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第六章

奈落の深み

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「旗幟鮮明《きしせんめい》……さすが小細工なしで真っ向から行くな、ジュール侯爵閣下は」

 離れた位置からことの成り行きを見ていたアルフォンスは、感心したように呟いた。
 その隣に立つ薔薇色のドレスの美女が、すかさずスカートの影でアルフォンスの足を踏み抜く。ぐえっ、とくぐもった呻きを上げたアルフォンス。その脇腹をさらに肘で抉るように突いて、美女は小声で問いただした。

「どうなってるのよ。あそこにいるの、リンゼイ家のお嬢さんじゃない。ジュール侯爵と懇《ねんご》ろな仲って噂、本当だったの?」

「うん。結婚するんだって。めでたいよね~」

 かたや、王妃とその息子対ガウェインの異常に緊迫した会話が展開される場で、アルフォンスは実に無邪気に妹の慶事を喜んでいる。
 美女は無言でもう一度、ズダンとアルフォンスの足を踏み抜いた。

「妹は二度も結婚するのに、あなたときたら、夜会に出席するにも相手に欠いて、婚約解消したばかりの私を誘うだなんて」

「そうなんだよ~ヴィヴィアンがまだフリーで良かった。私と別れたら、すぐにでも次の話がまとまると思っていたから、ダメ元だったんだ。さすがにこれが最後かな」

 うんうんと頷くアルフォンスを、元婚約者であるヴィヴィアンはまなじりを吊り上げて睨みつける。

 なお、この場の空気に呑まれずにそんな会話を繰り広げているのは、この二人を除けばほとんどいない。



「はじめまして。お会いしたかったです、ガウェインさま」

 清涼感のある澄み透《とお》った声が、静まり返った広間に響いた。
 ガウェインはきつく眉根を寄せ、無言で睨み返す。その視線を受けて、青年は親しげな笑みを絶やすことなく、告げた。

「本当に、似ています。似て、いますよね? 私とあなたは。血の濃さが従兄弟の近さだけあります。ぜひ兄と呼ばせていただきたく」

「私はあなたの従兄弟には当たらない。兄などと呼ばれる筋合いにもなく、不快だ」

 最小限の言葉で切って捨てたガウェインに対して、青年は「いいえ」と否定を口にした。
 目を細め、胸元に片手をあてて、穏やかな笑みを深めながら続ける。

「誰の目にも明らかだ。あなたは、かつて王宮に華を添えたというこちらの肖像画の方、フローリー公によく似ていらっしゃる。そしてこの私にも。私が今からお伝えするのは、父上さまと母上さまから、忠臣であるあなたへの命令です。これからは二代目フローリー公爵を名乗り、摂政《リージェント》として私の片腕になってください。なにしろ、宮廷マナーをはじめ、これから勉強することが山積みでして」

 フィリップスのそばにしゃがみこんでいたジュディは、強烈なめまいと吐き気に襲われた。

(これほどの人の前で、面と向かって、ガウェイン様も侯爵家も侮辱なさったわ)

 彼がこれまで決して認めず相手にもしなかった噂話を、事実として語ったのだ。「お前はジュール侯爵の息子ではなく、フローリー公の忘れ形見なのだ」と。
 ガウェインはこれに対し、即座に反論をした。

「さて、何を言っているのか。たしかに私は亡きフローリー公に似ているかもしれませんが、それは父とフローリー公が従兄弟同志の間柄であったせいでしょう」

「いいや、違う。私はフローリー公自身の口からはっきりと聞いている。別れた妻に生ませた息子が、ジュール侯爵家の当主におさまっていると。あなたのことだ、ガウェイン?」

 ざわっと場が揺れた。
 沸き立つ周囲には一切関心を払うことなく、ガウェインは青年だけを見つめて冷然と言い放った。

「母は否定している」

「しかし前ジュール侯爵は疑っていたのだろう? 動かぬ不貞の証拠を押さえていたのではないか? そうだ、きっと知っていたのだ。あなたがと。それなのにまだ、ジュール侯爵を名乗るつもりか? 自分こそが侯爵家の不和の原因でありながら、図々しいとは思わないのか」

 とても響きの良い声だけに、嫌味が嫌味とは瞬時にわかりにくい。
 だが、突きつけているのはぞっとするほど非情な見解だ。

(「お前は母に欺かれ、父に疎まれた子のくせに。お前さえいなければ」と……)

 ひとは大人になる時間の流れで、幼き日に負った傷と折り合う方法をなんとか見つけていく。
 それは、痛みに耐えられるだけで、血が止まるわけでも傷が跡形もなく消えるわけでもない。

「さすが、真の王子であるフィリップス殿下をさしおき、自分こそが本物だとの誇大妄想を持つだけのことはある」

 ガウェインが血を流している。
 目に見える怪我なら、手を当ててその血を止めてあげたい。ジュディは、目の淵に盛り上がってきた涙に気づかれぬよう、わずかに顔を逸らした。視線の先には、いまだ目を瞑ったままのフィリップスがいた。

「妄想? そうだな、あなたがそうやって私を貶めてまで否定したいのは、よくわかる。偽りの王子を王宮に引き入れたのは、他ならぬあなた自身なのだから。自分の過ちを、いまさら認めるわけにはいかないのだろう」

 青年は、緋毛氈《ひもうせん》の敷かれた段を下りて、一歩一歩、近づいてくる。
 ガウェインの正面に立ち、声を低めて告げた。

「あの時、あの場所に俺もいた。お前は、間違えた方を王子だと信じて、王宮へ連れ帰った。母上さまが『この子ではない』と言うのにも構わず、手柄のために『自分が王子を連れ帰った』と言い張ったのだろう。……罪深い。危ないところだったよ。このままでは、正統性の欠片もない馬の骨が王座につくところだった。お前のその失態を、不問にすると言っているのだ」

 そこでもう一歩進み、ガウェインの首元まで顔を近づけて囁く。すぐそばにいたジュディに、その声はかろうじて聞こえた。

「乗れよ、この話。断らせたりはしない。お前は一生俺の所有物だ。生かして苦しめぬいてやる。歯向かう気なら」

 青年の金の瞳が、ジュディを見た。
 奈落《アビス》の昏さを宿したまなざし。

(あのときの彼、だわ。ジェラルド……。あの日あなたは、私に怪我を負わせながらも、少しだけ親切で)

 青年はジュディと視線を絡めたまま、ガウェインに告げた。「あの女を死よりも酷い目に合わせてやる」と。

 言い終えるなり素早くガウェインのジャケットの前裾を指で軽く摘み、青年は打って変わった優しげな声を出した。

「大出世です。驚かれるのも無理からぬこと、考えてからお返事をください。断らせる気はありませんが。私にはあなたが必要です。二代目フローリー公」

 ぴっと歪みを正すように前裾を引っ張ってから、手を離す。
 その間、ガウェインは無言を貫いていた。
 いまにも手が、手よりも先に足が出るのではとジュディはひやひやしていたが、ガウェインはその場では耐えきった。
 青年は、今度は広間に向かって、高らかに礼を述べた。

「お時間をいただきまして、皆々様、ありがとうございます。これからは楽しい夜をお過ごしください」

 何が起きたのか、正確なところを理解できた者がどれほどいたのか。
 少しずつ場が、ざわつき始める。
 ガウェインは無言のまま身を屈めると、ほとんど意識がないように見えるフィリップスの体を抱き上げた。
 閣下困ります、いけませんと、侍従たちのみならず衛兵までが出てくる中で、ガウェインは王族席を振り返り、声を張り上げた。

「あなたがたが傷つけたこの方には、早急な手当が必要なです。当家の預かりとさせていただきます。失礼」

「待て。一曲踊り、一杯飲むのが作法にかなっているとは思わぬか。今宵はぜひそなたと酌み交わしたいものだ」

 勝ち誇った笑みを浮かべた王妃が、ガウェインを呼び止める。
 冷え切った目で睨み返したガウェインは、そっけなく答えた。

「あなたの国民が、目の前で血を流しているのが見えませんか? この夜会での出来事が国内外に知れれば、この国には高貴なふりをしたクサレ外道の蛮族しかいないと広く世に知らしめることになるでしょう。まだ人のふりを続けるつもりがおありなら、せめて私を引き留めぬように。この方の怪我の手当をさせてください」

 立ち上がり、その側に寄り添いながら、ジュディはなぜガウェインがジェラルドへ反撃しなかったのかを知った。

(殿下をお守りするために……。この場から、連れ出すために)

 決定的に親に捨てられ、血を流して蹲《うずくま》る少年を助けるのを優先すると決めたのだ。
 己の誇りと名誉よりも。

「どうぞ。自らを王子であると信じ込んでしまった罪は、十分追求した後です。これ以上、子どもに罪に問うのはやめておきましょう。これからは平民として倹《つま》しく生きていくよう、その者に申し伝えてください」

 辺りの空気を浄化するほど清々しく微笑んで、ジェラルドが答えた。
 天使と悪魔のように移り変わる表情。
 ジュディが見つめていると、目が合った。
 唇の動きだけで、ジェラルドはジュディに向かってはっきりと言った。

 そいつはもう、用済みだからさ、と。
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