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第26話 公爵様の花嫁修業 〜刺繍〜 3

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「うまくいったね」


久しぶりの王宮内を歩きながら、慌てたローゼン公爵の顔を思い出し、クリストフは侍女のエレナに笑いかけた。


「ええ、でも何だか公爵閣下に悪いような気がします」

「いいんだよ。せっかく刺繍してくれたのに、捨てる方が勿体ないよ」

「そうですね」


クリストフの言葉にエレナも小さく笑顔を見せた。

二人は気分良く王宮の長い回廊を書庫へと向かって歩いて行く。背後からは護衛の近衛兵が二人、静かに付き従ってくれていた。この王宮内の書庫へ向かう道は、クリストフにとって今ではもう当たり前のものだ。

以前は、この回廊両脇の石壁が上へと高く伸びるさまが、小さな二人を冷たく取り囲んでいたように感じた。壁に掛けられた肖像画の見知らぬ男の目つきも、神話の一幕を描いた絵画の中の女神に祈る女の視線も、嫌味な貴族連中と同じようにクリストフを馬鹿にしているように見えたものだ。

だが、不思議ともう何も気にならない。

もちろんクリストフ達の環境が変わったこともある。ローゼン公爵が祝福の花嫁としてクリストフと結婚することが決まってからというもの、王宮の中で貴族らしき男から失礼な挨拶を受けることも少なくなった。おそらくはローゼン公爵に目をつけられることを恐れているのだろう。

また、ベルモント公爵の手先だと思われる侍女長とその手下達が追いやられたため、クリストフを不当に扱っていた使用人がいなくなり、他の使用人達からも嘲笑の視線を受けることもなくなった。

そして今日はそれだけではない。

クリストフの気が大きくなっている理由はこのハンカチの刺繍だ。出掛でがけに見た焦るローゼン公爵の滑稽な顔ときたら。今のクリストフの頭の中は、そのことで一杯だった。こんなハンカチの刺繍程度でいつもの冷静さを失ったローゼン公爵の姿に。

そう、ついにクリストフは優位に立ったのだ。このハンカチはローゼン公爵への切り札となる一品だ。

クリストフはそっとハンカチを見た。今後何かあったときは、この刺繍があるハンカチをちらつかせれば良い。これは、ローゼン公爵の「よろしいですか」を封じることができる武器だ。何なら早速今夜、このハンカチを使ってローゼン公爵にココアでもいれさせてみようか。自然と口元が緩む。

だが、そんなクリストフの気持ちを吹き飛ばしてしまうかのように、嘲りを含む声がかけられた。


「おやおや!これは第三王子殿下!」


真っ先にクリストフの目に入ったのは新しい角度を得た髭だった。クリストフの背後に控える近衛兵達が、その角度に合わせたかのように腰を折り曲げて礼を取る。彼等の態度は、その髭の持ち主が王宮内で強い立場にいることを表していた。


「いやぁ、ご機嫌麗しゅう」


あからさまな嫌味を聞いて、何故か唐突にクリストフの頭の中にマナーの教本の一ページが浮かび上がった。マナーの講義など、ローゼン公爵に教えてもらってもすぐに頭から追い出してしまっていたというのに。

あえてクリストフに自ら声をかけた。つまりこのベルモント公爵  髭男  は、クリストフを第三王子とは認めていないということだ。対応を考えていたクリストフの横から、エレナが一歩踏み出した。握り締めた小さな手は震えているが、その目は強い決意を宿している。


「べ、ベルモント公爵閣下よろしいでしょうか」


エレナは声を震わせながら発言した。クリストフに対する不敬を指摘するつもりだ。しかしベルモント公爵は、言葉もかけずエレナを一瞥しただけだった。代わりにベルモント公爵の後ろから現れた侍従らしき男が声を上げた。


「控えろ!メイド風情が!」


びくりと細い肩が震える。エレナはメイドではない。第三王子であるクリストフの侍女だ。

このベルモント公爵の侍従らしき男の身分は不明だが、その言葉の内容とあまりに暴力的な言い方から、エレナへ向けるだけであろうと、クリストフに対する不敬と言って差し支えないのではないか。


「エレナ」


クリストフはエレナを止めた。


「いいえ、負けません」


エレナは主の命を聞かず、さらに踏み込んだ。


「貴方様こそ不敬です!王族たる殿下へのお声がけのマナーもごっ、ご存知ないとは!こ、公爵家としての、きょっ、教養は」


クリストフは額に手を当ててから頭をかいた。エレナは無謀にもローゼン公爵家と並び立つ五大公爵家の一つ、財力面での雄であるベルモント公爵家の当主に嫌味をぶつけようとしたのだ。ローゼン公爵の影響かもしれないがこれはまずい。嫌味や皮肉はエレナには全く合わない戦法だ。

ベルモント公爵が静かにエレナを見た。後ろで侍従が剣の柄に手をかけた。まさか一侍従がクリストフの前でこのような所業に出るとは。ベルモント公爵が、クリストフより身分が高いと言っているようなものだ。護衛である近衛兵達がクリストフとエレナの前に歩み出る。クリストフは慌ててエレナの腕を引いた。


「ちょっと!」

「はっはっはっはっ!」


不意に、大きな笑い声と共に王太子レオンハルトが手を叩きながらベルモント公爵の背後から現れた。エレナは慌てて低く礼を取り、近衛兵達も未来の主に向かって膝をつく。


「やるではないか。ハーマン子爵令嬢。セドリックの真似事か?」


エレナはさらに深く礼をした。クリストフは驚いた。まさかこの王太子がエレナのことを知っているとは思わなかったのだ。目を丸くして自分を見ているクリストフを見て、レオンハルトは呆れたようにため息をついた。


「国を支える貴族を末端の者に至るまで把握するのは王族たる者当然のことだ。パルヴェル家の爵位と主力の事業は何だ?」

「えっ……?」


急に問われてクリストフは戸惑った。魔法・魔術研究所で聞いたことがあるような気もするが、いまいち記憶が曖昧だ。


「パルヴェル伯爵家の領地は様々な薬草の産地です」


エレナが囁いた。


「おやおや。侍女の方が詳しいときた」


ベルモント公爵が笑いながら肩を竦めた。


「ガルトナー家は」


続く兄からの質問に、クリストフは焦って頭の中で貴族名鑑を開いた。しかし出てきたのはガルドゥーン家。魔石の産出される鉱山を有している。


「ガルトナー侯爵家は騎士団の」

「ガルトナー家も知らんとはな!セドリックが哀れでならん」


意味が分からずクリストフはレオンハルトを見つめた。


「これだから平民は……」


ベルモント公爵が呟いた。


「ガルトナー侯爵家は代々騎士の家系で、当代のテオドール閣下は前大将軍をお務めになられておりました。今は爵位を返上してはおりますが、それでもなお、その武威はアルムウェルテン王国だけでなく、周辺諸国にも轟いております。また、領地は名馬の産地として有名です」


エレナは眉尻を下げてクリストフを見て、小声でそう告げた。


「それからローゼン公爵閣下の」

「セドリックの学院時代からの親友とも呼べる男だ」


エレナの言葉をレオンハルトが引き継いだ。クリストフは愕然とした。だってそんなことは知らないのだ。聞いたこともない。ローゼン公爵もクリストフに話してくれたこともない。


「妻になる男の交友関係も知らんのか。セドリックは私にはよくそういう話もしてくれたものだが」

「大方、放っておかれているのでしょう」


ベルモント公爵がレオンハルトに囁いた。違う、とクリストフは拳を握り締めた。


「ま、嫌味しか能のない男ですから」

「よせ。あれはあれで使い途がある。いずれ王となる私のために仕える男だ」


まるでローゼン公爵が自分のものであるかのような口ぶりだ。エレナが戦意も新たに反論した。


「で、ですがロ、ローゼン公爵閣下は第三王子殿下の花嫁様で……」

「お前に発言は許していない」


レオンハルトに一喝され、エレナは黙るしかなかった。


「どうやら少しは学んでいるようだが、ローゼン公爵家の役目を知らぬわけではあるまい?」


俯くエレナの様子は、レオンハルトの言葉の肯定を表していた。ローゼン公爵家の役目などクリストフは聞いたこともない。何故ローゼン公爵は話してくれなかったのだろう。『王家の守護神』などと呼ばれていることに、何か関係があるのだろうか。

クリストフは無意識に胸元のハンカチに手を触れていた。レオンハルトの言うことはきっと違う、そう思いたかった。手ずから刺繍をしてくれたハンカチを貰えたのはクリストフだけだ。レオンハルトが考えているようなことにはならない。ローゼン公爵はクリストフを見捨てない。クリストフを置いていかない。側にいてくれる。そう約束したのだから。

だが、目ざといベルモント公爵が、クリストフの手元に気づいた。


「おやおや」


ベルモント公爵はレオンハルトに視線でクリストフのハンカチの存在を示した。それに気づいたレオンハルトはあからさまな嘲笑を浮かべる。


「少しは身なりに気を使うようになったのか?」


レオンハルトの視線がハンカチに注がれていることに気がついたクリストフは、思わずムキになって言い返した。


「これはローゼン公爵が、セ、セドリックがくれたんだよ!」

のちにクリストフは悔やむことになるが、この後の発言は失敗だった。それにエレナも乗ってしまった。若い二人は身を守るための撤退方法について、未熟と言わざるを得なかった。


「俺のために刺繍してくれたんだから!」

「そ、そうですっ!ローゼン公爵閣下と、殿下は『夫婦の愛』で結ばれて」

「刺繍だと!?」


レオンハルトが大股でクリストフに近寄ってきた。


「最近女の真似事をしているようです。いや、滑稽ですな」


ベルモント公爵が髭を撫でながら大笑いする様子を背に、レオンハルトは腕を伸ばし、クリストフの胸元から大事なハンカチを取り上げてしまった。





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