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夫、成悟の愛しき憂い
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百華と職場を同じくして数日、明らかに職場の雰囲気が変わった。
人も空気もソワソワ落ち着かない。
当の百華は仕事に早く慣れようと集中している。と言っても、ひたすらデータ入力をする毎日だ。修学旅行シーズンを前に、団体旅行の手配で特に忙しい。
百華が配属された業務課が、別名「手配課」と呼ばれる所以である。
ビジネスサポート部の営業が、名刺のデータ化を頼んでも渋られるのはそんなわけがある。
業務課の重鎮、杉浦さんがイラつくのも無理はない。
「ケチっ」
「うるさい! 自分でやれ!」
繁忙期でなければ、業務課員は片手間に事務仕事を請け負ってくれる。
言い合いも冗談交じりであり、ただ単に空気を読めという一言に尽きる。
「あの。私でお手伝いできればお受けします」
「さ、佐藤さぁん」
口を尖らせていたビジネスサポートの平井が一瞬で鼻の下を伸ばす。見咎めた杉浦さんが思いっ切り背中を叩いた。
あーぁ。女神の微笑みを会社で振り撒いてくれるな。
百華に他意はないのは知っている。
でもなぁ……知らぬが仏、知るが煩悩だ。
「雑務でしかお手伝いできませんし、至急案件でなければ」
仕事に真面目な百華のことだから、与えられた業務や書類整理に時間はかけない。
イコール、教える側に余裕がないと時間を持て余す。
杉浦さんの忙しさに気遣っての申し出とも言える。気立ての良さに気づけない同世代の同性はやっかむが、上司や年上に好かれるポイントだ。
「佐藤さん、悪いわね」
杉浦さんの少しほっとした声色が全てを語っていた。と同時に、課内一のベテランを落としたのが見て取れた。同性の味方ができたのは安心要素だけど、平井が教える流れなのは頂けない。
平井が椅子ごと百華のデスクに近寄ったのを苦々しく見守った。
「佐っ藤さーん!」
「はい」
「はい」
背後から大きな声で呼ばれて、俺の返答が百華と重なった。思わず百華を見ると、百華もこちらを見た。目が合って目元を綻ばせる。
「あーあー、ふたりいると紛らわしいな。お前が佐藤で、あっちは百華さんな♪」
くっそ。オマエ、中澤。どっから湧いてでた?
いつものからからとした笑いにニヤニヤが重なって嫌味なことこの上なし。しかもとんでもない爆弾を投下しやがった。
「それいいね。百華さんでいい?」
あちこちから中澤に乗じた賛意が聞こえてくる。
俺も百華も苦笑いで了承するしかない。
「なにしに来たんだよ」
「ぶぶっ。俺がお前をさんづけで呼ぶわけねぇじゃん」
ポンと俺の肩に手を置いて業務課へ歩み寄って行った。
「中澤さんと仲良いっすね」
「同期なだけ」
「いやいや。佐藤さんじゃなくて、百華さん」
おいこら。近ぇわ、クソ中澤。
百華は異動してきたばかりだから、必要な書類があるのはわかる。中澤は総務の役割として様子を窺いつつというのもわかる。
だからって距離感狂ってんだろ。
システムを教えている平井よりはマシだけど、許しがたい。もっと言えば、中澤なりの平井に対する牽制だということもわかっている。
俺への揶揄いが9割ってこともな!
中澤と平井の間で対応する百華が若干椅子を引いた。
嫌がってんじゃねぇか。離れろバカ。
百華がそっと席を立って少し安堵する。中澤との会話が聞き取れない。
あまり凝視もできず、そっと視線を戻した。
マジ仕事になんねぇ。
早く終わらせて一緒に退社する予定なのだから遊んでられんっつーのに。
「ごめんなさい。少しよろしいですか?」
心を入れ替えたところで真横に嗅ぎ慣れた香りがした。
「へ? お、俺?」
妻相手になんつー馬鹿な対応……。
おしゃべりな課員は黙りこくって、初めて近くで見る百華に見惚れている。
それにしてもいきなりどうした!?
助けが必要なほど困った事態ではなかったはずだ。顔を上げて中澤を見れば、変わらずニヤついて俺ら夫婦を見ている。
「印鑑忘れてしまって。認印で構わないとのことなのでお借りできますか?」
「あ、うん。どーぞ」
引き出しの一番上からインク浸透印を取り出して差し出す。すらりとした指が印鑑を持ち去るのをぼーっと見つめてしまった。
「ちょーっ! 佐藤さんんんっ」
「百華さんめっちゃいい匂いした!」
「俺も佐藤に生まれたかった」
課員が息を吹き返したかのように騒ぎ立てる。
いやいやお前ら。俺はハンコ貸しただけだし。
「佐藤サンキュ。これ返すわ」
だからなぜお前から返されるんだ中澤。
書類に必要な押印を受けて満足気だ。文句の一つも言ってやろうというところで、百華との親し気な関係に喰いついた部下に先を取られてしまった。
「百華さんとは元々知り合いなだけよ」
「だったら紹介してくれても良かったじゃないっすか!」
「俺がお前らに恩を売っても得無しだろ。な、佐藤?」
「いい加減そのニヤニヤ止めろ。気持ちワリィ」
「そうですよ! 佐藤さんは靡きません!」
「佐藤さんは嫁ヲタなんだから!」
そうですよね佐藤さん! と女性陣に詰め寄られるこの状況は一体なんなんだ。
確かに奥さん大好きだけど、その奥さんが彼女でだな、、、とこの際はっきりさせたいのだが、あまりの剣幕に怯む。
状況を鑑みるに、この女性陣が百華に負の感情を持ちつつあるような気がしてならない。「佐藤」の印鑑一つであってはならないと、ひとまず飲み込んだ。
「仕入れの佐藤さんは愛妻家で株急上昇。んでもって高値キープだもんなぁ」
なんだそれ。さすがにうぜぇ。
うんざりする思いで睨むと、中澤のニヤニヤが薄れている。揶揄いだけでないと読み取って女性陣を見直せば、うんうんと一生懸命頷いている。
「だから何度も言ってるけど、俺が愛して止まない大事な奥さんは世界一だから」
「それでこそ佐藤さん!」
「太刀打ち出来ないレベルだから諦めて妬みも虐めも止めてね」
控え目に、しかし言うべきことは言い切った。百華のための防衛線ならいくらでも張る。
「今日もぶれない! 素敵!」
ぱちぱちと拍手され声援を送られると、中澤が大笑いを始めた。
え? まさか軽く受け流されちゃった?
「はいはい。今日もご馳走さーん」
中澤の一言が解散の合図になって、それぞれが仕事に戻って行く。
ただ、伝わっていないことだけが残念だった。
人も空気もソワソワ落ち着かない。
当の百華は仕事に早く慣れようと集中している。と言っても、ひたすらデータ入力をする毎日だ。修学旅行シーズンを前に、団体旅行の手配で特に忙しい。
百華が配属された業務課が、別名「手配課」と呼ばれる所以である。
ビジネスサポート部の営業が、名刺のデータ化を頼んでも渋られるのはそんなわけがある。
業務課の重鎮、杉浦さんがイラつくのも無理はない。
「ケチっ」
「うるさい! 自分でやれ!」
繁忙期でなければ、業務課員は片手間に事務仕事を請け負ってくれる。
言い合いも冗談交じりであり、ただ単に空気を読めという一言に尽きる。
「あの。私でお手伝いできればお受けします」
「さ、佐藤さぁん」
口を尖らせていたビジネスサポートの平井が一瞬で鼻の下を伸ばす。見咎めた杉浦さんが思いっ切り背中を叩いた。
あーぁ。女神の微笑みを会社で振り撒いてくれるな。
百華に他意はないのは知っている。
でもなぁ……知らぬが仏、知るが煩悩だ。
「雑務でしかお手伝いできませんし、至急案件でなければ」
仕事に真面目な百華のことだから、与えられた業務や書類整理に時間はかけない。
イコール、教える側に余裕がないと時間を持て余す。
杉浦さんの忙しさに気遣っての申し出とも言える。気立ての良さに気づけない同世代の同性はやっかむが、上司や年上に好かれるポイントだ。
「佐藤さん、悪いわね」
杉浦さんの少しほっとした声色が全てを語っていた。と同時に、課内一のベテランを落としたのが見て取れた。同性の味方ができたのは安心要素だけど、平井が教える流れなのは頂けない。
平井が椅子ごと百華のデスクに近寄ったのを苦々しく見守った。
「佐っ藤さーん!」
「はい」
「はい」
背後から大きな声で呼ばれて、俺の返答が百華と重なった。思わず百華を見ると、百華もこちらを見た。目が合って目元を綻ばせる。
「あーあー、ふたりいると紛らわしいな。お前が佐藤で、あっちは百華さんな♪」
くっそ。オマエ、中澤。どっから湧いてでた?
いつものからからとした笑いにニヤニヤが重なって嫌味なことこの上なし。しかもとんでもない爆弾を投下しやがった。
「それいいね。百華さんでいい?」
あちこちから中澤に乗じた賛意が聞こえてくる。
俺も百華も苦笑いで了承するしかない。
「なにしに来たんだよ」
「ぶぶっ。俺がお前をさんづけで呼ぶわけねぇじゃん」
ポンと俺の肩に手を置いて業務課へ歩み寄って行った。
「中澤さんと仲良いっすね」
「同期なだけ」
「いやいや。佐藤さんじゃなくて、百華さん」
おいこら。近ぇわ、クソ中澤。
百華は異動してきたばかりだから、必要な書類があるのはわかる。中澤は総務の役割として様子を窺いつつというのもわかる。
だからって距離感狂ってんだろ。
システムを教えている平井よりはマシだけど、許しがたい。もっと言えば、中澤なりの平井に対する牽制だということもわかっている。
俺への揶揄いが9割ってこともな!
中澤と平井の間で対応する百華が若干椅子を引いた。
嫌がってんじゃねぇか。離れろバカ。
百華がそっと席を立って少し安堵する。中澤との会話が聞き取れない。
あまり凝視もできず、そっと視線を戻した。
マジ仕事になんねぇ。
早く終わらせて一緒に退社する予定なのだから遊んでられんっつーのに。
「ごめんなさい。少しよろしいですか?」
心を入れ替えたところで真横に嗅ぎ慣れた香りがした。
「へ? お、俺?」
妻相手になんつー馬鹿な対応……。
おしゃべりな課員は黙りこくって、初めて近くで見る百華に見惚れている。
それにしてもいきなりどうした!?
助けが必要なほど困った事態ではなかったはずだ。顔を上げて中澤を見れば、変わらずニヤついて俺ら夫婦を見ている。
「印鑑忘れてしまって。認印で構わないとのことなのでお借りできますか?」
「あ、うん。どーぞ」
引き出しの一番上からインク浸透印を取り出して差し出す。すらりとした指が印鑑を持ち去るのをぼーっと見つめてしまった。
「ちょーっ! 佐藤さんんんっ」
「百華さんめっちゃいい匂いした!」
「俺も佐藤に生まれたかった」
課員が息を吹き返したかのように騒ぎ立てる。
いやいやお前ら。俺はハンコ貸しただけだし。
「佐藤サンキュ。これ返すわ」
だからなぜお前から返されるんだ中澤。
書類に必要な押印を受けて満足気だ。文句の一つも言ってやろうというところで、百華との親し気な関係に喰いついた部下に先を取られてしまった。
「百華さんとは元々知り合いなだけよ」
「だったら紹介してくれても良かったじゃないっすか!」
「俺がお前らに恩を売っても得無しだろ。な、佐藤?」
「いい加減そのニヤニヤ止めろ。気持ちワリィ」
「そうですよ! 佐藤さんは靡きません!」
「佐藤さんは嫁ヲタなんだから!」
そうですよね佐藤さん! と女性陣に詰め寄られるこの状況は一体なんなんだ。
確かに奥さん大好きだけど、その奥さんが彼女でだな、、、とこの際はっきりさせたいのだが、あまりの剣幕に怯む。
状況を鑑みるに、この女性陣が百華に負の感情を持ちつつあるような気がしてならない。「佐藤」の印鑑一つであってはならないと、ひとまず飲み込んだ。
「仕入れの佐藤さんは愛妻家で株急上昇。んでもって高値キープだもんなぁ」
なんだそれ。さすがにうぜぇ。
うんざりする思いで睨むと、中澤のニヤニヤが薄れている。揶揄いだけでないと読み取って女性陣を見直せば、うんうんと一生懸命頷いている。
「だから何度も言ってるけど、俺が愛して止まない大事な奥さんは世界一だから」
「それでこそ佐藤さん!」
「太刀打ち出来ないレベルだから諦めて妬みも虐めも止めてね」
控え目に、しかし言うべきことは言い切った。百華のための防衛線ならいくらでも張る。
「今日もぶれない! 素敵!」
ぱちぱちと拍手され声援を送られると、中澤が大笑いを始めた。
え? まさか軽く受け流されちゃった?
「はいはい。今日もご馳走さーん」
中澤の一言が解散の合図になって、それぞれが仕事に戻って行く。
ただ、伝わっていないことだけが残念だった。
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