泥より這い出た蓮は翠に揺蕩う

11・お約束のものです

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　あれから数年後。


「順調だね…うん…ところで水蓮すいれん…それ、大丈夫だった？」

「何がですか？」

「乳首」

「あぁ、母乳指導ですか…ふふっ♡初めてお会いする助産師さんでしたので、驚いてらっしゃいました」

「堅気かたぎの人を巻き込むんじゃないよ」

「一応カルテに注意書きはしてもらってますけど…」

ある秋の日の夜…少しふっくらした彼女は、相変わらず目尻を下げて柔らかく笑む。


　あれから彼女は自発的に心療内科に通いカウンセリングを受け始めた。

　俺と付き合い暮らしていく上で、聖ひじり氏との生活のギャップや遺された部屋の様子にじわじわと「あれ？」と思うことが増えていたそうだ。

　必要以上に謙へりくだるのはやめさせたし過剰に俺を立てさせるのもやめさせた。

　丁寧なのは良いがあくまで対等であるようお願いした。

　敬語が抜けないのはもうしょうがない。

　今さらくだけた言葉を使われても違和感があるし…俺はですます調の水蓮の話し言葉の優雅さが好きなのだ。


　過去を少しずつ振り返ると思い出せない部分や事象の時系列がズレていたり矛盾が出てくる。

　そして欠けていたパーツをぱちぱちはめていけば、断片的にだが忘れ去っていた聖氏の言動や情景が脳裏に甦ったらしい。

　らしい、というのも俺は同行してもロビーで待っていただけ、カウンセリングルームには最後まで入れてもらえなかった。

　書き溜めていた自分史を俺に見られるのが嫌だったそうで…思い出したくない過去がほろほろと甦り夜中に急にしくしく泣き出すなんてこともあった。

　自身への嫌悪感で過呼吸を起こし倒れるなんてこともあった。


　彼女が特に気味悪がったのは玩具を使った聖氏とのセックスについてで、俺とのセックスと比べてみればじわじわと違和感に蝕むしばまれ、「気色悪い」とさえ口走るようになっていた。

　けれど命の恩人に変わりはないのだから悪く思わないように言い聞かせ、今では落ち着いて、彼女の記憶は真実も嘘も日によって混じりつつもなんとか受け入れて暮らせるようになっている。

　彼女はかつて俺に「拓朗たくろうさまは素直な方なので…術にはまってしまいやすいんでしょうね。マインドコントロールとまでは言いませんけれど…驚きと安堵の繰り返しで感情を揺すぶられますでしょう？次々に覆される真実に自分が得ている情報の真偽も区別がつかなくなる…」と言ったが…それはまるで彼女自身が陥っていることだった。


　心身の成長過程で色んなことを経験し過ぎたのだ。

　ピュアで実直な彼女はあらゆることを吸収し呑み込んで染まって自身が一番しっくり来る記憶と人格を創り上げたのだろう。


　そういえばテレビで『ストックホルム症候群』というやつを観たことがある。

　誘拐・監禁などの事件において被害者が犯人との間に心理的な繋がりを持つという…ああいったものの派生形なのかなと、心理学に詳しくないが俺はそんなことを考えた。

　恩人である聖氏を悪者にしたくない、けれど溢れる嫌悪感に湧くのは罪悪感。

　たまに思い出しては「もう昔のことですね」と自ら納得させて片付けている。