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故郷編

20 結婚式

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 ヴィクトリアは自室の鏡台に座っていた。筆を持ち、まぶたの際に黒い線を引いていく。目元に化粧を施せばいつもより艶っぽくなった。

 化粧は昔閉じ込められていた母が暇を持て余してよくやっていたので、それの見様見真似と、あとは聞く相手もいなかったので本で勉強した。美容液の類は使ったことがあったが、化粧は痕を隠す以外はしたことがなかったので、本日のために商人からお勧めの化粧道具一式を買い揃え、何度か練習も重ねた。

 あとは唇に紅を乗せるだけ。鏡を見て顔全体を確認すれば、そこそこ見栄えがするようにはなった。

 髪型については一人でやるのは限界もあり、最初は全体を上げて一つに纏めようとしたが、ヴィクトリアの髪は腰の辺りまであり量が多くて上手くできなかった。結局、長いまま降ろすことにして、側頭部に花をかたどった細工の髪飾りを付けた。

 ヴィクトリアは着ていたブラウスとスカートを脱ぐと、クローゼットの中から薄桃色のワンピースを取り出した。元々は母のものだったが、着てみた所、どこもかしこもヴィクトリアのためにあつらえたのかと思うほどに大きさがぴったりで、華やかな仕様も気に入ってこれを選んだ。

 シドには新しいものを買ってやると言われたが、一度服を着た状態でこれにすると言ったら、何も言わなくなった。

 本当は自分の瞳の色に合わせた水色の衣装を着ようと思ったが、おそらく本日の主役、青い髪と瞳を持つ花嫁がお色直しで青系のドレスを着るだろうと考え、同じ系統は避けて薄桃色の服を選んだ。

 もうすぐ式が始まる。ヴィクトリアは鏡台の前に立ち、くるりと回っておかしい所がないか一通り確認した。

(大丈夫、ちゃんとしてるわ)

 バックに化粧道具などを詰めて部屋の扉まで近づくと、とある人物の匂いに気付く。

 ヴィクトリアは一瞬動きが止まったが、この扉を通らないと外には行けない。数ある内鍵を解除して扉を開けた。

 目の前に、礼服を着込み着飾ったシドが立っていた。もうすぐ四十に届くというのに、見た目は二十代に見える。

 シドは以前このワンピースを着たのを見た時と同様、優しい眼差しをヴィクトリアに向けていた。

「お前はいつも美しいが、今日のお前はより一層美しい。装いがよく似合っている」

「ありがとう」

 少し気恥ずかしくなり、張り付けたものではない微笑みをシドに向ける。

「待っていたなら声をかけてくれればいいのに」

「お前のために使う時間など何一つ無駄ではない」

 シドはそう言って手を伸ばしヴィクトリアの頬を撫でると、抱きしめて耳に口を寄せる。

「俺のヴィクトリア…… このまま抜けて二人きりになりたい」

 シドが色気を滲ませた声で低く囁く。

 前だったら鳥肌ものであるが、ヴィクトリアはためらいつつもシドの身体に手を回し、その抱擁に応える。

 相変わらず執着されているのは気持ちのよいものではなかったが、シドの事を前ほど嫌いだとは思わなくなった。匂いを嗅がれても、身体に痕を付けられても、愛情表現が極端なだけだと、そう思うことにした。

 あの時支えてくれたのはシドだった。シドがいなかったら、自分は闇に落ちていたかもしれない。

 失意に打ちひしがれ、取り繕わずみっともなく泣いたあの日からだいたい一年が経とうとしている。

 ヴィクトリアは十七歳になっていた。

 自分とシドとの関係性に、具体的な進展はほとんどない。変わったのはヴィクトリアの心境だ。それまでは根本からシドを拒絶していたが、受け入れようとするものに変わった。

「駄目よ。主賓がいなくなってしまうわ。早く行きましょう」

「あいつは俺を嫌っているからいないほうがせいせいするだろうさ。それにお前だって惚れた男が他の女に愛を誓う場面が見たいのか?」

「……」

 リュージュへの思いは、未だヴィクトリアの胸に燻り続けている。

 リュージュとサーシャの仲の良さを目撃するたびに、親密さが深くなるのに気付くたびに、「俺のものになれ」と、シドからあからさまに何度も誘われた。

 それは悪魔の誘いのようだった。堕ちてしまえば、きっとずっと、もっと楽になれたのかもしれない。

 ヴィクトリアは純潔を保ち続けている。

 自分たちは、父と娘だ。そこだけは間違えてはいけない。ヴィクトリアは線引きをしていた。

 それに今日はやらなければならないことがあった。

(リュージュの幸せを見届け、この恋心を抹殺する)

「それでいいの。行かなきゃいけないのよ。見届けて、もう全部終わりにしたいの」

 お別れをしないといけない。リュージュとサーシャは口付けやそれ以上のこともしているが、なぜだか未だに身体は繋げていない。

 人間でもあるまいし、結婚式なんて里では幹部以上や目立った功績を上げた者しか行わない。やることになったのは目の前のこの男の差し金らしいが、流石にけじめをつけて初夜を迎えれば、正式な番となるだろう。

 獣人にとって、他の者と契りを交わした相手は恋愛対象から外れる。

 理性ではなく、本能で避けるようになるという。好きだと思っていた相手も、異性とは見なさなくなっていくに違いない。

(明日リュージュに会った時、きっと今とは違った思いで接することができるはず)

 今日はさよならをする、その儀式だ。

「それが終わったら、俺のものになってくれるか?」

 ヴィクトリアはただ微笑むだけで諾とは言わない。

「お前も強情だな」

 シドに腕を差し出される。ヴィクトリアはその腕に自分のものを絡め、会場までエスコートしてもらうことにした。










 サーシャは美しかった。純白のドレスには部分的に朱色や薄黄色の小さな花が舞っていて、ブーケや髪飾りにも同じ色合いの生花が使われていた。

 リュージュがサーシャの手を引きながら入場する。

 リュージュは、はにかんだような表情を浮かべて幸せさが滲み出ていたが、一方のサーシャは、ベール越しではあったがどことなく表情が硬いように見えた。緊張しているのかもしれない。
 
 式が行われている場所は里の中に唯一ある教会だ。獣人族に元々信仰はないが、信仰心を持つ人間と交流を持てば、自然とこのような施設も造られた。

 祭壇には獣人の神父がいて、二人に祈りの言葉を捧げていた。それから結婚誓約書への署名もある。

(リュージュに文字を教えておいて良かった)

 神父が二人に誓いの口付けを促す。

 今更この程度で動揺なんかしないと、ヴィクトリアはそう思っていたが、リュージュが薄いベールを上げてサーシャの唇に自分のそれを押し当てた瞬間、心臓に刃物でズタズタに切り裂かれたような痛みが走った。

 一瞬、このまま傷付いた心臓が止まって死ねれば楽なのにと思ってしまった。

 この場からいなくなりたかった。

 けれどヴィクトリアはそんな心情を周囲には鉄壁の表情操作で悟らせない。もはや意地だ。

 それに、絶対に心の内を外に曝け出したくはなかった。

 シドがこちらを観察するように見ていたからだ。

 神父が二人の結婚を高らかに宣言し、式の閉幕を告げる。

 リュージュは退場しながら友人たちに笑顔を見せている。入場の時は緊張した面持ちだったサーシャも、皆から祝福を受けて微笑みを返していた。本当に、絵に描いたように幸せそうな二人だった。

 ヴィクトリアは磨り減っていく気力を総動員し、彼らを祝福し見守るような、朗らかで穏やかな微笑みを始終浮かべていた。

 華やかに去っていく二人の背中を拍手で見送っていると、隣にいたシドがヴィクトリアの肩を抱いてきた。

 シドはヴィクトリアの耳に口を寄せると、周囲には聞こえないほどの小声で囁いた。

 その口元には嗜虐的な笑みが浮かんでいる。



「だから言ったろ。お前には俺しかいないんだよ」










 式の後は場所を移し、草原にテーブルを並べて立食形式の昼餐会を行うことになっていた。

 しかし、ヴィクトリアは式の終盤辺りから胃の中が重苦しくなり始め、それからずっと気持ち悪かった。

 主役の二人に一言お祝いを述べてから自室に下がってしまおうかと思ったが、二人とも人望があるのか人垣に囲まれて隙がなく、なかなか挨拶に行けなかった。

 ヴィクトリアは食べ物の匂いを嗅ぎたくなくて、一人喧騒から離れた木陰に立っていた。

 春はもう終わりの時期で、天気によっては暑い日もある。

 気候のせいもあるかもしれないが、精神的なものも原因だろうとヴィクトリアは自己分析する。しばらく涼んでいれば良くなるはずだと思った。

 ヴィクトリアは居場所を移るのも一苦労だった。式後も隣には常にシドが張り付いていたが、「気分が優れないのであちらの木陰に行っている」と言ったら、「では俺と休憩しに行くか」と言われてしまった。

 ヴィクトリアは、「昼餐会に主賓がいなくては駄目でしょう」と言い張って、実力行使でこの場所まで移動してきたのだ。

 逃げたわけではないことを示すべく、一応、中央部で側近に囲まれているシドからは見える位置にいる。

 しかし、移った直後に険のある表情をこちらに向けてきたので、後で何か言われるかもしれない。けれど本当に調子が悪かった。

 かといってシドと休憩とか勘弁願いたい。前より接するのが苦ではなくなったといっても、それはあくまで親子としての思いであり、一緒に休憩しになんて行ったら何をされるかわかったものではない。

 おそらく密室に連れ込まれ、介抱するという名目で過激なことをされるに決まっている。体調不良の状態でそんなことをされるのは御免被りたかった。

「よろしかったら、お飲み物でもいかがですか?」

 木の幹に背を預けるように立ち、呼吸を整えていると、給仕をしている人間の娘に話しかけられた。

 茶髪の、同じ年くらいの少女だ。思わず笑みが溢れた。

「ありがとう。ちょうど喉が乾いてたの」

 少女が持っていたトレイの中から、氷水が入ったグラスを選んで受け取る。喉を潤し、ほっと息を付いて顔を上げると、ヴィクトリアを見ていた少女が笑いかけてくれた。

 ヴィクトリアが再び少女に礼を述べようとした、その時だった。

「ヴィクトリア様!」

 急いでいるような女性の声が飛び込んできた。声の主は、なんと、本日の主役であるはずのサーシャだった。
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