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序章
王宮大捕物
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貴族とはいかなるものか?
まもなく黄昏を迎える生き物たちである。
実際に、周辺国では様々な理由で貴族は弱体化し、終焉の時が来ている。
たとえば南のある国では、王権が変わった際に貴種は王家のみの原則を掲げ、貴族にあたる古い名家を駆逐した。その結果、貴族制度そのものが消滅。現在国を動かしているのは、王と官僚たちである。
東のある国では、貴族はかつて「支配層」として王権と強く結びつき、特権階級として領民を支配していた。しかし特権には「責務」が伴う。貴族は常に無私の奉仕をすることにより、人々に「徳」を示す存在であることが求められていた。だが、年月を経るにつれ貴族たちは奢侈《しゃし》に溺れ己の役割を忘れていき、人々にとっては打倒されるべき腐敗層とみなされるようになった。革命が起きた。
こうして次々に周辺国で貴族が滅びていく中、この国では依然として貴族たちが王宮内外で権勢を誇り、政治の中枢に居座っている。
なぜそれが可能なのか?
端的に言えば、貴族階級こそ、率先して重い税金を収めているからだ。
そして、とても働いているのである。
(東のあの国では、貴族男性といえば遊興に溺れ、女性たちは贅沢な暮らしを謳歌し、共に爛れたロマンスに耽っていたと聞くけれど。この国では、貴族は男も女も労働者階級と遜色ないほど、生涯くまなく仕事に励んでいるのです)
貴族を知らぬ者は「未婚の令嬢は良き相手に見初められることに血道を上げて、結婚してからはすべて安泰、フォークより重いものも持たぬ優雅で怠惰な暮らしをしている」などと思っているかもしれない。
完全なる事実誤認である。
男女ともに休む暇もない。
中央の貴族女性であれば、王宮に出仕して「女官《レディ・イン・ウェイティング》」となる者も多い。
実際、現在の女官長《ミストレス・オブ・ザ・ローブス》は公爵夫人が務めており、配下の女官もすべて貴族の妻たちに占められている。これは単なる名誉職や奥様方の暇つぶし等ではなく、国王夫妻の周りで細々とした仕事に従事しているのだ。
このように、王宮で働いている貴族女性は、とても多い。
中には王宮内に部屋を与えられている者もいて、ゴシップ好きの人々の間では「誰それの愛人」と噂を立てられることになるが、家に帰ることはおろか寝る暇もなく働いているだけといった過酷な現実もあるのだとか。
かような背景事情により、たとえばこの先、王宮勤めの用命のあったジュディのために王宮に部屋が用意されることがあっても、それだけでは格別おかしなこととは言えない。
しかしその仕事内容が、王族女性のお世話係ではなく、十六歳の王子殿下の教育係というのは、どう控えめに見てもおかしいのだ。
(私が王子殿下と同年代の未婚の娘だったら、婚約者候補の可能性もまったく考えられないというわけではないのだけど……。離婚歴のある年増ですからね。お教えする内容はやはり、男女のことよね! うん、どうにか頑張りましょう)
そのつもりでジュディは腹をくくってその日王宮を訪れ、案内の侍従の後について長い廊下を進んでいた。
現在の国王夫妻並びにその家族の暮らす王宮は、近年大規模な改築工事が行われていた。
結婚期間のジュディは夫に誘われることもなく、華やかな場所に足を運ぶこともろくになかったが、社交の場として新たに広い舞踏室が設けられ、化粧室から裏方の厨房等の水回りまで最新設備へと改善したとのことだった。
そのせいか、宮殿内は見た目の美しさだけでなく、空気に澄み切った清涼感もある。
よく磨かれた窓から差し込む光は明るい。
ゆったりとした幅で天井も高い廊下の白い壁には、凝った浮き彫りの金色の装飾が施されていた。所々に椅子やテーブルも配置されているが、そのどれもが一級品である。
(目の保養。さすが王宮、働く場として申し分ないわ。住んでも良い。これで仕事内容がもう少し違えば、言う事なかったのに)
説明を受ける前から、すっかり己の未来を閨事担当と決めつけて、ジュディは切なく吐息した。
そのとき、王宮には似つかわしくない騒音が耳についた。
「逃げたぞ!」
怒号。
バラバラという、いくつもの足音。
ジュディの前を進んでいた侍従が振り返り、ジュディを背にかばうような仕草をしながら「お気をつけて」と言ってくる。
「なに? なんの騒ぎです!?」
焦ったせいできつい口調で聞き返してしまったが、侍従は不快そうな素振りも見せず「殿下が……」と呟いた。
その声を押し潰すように、曲がり角から四、五人の兵士が姿を見せて怒鳴り合いながら横を駆け抜けていく。
とっさに避けたものの、すれ違いざまに風を受けた。ジュディは、荒事の気配を肌に感じて青い瞳を見開いた。
「殿下って言いました? 殿下の元に、泥棒でも?」
「いいえ。そこまで警備は緩んでいないはずですが」
尋ねてみれば、何かを訴えかけるような切実な表情をみせる侍従。ジュディは小首を傾げた。その視線の先、侍従の肩越しに見える壁沿いに並べられた椅子がひとつ、動いた。まるで、せり出した壁に押し出されるように。
「椅子が動きましたよ?」
見えたものをそのまま口にすると、侍従がハッと息を呑んで振り返る。
ゴトン、とまさにそのとき椅子がひっくり返り、壁に空いた穴から金色の髪の少年が現れる。身を屈めた姿勢から、ぱっと立ち上がった。
ジュディと目が合った。
青い瞳。目鼻立ちのくっきりと整った、強烈な美貌。まだ大人になりきってはいない年齢に見えるが、切れ長の瞳や形の良い唇の端に、末恐ろしさを感じさせる色香すら漂わせている。
少年は、にこっとジュディにほほえみかけてから、先程兵たちが走り去ったのとは逆方向に勢いよく走り出した。
「逃げてしまう」
侍従の呟きが耳をかすり、立ち尽くしていたジュディは即座に我に返った。
「逃さない方が良いのね?」
少年の足は速い。ジュディは返事を待たずにドレスの裾を両手でひっつかみ、走り出した。相手が誰かはわからないが、逃げるのは追われているからだろうし、見つけた自分が捕まえるのは至極当たり前のことと考え、叫んだ。
「逃げても無駄よ! 絶対に捕まえるわ!」
(足には自信があるんだから!)
まもなく黄昏を迎える生き物たちである。
実際に、周辺国では様々な理由で貴族は弱体化し、終焉の時が来ている。
たとえば南のある国では、王権が変わった際に貴種は王家のみの原則を掲げ、貴族にあたる古い名家を駆逐した。その結果、貴族制度そのものが消滅。現在国を動かしているのは、王と官僚たちである。
東のある国では、貴族はかつて「支配層」として王権と強く結びつき、特権階級として領民を支配していた。しかし特権には「責務」が伴う。貴族は常に無私の奉仕をすることにより、人々に「徳」を示す存在であることが求められていた。だが、年月を経るにつれ貴族たちは奢侈《しゃし》に溺れ己の役割を忘れていき、人々にとっては打倒されるべき腐敗層とみなされるようになった。革命が起きた。
こうして次々に周辺国で貴族が滅びていく中、この国では依然として貴族たちが王宮内外で権勢を誇り、政治の中枢に居座っている。
なぜそれが可能なのか?
端的に言えば、貴族階級こそ、率先して重い税金を収めているからだ。
そして、とても働いているのである。
(東のあの国では、貴族男性といえば遊興に溺れ、女性たちは贅沢な暮らしを謳歌し、共に爛れたロマンスに耽っていたと聞くけれど。この国では、貴族は男も女も労働者階級と遜色ないほど、生涯くまなく仕事に励んでいるのです)
貴族を知らぬ者は「未婚の令嬢は良き相手に見初められることに血道を上げて、結婚してからはすべて安泰、フォークより重いものも持たぬ優雅で怠惰な暮らしをしている」などと思っているかもしれない。
完全なる事実誤認である。
男女ともに休む暇もない。
中央の貴族女性であれば、王宮に出仕して「女官《レディ・イン・ウェイティング》」となる者も多い。
実際、現在の女官長《ミストレス・オブ・ザ・ローブス》は公爵夫人が務めており、配下の女官もすべて貴族の妻たちに占められている。これは単なる名誉職や奥様方の暇つぶし等ではなく、国王夫妻の周りで細々とした仕事に従事しているのだ。
このように、王宮で働いている貴族女性は、とても多い。
中には王宮内に部屋を与えられている者もいて、ゴシップ好きの人々の間では「誰それの愛人」と噂を立てられることになるが、家に帰ることはおろか寝る暇もなく働いているだけといった過酷な現実もあるのだとか。
かような背景事情により、たとえばこの先、王宮勤めの用命のあったジュディのために王宮に部屋が用意されることがあっても、それだけでは格別おかしなこととは言えない。
しかしその仕事内容が、王族女性のお世話係ではなく、十六歳の王子殿下の教育係というのは、どう控えめに見てもおかしいのだ。
(私が王子殿下と同年代の未婚の娘だったら、婚約者候補の可能性もまったく考えられないというわけではないのだけど……。離婚歴のある年増ですからね。お教えする内容はやはり、男女のことよね! うん、どうにか頑張りましょう)
そのつもりでジュディは腹をくくってその日王宮を訪れ、案内の侍従の後について長い廊下を進んでいた。
現在の国王夫妻並びにその家族の暮らす王宮は、近年大規模な改築工事が行われていた。
結婚期間のジュディは夫に誘われることもなく、華やかな場所に足を運ぶこともろくになかったが、社交の場として新たに広い舞踏室が設けられ、化粧室から裏方の厨房等の水回りまで最新設備へと改善したとのことだった。
そのせいか、宮殿内は見た目の美しさだけでなく、空気に澄み切った清涼感もある。
よく磨かれた窓から差し込む光は明るい。
ゆったりとした幅で天井も高い廊下の白い壁には、凝った浮き彫りの金色の装飾が施されていた。所々に椅子やテーブルも配置されているが、そのどれもが一級品である。
(目の保養。さすが王宮、働く場として申し分ないわ。住んでも良い。これで仕事内容がもう少し違えば、言う事なかったのに)
説明を受ける前から、すっかり己の未来を閨事担当と決めつけて、ジュディは切なく吐息した。
そのとき、王宮には似つかわしくない騒音が耳についた。
「逃げたぞ!」
怒号。
バラバラという、いくつもの足音。
ジュディの前を進んでいた侍従が振り返り、ジュディを背にかばうような仕草をしながら「お気をつけて」と言ってくる。
「なに? なんの騒ぎです!?」
焦ったせいできつい口調で聞き返してしまったが、侍従は不快そうな素振りも見せず「殿下が……」と呟いた。
その声を押し潰すように、曲がり角から四、五人の兵士が姿を見せて怒鳴り合いながら横を駆け抜けていく。
とっさに避けたものの、すれ違いざまに風を受けた。ジュディは、荒事の気配を肌に感じて青い瞳を見開いた。
「殿下って言いました? 殿下の元に、泥棒でも?」
「いいえ。そこまで警備は緩んでいないはずですが」
尋ねてみれば、何かを訴えかけるような切実な表情をみせる侍従。ジュディは小首を傾げた。その視線の先、侍従の肩越しに見える壁沿いに並べられた椅子がひとつ、動いた。まるで、せり出した壁に押し出されるように。
「椅子が動きましたよ?」
見えたものをそのまま口にすると、侍従がハッと息を呑んで振り返る。
ゴトン、とまさにそのとき椅子がひっくり返り、壁に空いた穴から金色の髪の少年が現れる。身を屈めた姿勢から、ぱっと立ち上がった。
ジュディと目が合った。
青い瞳。目鼻立ちのくっきりと整った、強烈な美貌。まだ大人になりきってはいない年齢に見えるが、切れ長の瞳や形の良い唇の端に、末恐ろしさを感じさせる色香すら漂わせている。
少年は、にこっとジュディにほほえみかけてから、先程兵たちが走り去ったのとは逆方向に勢いよく走り出した。
「逃げてしまう」
侍従の呟きが耳をかすり、立ち尽くしていたジュディは即座に我に返った。
「逃さない方が良いのね?」
少年の足は速い。ジュディは返事を待たずにドレスの裾を両手でひっつかみ、走り出した。相手が誰かはわからないが、逃げるのは追われているからだろうし、見つけた自分が捕まえるのは至極当たり前のことと考え、叫んだ。
「逃げても無駄よ! 絶対に捕まえるわ!」
(足には自信があるんだから!)
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