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第八章 国難は些事です(後編)

罪悪感は健在ですか?

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 気配が近づいてきて、足音が聞こえて、それが早朝ベッドを抜け出していった待ち人ではないと知っていても、身動きが出来ずにいた。
 怠惰に振舞うのが癖になっていたせいだ。怠惰はとても心地よいのだ。

(なんにもしたくないし、寝ていたし、起きたくないし、このまま死んだように眠りたい)

 出来るだけ縮こまって卵のように丸くなっていたというのに、無残にも布団ははぎ取られた。

「おはようルーナ。今日も可愛いね」

 明るい声が高いところから降って来る。
 ルーナは腕で顔を覆ってなおさら小さくなって往生際悪く無視を決め込んだ。
 ぎしりとごく近いところに重みをのせられて、寝台がぐっと沈み込んだ感覚があった。

「起きないつもりならそれでもいいけど。襲うよ」

 遠慮のない言い草に、ルーナは嫌々ながら身体を起こす。
 抜群に爽やかな好青年風のクロノスがにこにこと微笑んでいた。

「おはよう。寝直すなら付き合うけど」
「自分の部屋で寝ろ」
「寝ているひとがいるから、起こしたくないんだよね」
「その優しさをどうして俺にも発揮してくれなかったんだ」
「優しくされたい? いいよ。最終的には泣かせるけどね」

 無言で床に足をおろして立ち上がり、この場を去ろうとしたのに背後から強く手を掴まれて引き寄せられた。
 軽い身体が、加えられた力に堪えきれずによろめいて、クロノスの腕の中に転がり込んでしまう。
 そのままがっしりと押さえ込まれてしまった。

「ルーク・シルヴァではなく、ルーナで戻されたのは、クライスとの仲を嫉妬しているレティからの軽い嫌がらせかなって思っていたけど。ルーナに会えて俺は嬉しい」

 言うなり、寝台に背中を押し付けられる。足の上に体重をかけられていて動きは封じられていた上に、左右の腕も手首をそれぞれ摑まってシーツの上に縫い留められていた。

「何のつもりだ」
「俺前に言ったよね、ルーナのことが好きって。それでいまこの状況だよ。これ以上説明が必要かな」
「消し炭にするぞ」

 さすがに冗談ではすまされないだろうと強く睨みつけ、精一杯の威圧を込めて言ったのに、クロノスはまったく動じなかった。

「俺はクライスの特別にはなれない。そもそも本当に好きな相手であるルミナスはもうとっくに死んでいる。その上で誰かっていえばやっぱりルーナがいい」

 話しぶりは穏やかなくせに、瞳には獰猛な光を宿らせながら、クロノスはゆっくりと笑みを広げた。

「他をあたれ」
「他なんか心当たりないよ」
「ロイドは」
「それどういう意味? あそこにおもちゃにしていい女がいるだろ、って言ってるの?」

 露悪的に言い返されて、ルーナは口をつぐむ。
 どう言いつくろっても、クロノスがそう感じているなら、それ以外の意味にはなりようがない。
 唇をかみしめたルーナの首元に、クロノスは顔を埋めた。柔らかく首筋に唇を押し当てながら、ごく穏やかな口調で言う。

「悪いひとですね。友達を差し出して自分は助かろうとしたの?」

 違う、とはどうしても言えずに、きつく目を瞑って横を向く。クロノスは遠慮なく唇を鎖骨まですべらせてから、不意に歯を立てて噛みついてきた。

「痛っ……」
「泣かせるって言ったよね。それとも優しい時間がもう少し必要?」
「できれば正気のお前と話したい」 
「正気のつもりなんだけどな」

 どうでも良さそうに返事をしながら、先程噛みついたところを舌で舐め始める。ぞっとする感覚が背筋を抜けていった。

(絶対、血を舐めている……)

 呻き声を堪えてやり過ごそうとしていると、今度は喉元に歯を突き立てられた。

「このまま食い破ったら殺せる?」
「さすがにそれは死ぬ」

 はあ、と口で息をしてから、ルーナはなんとか唾を飲み下した。
 クロノスは話すたびに軽く歯が掠める位置で再び言った。血が出ているかもしれない。

「ルミナスみたいに?」

 ルーナの両手両足を押さえつけたまま、ゆっくりと身体を起こして今一度冷たい目で見下ろし、言った。

「お前がルミナスを殺したみたいに殺せるのかな。こたえろよ、『魔王』」

 * * *

 ほんの少し身体を動かしてから部屋に戻ろう。
 そう思って鍛錬に付き合ってくれそうな相手を探していたら、同じように早起きしてきたカインとばったり遭遇してしまった。

 とりあえず、滅茶苦茶打ち合った。

 もともとカインには及ばないところもあったが、修行の成果か思った以上に良い立ち回りができた。お互いに白熱してしまい、引き際を見誤った。
 しまいにクライスが足をもつれさせて転び、眩暈で起き上がれなくなったところで終了となった。

「絶対二日酔いだろ。その体調でよくあれだけ動いたな」

 修練場の片隅に横たわったクライスに、水筒に水を汲んで戻って来たカインが呆れたように言う。

「動けるような気がしたし、実際に動けちゃったんだよね……」

 半身を起こして渡された水を飲み干してから、恐る恐る足の裏で地面を踏みしめ、立ち上がる。
 くらっと目の前が一瞬暗くなった。その直後に横からカインの腕に支えられていた。
 手を突っ張って隙間を作ろうとしたが、逆に力でおさえこまれる。

「意地を張るな。そこは割り切れ。ここが戦場だったら男も女も無い。あるのは仲間か敵か、くらいだ。仲間に助けられて嫌がっている場合じゃないだろ」
「今は戦場じゃない」
「普段からできないことは、いざってときにも出来ないぞ」

 言いながら、カインがそっと手を離して、身体ごと離れていく。

(仲間か……)

 クロノスは。
 前世の自分にとってどんな「仲間」だったんだろう。

「朝食はどうするんだ」
「部屋にルーナがいるから、一度戻るよ」

 歩いてみる。もう大丈夫そうだった。
 カインが注意深く自分を見ていることに気付き、クライスは笑って見せた。

「僕結構お酒強いかも。二日酔いでも戦場に立てそう」
「ばか。ふざけたこと言ってると、足元すくわれるぞ」

 呆れたように笑われて、笑い合って、距離を置く。
 カインは、「それじゃ」と手を上げながら背を向けた。
 クライスも軽く手をひらっと振ってから官舎に向かった。

(昨日の今日だし仕事はたくさんあるよね。少し遅くなっちゃったけど、朝食とって仕事に向かわないと)

 ルーナもルーナで、なぜルーク・シルヴァでいないのかはよくわからないが、戻れるなら戻って仕事をしなければならないんじゃないだろうか。
 そんなことを気楽に考えて部屋に向かったのだが。
 官舎の廊下を歩いている最中に胸騒ぎがした。自室に近づいたら、ドアが開けっぱなしなのが見えた。

(なに……? どうしたの!?)

 気づいて走り出す。
 駆け込んだ時には、人影はなく。
 乱れたままの寝台に手を触れてみたがすでに冷え切っていた。  

「いない……」

 結構時間がたっているな、と思いながら今一度視線を落として、目をしばたいた。
 見間違いではない。

 シーツの上には、血の痕があった。

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