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「じゃあ、"こういう"ことだから」

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「ごめん、じゃあことだから」



 ある夏の日、そんな一言で、二人の縁は終わった。





「分かりました」

 いずれ籍を入れるとか、もっと先の将来的なことだとか。

 そもそもそんなことは一切考えていなかったため、ゼーテは一拍の間を開けたあと、取り乱すことなく無機質に返していた。どちらかというと拍子抜けした様子であったのはたった今、が付いた恋人の方だった。

 目の醒めるような美人でもなければ、あざと可愛く頬を染めた娘でもない。どこにでもいるような……、特筆するとすれば、少しばかり出るとこが出ている体型の女性を伴った男は、先ほどまでの得意げな様子は何処へやら、ポカンと口を開いて間抜けな顔でこちらを見つめている。

「部屋にある私物は、今週中に送っておきますね」

 たったそれだけ告げて仕舞えば、すでに縁の切れた身である。わずかに会釈を返したのち、ゼーテはそっと身を翻した。
最後にチラリと見えた男の顔色は青ざめているにも関わらず、額にはびっしりと汗の粒が浮かんでいた。冷房のかかった部屋なのに、という疑問が浮かんだが、他人になった男との思い出と共にいつのまにか溶けて消えていた。




 ゼーテ・ウィンジストンは事勿れ主義である。

 決してなよついているわけでも、ぼんやりしている風でもない。ただ、その瞳の温度はいつも冷めていた。

 アイスブルーの瞳はどことなく涼やかな眼差しで、シルバーグレーの髪色も相まって時に鋭利にも、完全な無、にも捉えられる。やや威圧感を与える風貌に初対面の人間はとっつき難い印象を持つものが大半だった。しかし、そんな相手も出会って一月経つと、肩の力をひょこりと抜いてしまう。

「ウィンジストンさん、この書類をお願いしたくて」

 机に遠慮なくバサリと置かれたのは、提出期限が迫った書類である。現代で言うと校閲に似たような仕事を担当しているゼーテは、こうして同僚――時に後輩からも――こう言った業務を振られることが多かった。

 つまりは体のいい、お任せ係である。周りの者が頼むのを見て――それが当たり前のように後輩も列に加わっているのを見て――新入社員は全てを理解する。それが更なる循環を産んでいた。

 急な予定飲み会が入ってしまって。
 今の案件の納期が迫ってて忘れてて
 相手会社面倒な相手から催促されていて。


 様々な理由が頭の上を飛び交ったのち、ゼーテは期待の眼差しを受けながら書類の山を見つめ、一拍おいてからこう返す。

「承知しました」

 そう、これでいつも通りだ。
 これが、なのだ。

 だってそんなの目の前の仕事を片付ければ事足りる。
 コツコツ励むことが苦にならないゼーテは、すぐさま取り掛かる。自らの案件と並行しながらもりもり業務をこなすのだ。
これが、全く苦にならない。だって何もかもいつも通りだから。ゼーテは本気でそう考えていた。





 恋人との関係が切れたその日も、ゼーテはいつも通りに仕事に励んでいた。今では元恋人になってしまったあの男。あちらから言われて縁を繋げたが、それはそれはマイペースな男だった。事前の連絡もなしに家に上がり込み、私物をモリモリと置いてまるで自分の家のように振る舞うことが当たり前になっていた。今回も何も朝イチの出勤時にそんな報告をしなくても、と思ったが、仕事終わりにそんな予定で呼び止められて帰宅時間が遅くなることを考えると、まあそれはそれで……、となったので、1日の始まりのあの時間で『余計なしがらみの清算ができた』と考えてみた。

 うん、それもいいのかとも思う。ひとつ頷いたゼーテは顔を上げる。その瞬間、すでに思考は仕事モードに切り替わっていた。そうなって仕舞えば、もういつも通りだ。

 いつも通り、夏鳴き虫の音色を窓越しに聞き流し、
 いつも通り、いくつか追加が生じた仕事を片付ける。

 その日、一つのミスをすることもなく仕事を終えたゼーテはしっかりと定時で退勤した。同じ日、元恋人であったその男が後々左遷に繋がる大きなミスを繰り返し、散々な目にあったことを彼女は知らない。




 「ただ泣きすがって欲しかっただけなのに……」
 これは、彼女に別れをチラつかせた男の遠吠えである。

 「あまりご自分の感情を出されない方ですよね?」
 これは彼女の隣の席のあざと可愛い同僚の言葉。

 「どちらかと言うと……、事勿れ主義、なのかな?」
 これは彼女の部署の上司から。


 彼女の為人ひととなりはだいたいこんなような感じだった。

 容姿を誉められても。
 意地の悪い冗談を振られても。
 仕事の出来を認められても。

 それが退勤前に仕事を任されたって、うっすらと笑みを浮かべ、「そうですか」と告げて、すぐに取り掛かって見せるのが彼女だった。人によっては明らかに憤慨することでも、彼女にしてみればどこ吹く風にしか感じないようだった。

 多分。と彼女は自分でそう思う。
 多分、自分はに、できているのだ。

 仕事を終え、自室に帰り着いた彼女はシャワーで汗を流し一息ついた。既に帰宅したその身体で男の荷物は整理し終えている。帰宅途中に手に入れた送付箱に荷物を詰め、玄関口にまとめた。あとは宛名を記載するだけで転送魔法が作用して彼の部屋にたどり着くだろう。大きめの送付箱が必要であったため、少し値段は張ったが、別に彼に工面してもらうほどでもない。宛名を記載したら登録してある連絡先もさっさと消してしまう所存である。

 またひとつ身軽になった。

 冷房のよく効いた室内に戻り、ソファに身を預けた彼女が思うのはそれだけであった。熱った身体に涼やかな風が心地よい。今の気持ちを喩えるとするならば、古い服を処分するときのような、、だろうか?そう考えると、今朝の段階で彼を見限ったのだろうと思う。

 執着心などもとよりない。多分、恋心も然り。
 言われたから付き合っただけである。

 仕事においても、プライベートにおいても、ゼーテはそんな気質であった。良いことも嫌なことも、のらりくらりと受け流していく。それを決して苦痛と感じないのがゼーテらしいところであった。

もうすぐ適齢期も過ぎるところ。今後もこんな調子で生活平穏が続いていくのだろう、とこの時のゼーテはのんびりと考えていた。






「そうそう、そうやって、ずーっといつも巻かれてきたんでしょ?だから今もそのまんま巻かれまくって喘いでればいいんだよ」
「……っ」


 それがどうしてこうなった。

 女性更衣室の少し先にある相談室。昔は職員同士でのちょっとした会議に使われていたが、今では狭い上に薄暗いそこを使用する者はほぼいない。

 しかし今、ゼーテはその相談室の中にいる。決して会議でも、資料作成でも、調べ物でもない。そもそも仕事とは完全に、別の要件である。


 ぱちゅっ♡ ぱちゅっ♡ ぱちゅっ♡
「ぃあ、……ぁあっ、ぁっ」


 冷房の効きの悪い室内に響き渡っていたのは、ムンとする熱気と、はしたない水音。そして酷く耳障りな、声だった。


「ふーん、そんな声も出せるんですね。……意外」
「何言って、……ぃっあぁあっ、ふ、っぅうっ」

 そう呟いた男が、全ての元凶と言っても過言ではない。ギリ、と睨みつけようとして、しかし不意に強くなった突き上げにそれは叶わなかった。


 その日もゼーテはいつも通り、仕事を任された。いつもと異なったのは、その期限。明らかに過ぎている書類が混ざっていたのだ。狡猾にも山の一番下に紛れ込んでいた紙面に、流石のゼーテも気がつくのが遅れた。すぐさま行動したのが定時一時間前。上司に報告し、茹だるような暑さの外に飛び出す。その後は上司と手分けして関係各所に頭を下げて回った。本来担当者であるはずの後輩は早退しており、さらに間の悪いことに本日から長期休暇で連絡も繋がらない。受け持った状況がはっきりしない中、いくつもの苦言を呈されたゼーテはヘトヘトになりながら帰社した。

 空調の効いた社内は涼やかにゼーテを迎えてくれた。何度も汗を拭ったハンカチはビショビショで、既に用を成さない。外回りの担当はこんなにも大変な思いをしているのだな、とそんなことを考えながら、一刻も早くシャワーを浴びようと、ゼーテは歩みを早める。あとは上司とその担当に状況報告の文章を残して終わり。自らのデスクのある部署の前にたどり着く。定時を超え、職場に灯されているのはわずかな照明のみ。それでも誰か職務に励んでいるようで、ゼーテは首を傾げた。

「お疲れ様でした。大変だったね」

 頼りない灯の下、自らのデスクに腰掛けそう微笑むのは上司だった。どうやら先に戻っていたらしい。汗だくのゼーテとは違い、爽やかな空気を纏ったままの男。同じく謝罪行脚に向かったはずなのに、なぜこうも異なるのか、ゼーテは首を傾げた。

 エディル・フィヴナー。既に本部への昇進が決まっているこの男は酷く飄々としている。社内でも規定服を着崩し、一歩間違えれば軽薄な雰囲気と捉えられてもおかしくない。それでも女性社員が黄色い声を上げるのには理由があった。

 清涼感のあるライラックカラーの髪は肩口まで伸ばされ、大体は括り上げられている。ネイビーブルーの瞳は、しっとりと濡れており、どこかミステリアスな空気を醸し出していた。どちらも陽の光に当たると紫が発色し、その場によって、快活な印象にも、落ち着いた印象にも感じさせるのだ。対人関係においても、事務的な振る舞いが多い中、たまに優しさを滲ませるギャップもありそれが女性陣の人気を掻っ攫う要因となっていた。今は謝罪行脚のためか、かっちりとしたスーツを着こなし、そのスタイルの良さを存分に曝け出している。

 つまりは、よく出来た色男である。

「僕は早めに戻れたので。差し入れです」

 眉をひょこりと下げ、ゆったりと口角を持ち上げた男は、両手にカップアイスをかざしてみせる。明らかにその体格に似合わないあざとい所作にも関わらず、映えてしまうのだ。

 これがゼーテ以外の女だったら卒倒モノ、もしくは勘違いに誤解を重ねて非常にかわいそうなことになる未来が待ち構えていただろうな、とそんなことを思う。

 見た目がそうさせるのだろうか。それとも、所作?

 どうでもいいことを考えながら、ゼーテは礼を言い、ご厚意に甘えることにする。固い声の礼と共に伸ばされた手は空を切った。キョトンとするゼーテにアイスを持つ手をわずかにずらした上司は視線だけでとある方向を示した。

「ふふ、お預けしてしまってごめん。ここは重要書類が多いでしょ?万が一汚したら大変だから、あっちの相談室で食べましょうか」

 そう笑った男は、確かに上司の顔をしていた、のに。







「あ、アイス、溶けてきてる」


 不意に声音が変わり、ゼーテはわけも分からず反射的に顔を上げる。開けられたままで一切手の触れられていないアイスがドロリと液状に変わっていた。







 そう、あの時、もらったアイスを食べようとして、




 不意に腰を引かれ、この男に





 口付けられた、のだ。




 そして訳のわからない、錠剤、を



 つうぅ♡
「ひあぁ、つめ、た……っ!?」



 思考が飛んだ。背筋に塗りたくられたのは冷え冷えとした感触。考えるまでもなく何をされているかわかる。決して理解などしたくない。抗議しようとした瞬間、新たな衝撃がゼーテを襲った。

 れろっ♡ ぴちゃっ♡
「おーいひ、」
「あぁあぁっ」

 背骨に沿ってひと舐め。それを皮切りに、ドロドロに熱い舌が彼女の背を這いずり回る。後ろからとちゅん♡とちゅん♡と突かれ、合間に優しく背中を愛撫される。きゅう♡、と膣が閉まるのが自分でも分かり、ゼーテは更に顔を赤らめた。

「わんちゃんみたいに四つん這いで後ろトントン♡ってしてもらいながら、お背中ペロペロしてもらうの好きなんだ?ふふっ、気持ちよさそうな声出してますね」
「そんな、こ、っなぁ、……っあぁっ」

 そして、この言葉遣い。下品極まりない。抗議しようと口を開く、のだが、その度にどぢゅり♡ と一際強く突き上げられ、漏れ出るのは、男の妄言を肯定するかのようなひどく情けない喘ぎ声だった。

「あの男にもこんな声聞かせてたの?普段はそういうことに興味ないって顔してんのに、やーらし」
「っ!……ち、がぁっ……っぁあっ、や、めぇっ」

 本当に違う。

 マイペースなあの男元恋人は自分本位の行為しかしなかった。回数も一回きりで、すぐに終わる。ゼーテが快楽を感じる時間すらなかった。でも、ゼーテにとってはそれが楽だった。

 だから、こんな風に、男の気を誘うような、鼻にかかったような声が自分の口から出ていることが信じられなかった。意地になって口を閉じようとするも、中を突かれながら、既にはだけ切った胸をやわやわと揉まれ、挙句の果てにその頂をきゅぅとつねられてしまったら、もう、ダメなのだ。堪えきれずに声が出てしまう。


「流石にこんなに中トロトロにさせて、びしゃびしゃにお漏らししてるの見ちゃうと、信じられないです、よ」

 話しかけられたとて、この状況できちんとした答えを返せるはずもなく。やはり鼻にかかったような嬌声に取って代わってしまい、ゼーテは更に苛立ちを募らせた。

「だぇえっ!そこ、こしゅっちゃあ、やらぁ!」
「ふふ、ココがイイの?またお腹の中、きゅぅう♡って締まったね。ちゃんと次も苛められるように覚えといてあげますね」

 次?そんなの、絶対、あり得ない!

 ゼーテは思わず睨みつけてしまう。今までここまで感情をむき出しにして人を睨みつけたことなど一切ない、のに。しかし、やはり男の方が上手だった。信じられないことにゼーテの渾身の強面も男にとっては、喜ばせる材料にしかならないようだ。だって現に、この男、微笑んでいる!

「ふふ、そんな目も出来るんです?目つき、とっても悪いね、……そんな目で見られると」
「っぁあっ、な、でっ……?おっき、いのやぁ!」

「最近気が付いたんですけど、僕、自分のこと好きじゃない人のこと、こうやってドロッドロに屈服させるのだぁい好きみたい。だからこの状況、ほんと、たまらないです」

「このっへ、んた!っっあぁあ、ぁあ!」
「ふふ、ありがとうございます。嬉しいです」



「あ、もう少しでイきそうです。ぬるぬるちんこでたくさん、とんっ♡ とんっ♡てしてあげるので、おもらしまんこで優しいお迎え、ちゃーんと頑張ってくださいね」
「そんなこと、言わな、」

 とちゅっ♡ とちゅっ♡ とちゅっ♡
「……ひぁあっ、あっ、あっ、あっ!」


 わかりやすくピストンを早めた終わりが見え始め、ようやっとゼーテは希望を見出す。
行為が終わったら、帰宅して、一刻も早くこのどろどろで気持ちの悪い身体を清めて、




――辞表を書こう。

 そして、こんな男など目に入らぬような何処か遠くへ、旅立とう。

 だから早く。


 いつの間にか、重ねられていた大きな手のひらをぎゅうと握りしめてしまいながら、ゼーテはその時を待つ。自分の手と同じように汗を滲ませる固く大きな掌に握り込まれた瞬間、ジュン♡と甘やかな刺激に襲われる。

 なぜ?なんで?わからない!

 唐突に体の芯から滲み出てくる甘美な快感に翻弄されまいと、ゼーテは混乱しながらも必死に耐える。眉を寄せるゼーテに何を思ったのか、男はそっと微笑んだ。

「大丈夫ですよ。ちゃんとまだまだ一緒に遊べるようにヒニン、しますからね」

 くすくすと微笑む男に、最早ゼーテはそんなこと気にしていなかった。最悪こちらが避妊薬を飲めばいいだけだ。

 だから、はやく。
 なんでもいいから、はやく!


「はやく、だし、てぇっ!」
「っ、」


 男がわずかに息を飲む音と共に揺さぶられ、何回かの絶頂に翻弄されながらゼーテは。



「ーーーっっつ!」




 酷く、困惑していた。






 明らかに、元恋人とは、のに。

 だって付き合ってもないし、
 明らかに無理矢理だし、
 穏やかな語らいだって無い。
 あの甘ったるい錠剤?
 アレのせい?
 それでも、ゼーレは途方に暮れてしまう。


――なぜ、自分はこんなにも、



 、いる?――






 その後、吐精した男は驚くべきほどの回復力を見せ、日が変わるまでゼーテを翻弄し続けることを、彼女はまだ知らない。














「ふふ。じゃあなので」


 目覚めてすぐに男からそんなことを告げられ、ゼーテは数度瞬きを繰り返した。

 横に寝転がっている――所謂添い寝という形だ――男は、一言そう告げたきり、穏やかな笑みを浮かべゼーテを眺めていた。唖然としたままゼーテは口をはくはくと動かす。

 そもそもここはどこだ。ゼーテの知らない広いベッドに高い天井。さりげなく置かれた調度品も明らかに一流であるのが一目でわかる。窓からは爽やかな風が吹き込み、一言で表すならとても快適な場所だった。もし、状況が許すのなら、すぐにでも二度寝を始めていただろう。

 もちろん、この男があるこの状況ではあり得ないが。

 ゼーテがジロリと男を見つめると、男は何故か頬を染めて、ボソボソと語り出す。

「昨日、君は僕に襲われて、……うーん、最後はほぼ合意みたいなもんだったんだですけど。覚えてない?」

 確かに襲われた。しかし合意ではない。
 否定しようとするが、そんなゼーテを尻目に、尚も男は言葉を続ける。

「エディルの奥さんになる♡って最後は言ってくれたんだけど」

 そんなの絶対言うはずない!
 青ざめたゼーテは知らず拳を握りしめる。

「端的に説明すると、俺が告白して君が了承した形。つまり、僕たちもう恋人同士なので。よろしくね」

 それだけ告げるともう付け足すことはないとばかりに、男はそうっと、しかしどこか力強くゼーテを抱きしめた。それどころか頬擦りまでして見せるのだから、本当に気色が悪い。自然と体が強張り、多分鳥肌だって出ているに違いない。すかさず男が「うわー、ほんとに嫌そう!たーのしー」と弾んだ声で言った。

 ガチガチのゼーテは青ざめ、歯をキツく噛み締めた。こういう時、ゼーテは決して反論しない。否、反論ができないのだ。否定したい気持ちはあっても言葉が出てこない。どんなに怒っていてもその激情は外に解放しようとした瞬間に、喉の奥で縮こまってしまうのだ。

 だからゼーテは、ゆっくりと目を閉じる。事なかれ主義のゼーテだが、ここまで予測がつかない相手は初めてだった。本来であれば、飄々と構えているはずのこの男。それが今となっては子供のようにケラケラと笑っているのだから、全く理解ができなかった。

 そういう時、ゼーテはどうするか。

 そろそろと瞼を下ろし、薄く息を吐き出す。そのままゆっくり深呼吸を三回繰り返した。そうすると、グチャついた気持ちがゆっくりと解れていく。

 さて、どうする?
 どうすれば、一番、平穏?
 どうしたら、一番、生き易い?
 一番は何?

 きっかり三回分。
 深呼吸を終えたゼーテはすぅ、と開眼した。

「……わかりました」




 実に不本意である、という感情はそのままに、ため息と共にその言葉を吐き出す。ゼーテは諦めたのだ。今回も成り行きに身を任せた。

 は、しょうがない。どうせこの男もすぐに飽きるに決まっているのだ。きっと数日後には他の女と、


「分かってないと思うけど。ねえ、僕、」
「っ」


 不意に耳元に息を吹き込まれ、ゼーテはわずかに身を震わせる。含み笑いと共に耳に落とされたのは、先ほどよりももっとずっと、低音の声音だった。

「しばらくは君に執着すると思うから。覚悟していてね」

 鼻をつつかれたゼーテは、口を開き、……しかし、何を告げることもできずただひたすらエディルを睨みつけることしかできなかった。








 エディル・フィヴナーは、いわば、優等生だった。やればやるだけできる。それはつまり力の抜き方も熟知していることに他ならない。だから、同じ部署の、不器用な生き方をしている女の存在を認知したその瞬間から、嘆息していたのだ。


 馬鹿みたいだなあ……。

 お局からの明らかな嫌味にも。
 若い子から舐められて仕事を押し付けられても。
 恋人の裏切りにだって。

 全てを受け入れ、受け流してしまう。

 きっと。
 きっと、自分だったら我慢ならないだろう、と思う。

 まるで他人に人生を支配されているかのような、そんな気持ちになってしまうからだ。自分だったら他人に主導権を握らせたりしない。年下に仕事を押し付けられるなんて言語道断である。そもそも年齢差なんて関係ない。誰からも左右されずに自分の人生を生きるのだ。

 きっと、自分だったら。
 そうなる前にいくつもの予防線を張る。
 そうならないよう最善の道を準備する。
 そんな彼の得体の知れない苛立ちを他所に、彼女は全く違う方向を向いているようだった。

 彼が何より気に食わないのはその瞳だった。他人に自分の時間を、仕事量を、そして人生を侵されたとしても、決して揺らがずに平静そのもの。まるで、凪いだ湖面のようで、それが本当に理解できなかった。




 あの日、彼女が縁切りを迫られた現場にうっかり居合わせてしまった時。物陰で息を潜め、朝っぱらからの珍事にゲンナリとした彼の耳を打ったのは、彼女の声だった。

 情けない泣き声でも、震え声でもなくいつも通りの凛とした声で、縁切りをいとも容易く了承して見せた女は、元恋人を置いて未練がないのが丸わかりの所作でその場を去った。唖然と立ち尽くした男が浮気相手の女にせっつかれてやっとその場を去ったあと、肩の力を抜いた男が、初めにしたことは、

「ふふっ、くっ、あはははっ!」

 その場で笑い転げることだった。
 唐突に理解したのだ。彼女という存在を。

 誰にも縋らないし、何に興味を惹かれることもない。
 定められた環境に抗うことなく、ただその生を繋いでいく。
 それだけなのだ。


 不器用なのではない。彼女があえて、その日常を選んでいると理解した時、エディルの脳裏に一つの疑問が浮かび上がった。



 ……じゃあ、それ平穏が崩れたら?
 彼女は一体、どうなる?




 ひらめきと共にヒュウと胸の中に吹き込んだ風。

 うん。それ、は、気になる、かも。

 その風は酷く熱く、一方で冷え冷えとも感じる代物で、エディルはうっそりと微笑みながら、背筋を震わせた。





 気になって気になって、ろくに考えもせず強行したのは、犯罪と言って差し支えない、おざなりな計画だった。過去に優等生と呼ばれた自分が、この体たらく。明らかに形なしである。こうもポンコツになれるのだなと呆れを通り越して感心してしまう。

 そうまでして得たものは、酷く喜ばしい結末であった。



「あっは、思った通りだ!君、今の顔、自覚してる?」

 目の前にはフーッフーッと猫のように威嚇音を出しながら、こちらを睨みつける女。

 鋭いはずの瞳はドロドロに濡れ切っており、頬は真っ赤に染まっている。口語の後に相応しいもの付け足すとしたら、明らかに、♡ハートでしかない。

「ごめんね?ちょっと君の能面崩したくなっちゃって。……だめだよー。よく知りもしない男の口づけ許したら」

小さな錠剤の入った小瓶を見せながら彼は、嗤った。

「そ、れっはんざ、い!で、……すっ♡」
「こんなに楽しんでるのに?」

 ぐぢぅ♡ にちちっ♡
「ひぁあっ、♡♡♡ それ、やぁあっ♡♡♡」

 ほらまた♡が飛んだ。最早♡乱舞だ。

 あぁ、愉しい!
 ラ・ム・ネ・一つでこんなにも、翻弄されてくれるなんて!

 薬なんて嘘っぱちだ。うっかり変なものを使用して大・切・な彼女に何かあったら耐えられない。

「ごめんね、どうしても嫌そうに見えないんだよなぁ」
「い、や ♡ にぃ、っ決まって、ぇ♡……っひぅっ、ぁあ♡♡♡」

「だってさ、ここ、ぐちぅっ♡ ぐちぅっ♡ ってほじられて、こーやってまんこがもっとちょーだい♡ってよだれ垂らすの見ちゃうと……、あ、また潮吹いてる。よだれなのか、お漏らしなのか、これじゃあ、もう分からないなあ。……ふふ、おねだり上手だね」
「ふ、っう、あぁ♡ これ、イっ♡♡♡ やぁあぁっ♡」

 我を忘れて乱れる女に、エディルはとびきりの笑みを浮かべ、ピストンを早める。

 相談室での秘事は日が変わるまで続いた。散々好き放題され、気をやった彼女の身支度を整え、そっと自宅に連れ帰る。うん、やっていることは完全に犯罪である。しかし、寝台に彼女を下ろした瞬間、身体いっぱいに湧き上がったのはこれ以上ない達成感だった。それに充足感。

 ついに、やってやった、と思う。
 無理やりに能面を剥がされた彼女の痴態と言ったら!
 それはもう興奮した。




 目覚めた彼女の顔もとても秀逸だった。

 我ながら良い相手を選んだと思う。少しだけ残念だったのは、すぐにあの面白みのない表情に戻ってしまったことだ。だが、エディルはすぐに思い直す。今の彼女では、それは仕方ないだろう。これから変えていけばいいことだ。

 そうそう、彼女にああ伝えたが、しばらくなんて嘘だ。既に手放す気などさらさらなかった。だってほら、君にこんな素っ頓狂な顔をさせられるの、俺ぐらいだろ?

 ずぅっと見ていたい程の間抜け面。
 こんな顔、俺以外に絶対に見せないに決まってる!

 既に彼女にいつも通りのつまらない日々を過ごさせる気などなかった。これから、もっと、もっと。

 彼女の平穏をぶち壊したのち、いずれ藉を入れよう。そうしてそうして。あぁ、子供と一緒に、彼女を翻弄するのも楽しいかも。

 頭に浮かぶのは楽しみで仕方のない未来だった。


「残念だったね。だから君は、さっさと俺に巻かれちゃいな」


 そう告げたエディルは、やはりへんちくりんな顔をした彼女を眺め、悪戯が成功した幼子のようにくすくすと微笑んだ。

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