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第二章
隠し持つ牙
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「下衆、ですね」
力を込めているとは思えぬほど軽い手付きでヒースコートの手首を押さえつけているのは、ジュディのよく知る人物。
特徴的な枯れ草色の髪。黒縁眼鏡の奥の、金色の瞳。その横顔からは、いつもの柔らかい雰囲気が消え失せており、ヒースコートに注がれる視線はどこまでも冷ややかであった。
(宰相閣下……、ジュール侯爵。来ていらしたんですね)
ガウェインは体を割り込ませるようにジュディの前に立ち、ヒースコートの手を離す。ジュディは、視界を埋めるその背を見上げた。広い背中だった。枯れ草色の髪は、深い青のベルベットのリボンで結ばれている。
「なんだお前は。私を誰だと思っている」
ヒースコートの非難がましい声が響いた。ジュディが背の影からわずかに顔をのぞかせると、ヒースコートは掴まれた右手首を左手でさすりながら、目の前に立つ相手の服装を蔑みの目で見ていた。
本日のガウェインは、飾り気のないシャツにトラウザーズ。ちょうどお仕着せのジャケットだけを脱いだ男性使用人のような出で立ちであった。
(まさか、この方が宰相閣下だと、気付いていないの? 服装が変わっただけで? 私のときは見抜いたのに……)
ジュディは、この瞬間までヒースコートのことを、もう少し用心深い人物だと思い込んでいた。目端が利いて、こんな初歩的なミスはしないものだと。
結婚期間中は互いの化けの皮が剥がれるような実のある会話をしなかった上に、年齢差もあったので、「彼は自分に対しての態度は悪いが、貴族社会ではうまくやっているのだろう」と漠然と信じていたのだ。
父も兄も、当初はこの縁談を妥当とみなしていたのも大きい。ヒースコートを認めている素振りがあったのだ。
しかし、抜け目がないどころか、まさかこんなところに宰相閣下が来賓にはふさわしくない服装で現れるとは思わなかったせいか、ヒースコートはその正体まで考えが及んでいないようである。
ガウェインが、冷ややかに答えた。
「誰だと思うと聞いたか? 女性を物陰に連れ込み、乱暴を働いていたヒースコート・アリンガム子爵だ。悲鳴が聞こえた。不同意だな」
ふん、とヒースコートは鼻を鳴らした。
「その女はな、どういうわけか今はそんな姿をして下働きをしているようだが、私の元妻だ。顔を合わせれば話くらいはする。お前はその邪魔をしているんだぞ。一体なんのつもりだ。公爵家の使用人は礼儀というものを知らないようだ」
わぁ、とジュディは息を呑んだ。
(閣下の素性に気づかないばかりか、公爵様のことまで侮辱したわ。こんなに考えなしの男だったなんて)
かつて白い結婚を言い渡されたときなど「自分に至らぬ面もあったのではないか」とさえ思ったジュディであるが、ここにきて完全に考えを改めた。
この男は考えの足りない、まさしく下衆なのだ。
ガウェインは肩越しにジュディを振り返り、何か言いたげに軽く首を傾げた。
ばっちりと、目が合った。ジュディは、自分が涙ぐんでいることに気づいて、見られまいと慌ててまばたきを繰り返す。
泣いていたとは思われたくなかった。ガウェインにはこんな迂闊な場面を見られたくなかったし、いつだって頼りになる仕事のできる女と思われたい、という儚い希望があったのである。
「あの……」
焦って何か言おうとしたが、唇が震え声が掠れていた。それだけで、ガウェインの瞳の温度が下がり、まとう空気が凍てついた。がっかりされてしまった、とジュディは打ちひしがれた。
(だめな女と思われてしまったわ……。手籠めにされかけたと言っても、知らぬ相手ではないと気を許して私が自らついてきたように見えるかもしれないし、彼に心残りがあって、再会をきっかけにすがったと見られても仕方ない状況ですものね。言い訳もできない……。私は「捨てられた妻」ですもの)
ジュディが苦い思いを噛み締めたところで、ガウェインがヒースコートに対し、斬りつけるような口ぶりで言った。
「俺は公爵家の使用人ではない。男としてお前を軽蔑して声をかけた。言っただろう、下衆だと。まさかそこまで性根が腐っているとはな」
「口の利き方に気をつけろ! ジュディ、こっちに来い。その男はお前の情夫か? 離婚したとはいえ、変な相手とは付き合うなと言ったはずだ! どれだけ私の顔に泥を塗れば気が済む。本当にお前は、ろくなことをしない」
吐き捨てるように言われ、ガウェインと二人、汚らわしい組み合わせを見るかのように睨みつけられる。
そこで、ジュディの中でぷつん、と何かがキレた。
「閣下が私の情夫!? そんなことあるわけないでしょう、失礼にもほどがあるわ! いったい何がどうしてそう思ってしまったの!?」
迂闊な自分のことだけならいざしらず、これ以上ガウェインを侮辱されるのは耐えられない。
思わず、ガウェインの背後から身を乗り出して叫ぶ。
ジュディが、そのまま前のめりにヒースコートの元まで行くのを防ぐためか、ガウェインがそっと腕を伸ばしてジュディの動きを遮った。
(閣下、ここは止めないでください!)
キリッとジュディは目で訴えかける。
フィリップスにからかわれるまでもない、彼が魅力的で女性たちが熱を上げずにはいられない男性であることは、ジュディもよくわかっているつもりだ。それなのに、普段はなぜか女性を遠ざけているということも。
その理由はわからないが、ここでジュディの恋人と勘違いされたまま放っておくことなど、できるわけがない。ガウェインの名誉を守らねば、その一心でジュディはガウェインに対しても勢い込んで言った。
「閣下! 言わせてください! 閣下が私の情夫だなんて、あんまりではありませんか!」
ほんの少しの間を置いて、ガウェインは真顔で「……うん」と頷いた。それから、こほんと咳払いをして続けた。
「俺は別に構わないんだけど、ここはジュディの意思を尊重する。さて、アリンガム子爵に警告をする。今後彼女に不用意に近づき、みだりに触れるなど決してあってはならない。今日この場で彼女の意思を無視したことも、俺は許すつもりはない。いずれしかるべきときに、きっちりとやり返させてもらう」
淡々と追い詰めるような物言いに、ヒースコートは眉根を寄せて考え込む仕草をした。閣下、とジュディが呼んだことで相手の素性を疑い始めたらしい。
言うべきか言わないべきか、悩むジュディの前でガウェインがはっきりと名乗りを上げた。
「これまで、直接話すことはあまりなかったな。ガウェイン・ジュールだ。王宮勤めのしがない文官、宰相の末席汚し。以後お見知り置きを、アリンガム子爵」
ハッ、とヒースコートが息を呑んだ。その瞳には紛れもなく狼狽が浮かんでいた。
力を込めているとは思えぬほど軽い手付きでヒースコートの手首を押さえつけているのは、ジュディのよく知る人物。
特徴的な枯れ草色の髪。黒縁眼鏡の奥の、金色の瞳。その横顔からは、いつもの柔らかい雰囲気が消え失せており、ヒースコートに注がれる視線はどこまでも冷ややかであった。
(宰相閣下……、ジュール侯爵。来ていらしたんですね)
ガウェインは体を割り込ませるようにジュディの前に立ち、ヒースコートの手を離す。ジュディは、視界を埋めるその背を見上げた。広い背中だった。枯れ草色の髪は、深い青のベルベットのリボンで結ばれている。
「なんだお前は。私を誰だと思っている」
ヒースコートの非難がましい声が響いた。ジュディが背の影からわずかに顔をのぞかせると、ヒースコートは掴まれた右手首を左手でさすりながら、目の前に立つ相手の服装を蔑みの目で見ていた。
本日のガウェインは、飾り気のないシャツにトラウザーズ。ちょうどお仕着せのジャケットだけを脱いだ男性使用人のような出で立ちであった。
(まさか、この方が宰相閣下だと、気付いていないの? 服装が変わっただけで? 私のときは見抜いたのに……)
ジュディは、この瞬間までヒースコートのことを、もう少し用心深い人物だと思い込んでいた。目端が利いて、こんな初歩的なミスはしないものだと。
結婚期間中は互いの化けの皮が剥がれるような実のある会話をしなかった上に、年齢差もあったので、「彼は自分に対しての態度は悪いが、貴族社会ではうまくやっているのだろう」と漠然と信じていたのだ。
父も兄も、当初はこの縁談を妥当とみなしていたのも大きい。ヒースコートを認めている素振りがあったのだ。
しかし、抜け目がないどころか、まさかこんなところに宰相閣下が来賓にはふさわしくない服装で現れるとは思わなかったせいか、ヒースコートはその正体まで考えが及んでいないようである。
ガウェインが、冷ややかに答えた。
「誰だと思うと聞いたか? 女性を物陰に連れ込み、乱暴を働いていたヒースコート・アリンガム子爵だ。悲鳴が聞こえた。不同意だな」
ふん、とヒースコートは鼻を鳴らした。
「その女はな、どういうわけか今はそんな姿をして下働きをしているようだが、私の元妻だ。顔を合わせれば話くらいはする。お前はその邪魔をしているんだぞ。一体なんのつもりだ。公爵家の使用人は礼儀というものを知らないようだ」
わぁ、とジュディは息を呑んだ。
(閣下の素性に気づかないばかりか、公爵様のことまで侮辱したわ。こんなに考えなしの男だったなんて)
かつて白い結婚を言い渡されたときなど「自分に至らぬ面もあったのではないか」とさえ思ったジュディであるが、ここにきて完全に考えを改めた。
この男は考えの足りない、まさしく下衆なのだ。
ガウェインは肩越しにジュディを振り返り、何か言いたげに軽く首を傾げた。
ばっちりと、目が合った。ジュディは、自分が涙ぐんでいることに気づいて、見られまいと慌ててまばたきを繰り返す。
泣いていたとは思われたくなかった。ガウェインにはこんな迂闊な場面を見られたくなかったし、いつだって頼りになる仕事のできる女と思われたい、という儚い希望があったのである。
「あの……」
焦って何か言おうとしたが、唇が震え声が掠れていた。それだけで、ガウェインの瞳の温度が下がり、まとう空気が凍てついた。がっかりされてしまった、とジュディは打ちひしがれた。
(だめな女と思われてしまったわ……。手籠めにされかけたと言っても、知らぬ相手ではないと気を許して私が自らついてきたように見えるかもしれないし、彼に心残りがあって、再会をきっかけにすがったと見られても仕方ない状況ですものね。言い訳もできない……。私は「捨てられた妻」ですもの)
ジュディが苦い思いを噛み締めたところで、ガウェインがヒースコートに対し、斬りつけるような口ぶりで言った。
「俺は公爵家の使用人ではない。男としてお前を軽蔑して声をかけた。言っただろう、下衆だと。まさかそこまで性根が腐っているとはな」
「口の利き方に気をつけろ! ジュディ、こっちに来い。その男はお前の情夫か? 離婚したとはいえ、変な相手とは付き合うなと言ったはずだ! どれだけ私の顔に泥を塗れば気が済む。本当にお前は、ろくなことをしない」
吐き捨てるように言われ、ガウェインと二人、汚らわしい組み合わせを見るかのように睨みつけられる。
そこで、ジュディの中でぷつん、と何かがキレた。
「閣下が私の情夫!? そんなことあるわけないでしょう、失礼にもほどがあるわ! いったい何がどうしてそう思ってしまったの!?」
迂闊な自分のことだけならいざしらず、これ以上ガウェインを侮辱されるのは耐えられない。
思わず、ガウェインの背後から身を乗り出して叫ぶ。
ジュディが、そのまま前のめりにヒースコートの元まで行くのを防ぐためか、ガウェインがそっと腕を伸ばしてジュディの動きを遮った。
(閣下、ここは止めないでください!)
キリッとジュディは目で訴えかける。
フィリップスにからかわれるまでもない、彼が魅力的で女性たちが熱を上げずにはいられない男性であることは、ジュディもよくわかっているつもりだ。それなのに、普段はなぜか女性を遠ざけているということも。
その理由はわからないが、ここでジュディの恋人と勘違いされたまま放っておくことなど、できるわけがない。ガウェインの名誉を守らねば、その一心でジュディはガウェインに対しても勢い込んで言った。
「閣下! 言わせてください! 閣下が私の情夫だなんて、あんまりではありませんか!」
ほんの少しの間を置いて、ガウェインは真顔で「……うん」と頷いた。それから、こほんと咳払いをして続けた。
「俺は別に構わないんだけど、ここはジュディの意思を尊重する。さて、アリンガム子爵に警告をする。今後彼女に不用意に近づき、みだりに触れるなど決してあってはならない。今日この場で彼女の意思を無視したことも、俺は許すつもりはない。いずれしかるべきときに、きっちりとやり返させてもらう」
淡々と追い詰めるような物言いに、ヒースコートは眉根を寄せて考え込む仕草をした。閣下、とジュディが呼んだことで相手の素性を疑い始めたらしい。
言うべきか言わないべきか、悩むジュディの前でガウェインがはっきりと名乗りを上げた。
「これまで、直接話すことはあまりなかったな。ガウェイン・ジュールだ。王宮勤めのしがない文官、宰相の末席汚し。以後お見知り置きを、アリンガム子爵」
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