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『番の呪い』前編

73 化け物二人

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 ウォグバードは両目を覆うように包帯が巻かれていた。包帯の左眼があるあたりは血が滲んでいる。

 ヴィクトリアは知らなかったしリュージュも伝えようとはしなかったが、ウォグバードは左の眼球を失っていた。

 シドに抉られて食われたのだ。

 右眼は元々怪我を負っていて見えない状態だった。ウォグバードは視力を完全に失っていた。

 にも関わらず、アルベールと打ち合う姿は視力を失ったようには見えなかった。

 ウォグバードは的確にアルベールの位置を捉え、威力のある素早い斬撃を放ち続けている。アルベールは押されて後退するばかりだ。

 ウォグバードの嗅覚は視覚を失って以降、その能力を補うような目覚ましい進歩を遂げていた。ウォグバードは周りの風景や人物の動きが、嗅覚を通して全てわかっていた。

 対象からほんのわずかでも匂いが出ていなければわからないという欠点はあるが、戦闘において相手の動きを捉えるのには充分で、ウォグバードはそれまでと同様に戦うことができた。

 ウォグバードは、番を得た獣人が相手の匂いに殊更敏感になって姿を直接見なくても様子がわかるという現象を、周囲のほとんどのものに対して起こしていた。

 それは通常ではあり得ない嗅覚の向上だった。

 シドには及ばないが、この男も化け物じみていた。

 アルベールの剣が弾き飛ばされて地面に転がる。アルベールの喉元に剣が突き付けられた。

 アルベールがウォグバードを睨む。

「子供の喧嘩に親が出てくるとは、あんた、恥ずかしくないのか?」

 ウォグバードはリュージュの養い親だ。

「命のやり取りまでするのは喧嘩の範囲を超えている」

 ウォグバードが止めなければリュージュは死んでいただろう。

 冷静を装いながらもウォグバードの声音には隠しきれない怒気が含まれていた。ウォグバードの剣先がアルベールの喉元に食い込んで血が流れる。

「……わかった。降参だ。あんたには敵わない」

 ウォグバードは里一番と名高い剣術の使い手だ。さしものアルベールでも敵わない。

 ウォグバードは懐から縄を取り出すとアルベールを後ろ手に縛った。警備の仕事をしているので、縄はたまに人間を捕縛する時に使っていた。

 しかし獣人相手の拘束具が縄では心許ない。ウォグバードもそれはわかっているようだったが、立ち上がったリュージュが呻いてよろけたのを支えようと手を出した瞬間、隙ができた。

 おそらく、脳内がリュージュのことでいっぱいになってしまったのだろう。

 アルベールはその一瞬を見逃さない。縄を力任せにぶち切って拘束を解く。

 リュージュが叫んだ。

「ヴィクトリア!」

「きゃあ!」

 アルベールはヴィクトリアを肩に担ぐと魔の森に向かって一目散に逃げ出した。





 後ろからウォグバードが追いかけてきたが、アルベールは途中で彼を撒いてしまった。ウォグバードもまた、シドに負わされた傷が完全には癒えていないのだろう。

 アルベールはヴィクトリアを森の適当な所で降ろした。

「ヴィー、このまま里を出て俺と一緒にあいつらから逃げよう」

「嫌よ! 里に帰らせて! 私はアルの番にはなれないって何度も言ってるじゃない!」

 けれどアルベールはヴィクトリアの拒絶などわかりきったことだとばかりに全く気にしない。

 ヴィクトリアは直後にいきなり押し倒されて悲鳴を上げた。

(ここは外なのに、何を考えているの!)

「嫌だったら! やめてよ!」

 アルベールは意に介さない。抵抗するヴィクトリアを押さえながら首から流れる血を舐めている。

「邪魔が入らないうちに早く俺と一つになろう」

 アルベールがまたスカートの中に手を突っ込んで下着を脱がそうとする。

 ヴィクトリアはこんな目に遭うのは今日何度目だろうと悲しく思いながらも悲鳴を上げた。

 ウォグバードの介入に焦ったのかもしれないが、アルベールは性急な行動に出てきた。アルベールの瞳には自分の信念を貫こうとする執念のようなものが滲み出ている。

 しかし、突き刺すような視線をヴィクトリアに向けていたアルベールは、唐突に劣情を消すと顔を強張らせた。アルベールはヴィクトリアから手を放し、闇の中の一点を凝視する。

 トン、サクッ、トン、サクッと奇妙な足音がこちらに近付いてくる。草を踏む音にしてはやや不思議な足音だった。

 誰かが来る。

 その匂いはリュージュでもウォグバードのものでもなかった。

 木の影から出て月明かりに照らされた人物は、濃紫の髪を持つ凛々しい表情をした美しい男だった。
 男の黒い瞳には意志の強そうな光が宿っている。
 普段は闊達な印象の強い男なのだが、彼は今や眉を寄せて不快そうにしながらこちらに近付いてきた。

 ヴィクトリアはその姿を見てはっと息を飲んだ。目の前のこの人物こそ、ヴィクトリアが助けを求めようとしていた相手だった。

「オニキス……」

 真っ青な顔になったアルベールが彼の名を呟く。

 表向きは否定され続けているが、オニキスはこの里でシドに次ぐ強さを持つ男であり、シドの館付きの専属料理人だ。

 オニキスの右脚はギプスで固定され包帯が巻かれていて、松葉杖を突きながらの登場だった。右腕も包帯でぐるぐる巻きにされて布で首から吊るされている。どうやら怪我をしているらしい。

「隣の病室のウォグさんが急に慌てた様子で飛び出して行ったから何事かと思えば…… 嫌がる女を無理矢理手籠にしようとするとは、近頃の若いもんは随分と下衆い真似をするようになったもんだな」

 オニキスもウォグバードと同様に医療棟に入院していたらしい。

 オニキスに睨まれたアルベールは無意識に腰に手をやるが、剣は先程ウォグバードに弾き飛ばされて地面に転がったままだ。

「さて、嬢ちゃん、おじさんが来たからにはもう大丈夫だぞ」

 オニキスはヴィクトリアに視線を向けると、こちらを安心させるような朗らかな笑みを浮かべた。ヴィクトリアはそれを見てちょっと泣きそうになってしまった。

 オニキスは昔、母が具合が悪くなり自宅に籠もるようになってから、シドに命じられて母専用の食事を作っていた。その頃、下働きの人間が一度に纏まって逃げ出してしまった事件があり、人手が足りなかった為に時折オニキスが母の家まで料理を運んでくることもあった。

 いつだったか彼が母の家に来た時、配膳をしているオニキスを眺めていたら、一緒にいたシドに珍しく声をかけられて、『あいつのことはおじさんだと思え』と言われことがあった。
 それを聞いていたオニキスは目を丸くしていたが、ポカンとした顔をしていたのが可愛く思えてしまい可笑しくて、それからヴィクトリアはオニキスのことを親しみを込めて「おじさん」と呼ぶようになった。

 その頃のオニキスはまだそんな呼ばれ方をする年齢では全くなかったし、今思えばかなり失礼なことをしていたと思うが、その後もたまに会う度にヴィクトリアが「おじさん」呼びすることをオニキスは怒るでもなく笑顔で受け入れていた。

 オニキスはシドとは真逆の優しい人だ。

 ヴィクトリアはオニキスの元へ走り出しそうになったが、アルベールに強く腕を引かれて立ち止まる。
 アルベールは緊張した面持ちのまま全神経をオニキスに向けていた。

「えーと、お前名前なんだっけ? えー、まあいいや、とにかく嬢ちゃんから手を放しなさい」

「ヴィーは俺と番になるんです。口出ししないでもらえますか?」

 オニキスは里では下働き同様の職種である料理人であるが、アルベールはオニキスを完全に格上と認めているらしく、敬語を使っていた。

「でも嫌がってるじゃないか」

「嫌ならヴィーが俺を倒せばいいんです。それができないなら強い者の意に従うべきです」

「まあ確かに、これまでは族長がそれ認めてたから、この里じゃそれが通常みたくなってるんだけど、俺そういうのあんまり好きじゃないんだよね。

 身体を結べば結局は思い合って上手いこと収まるって言っても、一生の問題だし、ちゃんと当人同士が話し合って同意を得てからの方がいいと思うよ」

「急にそんなことを言われても困ります。これまでは他の者たちがその方法で番を得ても何の問題もなかったはずです。俺だけ横槍を入れられてその方法はおかしいと責められても納得できません」

「うーん、お前の言いたいことはわかるんだけどさ……」

 オニキスは首を捻りながら何事かを考え始めた。

「わかった。今までの方法でお前が納得すればいいんだな? それじゃあ、俺がお前に勝ったら嬢ちゃんを無理矢理番にするのは無しな方向でよろしく」

 言い終わるのと同時にオニキスがアルベールに接近した。

 オニキスは何か特別なことをしたわけではなかった。ただ松葉杖の先で腹部を軽く突いただけだった。

 アルベールは防御の構えを取る暇さえなかった。

 樹木を何本も薙ぎ倒しながら遠くの方まで飛んでいくアルベールを唖然と見ながら、ヴィクトリアはオニキスの強さにただただ呆然としてした。
 オニキスの動きは早すぎて、アルベールに何をしたのかヴィクトリアには全くわからなかった。

 気付いた時には隣にいたはずのアルベールが消えていた。

 ヴィクトリアはオニキスに腕を掴まれていて、アルベールに腕を取られたまま一緒に飛ばされていくということにはならなかった。

 ドォン、と、おそらくアルベールが着地した音が響いて来て、遠くに潜んでいた鳥たちが鳴き声を上げながらバサバサと飛び立っていく音がした。

「おーい、俺の勝ちってことでいいよなー?」

 返事はない。

 ヴィクトリアの意志を無視して番にしようとしてきた酷い相手ではあったが、ヴィクトリアはアルベールが死んでやしないかと心配になった。
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