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第48話 公爵様の花嫁修業 〜 お料理 〜 1

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三日後の夜、クリストフは明日が楽しみで眠ることができないでいた。 


明日の午後、魔法学の授業が終わってからではあるが、いよいよローゼン公爵が手作りのビスケットを披露してくれるのだ。


あの豚ドラゴンの刺繍があったハンカチは、レオンハルトの黄金の炎により刺繍の部分が焼け焦げて穴があいてしまった。新しい宝物となるはずだったそのハンカチを、新聞の豚ドラゴンの絵と一緒に宝箱に入れるクリストフのしょんぼりとした姿を見たローゼン公爵は、 クリストフの笑顔を見るためにビスケットを作ろうと、クリストフへの愛をもって決意したのだった……。


と、クリストフの侍女エレナは語る。


「ビスケットが人を攻撃するようなことはないでしょう」 


これは、豚ドラゴンの件を踏まえたローゼン公爵の発言だ。

だが、クリストフは思う。

刺繍をされたハンカチは、その刺繍部分が現実に現れてきたのだ。ビスケットが人を襲うビスケットになったところでなんらおかしいことはない。ローゼン公爵はビスケットという菓子を甘く見過ぎているのではないか。それに、公爵家当主が菓子を、しかもビスケットを作るという話など聞いたことがない。

さらに、だ。

一体誰に吹き込まれたのやら。なんとローゼン公爵はこのビスケット作りを「花嫁修行」というものの一環だと主張しているらしい。また妙なことを言い始めたローゼン公爵だが、あれだけ刺繍をこき下ろされたというのに、めげずに新たな試みに挑戦しようとするのだから感心ものだ。公爵家の当主というのは、こうでなくては務まらないのかもしれない。






クリストフは窓から室内に入り込む月明かりから逃げるように寝返りをうち、明日のことを考えた。


一見馬鹿らしいような、頓珍漢とんちんかんにも見えるローゼン公爵の行動に呆れているはずなのに、胸は高鳴り、わくわくする気持ちが抑えられない。眠気も今やすっかり鳴りを潜めてしまった。

仕方ない、とばかりにベッドの上をごろごろとしながら魔法で指先に光を灯す。この光を点けたり消したり、時には飛ばしてみたりするのが幼いころからの眠れぬ夜の習慣だ。簡単な手遊びとでも言おうか。魔法学の勉強を始めて知ったのだが、この魔法の属性は『光』らしい。

黒い静けさの中に浮かぶ淡い輝きに、懐かしい母とのやり取りが思考をよぎる。


クリストフが灯りを消した部屋で光を飛ばして遊んでいたところ、 後ろから母に抱きかかえられてくすぐられてしまった。「早く寝なさい」とのことだったが、しばらくは母との『くすぐり合戦』が続いた。 母が口を開けて笑うその姿は母子の幸せなひとときの象徴で、クリストフの大切な思い出の一つだった。

安らかな記憶の波に誘われ、クリストフはいつしか寝入ってしまっていた。 


そんな思い出に浸っていたせいなのだろうか。夢の中に母であるローナが現れた。

夢の中で、クリストフはすでにローゼン公爵が作ってくれたビスケットを手に入れていた。それは、クリストフの背丈を超すほどの大きさだった。母と二人、暮らしていた娼館のあの狭い部屋で、クリストフはそれを母に見せていた。 


「ローゼン公爵が俺に作ってくれたんだよ」 


にこにこ顔のクリストフに、母は嬉しそうに微笑んでクリストフの頭を撫でてくれた。 


「とっても美味しそうね」 

「うん」 


やがて部屋のドアが開いた。 女が一人そこに立っている。 知らない女のはずだが、どうも見たことがあるとクリストフは思った。 


「ローナ。すまないけれど、そろそろ時間が来てしまったわ」 


女は母の名を呼んだ。 


「誰?」 


クリストフが母に問うと、母が答えるより先にその女が「ローナの友達よ」と答えた。 女の言葉に母が困ったように眉を下げる。 母の友人だと言った女はクリストフに向かって優しげな笑顔を向けた。 そして女は母に何かを話しかけた。 会話の内容は聞こえなかったが、母は彼女にとても感謝しているようで「ありがとうございます」としきりに口にしていた。 


「はい」 


クリストフは大きなビスケットを転がして、その女の前に差し出した。 母の友達ならクリストフにとっても大切な人だ。だから、このビスケットをまずは彼女にあげることにしたのだ。

最初の一枚をクリストフが食べることができなくても問題はない。ローゼン公爵はきっとまたこの大きなビスケットをクリストフに作ってくれる。だってローゼン公爵はクリストフの婚約者で、いずれ結婚するのだから。クリストフはいつだってローゼン公爵からビスケットを作ってもらえる立場にいるのだ。

それに、友達ということは彼女は母の味方なのだろう。クリストフ自身が母に会えなくとも、彼女なら母を守ってくれる。クリストフは何故かそんな気がした。

差し出された大きなビスケットに、女は少し驚いたように目を見開いた。


「それは貴方のものですよ」 

「だって母さんが」 


クリストフは母を見た。 彼女も少し驚いているようだったが、それから酷く愛おしげな眼差しでクリストフを見た。 


「母さんがあんたにありがとうって言ってるから」


女は黙ってクリストフを見つめている。


「母さんの友達なんでしょ?」 


女は頷いた。


「それなら俺にとっても大事な人だから」


クリストフはビスケットを女に渡そうとしたが、女は首を振った。そしてクリストフに微笑みかけ、母のようにクリストフの頭を撫でて言った。


「それでは、後で神殿に届けてくれるかしら」 


美しい声だった。 クリストフは頷いた。 






朝、いつもより早くに目が覚めてクリストフは夢のことを思い出して驚いた。何しろ母が亡くなってから、クリストフは母が出てくる夢を一度たりとも見なかったからだ。

何度か見た夢は、母が死んだのは夢だった、という夢だった。だが、そこでも母の姿はない。仲の良かった娼婦達が外で遊んでいるクリストフに「お母さんが待ってるよ」と声をかけてくれて、 「何だ。やっぱり死んでいなかったのだ」と思うような内容だった。 それなのに、昨夜の夢では母と会話すらしたのだ。 

それから、あの女は誰なのか。 



首を傾げながら朝の支度を整えて、クリストフは階下へと下りた。 ローゼン公爵は昨夜は帰って来なかったらしい。 よほどビスケット作りが難航していると思われる。

初夏の日差しは朝にしてすでに鋭く、しかし地上に咲く夏の花々の彩りに散らされて、庭園は煌めいていた。そこに軽装備ではあるが鎧姿の近衛兵達が点在している。窓から見た屋敷の外は、花を愛でるには些か物々しい雰囲気だった。 



バルトル侯爵家での夜会でクリストフが狙われたことで、ローゼン公爵は白花はくかの館の警備を以前よりもかなり厳しいものにした。近衛兵の人数は増やされ、ローゼン公爵はその装備にすら文句をつけたらしい。あの毒針事件を踏まえれば仕方のないことだろう。

例の毒の入手経路については特定が難しいようだ。医療に用いている国もあるらしく、特に流通が厳しく制限されているわけでもないため、どんな商会からも買うことができる。しかし、アルムウェルテン国内で取り扱っている商会は少なく、購入した者がいるという記録もない。調査は国外まで足を伸ばして続けられているが、その見通しは不透明だ。

この問題はいつ解決するのか。黒幕を捕まえることはできるのか。

気にはなるが、かといっていつまでもその問題にばかり気を取られてもいられない。クリストフにもやることがある。もっと勉強をしたいし、魔道具の開発の時間も増やしたい。

それから、今最大の関心ごとであるローゼン公爵の手作りビスケットのことも考えねばならないのだ。







午前中、クリストフはビスケットのことを考えて終始にこにことしていた。

魔法技術学の勉強のために通っている魔法・魔術研究所で、所長であるファン・ハウゼン侯爵に「どうしたのか」と声をかけられて、ご機嫌でローゼン公爵からもらう予定のビスケットの話をした。 

魔法技術学の講師をしてくれている灰色頭——本当はアレリード公爵家のご令息らしいが、クリストフは心の中で『灰色頭』と名付けた——が研究所の裏で栽培している謎の肉食花に噛まれそうになっても、 彼と二人で作った魔道具が爆発しても全く気にならなかった。 護衛として付き添ってきた近衛兵三人が、爆発で煤だらけになってもなおにこにこしているクリストフを心配して、「医者に見せては」などとエレナに話し出すぐらいだった。 



そしていよいよ待ちに待った午後の授業の時間が訪れた。 このローゼン公爵の授業が終わったあと、手作りビスケットが提供される予定だ。



クリストフの大好きな魔法学の授業も、いまや上級の教科書を半分以上は終えている。 そんな油断もあってか、クリストフは授業中全く集中できずそわそわしていた。 膝を揺らしては何度もローゼン公爵から睨まれるのだが、手作りビスケットがあまりに楽しみで笑顔を向けると、ついにはローゼン公爵も諦めたように頭を振った。


「殿下、よろしいですか?」 

「うん」 


クリストフはそわそわしながら答えた。 


「そのように集中力のないご様子ではいけません。貴方様のお立場というものは、日々、人々の生活を考えて努力を怠ってはいけないものなのです」 

「うん」 


ローゼン公爵はビスケットをどこに隠しているのだろう。 クリストフは諫言かんげんにも曖昧に頷いて、そんなところにありはしないはずなのに、ローゼン公爵の衣服に、もしかしてポケットにでもお目当ての物が隠されていないか、じろじろと見た。 


「そのように人を見ることは失礼に当たります」 


いつもの指摘に視線を上げると、ローゼン公爵は厳しい視線をクリストフに向けていた。 

それでもクリストフが気になるのはローゼン公爵がクリストフのために作ってくれたビスケットだ。甘えるように上目遣いで彼を見つめると、ローゼン公爵は急に落ち着かない仕種で衣服の胸元を整えて、眼鏡を二度上げたり下げたりし、そして開いていた魔法学の教科書を閉じた。 


「結構。お聞きいたしましょう。何が貴方様の気をらしてしまっているのでしょう」 

「ビスケットは?」 


クリストフは向かいに座るローゼン公爵へと身を乗り出した。 


「俺、楽しみにしてたんだ」 


ローゼン公爵は一瞬呆気にとられた顔をして、それからすぐに眉を寄せた。 


「それは、このお勉強の時間をきちんと終えられてからのお話です」 

「でも、ちょっとぐらい見せてくれてもいいよね?」 


未だ冷たい目の前の男の視線にもひるまず、クリストフは縋って何度も声をかけた。 


「ね?」 

「まずはお勉強をいたしましょう」 

「ね?」 

「教科書の二百六十六ページを」 

「ね?ね?」 


クリストフは何度も小首を傾げてみせた。 ローゼン公爵は口を引き結び、少しの間黙ってから一枚の紙を取り出した。 紙にはたくさんの文字が書いてある。よく見てみると、それは全て魔法学に関することだった。


「それではここに書いてある質問に全て正解してみて下さい。これは試験です」 


試験。

学校に行くとそういうものがあるというのはクリストフも聞いたことがある。婚約者の白く長い指が指し示す先を見ながら、クリストフは目を瞬かせた。事の重要性を理解していないことがありありと表れているその顔に、ローゼン公爵の左眉が反応する。

ローゼン公爵は『いつもの顔』でクリストフを馬鹿にしたように笑った。 


「この試験に合格できましたら、お望みのものをすぐに持ってきて差し上げましょう。えぇ。合格できたなら、ですが」 


ビスケットをすぐに見ることができるかもしれない。クリストフは素早く紙を奪い取って、すぐに内容を読み始めた。 



試験というものの重大さは、クリストフにはよく分からない。受けたことがないからだ。けれど、ここに書かれていることにきちんと答えられれば、自分の求めるものを得ることができるのは分かった。

紙に書かれていたのは、この間勉強したばかりのことや、読んだことのある教科書に内容について。それから、研究所で灰色頭と魔法陣を描いているときに話題に登ったものなどがあった。それらが質問形式でまとめられている。

これが試験というものらしい。まあ、要はクイズや謎かけみたいなもののようだ。クリストフの目にはそう見える。ローゼン公爵が言う嫌味のような質問もあった。どうやら試験とは楽しそうなものではないか。

クリストフはにやりと口端を持ち上げてローゼン公爵を見た。ローゼン公爵の左眉がそれに応える。

壁際に控えているエレナが緊張した面持ちで二人を見つめ、ローゼン公爵の侍従アルベルトが眠そうに目をこすっては彼の姉イルザに小突かれるなか、すぐに勉強部屋にはクリストフがペンを走らせる音が響き渡った。





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