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第三章
尾行
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(あっ! 動き出した!)
これまで周りに馴染んでなりをひそめていたフィリップスが、さっと抜け出たのをジュディは視界の端にとらえた。
追いかけようと足を上げて下ろしたところで、背後でくぐもった声が響く。
「んっ」
ステファンの足を、ぐにっと踏みつけてしまっていた。ジュディはぱっと振り返ると、至近距離に立つステファンを見上げてにこりと笑いかけた。
「ごめんなさい。わざとです」
そんなに私の近くにいたあなたが悪いと思う、という意味を込めて言ってみたが、ステファンもさるもの。表情を変えずに返してきた。
「構いませんよ。閣下に対する自慢が増えるだけです。あなたに何かされたと聞いたら、その全てを羨ましがるような男なので」
何やらガウェインを盛大にいじっていたが、急ぎのジュディはそれを聞き流して「追いかけますね」と宣言をした。
フィリップスが出て行ったのは、当然ステファンも気づいているであろうと。
昼間の件で労《ねぎら》いを口にしながら近づいてくる周囲に愛想を振りまきつつ、ひとをかき分けるようにして歩き出せば、ぴたりとステファンも後からついてくる。出入り口にたどりつき廊下に出たところで、背後から低い声で尋ねられた。
「ひとりで行くのはいけない。あなたは今日、怖い目に遭ったばかりですよね」
向こう見ずな行動を咎める物言いだった。
ジュディは振り返らぬまま視線でフィリップスを探し、廊下の向こうの角を曲がるのを見つけて早足で歩きながら言った。
「あのときは油断がありました。もう大丈夫。黒幕が誰かを教えてもらったので、いまは大いに警戒をしていますから」
元夫であるヒースコートに、何やら疑いがあるとガウェインが打ち明けてくれたのだ。もう絶対に隙を見せてなるものか、と強く決意をしている。
(言われてみればたしかに、アリンガム子爵家は何かおかしかった。私を遊ばせているのは、父・リンゼイ伯爵を警戒して、娘である私に対して下手な扱いをしないようにしているのだろうと思っていたけれど。もしかして、ヒースコートにはもっと違う思惑があった?)
リンゼイ伯爵は、金融や証券に明るく目利きで評判である。そのつながりで、才気あふれる前アリンガム子爵と懇意になり、すでに本人には婚約者ユーニスがいたことから、弟のヒースコートとジュディの婚約が成立していたのだ。
しかし、子爵亡き後ぱたぱたと結婚まで済ませたものの、肝心のヒースコートと伯爵はどうもそりが合わないということがやがてはっきりとしたようで、義親子の関係ながら付き合いは疎遠になっていた気配があった。仕事上での付き合いからも、伯爵はさっさと手を引いたようである。
ジュディは「跡継ぎができなければ離縁もありえそうなの」と、結婚後早い時期から出戻りをほのめかしていたが、伯爵は「それもいいな」と言っており、通常であれば考えられる「嫁いだ以上、そういうわけにはいかないだろう」との反応は一切なかった。
もしかしたら、ヒースコートが手を染めている怪しげな稼業について、リンゼイ伯爵は気づいていた可能性がある。ただ、確証がなかったか、あるいはジュディが無事に戻ってくるまで動かないようにしていたのかもしれない。もし結婚期間中に表沙汰にしてしまえば、ジュディまで犯罪の片棒を担いだと言い逃れできない状況になる恐れがあった、ということも考えられるのだった。
一方で、ヒースコートはその状況をうまく利用していたのかもしれない。
つまり「あのリンゼイ伯爵の娘が自分の妻だ」というのを、事業で信用担保にしていたとか。そのために、ユーニスを囲いつつもジュディとは問題なく仲良くやっていると見せるため、好きに暮らさせて不満が出ないようにしていたと……。
「相手を警戒したところで、先生はもしものときにやり合えるほど、腕に覚えでもあるんですか?」
ステファンがぴたりと後をついてくる。
一瞬、ジュディの心の中に警戒心が巻き起こった。
(このひとは、どこまで信用できる? 閣下の腹心だとしても、動きが独りよがりで腹の底が読めないのよね)
だが、疑ったところで他に腕のたつ用心棒のあてはなく、王子の教育係としてフィリップスからも目を離せない立場である以上、この時点でステファンを追い払う必要はないと判断をした。
「腕に覚えはないです。喧嘩をしたことはありません。荒事はステファンさんにお任せします。そういう状況になった場合は」
「躊躇なく俺を利用する気ですね」
「利用されたくないなら、ついてこないでください。ぺらぺら喋っている間に見失ったらどうしてくれるんですか」
いちいちつっかかられて、ジュディは剣呑な調子で答えながら角を曲がろうとする。
そのとき、背後から体に腕を回されて抱き寄せられ、足が浮いた。もう片方の手で、口元をおさえられる。
(ステファンさん!?)
まったく抵抗できないほどがっちりと押さえ込まれて、耳元で囁かれる。
「黙って。殿下が誰と会っているか見えますか? あちらから姿を見られないように。手を離しますが、声を出してはだめですよ」
こく、と頷いたところで口元の手を離された。浮いた足も床についたが、依然として腕は体に回されたまま。
ステファンは背が高く、体格差があることもあり、胸元にすっぽりと抱き込まれている。背中に固い胸板を感じて、ジュディは体を強張らせた。身じろぎもせず密着していると、心臓の鼓動まで伝わってくる。
よほど「離してください」と言いたかったが、状況がそれどころではなくジュディはただ息を止め、ステファンの体温を意識しないようにつとめた。
ジュディのそんな努力など気づいていないだろうステファンは、廊下の先に目を凝らして呟いた。
「……やはりアリンガム子爵ですね。殿下の密会相手は」
これまで周りに馴染んでなりをひそめていたフィリップスが、さっと抜け出たのをジュディは視界の端にとらえた。
追いかけようと足を上げて下ろしたところで、背後でくぐもった声が響く。
「んっ」
ステファンの足を、ぐにっと踏みつけてしまっていた。ジュディはぱっと振り返ると、至近距離に立つステファンを見上げてにこりと笑いかけた。
「ごめんなさい。わざとです」
そんなに私の近くにいたあなたが悪いと思う、という意味を込めて言ってみたが、ステファンもさるもの。表情を変えずに返してきた。
「構いませんよ。閣下に対する自慢が増えるだけです。あなたに何かされたと聞いたら、その全てを羨ましがるような男なので」
何やらガウェインを盛大にいじっていたが、急ぎのジュディはそれを聞き流して「追いかけますね」と宣言をした。
フィリップスが出て行ったのは、当然ステファンも気づいているであろうと。
昼間の件で労《ねぎら》いを口にしながら近づいてくる周囲に愛想を振りまきつつ、ひとをかき分けるようにして歩き出せば、ぴたりとステファンも後からついてくる。出入り口にたどりつき廊下に出たところで、背後から低い声で尋ねられた。
「ひとりで行くのはいけない。あなたは今日、怖い目に遭ったばかりですよね」
向こう見ずな行動を咎める物言いだった。
ジュディは振り返らぬまま視線でフィリップスを探し、廊下の向こうの角を曲がるのを見つけて早足で歩きながら言った。
「あのときは油断がありました。もう大丈夫。黒幕が誰かを教えてもらったので、いまは大いに警戒をしていますから」
元夫であるヒースコートに、何やら疑いがあるとガウェインが打ち明けてくれたのだ。もう絶対に隙を見せてなるものか、と強く決意をしている。
(言われてみればたしかに、アリンガム子爵家は何かおかしかった。私を遊ばせているのは、父・リンゼイ伯爵を警戒して、娘である私に対して下手な扱いをしないようにしているのだろうと思っていたけれど。もしかして、ヒースコートにはもっと違う思惑があった?)
リンゼイ伯爵は、金融や証券に明るく目利きで評判である。そのつながりで、才気あふれる前アリンガム子爵と懇意になり、すでに本人には婚約者ユーニスがいたことから、弟のヒースコートとジュディの婚約が成立していたのだ。
しかし、子爵亡き後ぱたぱたと結婚まで済ませたものの、肝心のヒースコートと伯爵はどうもそりが合わないということがやがてはっきりとしたようで、義親子の関係ながら付き合いは疎遠になっていた気配があった。仕事上での付き合いからも、伯爵はさっさと手を引いたようである。
ジュディは「跡継ぎができなければ離縁もありえそうなの」と、結婚後早い時期から出戻りをほのめかしていたが、伯爵は「それもいいな」と言っており、通常であれば考えられる「嫁いだ以上、そういうわけにはいかないだろう」との反応は一切なかった。
もしかしたら、ヒースコートが手を染めている怪しげな稼業について、リンゼイ伯爵は気づいていた可能性がある。ただ、確証がなかったか、あるいはジュディが無事に戻ってくるまで動かないようにしていたのかもしれない。もし結婚期間中に表沙汰にしてしまえば、ジュディまで犯罪の片棒を担いだと言い逃れできない状況になる恐れがあった、ということも考えられるのだった。
一方で、ヒースコートはその状況をうまく利用していたのかもしれない。
つまり「あのリンゼイ伯爵の娘が自分の妻だ」というのを、事業で信用担保にしていたとか。そのために、ユーニスを囲いつつもジュディとは問題なく仲良くやっていると見せるため、好きに暮らさせて不満が出ないようにしていたと……。
「相手を警戒したところで、先生はもしものときにやり合えるほど、腕に覚えでもあるんですか?」
ステファンがぴたりと後をついてくる。
一瞬、ジュディの心の中に警戒心が巻き起こった。
(このひとは、どこまで信用できる? 閣下の腹心だとしても、動きが独りよがりで腹の底が読めないのよね)
だが、疑ったところで他に腕のたつ用心棒のあてはなく、王子の教育係としてフィリップスからも目を離せない立場である以上、この時点でステファンを追い払う必要はないと判断をした。
「腕に覚えはないです。喧嘩をしたことはありません。荒事はステファンさんにお任せします。そういう状況になった場合は」
「躊躇なく俺を利用する気ですね」
「利用されたくないなら、ついてこないでください。ぺらぺら喋っている間に見失ったらどうしてくれるんですか」
いちいちつっかかられて、ジュディは剣呑な調子で答えながら角を曲がろうとする。
そのとき、背後から体に腕を回されて抱き寄せられ、足が浮いた。もう片方の手で、口元をおさえられる。
(ステファンさん!?)
まったく抵抗できないほどがっちりと押さえ込まれて、耳元で囁かれる。
「黙って。殿下が誰と会っているか見えますか? あちらから姿を見られないように。手を離しますが、声を出してはだめですよ」
こく、と頷いたところで口元の手を離された。浮いた足も床についたが、依然として腕は体に回されたまま。
ステファンは背が高く、体格差があることもあり、胸元にすっぽりと抱き込まれている。背中に固い胸板を感じて、ジュディは体を強張らせた。身じろぎもせず密着していると、心臓の鼓動まで伝わってくる。
よほど「離してください」と言いたかったが、状況がそれどころではなくジュディはただ息を止め、ステファンの体温を意識しないようにつとめた。
ジュディのそんな努力など気づいていないだろうステファンは、廊下の先に目を凝らして呟いた。
「……やはりアリンガム子爵ですね。殿下の密会相手は」
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