな?」と鋭い声音で呟いた。こくりと頷くと、頬を撫でられる。そのまま踵を返し、ギルドメンバーを引き連れ、魔豹がどこにいるか探索を始めた。
彼らの背中をぼんやりと眺め、頭上から降り注ぐ雨の強さを感じる。徐々に体が冷え、悪寒が走った。
────早く帰りたいなぁ。屋敷内へ放り込んだ洗濯物はきっと生乾きだ。今日のギルドメンバーが着ている服も、洗わなきゃいけない。明日は晴れるといいなぁ────。
耽っている僕の背後で、鳴き声が聞こえる。ピシリと固まった背筋に、汗が滲んだ。おずおずと振り返ってみる。
そこには魔豹がいた。大型ではないが、その爪の鋭さは恐怖に値する。大きく裂けた口から、人間に似た白い歯が見えている。身体中についている目玉がぎょろぎょろと不規則に蠢いた。
僕は魔豹の姿を見て、固まる。いつ見ても慣れない容姿に、心臓が震えた。呼吸が乱れ、目の前が歪む。
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