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第一章

宰相閣下の腹の中

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「暴力は! 痛いのは嫌です!」

 率直過ぎる悲鳴を上げたジュディは、目の前の男を見たまま一歩後退する。

(私は、口うるさい自覚はありますけど、腕に覚えは全然ないんです!)

 特別体を鍛えているわけではなく、何かの訓練を受けているわけでもない。フィリップスのような立ち回りなんて、まず無理だ。
 殴るつもりの相手から殴りかかられれば、避けることもできずに殴られるのみ……!

 風を切る音。
 体の横すれすれで聞こえたそれに、ジュディは立ちすくんだままとっさに目を閉ざして、歯を食いしばった。

 予期した衝撃は訪れず、ジュディは数秒後におそるおそる目を見開く。
 とん、と肩がぶつかるほどすぐ後ろに、ひとが立っていた。横から振りかざされたままの誰かの手首を、片手でしっかり掴んでいる。
 それはジュディを狙う軌道上にあって、かばわれたのを知った。

「ステファンさん?」

 礼を言おうとしたが、声は途中でかすれて消えた。真っ黒のシャツは、彼が身に着けていた服とは違う。別人だ。
 酒場で立ち上がった男たちの目がすべて、その人物に向けられている。「やれ」と指示を出した男も、フィリップスも言葉を発することなく、黒シャツの男を見ていた。

「もういいでしょう。どうしても怪我人と流血をこの場に添えたいのなら、俺が相手になります。真っ先に動いたお前の腕は、もしまだやる気ならこのまま握り潰す。骨が砕ける音を聞きたいか?」

 脅しではないと思わせるゆるぎない強さと冷ややかさが、その声には漂っていた。
 手首を掴まれたままの男は、苛立ったように顔をしかめて、腕を振り払おうとした。その途端、ぐ、と指に力を込められたようで、みしっと骨の軋む音に「ひぃっ」という男の声にならない呻きが重なる。

 息苦しくなるほどの強烈な圧迫感が、空気を重く押さえつけ、誰も口をきかない。
 それまでの騒ぎは嘘のように静まり返り、馬車の行き交う往来の物音が、いやにはっきり店内に響く。
 声を出すのも憚られるその場で、彼だけが呪縛の影響なく、飄々とした口ぶりでジュディに声をかけてきた。

「お疲れ様でした。遅くなってすみません。あなたからは少し話を聞きたいので、一緒に帰りましょう」

 改めて聞けば、その声はまぎれもなくジュディの知る人物。顔にも見覚えがある。
 ただし、王宮で会うときとは、全然雰囲気が違う。
 真っ黒のシャツに黒のトラウザーズを身に着け、枯れ草色の髪を青のベルベットのリボンで束ねた青年は、普段とは違う形の眼鏡の奥から、ジュディに微笑みかけてきた。

(宰相閣下ですよね!? ほんものですよね……?)

 金色の瞳には、獲物を狙う野獣のような危険な獰猛さが漂っている。睥睨しただけで、その場の男たちを黙らせたのは、間違いなくその眼光。
 普段はおっとりとして、自分では荒事などいっさいしない、理性的な態度を崩さないイメージがあっただけに、ジュディはうまく反応できない。ただ目を見開いて、目の前の相手を見上げるのみだ。

 視界の隅でさっとステファンが動いて、フィリップスの腕を取ったのがわずかに見えた。


 * * *


「二人が出発したあと、私もすぐに都合がついたので追いかけました。一軒目で当たりで良かったです」

 帰りの馬車で、ジュディは向かい合って座ったガウェインから軽く事情を説明をされた。
 フィリップスは別ルートから護衛付きで王宮へと送還。ステファンもそちらについているので、この場には二人きりだ。
 特別な関係にない男女で馬車に同乗は云々、ジュディの一般的な常識に照らし合わせて思うところはあるのだが、仕事だと思うとすべて片がつく。

(これが未婚だったら、私もここまで割り切れなかったはず。離婚出戻りでいろいろ諦めと折り合いがついているのは、楽でいいわ)

 雇用主であるガウェインから、女としてまったく意識されていないのは、ジュディにとってもありがたい。
 いまはただ仕事の話ができればそれでいいと思いながら、ジュディは黒一色を身にまとった見慣れぬ姿のガウェインに尋ねた。

「閣下自ら出向いてくるというのは、危険ではないのですか」
「自分が一番信頼できます。多少の暴力沙汰も、自分で対処できます」

 にこり、と穏やかに微笑まれる。ジュディも微笑み返したが、頭の中では彼の言い分をおおいに否定していた。

、ではないわね。あのときステファンさんが一切手出しする気配がなかったのは、閣下が合流していたことに気付いていたからでしょう。その腕前に信頼を寄せているからだわ。実際に、閣下は暴漢を簡単に押さえつけていたし……)

 ジュディはほんの少しだけ、王子やガウェインを取り巻く事情から置いてきぼりにされたような割り切れなさを感じた。責めるつもりはなかったが、ついつい口に出して聞いてしまう。

「閣下がいるのに、私が『教育係』である意味はありますか?」

 長い脚を組み、胸の前では腕を組んでいたガウェインは、面白そうに目を輝かせてジュディを見てきた。

「あります。いまの殿下は、周囲の人間に対して敵愾心が強すぎる。私など、普段は反発でまともな会話にもなりません。ですが、殿下はこれまで自分の世界にいなかったあなたには、興味を持っている様子です。あなたとは、熱心に意見をぶつけ合わせたりもするでしょう?」

 それ自体は、まったくその通りだった。フィリップスは、ジュディを気にしている。それは、せっかく「助けてあげよう」と言ったのをジュディが跳ね除けたことによって、「助けをいらないとは?」と不思議に思ったのがきっかけのようにジュディは考えていた。

「たしかに、私は口うるさく、殿下に何か言われようものなら、倍にして言い返してしまいますからね。離婚出戻りの身の上にもかかわらず、ノーダメージな年上女性なんて、殿下の行動範囲内ではなかなか出会わないでしょう」

 これまた、ガウェインを責めるつもりはなかったものの、どことなく自虐めいた内容を取り揃えたばかりに、皮肉っぽい物言いになってしまった。ジュディは胸に手をあて、慌てて付け足した。

「私の言い方がとても悪かったです。私はいまの仕事に不満はありませんし、抜擢して頂いたことにとても感謝しています。やりがいがありますから」

 ガウェインは真剣そのものの表情で聞いていたが、話が途切れたところで、咳払いをして尋ねてきた。

「離婚はあなたにとって、ノーダメージなんですか?」
「そうですね。傷つく理由も特になかったので。結婚中は夫は私に興味がなく……、いえ、不自由なく楽しく暮らせるように取り計らってくださいました。でも、この仕事についたいまは、その頃の百倍楽しいです」
「百倍」
「ええ」

(それは、あなたが私を見つけてくれて、私に仕事を与えてくれたからですよ?)

 ジュディはその一言を飲み込んだが、ガウェインは意を決したように話し始めた。

「私があなたを知ったとき、あなたは既婚女性で、手の届かない方でした。ですが、いつか機会があれば話してみたいと思っていたんです。いま、こうして二人で話せるのがとても嬉しいです」

 ジュディは反射的に「ありがとうございます」と短く答えるにとどめた。そして、彼の言葉を深読みをしてしまう前に「どこで私を知りましたか?」と思い切って尋ねた。

「以前、街中の大捕物でドレス姿で全力疾走をする姿をお見かけしておりまして。あの気迫であれば、殿下のわがままにもへこたれないだろうなぁと、ほれぼれとしたんです。あなたのような女性を、私は初めて知りました」

 言われて、ジュディは「ああっ」と声をあげた。

(覚えてる、たしかにそういったことはあった。結婚しても出かける自由はあったから、従者と侍女と街に出ていたときに……)

 老婆が荷物を奪われたひったくり事件を目撃し、手当たり次第物を投げながら犯人を追いかけたことがある。
 お忍び用の短めのドレスに、丈夫な革のブーツが役に立った。
 ぜひ御礼をさせて欲しいと感激する老婆に対し、名乗るほどの者でもと告げて立ち去ってきたはずなのだが。
 よもや、国の要職である宰相閣下に見られていたとは

 思い出して動揺しているジュディをよそに、ガウェインはさらに言い募った。

「自分の目に狂いはなかったと思います。あなたをお迎えできて本当に良かった」
「はい、家庭教師、がんばります」

 とっさに、仕事の話として返事をする。
 ガウェインは「ははは」と声を立てて笑ってから「立場を超えて、あなたと盟友になれたらと思います」と告げた。
 そして、あらたまった調子で尋ねてきた。

「それはそれとして、次の休日に、二人で一緒にお茶でもしませんか?」

 これを受けると、二人の関係に何か変化があるのだろうか?
 ジュディは、迷い出す前に勢いだけで「喜んで」と答えた。そしてすかさず付け足した。

「殿下の授業方針について、私は綿密な打ち合わせが必要と考えています」

 二人で会うときの言い訳を、先にひねり出しておく。
 ガウェインは目元に笑みを浮かべたまま、ほっとしたように息を吐きだして、背もたれにもたれかかり呟いた。

「良かった。これでもすごく勇気を出しているんです。ずっと言いたかったんですよ、あなたが離縁したという話を耳にした日から」

 そして目が合うと、細めた瞳にほんのりと色香を漂わせて、笑った。



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