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貧困者なわたしが、異国の我儘娘と入れ替わりました。お腹いっぱい食べたので、アルバイトで恩返ししようと思います。

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 外国では女性でも教育を受けたり、社会に出たりと言うのは当たり前だと言う。
 ただ、エベレからするとそういう話は、おとぎ話としか思えない。
 エベレが生まれ育った国ではそんな余裕はなく、生きるだけで精一杯だ。一間だけのバラック小屋で十人家族が身を寄せ合って暮らし、一日芋か豆だけで一食。そして学校など行けず、水汲みや弟妹の子守りなどして暮らしている。

(……でも、わたしももうすぐ二十歳になるし。悪い話もあるけど、出稼ぎも考えた方が良いのかなぁ)

 働き先によっては、それこそ奴隷のようにこき使われると聞くけれど、それでも家にいるよりはお金は稼げる。両親がエベレのことを心配してくれているのは解るが、長女だが学もない身としては、出来ることで少しでも家計の助けになりたいとは思う。

(まあ、自分がやる気になっても働き口が見つかるかって問題はあるけど……まずは今夜、話してみよう)

 そんなことを考えながら、いつもの川での水汲みを終えて、帰るところで――前を歩いていた弟達が、ふざけて振り回していた水の入ったバケツが、すっぽ抜けてエベレのいる方へ吹っ飛んできた。

「……えっ?」

 朝抜きなのでお腹が空いていたのと、自分もバケツの水を持っていて手を離すことに躊躇した為――顔面にバケツが直撃し、結局はその場で倒れてせっかく汲んだ水もこぼしてしまったのだった。

(水……また、汲みにいかないと……)

 ……どうやら、気を失っていたようだ。
 最後に思ったことを実行しようと、エベレは起き上がり――次いで、パチリと瞬きをした。
 水をこぼしたバケツがない。
 代わりに、布――いや、脱ぎ散らかした服やカバン、雑誌などが床を埋めている。
 ここは、どこなのか。何故、自分は知らない家にいるのか。

(病院には見えないし……え? まさか水をこぼした罰で、売られたの?)

 状況が掴めず戸惑ったが、服からの汗の臭いやきつい香水の匂いで鼻が痛くなってきた。

(……とりあえず、片付けよう。それにしても、こんなにたくさん……うち程じゃないけど、家族が多い家なのかな?)

 それくらい、物がたくさんある。そう思い、窓を開けたりたらいではなく、噂にだけ聞く洗濯機があることに感動しつつも、そこに洗える服を入れてスイッチを入れた。そして何気なく顔を上げて、エベレは固まった。

「誰?」

 ……染めているらしい茶色の髪と、黒い瞳。褐色の筈の肌が、白くなっている。
 声もだが、鏡に映る顔もどう見ても別人だ。けれどエベレと同じように、驚き顔で見返してきている。

「……訳が分からないけど、まずは掃除と洗濯をしないと」

 そして一回では終わらない洗濯と、まだ床を埋めている物の数々を見て、エベレは考えるのを先延ばしにした。



 不思議だが掃除と洗濯をしているうちに、エベレではない記憶が浮かんできた。
 ここは日本で、この体の持ち主は川端菜摘かわばたなつみ。エベレと同じ十九歳で、今は大学に通う為に一人暮らしをしている。親から十分な仕送りを受けているが、服や化粧品の買い過ぎで足りなくなり、アルバイトを探していたのだが――選り好みする上、面接で落とされて見つかっていない。挙句の果てに家で癇癪を起こし、床の服で足を滑らせて気絶したのだ。

「夢ではなさそうだけど、いつまた入れ替わるか解らないわね」

 お風呂から上がり、肌触りの良いパジャマを着てエベレはそう呟いた。
 気付いたのは昼過ぎだったが、掃除と洗濯を終えて今は夜八時である。ちなみに、エベレがいた国と同じ五月下旬だ。
 一間なのは家がそうなので気にならないが最初、物の多さで家族の多い家かと思った。
 けれど、菜摘の記憶では一人暮らしだった。そして農家の実家から野菜が送られてきていたのだが、菜摘はそれを嫌ってカップ麺やコンビニご飯ばかり食べていた。
 台所もゴミ箱に入りきらない残骸で埋まっていたので、エベレは慌てて片付けた。そしてお金もないので、送られた野菜でスープを作り米を炊いた。

「……おいしい……お米と食べると、またおいしい……」

 生まれて初めて、口いっぱいに頬張ってお腹いっぱいご飯を食べた。
 ……いつまで、この状態かは解らない。
 けれどせめてもの菜摘への恩返しにと、エベレは菜摘の代わりにアルバイトをして恩返しすることにした。

 菜摘とは違い、エベレがアルバイトを選り好みすることはなかった。とは言え、親から学費を出して貰っているので平日は夕方からの清掃員を、そして土曜日はお弁当屋さんで働き出した。
 真面目に丁寧に働く彼女は、いつしかバイト先の上司や同僚、更に同じアパートの住人や大学の同級生達、そして菜摘の両親から可愛がられるようになる。



 さて、エベレが入れ替わった菜摘はどうなったのか?
 農家の両親に反発し、米は「味がしない」おかずは「貧乏臭い」と馬鹿にして、食べようとせず。家を出たら自分からは親に電話せず、せっかく届いた野菜も放置していた。
 ……そんな彼女が、エベレと入れ替わったら?

「大丈夫? 吐き気はない?」

 褐色の肌をした、エベレの母親が寝ているエベレの顔を覗き込んでくる。そしてその瞳に映る姿を見て、自分が別人に――目の前の女性の、娘になっているのだと自覚した。

「え? うん……」
「良かったわ。病院なんて、連れて行けないからね」
「え」
「とりあえず今日は、ご飯食べて寝てなさい? 明日からはまた、働いて貰わないとね」

 そう言って、エベレの母親が差し出してきたのはふかした芋一個だった。親とは思えない発言に唖然としたが、エベレの記憶が別に特別冷たい訳ではなく、この国では当たり前だと教えてくれる。
 文句を言いたかったが、同じくエベレの記憶から「それを言ったら、知らない外国で家から追い出される」と理解するしかなく。泣く泣く菜摘は、ふかし芋にかじりついた。
 そして、その夜は怪我人なので静かに寝かせて貰えたが――次の日からは一日一食で川への水汲みに数回行き、弟妹達の面倒を見る羽目になったのである。

(もうやだ……早く、元に戻してよぉ~!)
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