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第二章 街道にて

一夜過ぎて

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 朝です。窓の外が明るいです。
 朝です。

 * * *

「朝……………………」

 ベッドの上に半身を起こし、キルトのカバーを両手で握りしめて、アリスは呻いた。
 喉が干上がっており、声は掠れている。
 覚えている限り、水分を取ったのはずいぶん前。荒れ果てた工房に戻る前に、出先で水を一杯もらったのが最後。
 そこから息つく間もない逃走劇。宿について、主人や同行者と少しだけ会話をした。
 部屋に入ってから、不自然なところでぷつりと記憶が途絶えている。
 即ち、寝落ち。

(同行者、どこ?)

 固まっている場合ではないと、アリスは目を瞬きながら部屋の中を見回した。
 左から、窓、テーブルと椅子、ソファ、床に毛布、部屋の奥にクローゼット。右手の壁にドア。
 毛布? と、一度視線を滑らせてから戻る。
 床の上に無造作に落ちた毛布からは、ブーツを履いた足がはみ出ていた。

「ゆ、床……」

 声に出た。
 アリスはすぐに足をおろし、ベッドの脇に揃えて置いてあった自分のブーツを手早く履き込む。
 同じく、すぐそばに寄せられた木の椅子に、ケープと薬の鞄が置いてあるのを確認した。
 立ち上がって、スカートの皺を手で伸ばす。ブラウスは首元まできっちりとボタンがはめられたままなのをさりげなく指でなぞり、肩に落ちてきた金髪を軽く払った。

「ラファエロ」

 呼びかけながら歩き出す。
 大きな声が出たわけでもないのに、床に落ちていた毛布がふわっと宙に舞い上がった。
 それを受け止めるような素早さで、倒れていたラファエロが立ち上がる。
 寸前まで寝ていたと思えないほど、くっきりとアイスブルーの瞳を見開いていた。

「おはよう。よく眠れた?」
「私は、もう、はい。あなたは、床で……?」

 恐る恐る聞いたが、何しろ声がうまくでない。
 ラファエロは頷いてから、窓辺のテーブルに大股で歩み寄り、陶器のコップに水を注いで引き返してきた。

「喉が辛そうだ。飲んで」
「ありがとう」

 最小限の会話でコップを受け取り、アリスは一息に飲み干した。
 ひりついた喉に、水が甘く染み渡る。
 人心地ついたところで、そっと吐息した。

「ごめんなさい。昨日、寝ました」
「うん。知ってる。食堂から戻ってきたときには、気絶したみたいに寝てた。ケープと鞄を外して、靴を脱がせた。誓って、他には何もしていない」
「わかります。疑っていません。ブラウスの襟で喉が苦しいくらい、そのままでした」
「それは……。ごめん、触れて良いかわからなくて」
「良いんです良いんです。十分です。何もしていないのがよくわかりました。あなたを床に寝させてしまったことは深くお詫びを。その気遣いのおかげで、変に気まずい空気にもならなくて済んでいます。何から何までありがとうございます」

 押し切るように言って、頭を下げる。
 この話はここまで、との意味で。

(未婚の男女で、出先の宿で同室、一晩……。これは貴族の令嬢としては絶対にあり得ないこと。言い訳の余地もない)

 何もなかったことはお互いによくわかっているが、悔恨まみれの苦い思いが胸をしめつける。
 しかし、すぐに思い直した。
 
(私はもう、貴族の令嬢ではなく、平民身分。それと、ラファエロのことは何もわからない。未婚かどうかも。だけど今は踏み込んで聞く内容でもないわ。仕方なかったことは、忘れよう。切り替えなければ)

「昨日の件は、本当に助かりました。ここまで無事に脱出できただけでも、ありがたいです。一人では絶対に無理でした」
「俺も君に恩があったから、力になれて良かった。話し合うべきはこの後のことだね。あまりゆっくりもしていられない。身支度をしたら出発しよう。その前に朝ごはん。昨日は結局何も食べなかったけど、寝て少しは回復した?」

 明るい声で尋ねられて、アリスは切ないくらいにきゅっと鳴りそうなお腹を手でおさえた。

「はい。とてもお腹が空いています。まずは朝食ですね」

 * * *

 薄切りパンとスープ。サラダとソーセージと卵焼き。お茶。
 丸テーブルのいくつも置かれた宿の食堂で、他の客に紛れて食事をする。

「今日この後だけど、このまま街道を通ってアンヘルの町まで行こうと思う。俺はそこから国境を目指す。もしアリスが差し当たりの目的地を決めていないなら、ぜひ一緒に。道中の護衛は任せて」

 洗練された淀みのない所作で食事を進め、次々と皿を空けつつ、ラファエロは簡潔に言った。

「国境ですか」
「エキスシェルの王都が目的地だ。家がそこで、いまは帰る途中。アリスさえ良ければ、そこまで護衛する。向こうに着いてからだけど、薬師としてのたしかな腕は俺が保証できるから、仕事を紹介することもできるだろう。工房の襲撃の件を見るに、何か訳がありそうだ。話すかどうかはアリスが決めて。ひとまず、安全のために一度この国を離れたらどうかというのが、俺からの提案」

隣国エキスシェル……)

 思いを巡らせながら、アリスは一口お茶を飲んだ。
 ラファエロもまたコップを手にして唇を寄せている。
 その横顔を、じっと見つめた。

(願ってもない提案、だと思う。まさか叔父があそこまですると考えていなかったせいで、根回しも何もしていない。頼るあては無いし、一人でうろうろしていたら、追手がかけられていた場合逃げ切れない。このままラファエロと一緒なら、心強い。目的地が王都というのも、考えようによっては次の手に繋がるはず。王宮に伝手を作れば、そこからこの国の王宮へと話を通してもらえるかも。そのためには私自身が何か功績を上げて、意見を聞いてもらえるようにする必要があるけれど)

 アリスは、そっと右手で左手首を掴んだ。
 子爵位を賜る理由ともなった、アンブローズの治癒魔法。もしその有用性を認めてもらうことができたならば、或いは。

「エキスシェルでは、薬師としての仕事を紹介してもらえると考えて大丈夫ですか」

 確認の意味でアリスが尋ねると、コップをテーブルに戻したラファエロは破顔して頷いた。

「もちろんだ。我が国でもその力は大いに必要とされるはず。アリスがその気になってくれたら会わせたい相手もいる。前向きに考えてもらえたら嬉しい」

 それは、とてもありがたいお話だと思います。
 そう答えようと、アリスが口を開きかけたそのとき。

「ラファエロ?」

 すぐそばで、涼やかな声が響いた。
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