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しおりを挟む炊飯器が出来上がりを知らせてさらに待つことしばらく。
玄関のドアノブが回り
「…ただいま…」
と薫がおずおず顔を見せる。
「おかえり、ご飯は炊けてるよ」
「あ、ありがとう…お惣菜買ったんだけど、何かしてる?」
「ううん、残り物でどうにかしようと思ってた。温めるね」
聡太は薫からエコバッグを受け取り、衣の付いた何かのカツらしきものをオーブンへとセットした。
炊き立ての飯をそれぞれの茶碗に盛って先に座卓へ、テレビも点いていない部屋では表の道路の音とオーブンのゼンマイみたいな音が間を持たせてくれる。
転勤についての話を聞き出したいが食後が良かろうか、聡太はオーブンのツマミを早めに0に戻して皿へとカツを出した。
「はい、いただきます…ところでこれ、何カツ?」
「エビと魚のすり身。いただきます………美味しい」
「うん、美味しいね」
いつも交わしてきた会話、口に含めば必ず「美味しい」と言ってくれる聡太の気遣いが薫はいつも嬉しかった。
手作りでも出来合いでも買ったものでも、ひと言目には褒めてくれる優しいところが好きだった。
けれどそれを不器用に壊してしまったのは自分なのだ。
昨日から考え込んでいた薫は一旦箸を置いて足を正す。
そして
「聡太くん、色々と嘘をついててごめんなさい。今日店長からお話があって、地元の三重の店舗に戻ることにしたの」
と努めて明るく言い放った。
「…薫ちゃん、まとめて言わないで」
「ごめん。じゃあ転勤の話からね、向こうの店舗で営業事務の欠員が出てね、ふるさと人事ってやつよ、地方出身者は地元に戻そうっていう…まぁ私がちょうど良いかって検索にかかったんでしょ。実家から通えば住宅補助も要らないしコスト的にも都合が良かったのね」
「……断るって選択肢は無かったの?」
「………だって、県を跨ぐ転勤も理解した上での正社員だもん、断れないよ」
それは分かっている、出身地以外の地で揉まれて凱旋するなんてことがあるのも知っている。
けれど聡太が引っ掛かっているのはそういうことではない。
「僕に…相談しようとか…思わなかったの?突然の転勤話を聞いて二つ返事でOKできちゃうもんなの?」
口に含んでいたカツの衣が吹き出して卓上に散らばる、慌ててティッシュで集める聡太をよそに薫はまた箸を取った。
「だって私たち、籍も入れてないじゃない。恋人と離れたくないから転勤しませんなんて通らないよ」
「認可されるされないじゃなくて、」
「私の身勝手で聡太くんを巻き込んじゃっただけなんだもん。こんな嘘つきと一緒に居てなんて言えないよ。私は聡太くんのことが好きだったけど…もう信じてもらえないと思う。モヤモヤさせ続けるのも悪いし、聡太くんは真面目だから私を信じようと頑張ってくれるだろうけど…疑心暗鬼になっちゃうと思うんだ、一度失った信用は戻って来ない、そういうことだよ」
彼への想いは確実に本物だった。
けれどもうそれを証明する手立てが無い。
愛する聡太を苦悩させるくらいならいっそ離れた方が彼のためなのだ、薫はスッキリとした表情で茶碗を空にした。
薫の意志は固く、その後聡太が反論しようとも崩れなかった。
騙したことは事実であり、その犯人から身を引くと言っている以上は聡太は引き止める材料が見つからず…最後には黙って食事を片付けることしか出来なかった。
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