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『番の呪い』前編

60 来訪者(三人称→ヴィクトリア視点)

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 月明かりが照らす夜闇の中、レンガ造りの二階建ての家から距離を取り、人影がちらほら集まってくる。彼らは皆一様に家を注視しながらも互いを牽制し合い、しばらくの間動く者は誰もいなかった。しかし、抜け駆けするかのように一人が飛び出すと、続くように一人また一人と駆け出し始めたのだったが――――

 走り出した者たちの誰一人として、家まで辿り着く者はいなかった。

 闇の中でもそれとわかる金色の髪と瞳をした男が、家に近付く者たちに向かって抜刀する。目にも止まらぬ速さで人影を次々と倒していった。

 駆け出さなかった者たちの中にはその男が刃を抜いたのを見ただけで逃げ出す者もいた。男は未だその場に留まり続ける者たちに鈍く光る瞳を向けると、すぐさま攻撃を仕掛ける。

 彼はやがてその場にいた者たち全員を駆逐した。





******





 まだ浴槽にお湯を溜めている途中だったが、ヴィクトリアは服を脱いで浴室に入った。シャワーの栓を捻り、身体にかかる湯の温かさにほっと息をつく。湯を浴びるのは一日ぶりだ。

(レインの匂いを落とさなきゃ……)

 四日前に付けられたシドの匂いだってまだ完全には落ちていない。

 石鹸を泡立てて身体を洗う。レインに口付けられた部位を何度泡で洗っても、半日程度ではレインの匂いは消えない。自分の身体からレインの香りがして、切ない。

 あの時レインは風呂上がりのヴィクトリアを見て良い匂いだと言ってくれた。でも、今入浴を終えて外に出ても、レインはいない。離れてしまったのだから、優しい声で甘ったるいことを囁いてくれるレインはもういない。

(ああ、またレインのことを考えている……)

 さっきまでは、リュージュが浴室の準備をしてくれている間もお風呂に入れることを嬉しく思い弾むような気持ちだった。それまでしていた話の内容が重かったこともあり、入浴は良い気分転換になるはずだと思っていた。

 しかし、浴室に入ってみればまたレインのことを思い出し、前向きになりかけていた気持ちが沈んでいく。入浴直前に感じていた気持ちと現在が違いすぎて、自分でも感情の浮き沈みが激しいように思う。

 獣人は番と離れると情緒不安定になることがある。全ての獣人がそうなるわけではないが。

 リュージュが指摘したように自分がレインを番と思っている――思い込んでいるのは確かにそうなのだろう。

(大好きなレイン)

 今でも好きだ。酷い事をされたのにまだ好きだ。レインがあんなことをしたのは一時的な気の迷いだったのではないかとすら思ってしまう。
 この気持ちが無くなることなんてあるのだろうか。でも、きっと無くさないといけない。

(きっと無くせるはず)

 かつて感じていたリュージュへ恋する気持ちが変質したように。

 リュージュは今でも大切な存在だ。結局肉親ではなかったけれど、ヴィクトリアにとってリュージュはもはや家族同然だ。血が繋がっていようがいなかろうが関係なく大切な男の子だ。
 リュージュの結婚式でヴィクトリアはリュージュとの関係性を親友と言ったが、今では姉と弟という表現の方がとてもしっくり来るような気がしていた。

 かつて自分が犯し、ずっと胸に抱えていた罪の告白までしてしまえるくらいには、リュージュのことを信頼している。
 レインに対する自分の気持ちも正直に打ち明けることができた。

 けれど、自分がシドの娘ではなかったことは――――自分とリュージュに血の繋がりがない事だけは、結局言い出せなかった。

 サーシャが去った今なら、ヴィクトリアがリュージュの番に名乗りを上げても構わないのだろう。邪魔をしてくるシドももうこの里にはいない。

(リュージュのことがずっと好きだった)

 でも今は誰が好きなのか考えるとレインのことが思い出されてしまい、胸がつかえた。レインのことを番だと思っていると指摘されて、リュージュよりもレインを異性として愛するようになってしまった自分の気持ちの変化にすとんと納得ができてしてしまったのだ。

 レインへの思いが消えるまでは、姉弟ではなかったことは伏せていようとヴィクトリアは思った。

 自分はまだしばらくリュージュとは友達――――姉と弟の関係でいたいらしい。

 信頼という一点においてはレインに対してリュージュに感じるほどの気持ちはない。

(レインのことは愛しているけど、信じてはいない)

 あの時、レインに憎しみを向けられているのがとても嫌だった。とても、悲しかったのだ。

 だからあの時逃げ出した。

 手荒に扱われたけど、レインと身体を繋げて一つになること自体は構わなかった。本当は彼と過ごすうちにいつからかそれを望んでいたから。

(でも、奴隷にはなりたくない)

 ヴィクトリアはまた悲しい気持ちになり沈み込んでいく。

 思考を続けるヴィクトリアは、外と面した浴室の磨り硝子の向こうに人影が見えることには気付いていなかった。

 ヴィクトリアが身体の泡を洗い流し、一度シャワーを止めた時だった。

 バタン!

 浴室の外、脱衣所の扉が乱雑に開けられる音がした。

「ヴィクトリア!」

 リュージュの叫ぶ声がして振り返ると、既に浴室の扉が開きかかっていた。

(え?)

 浴室の扉が開いて、血相を変えたリュージュが飛び込んでくる。

(え?)

 ヴィクトリアは咄嗟に何の反応も出来ず、そのまま固まった。
 リュージュは躊躇う事なくヴィクトリアの腕を掴んで引き寄せる。

 濡れた素肌にリュージュの衣服が張り付く。しかし、赤面して悲鳴を上げかけたヴィクトリアの口は、聞こえてきた破壊音に驚いて閉ざされる。

 振り返ると、浴室の窓が割られていた。外気が入り込み、とある男の匂いが漂ってくる。

 ヴィクトリアはその男の正体に気付いて身構えた。割れた箇所から硝子が脆くも崩れ、その男が姿を現す。

 ヴィクトリアは男の金色の瞳と目が合ってしまい、その瞬間背中にぞわっと悪寒が走った。

 リュージュはヴィクトリアを脱衣所に押し出すと浴室の扉を閉じた。

「服を着てここから離れてろ!」

 立ち尽くすヴィクトリアは返事もできなかった。リュージュと、おそらく窓の外にいた男にも裸を見られてしまったが、それどころではなかった。心臓が嫌な音を立てている。

 その男はヴィクトリアを見て、笑ったのだ。

 嫌悪感が身体の底から湧き上がってきて、ヴィクトリアは鳥肌を立てていた。

 ヴィクトリアは、ここはリュージュの言う通りにした方が良いと判断した。

 あの男は強い。同年代の中ではずば抜けて強かった。でも、リュージュだってこの数年でとても強くなった。彼に拮抗するくらいの力はある。一方の自分は腕力こそ人間には勝てるが、戦闘能力は里でも下の方だ。一緒にいたら足手まといになってしまう。

 ヴィクトリアはタオルや服など一式を腕に抱えて廊下に出た。居間に戻ってから急いで身体を拭き、下着とナディアの服を身に着ける。太ももに母の形見の短剣が収まるガーターホルダーを取り付けた時だった。

 コン、コン、コン、と、居間から続く玄関の扉が叩かれた。

 ヴィクトリアの心臓が跳ねる。彼女は顔を強張らせて動揺していた。

「ヴィー、開けて。俺だよ」
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