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本章      ノスタルジーの物語  

その1

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一九九三年九月のある土曜日の晩、山口ナオコはラスベガスのダウンタウンにあるGカジノにいた。彼女は九十三年の三月に日系の旅行社の駐在員としてラスベガスに赴任して来た三十歳の女性で、赴任してから暫くは初の海外勤務ということもあり、仕事上の色んな事を覚える事で余裕が全く無く、遊びに行くなんて事は全く出来なかったのだが、五ヶ月めに差し掛かったあたりから少し余裕が出て来たので、休日は適当に遊ぶようになった。ラスベガスという街は二十四時間不眠不休の、あらゆる娯楽の宝庫であり、ありとあらゆるショウビジネスの本場であるから、ナオコは色んなショウを見たり、好きなアーチストのコンサートに行ったりして、休日はとにかく楽しく過ごすようになった。ここ二週間ほどはカジノゲームに興味が行き、職場の先輩に色々教わりながらルーレットやブラックジャックといったゲームを初めは恐る恐るやっていたが、カジノゲームの入門書を本屋で手に入れてからは色んなやり方を試すのがすごく面白くなり、ここ三日ほどは仕事が終わるとすぐカジノに直行して夢中になってゲームをやっていた。
 夜の十一時半頃ブラックジャックテーブルでゲームをやっていて、ある場面でナオコがカードを引いた時、左隣りに座っていた中国人らしい男が何やら中国語で叫んだので、ナオコはビクッとした。何かナオコが今ディーラーからカードを引いた事を非難しているような感じだった。
 中国人に叫ぶように文句を言われたナオコはどうしていいか分からず、ただ黙っておろおろするしかなかったのだが、右隣に座っていた眼鏡をかけたアジア系と思われるヒゲ男が彼女の代わりに弁明するかのようにその中国人に対して何やら早口の中国語で申し立てた。中国人はそれに対して間髪を容れずワーワーとがなるように申し立てた。中国語で言ってるため、何を言ってるのかナオコには全く分からなかったが、自分が引いたそのカードの引き方に関して議論しているのだろうと思われた。二人ともかなり大きな声なのでまるで喧嘩しているかのように感じられた。 
 二人は暫くワーワーと言いあっていたのだが、通りかかったピットボス(ディーラーの上司に当たる人)が仲裁に入った。ヒゲ男は流暢なアメリカ英語で、さっきこのお嬢さんが引いたカードの引き方が良くなかったとこの中国人の男がクレームをつけていて、自分は全然気にしていないのだが、この中国人はどうしても納得がいかないみたいなんだと言った。ピットボスはその中国人に対して、どのようにカードを引こうとそれぞれのプレイヤーの自由なので、とにかくそのままゲームを続けるようにお願いしたいと丁寧に申し立てた。中国人の男は納得がいかない様子だったが、しぶしぶ承知した。
  結局その回の勝負はディーラーの一人勝ちとなり、そのテーブルのプレイヤー三人全てが負けという結果になった。全員が負けという結果に中国人は激怒し、右手でテーブルをバン!と叩いて席を立ち、文句を言いながら去っていった。ナオコはきまり悪く感じ、ヒゲ男に対し”Thank you for your help but we all have lost.  I'm sorry. (助けてくれてありがとう。だけどみんな負けちゃったわね。ごめんなさい。)と言った。それに対しヒゲ男は”That's OK.  Where are you from? (それはいいよ。あんたどこの出身だ?)”と返した。
 ”I'm from japan. (日本です。)”とナオコは答えた。
 「何やあんた日本人やったんか」とヒゲ男が突然関西弁で言ったのでナオコは驚愕した。中国語と英語の両方を流暢に話し、話すときのジェスチャーもかなりアメリカ人っぽかったのでてっきり中国系アメリカ人だと思っていたのに突然関西弁が飛び出したのでナオコは驚いたのだ。
 「さっきみたいにディーラーのカードが六で、自分のカードが十二なんて時は普通カードを引かんとステイするんがセオリーやから怒っとったんやけどな・・・」       
 「私初心者なんでまだ基本戦略(ベーシック・ストラテジー)を把握してなくて・・・どうもすいません。」
 基本戦略(ベーシック・ストラテジー)というのはディーラーのオープンカードの数と自分に配られたカードの数を見て、更にカードを引くか、引かずにそこでストップするか(ストップする事をステイあるいはスタンドと言う)という事を数学的確率の観点から一つの表にまとめたもので、ブラックジャックというゲームをやる際には出来る限り覚えておいた方がいいとされる必勝の為の基本的セオリーで、確率的に一番勝つ確率が高い戦略を体系化したものである。もちろんその通りやったからといって必ずしも勝てるというわけではないが数学的確率からいえば一番勝てるやり方であるという事である。ブラックジャックをプレーする客は基本的にこの基本戦略に沿ってプレーするのが望ましいとされている。                                             
  「いや謝らんでもいいけど、まあああいう風にやったら確率的には負ける可能性が強いって事やから、気をつけた方がいいやろな。次からはベーシックストラテジーを書いた紙を見ながらやったらいいんちゃうかと思うけど。」
 「えっ、それって許されてるんですか?」
 「うん、大丈夫や。問題ない。」
 ヒゲ男はナオコに今日はもうこれ以上プレイしないで暫く後ろで彼のプレイを見てた方がいいんじゃないかと提案した。ナオコはそれに同意しテーブルを立った。ナオコがテーブルを立つのとほぼ同時に通りがかった二人の客がテーブルにつき、計三人のプレイヤーで再びゲームが始められた。

 三十分後、ヒゲ男はかなりの大勝ちをしてテーブルを立った。後ろで彼のプレイを見ていたナオコはすごく感心して、「すごいですねえ。今日はほんとにいろいろ参考になりました。どうもありがとうございます。」と言ってその場から去ろうとすると、「ちょっとどっかで話せえへんか?」とヒゲ男が言った。ナオコはちょっと考えた末に同意して、カジノのすぐそばにあるコーヒーショップで話をすることにした。 

 「あんた観光でベガスに来たんか?」
 「いいえ私は仕事でここに来ていて、休みの時なんかにカジノで遊んでるんです。」                             
   「仕事っていうと旅行社とか?」
 「ええ、そうです。今年の三月にラスベガス支店のスタッフとして赴任して来て、最近になってカジノで遊ぶようになったんです。」
 「ぼくは三日前にベガスに来て、ダウンタウンのQホテルに滞在しながらいろんなカジノでゲームをしてるんやけど、まあ一ヶ月くらいはおろうと思ってる。」
 「主にどんなゲームをなさってるんですか?」
 「メインはポーカーで、時々気分転換の為にブラックジャックやルーレットとかバカラなんかをやってる。」
 「さっきはほんとに見事な腕前でしたけど、もしかしてプロのギャンブラーさんですか?」
 「いやとてもとてもプロなんて言えんわ。勝つときは勝つけど、負けるときは思いっきり負けるからなあ。」とヒゲ男は苦笑しながら言った。
 ナオコはコーヒーをちょっと口に含んでから目の前にいるちょっと変なルックスのヒゲ男を見つめた。長髪で眼鏡をかけた百七十センチ位の背丈の、鼻の下とアゴにヒゲをたくわえたカジュアルな服装をした関西弁を話すアジア系アメリカ人のような日本人・・・眼鏡の奥の目はすごく綺麗な目をしているなとナオコは思った。              
   「関西の言葉を話されているようですけど、もしかして大阪の方ですか?」                                    
   「そうや、わいは大阪は河内の生まれの、河内のおっさんやでえェェェ──。」とヒゲ男がかなり誇張した様な感じの関西アクセントで言ったのでナオコは思わず吹き出してしまった。                                        
   「おかしいか?普通に話ししてるつもりやったんやけど・・。」
 「すいません、普段聞いてるアクセントとかなり違っていたんで・・・・でも方言ていいですね。」
 「そんな言い方はないんとちゃうかなあ。まあ東京の人からすれば、方言と言えば方言なんやろうけど。」                                ナオコはちょっときまり悪くなって、少し沈黙した後こう言った。「すいません、お名前を聞かせてもらっても宜しいですか?」少しの沈黙の後ヒゲ男は言った。「────杉田と言います。」

 二人はそれから暫くいろんな話をしたが、二人ともイギリスやアメリカのハードロックが好きだという事が判ってからはかなり話が盛りあがった。
 「アメリカはロックの本場やから、これからは色んなバンドのライブが見られて楽しみやな。」
 「ええ、そうですね。今のところはそんなに見てませんけど、これからは色んなバンドのライブが見れると思います。」
 「ヴァンヘイレンのライブに行ったことあるか?」
 「いいえ、無いですけど・・」
 「僕は初来日の時に見たことあってな・・・あれは確か一九七八年の夏に・・多分六月やったと思うけど、大阪の厚生年金で見たわ。」
 「へえ、ほんとに初期の頃に見たんですね・・」
 「いやあほんとに凄かったで・・・特にエディーのギターが・・・。ボーカルも凄かったけど、とにかくバンド全体のエネルギーが半端じゃなかったわ。」 
 「ヴァンヘイレンと言えば、最初は”Jump”って言う曲が好きだったんですけど、やはりファーストアルバムが凄いですよね。」
 「僕が高校三年の時、いや二年の時やったかな、確か一九七八年の二月にアルバムが出て、三月か四月にFMでオンエアされて聞いたんやけどな、ほんとに凄くて衝撃を受けて夢中になって聞いたんを覚えてるわ。高校二年の時にディープパープルのライブアルバムを聞いてハードロックのファンになって以来レッドツェッペリンやクリームとかも聞いてたんやけど、とにかくヴァンヘイレンのギターはすごい衝撃やったわ。」
 ハードロックに関して熱く語る杉田を見ながらナオコはふと中学生の頃文通していた相手が手紙に、ディープパープルのライブアルバムを聞いて凄く衝撃を受けてハードロックのファンになったと書いていたのをぼんやりと思い出した────その文通相手というのは田村伸介──── タムラシンスケという名前だった ─────。
 「ところであんたはベガスに来る前は東京で仕事してたんやな?」                            
   「ええ、大学は東京の大学で英語を専攻してたんですけど、旅行社に就職が決まって七年程東京で仕事をしてからラスベガスに勤務が決まって今ここにいるわけです。」    「生まれたのも東京か?」
 「いえ、生まれたのは神奈川の茅ヶ崎で、高校卒業までは茅ヶ崎にいました。」                               
   「大学の時は下宿してたわけ?」
 「ええ、そうです。まあ家から通えない事もなかったんですけど、二時間以上かかる所だったからやはり下宿することにしました。」
 「僕も専攻は英語やったんやけど、京都の方に近い大阪の枚方ってとこにある私立大学の英語学科に五年程おった。まあ要するに一年余分にな。」杉田は小さく笑いを浮かべて言った。「まあ実際のとこ、大学の時はよう遊んだな。高校の時からロックが好きでドラムをやってたんやけど、大学の時は軽音楽部に入っていろんなバンドで色んな音楽やったわ。」                                      「私は大学の時は文芸部に入って小説や詩を書いていました。文芸部の中で同人誌というのがあって、そこに詩や小説やメルヘンなんかをいろいろ載せてもらってました。」                                                                                     
   「プロの作家になりたいって思ったりした?」
 「いや実際の所そんなになりたいって感じじゃなかったんですけど、とにかく文学っていう形で自分の世界を創りたかったっていうところですね。」                                                                            
   「主にどんな感じのものを書いてたん?」
 「詩が一番多かったですね・・・。あとは短い小説というか、メルヘンみたいなものをちょくちょく書いてたっていう感じですけど。」
 「文芸誌とかに投稿とかはした?」
 「ええ何回か小説を投稿して、三年生の時にとある文芸誌で佳作を取る事が出来て、それから何回か短編の小説をその文芸誌に載せてもらうことが出来たんですけど、四年の時にスランプになってしまい書けなくなって掲載の依頼に穴を開けてしまって・・・・それ以来その出版社からは依頼が来なくなってしまったんですけど、まあ私が根性を出して作品を創る努力をしたらよかったんですが・・・。結局就職する道を選んで、就職してからはとにかく毎日仕事が忙しくて創作することから離れてしまい、結局何も書いていないっていう状況なんです。」                               
   「そうか、まあ文芸の世界も厳しいと言えば厳しいから作品を出し続ける情熱を失ってしまったらもうそれで終わりやろな。」                                                                                      
   「そうですね、結局私の場合小説家として続けていく為の才能も情熱も無かったという事ですね。」こう言ってからナオコは暫く沈黙した。杉田は腕組みをして何かを考えているような感じだったが暫くしてからちょっとお手洗いに行って来ると言って席を立った。 ナオコは暫くぼーっと空を見つめていたが、何とはなしにバッグの中から手帳を取りだし、十ページ目位に書いてある詩に目をとめた。「ノスタルジア」というタイトルの詩なのだが、それを目で追ううち彼女の思いは中学二年の時に遡っていった ─────。
                                        
   ─────中学二年の時、あれは確か一九七七年十一月九日の水曜日の事であったが、ナオコは学校が終わってから駅前の商店街の中にある本屋に立ち寄った。彼女はとにかく本を読むことが好きで、マンガであろうと小説や雑誌であろうと、とにかく全ての種類の本に興味があるタイプの文学少女と言ったらいいのか、いやマンガも好きだからマンガ少女でもあるのだが、とにかくあらゆる種類の本を読むことが好きな、オタクの女子中学生であった。いつものようにまずマンガの雑誌を何冊かザーっと立ち読みすると、次に彼女は毎月読んでいるPFマガジンという文芸雑誌 ─────この雑紙はイラスト付きの文芸雑誌なのだが─────を手に取って、”読者からの投稿詩”という所を開いた。それは八ページに渡って読者からの投稿詩が掲載されているコーナーで、文学少女の彼女は毎月チェックしているのだが、色んな人の様々な詩が掲載されている中で、とある詩が彼女の目を引いた────いや彼女の心を捕らえた────。


    ノスタルジア
          田村伸介                                                

   風と草原が作るあの歌が                                                           
   僕は好きだった                                 
   月の光と湖が成すあの絵が               
 僕は好きだった

 窓の外に降る小さな星の群れ                                                         
   こんな夜には体より            
   心を暖めてくれる何かが欲しい
 
 遠い記憶の中に生きる思い出
   忘れ去られた思い
   全てが遠く 全てが幻想で 全てが夢

   ノスタルジア
   それは気づかなかった寂しさ
 僕はほんとに色んな世界を生きてきた



 この「ノスタルジア」という詩はほんとにナオコの心に響いた。この詩の持つ世界観が彼女の心の琴線に触れた。詩を読んでこんなに魅惑されたことはなかった。彼女はそのPFマガジンをレジの所に持って行き、購入して家に着いてからもう一度噛みしめるようにその詩を読んでみた。ほんとにこの詩の持つ世界観に彼女は共鳴し、魅惑された。何日かした後彼女はその詩の作者である田村伸介という人に宛てて手紙を書いた────── 。

 田村伸介様
 
 前略。私は神奈川に住む中学二年の女子で、山口ナオコと言います。PFマガジン十二月号に載っていた田村さんの「ノスタルジア」という詩にとても感銘を受けてお手紙を書かせて頂きました。                                                 
私はとにかく本を読むことが好きで、マンガも好きだし、小説や詩なんかもよく読んでいます。田村さんの詩はほんとに素敵で繊細で哀愁がこもっていると言ったらいいのか、とにかく私の心を捕らえました。今まで詩を読んでこんなに魅惑されたことはありません。こんな事を頼むのはどうかなとは思うんですが、もし良ければ私と文通して頂けないでしょうか?
   

                      一九七七年十一月十三日                                           
                  
                            山口ナオコ
     

 手紙を書いた後ナオコは投稿者の住所が一覧になっているページを開けてみた。田村伸介の住所は大阪府東大阪市XX町X丁目XX-XXと記載があった。───── 大阪の人なんだ──── とナオコは一九七〇年に大阪で万博が開かれた時家族みんなで旅行に行った時の事を思い出した。当時小学一年だったこともあり細かい記憶は無いのだが、とにかく人がいっぱいで長い時間列に並んで待っていたという事は覚えている───── 。
 
 この手紙を出してから十日位過ぎた頃田村伸介から返事の手紙が届いた────

 山口ナオコ様:

 前略。お手紙読みました。ぼくの詩をこんな風に好意的に評価してくださりどうもありがとうございます。ぼくと文通したいとのことですが、ぼくは今まで誰とも文通したことが無く、ぼくという人間は筆無精で、字も汚いので正直どうかなあと思う部分もありますが、まあこれも何かの縁ですからOKという事にします。あんまり頻繁には書けないというか、たぶん二月に一回ぐらいしか出せないかもしれませんけど、それでいいなら文通するのはOKです。
  

 えーとまず自己紹介からしますね。ぼくは大阪の東大阪市在住の高校二年生で、趣味は山口さんと同じでまず本を読むこと(あらゆる種類の本)、それとロックミュージックを聞く事。主にFMラジオから録音していろんなグループの曲を聴いています。中学の頃はフォークやポップスをラジオとかでちょっと聴くというぐらいだったんですけど、高校に入ってからビートルズに出会い夢中になって色々聴きまくって、今ではほとんど全ての曲を聴いて知ってるというぐらいになりました。「ノスタルジア」という詩は半年ぐらい前にビートルズの”The Long And Winding Road ”を聴いている時、目を閉じて思い浮かべた事、感じた事やインスピレーションを言葉にして書いたもので、タイトルどおりノスタルジアの詩、いろんな物や風景や人の過去の記憶や思い出を懐かしく思うその感情を言葉にしてみた詩です。最後の”僕はほんとにいろんな世界を生きてきた”というところ、十七歳でまだ人生の初めの方だと言ってもいい位なのにこんな事を言うのは実際早すぎるというか、人生の経験が足りないのにと言われるかもしれませんが、時が過ぎてぼくがそれ相応の歳になったらその時に大きな意味を持つようになるかもしれないし、重みを持つ言葉になるかもしれません。 
 趣味の話に戻りますが、高二になってからドラムを始めました。週に一回ドラム教室に通ってドラムの叩き方を習っています。先生は大阪でバンドをやっててライブハウス等で頻繁にライブをやっている、プロレスラーみたいにがっちりとした体をしている人ですが、性格的には凄くおとなくして優しい、ほんとにいい人でぼくにとっては兄貴の様な存在です。彼はドラムを教えてくれるだけでなく、ロックについても凄くたくさん教えてくれるし、レコードやテープなんかも頻繁に貸してもらっています。ほんとにぼくにとってはいい兄貴だし、ロックの師匠でもあります。
 一週間ぐらい前に同じクラスの友達数人からバンドを一緒にやらないかと誘いを受けてテープをもらい、今毎日練習に明け暮れています。三週間後の日曜日にスタジオで合わせることになっているんですが、曲目はビートルズやローリングストーンズの曲とクリームというバンドの”サンシャイン・ラブ”をやることになっています。クリームというバンドは今まで聴いたことが無かったのですが、ジャンルで言うとブルースロックになるそうです。
”サンシャインラブ”という曲はなかなかいい曲で合わせるのが楽しみです。
 最近になってハードロックをよく聴くようになりました。きっかけはFMでディープパープルの特集があり、ライブインジャパンという一九七二年に日本で行われたライブ盤の曲を全曲オンエアしてくれたのでテープに録音して繰り返し何度も聴いてるんですが、これがまたほんとにすごいんです! 特にボーカルのイアン・ギランがすごくて、ハイトーンだけどめちゃくちゃ図太い強力な声で、ものすごいシャウトを聞かせてくれて圧倒されます。このライブを聴いて僕は衝撃を受け、ハードロックというもののファンになりました。ドラムの兄貴からもレッドツェッペリンの二枚目と四枚目のアルバムを借りることが出来たので、これも録音して最近よく聴いています。ディープパープルとはちょっと違うタイプのハードロックと言ったらいいのか、二枚目はほとんどがハードロックの曲で、四枚目に関してはアコースティックな曲や、”天国の階段”みたいなドラマチックな曲もあって、これもほんとにすごい名盤で、毎日圧倒されながら聞いています。”天国の階段”なんかはほんとにすごい名曲で、よくこんなに美しくすごい曲が作れるものだなあと感心というか、感動しながら聴いています。
 
 
 簡単ですが自己紹介の方はこれぐらいにしておきます。またその時その時で思いついた事、書きたいと思ったことを書いていくことにします。最後に二日前に書いたばかりの詩を下に記しておきます────

   残響───波の響き

   海は知っている
 人間が作った数々の物語を
 海は何かを語ろうとする
 まどろみを誘うあの波の響きで

 ああ あれは遠くに眠る時の調べなのだろうか
 私を神秘な気持ちにさせる
 あの波の響きは一体何なんだろう───


                        一九七七年十一月二〇日   
                                   
                              田村伸介

 「何読んでんの?」
 いつのまにか杉田が戻って来て、座りながらナオコに聞いた。 
 「・・・・ああこれは私が大好きな詩なんですけど──── 。」
 「もしよかったら見せて欲しいんやけど。」
 「いいですよ。」と言ってナオコは手帳を杉田に手渡した。
杉田はじっとその詩の載っているページを凝視していた。暫くしてから杉田は言った。「・・・・ノスタルジアか・・・確かに懐かしい感じがするなあ・・・。」
 「──── その詩は私が中学の時文通していた人が書いた詩で、ある文芸雑誌に掲載されていたんです。その詩を読んでとても素敵で繊細でいいなと思って、その人に手紙を書いて文通をしてもらって暫く文通していたんです。」
 「・・・・・・・・・・・・・」
 「まあ今考えてみると、文通した期間というのはかなり短かかったですけど・・・。」
 「・・・・・手帳に書き留めるほど気に入ったというわけやな。」
 「ええまあそうですけど・・・。」
手帳をナオコに返しながら杉田は言った。「あんたの名刺があったらくれへんか。」
 「ああそうですね、まあ航空券の手配とか、ちょっとした観光のミニツアーなんかも色々有りますんでいつでも連絡して下さい。」と言ってナオコは自分の名刺を杉田に手渡した。                               
   「・・・・・山口ナオコさんか・・・・。」名刺をじっと見つめながら杉田は言った。「───── まあ何か   あったら電話させてもらうわ。」


 杉田と話をしてから一週間程過ぎたある休みの日の午後にナオコは”Strip”と呼ばれる区域──── それはラスベガスの繁華街で巨大なホテルがひしめき合う区域なのだが──── の中間に位置する巨大なMホテルの中のMカジノに足を伸ばした。今まではダウンタウンのカジノしか行った事がなかったのだが、ちょっと気分を変えてもっと大きなカジノに行ってみようと思ったのだ。
巨大なカジノの中を暫くぶらついた後ナオコはとあるブラックジャックテーブルに腰を下ろしてゲームを始めた。二十分位の後ディーラーチェンジとなり、白人の男性ディーラーからアジア系の女性ディーラーに替わった。その女性ディーラーの顔を見てナオコは心の中であっと驚いた。───── 島崎洋子だ!     
 それはナオコが大好きだった日本のロックバンド、”シルバーフレイム(Silver Flame)”のボーカルの島崎洋子だった。”シルバーフレイム”(銀の炎)というバンドは一九八一年にデビューし、主にライブハウスや小さなホールでライブ活動をしていたバンドで、人気のピークだった一九八三年の末には中野サンプラザや大阪のフェスティバルホールなんかでもコンサートが出来るぐらいにファン層が広がっていったのだが、一九八六年の末に突然島崎洋子が脱退し、それとほぼ同時にバンド自体も解散してしまったという伝説のバンドである。ナオコはこのバンドが出した六枚のアルバム全てを所有しているし、今でも愛聴している。今では全てのアルバムが廃盤となっているため、コアなロックファンにしか知られていないが、そのサウンドは本物で、ナオコはほんとにこのバンドの大ファンであった。
 解散してからはリーダーであったギタリスト以外は全く音沙汰が無く、元メンバーたちがどうしているのかは全くわからなかった。リーダーのギタリストは今でも細々とバンドをやってはいるようだが、シルバーフレイムと比べると全くたいしたものが無いといった感じで、ナオコは一回ライブを見たことがあるのだが、迫力という点において全く比べものにならなかった。やはりこれはボーカルの力量の違いから来るのであろうとナオコは考えた。とにかく島崎洋子というボーカリストは特別で、他の追随を許さない唯一無比の、最強のシンガーだとナオコは思っている。 
 さて、自分が長年憧れ、大ファンだったそのシンガーに、ラスベガスのカジノという全く予期しなかった、いや想像することさえも出来なかった場所で、しかもディーラーと客というあり得ない奇妙なシチュエーションで遭遇したナオコはほんとに戸惑った。 
───── とにかく声をかけるべきだ───── そう思ったナオコは表面上は平静を保ちつつ機会をうかがった。二十分位してゲームが一段落し、ディーラーの島崎洋子がカードを器用に手でシャッフルし始めた時ナオコは言った。 「──── すいません、島崎洋子さんですよね。」
 島崎洋子はちょっと驚いたような表情を一瞬見せたが、シャッフルしながらこう言った。「・・・・私を知ってるのね─── 。」    
 「──── 私はシルバーフレイムの大ファンでした。というより島崎洋子さんのファンだと言った方がいいと思います。ほんとに何と言ったらいいのかわかりませんけど、会いたかったです・・・・。」
 「アメリカに来て以来私を知ってるって言う人に会ったのはこれが初めてよ。」と島崎洋子は言った。「私を覚えていてくれてほんとに嬉しく思うし、有り難いことだと思うわ。」
 「突然解散になったんであの時はほんとに戸惑ったし、すごく残念に思いました。」
 「・・・・・そうね、応援してくれたファンの人たちの事を考えるとほんとに申し訳なく思うわね。」島崎洋子はちょっと遠くを見つめるような目で言った。「───あの時はほんとに色々あってね・・・。」
 ナオコはちょっと考えた末思い切ってこう言った。「・・・ もしよければ仕事が終わった後お話をさせて頂けないでしょうか?」
 「いいわよ。五時に仕事が終わるんで、五時十五分位にホテルの入り口の所で待っててくれる?」

 五時十五分きっかりに島崎洋子はホテルの入り口の所に現れた。二人はホテルの近くにあるハンバーガーショップで話をすることにした。
 「・・・・こんな風に会えてほんとにうれしいです。こんな事ほんとに想像すらしていませんでした・・・。」 
 「アメリカに来てから日本の人に会うこと自体滅多になくて、久しぶりに日本語を話すという感じなんだけど、私もファンの人にすごく久しぶりに会えて嬉しく思うわ。」
 「私は一九八一年にシルバーフレイムがデビューして以来のファンで、アルバムも全て持ってますし、今でもよく聴かせてもらっています。」
 「そう言ってもらえてほんとに有り難いわ。忘れないでいてくれてありがとう。」
 「一九八六年の終わりに突然やめられてほんとに驚きましたが、一体何があったんですか?こんな事を訊いていいのかどうかわかりませんけど・・・。」
 「・・・・・もう限界だったの・・・・あの時はほんとにいろんな事が重なってもうあれ以上続けられなくなったの・・・・。」島崎洋子は昔を思い起こして遠くを見るような目つきで言った。「・・・・まずバンドのメンバーの間でわだかまりがあって、リーダーの鈴木さんと他のメンバー達の間では音楽以外の話というのが全く無くて、まるで仕事上必要だから仕方なく最低限のコミュニケーションを取ってるっていう感じだった・・・・まあ歳も結構離れていて、一九八六年当時私や他のメンバー達は二十六歳で、鈴木さんは三十三歳・・・まあバンドをやったことが無い人にはちょっと分かりにくいかもしれないけど、バンド内での人間関係っていうのは結構複雑で、一番望ましくて理想的なのはやっぱり音楽以外のオフの時でもいい友達で楽しくやれてるっていう事だと思うけど、実際の所そういう理想的な関係を持つ事が出来てるバンドってそんなに多くないと思う・・・・とにかくシルバーフレイムというバンドに関して言えば、一九八三年に私と鈴木さん以外のメンバーが全員脱退したのは知ってると思うけど、あれは実の所鈴木さんが私以外のメンバーにやめて欲しいと言ってやめてもらったっていう感じだったの。音楽雑誌なんかでは音楽上の意見の相違で脱退したなんて載っていたけど、事実は違うわけ。デビューしてから二年の間はとにかく全国のいろんなライブハウスでライブをしたけど、段々とライブに来る人の数が減っていって、一九八三年の初めにはかなり顕著になって、これは何とかしなければならないと思った鈴木さんは他のメンバーをやめさせるという手を取ったの・・・・これが良かったのか悪かったのか正直私にはわからないけど、鈴木さんはバンドを解散するかメンバーチェンジをするかのどっちかだと言って、私に関しては凄く個性的で力量のあるシンガーだからこのまま残って欲しいと思っているが、他のメンバー達はやめてもらうしかない、そうしなければ生き残ってはいけないって言ったの・・・・私は苦楽を共にしてきたメンバー達と別れるのはつらいし、こんなやり方は間違ってると思うと鈴木さんに言って、とにかくメンバー全員で話し合って結論を出そうということになったの。それでミーティングの時に鈴木さんがストレートに、バンドが生き残るためには私以外のメンバーにやめてもらって新たなメンバーを入れて新たな音楽性を構築するしかない、もし同意してもらえないなら解散という道を選ぶしかないって言ったの。そしたら他のメンバー達は、洋子の事を考えたら自分たちはやめるべきだと思うって言ったの。どういう事なの?って私が訊くと、メンバー達は鈴木さんと私の二人とそれ以外のメンバーとでは音楽的力量が違いすぎると正直思うし、特に洋子のボーカルは非常に強力で、このまま埋もれさせるには惜しすぎる、洋子のボーカルの大ファンでもある自分達としては何があっても島崎洋子というシンガーには生き残って欲しいからやはり自分たちは去るべきだし、音楽的に行き詰まっている今、新たな血を入れていい曲が書ける人を入れるのがバンドにとってはベストなやり方だと思う、だから自分たちはやめるって言ったの・・・・それを聞いて私は涙が止まらなかった・・・・・鈴木さんはただ「すまない・・・・」と言って下を向いて彼も泣いていたわ・・・・。」
「・・・・・鈴木さんと他のメンバー達の付き合いは長かったんですか?」
 「・・・・高校の時からの付き合いって事だから、結構長いと言えば長いわね。音楽以外のオフの時も一緒に遊びに行ったりしていた、同じ歳の仲のいい友達だったって事だから私以上に鈴木さんは辛かったと思う・・・・私は一番最後にバンドに加入した七歳年下の女性メンバーで、ある音楽雑誌のメンバー募集のページを見て鈴木さんに電話を入れたんだけど。」
 「それはいつの事ですか?」
 「一九八一年の一月初めの事で、レコードデビューが決まっていたんだけどボーカルが突然やめたんで、急遽募集という事だったの。」
 「それでオーディションに行って加入が決まったというわけなんですね。」
 「まあそういう事だけど、初めは女性の方は遠慮して頂きたいって言われたわ。」
 「そうなんですか。」
 「だけど私はシルバーフレイムの熱烈なファンだったから、食い下がってお願いだから一回私のボーカルを聞いて下さいって必死になって言ったら何とか最後に承諾してくれたの。」
 「シルバーフレイムって結成されたのは何年なんですか?」
 「一九七一年に結成されたっていう話で、初めは色んな音楽をコピーして楽しんでいたコピーバンドだったらしいわ。一九七六年頃からオリジナルをやるようになって、徐々に活動の場を広げて行ったそうなんだけど、私は一九八〇年の二月に初めて小さなライブハウスでシルバーフレイムを見てすごく気に入って、それから三回ぐらいライブを見たわね・・。毎月どっかのライブハウスでライブをやってたんだけど、八〇年の九月から姿を見かけなくなってどうしたのかなって思ってたら、八一年の一月にボーカル募集という広告が出たのでボーカルが抜けたんだとわかって、同時にすごいチャンスだと思ってトライしてみたわけ。」
 「オーディションの時の反応はどうでした?」
 「驚いてたわ。こんなに凄いとは思わなかったって。オーディションの課題曲はカルメン・マキ&OZの「私は風」だったんだけど、正直こんな難易度の高い曲をこんなにも完璧に歌うとは思ってもいなかったと・・。実際女性シンガーを起用するっていうのに気がのらなかったのでわざと難しい曲を選んで歌いこなせていないからという口実で断れるだろうと思ってたんだけど、こんな凄い声を聴いてほんとに驚いたし、それと同時にもの凄く感動しているんだと鈴木さんは言ってたわ。」
 ナオコは話を聞きながらシルバーフレイムが出したアルバムを総括してみた。デビューアルバムはとにかくかっこいいロックナンバーが充満している名盤だった。島崎洋子のボーカルはとにかくパワフルかつ枯れたフィーリングを持っていて、カルメン・マキやジャニス・ジョプリン、それと隠れた名シンガーであるとナオコが思っている所の、アニメ「さすらいの太陽」の主役の女性歌手の声を担当していた藤山ジュンコ女史なんかを彷彿とさせた。
 八十二年に出したセカンドアルバムはデビューアルバムとはかなり違ってバラードやフォークソング風の曲が半分位収録された、ちょっとレイドバックしたしっとりとした感じのアルバムだった。洋子のボーカルは相変わらず素晴らしく、ポップミュージックのアルバムだと思って聴いたならなかなかの物だろうが、ロックアルバムとして聴いたならちょっとパワーが落ちたというか、やわになったという印象を受けた。ナオコはこのアルバムを高く評価しているが、大多数のファンはこのアルバムに対して拒絶反応を示し、それがライブ動員の減少につながったようだ。
83年に出されたサードアルバムは新たに加入したベーシストとドラマー、キーボードプレイヤーの三人の内ドラマー以外の二人がソングライターとしてもの凄く貢献しており、結果としてバラエティーに富んだ素晴らしい楽曲が充満した捨て曲など一曲も無い凄い名盤となった。ナオコは全ての日本のロックバンドのアルバムの中でこれがナンバーワンのアルバムだと思うぐらいこのアルバムが気に入っている。とにかく曲がいい。バラードもあればロックの曲も名曲が目白押しだし、しっとりとしたフォーク調の曲が一曲絶妙な位置に収録されているし、最後の曲は十分弱の大作と言っていいような壮大な曲で、息を飲むような緊張感を持って聞き手を魅了する。
 八十四年以降一年に一作の割合でアルバムを出し、八六年の終わりに解散するまでに三枚のアルバムをリリースしているが、その四枚目から六枚目までのアルバムは全て名盤と言っていい出来で、ナオコはどのアルバムもそれぞれ違った意味で気に入っている。この三枚のアルバムはそれぞれ音楽性がかなり違っていて、ボーカルは同じ人だけど、それぞれ違うバンドなんじゃないのかと思うぐらい音楽が別物であった。特に五枚目と六枚目の違いが凄くて、五枚目はファンクとかソウルミュージックの要素が濃いロックという感じで、六枚目は正当派のハードロックであった。だからファンの中にはその音楽性の変化に戸惑った人も少なからずいたようで、賛否両論が巻き起こった。ナオコは幅広いタイプの音楽を聴くタイプの人間だったので、アルバムごとに音楽が別物であるというのに全く抵抗は無く、楽しんで聴いていた。こんな風に何でも出来るバンドというのは凄いと思った。
 「それでサードアルバムを作る前にメンバーチェンジがあって、曲が書けるメンバーが新たに二人増えて凄く強力なアルバムが出来ましたよね・・・。」
 「そうね、私と同じ歳のメンバーが三人入って、その内の二人がバンドに持って来た曲はほんとに素晴らしい曲で、三枚目のアルバムでは鈴木さんの曲は一曲も入っていなかったんだけど、それは鈴木さんの意向で、自分の曲を入れたらアルバムの雰囲気がかなり変わってしまう、二人の作る楽曲のレベルが凄すぎるから自分の曲は入れない方がいいと主張した為なの。」
 「私はとにかくこの三枚目が大好きで、日本のロックアルバムの中でナンバーワンのアルバムだと思っています。」
 「そうね、シルバーフレイムの最高傑作はこのアルバムだと私も思うわ。」
 「四枚目から六枚目まではそれぞれが全く違う音楽で構成されていて、ファンの間では賛否両論が巻き起こりましたけど、どうしてああいう風にしたんですか?」
 「あれに関しては鈴木さんと他のメンバー達が、アルバムごとに音楽性をがらっと変えていくのが面白いだろうと言って、実験的にやったっていう感じだったわね。私はジャンルにこだわらず歌を歌いたいという姿勢だから、楽しんでやっていたけど。」
 「鈴木さんと他のメンバー達の間でわだかまりがあったとさっきおっしゃってましたが、それっていつぐらいからそうなったんですか?」
 「それは三人が加入した当初からあまりいい雰囲気ではなかったように思うわね・・。鈴木さんは無口で気むずかしくて、時々何を考えているのかわからないっていうような時があったし、三人は三人で、それぞれが変わった人間で、基本的に無口であまり笑わないっていう感じだったし・・。脱退したメンバー達がいた頃はほんとに仲が良くて和気あいあいといった感じだったし、みんなよく笑っていて、バンドの雰囲気としては凄く良かったんだけど・・・。まあ簡単に言うと、音楽の為になら一緒にいるが、それ以外は一緒にいたくないっていう雰囲気があまりにも露骨で・・・・。ライブの時はみんな一つになって凄いものが出来るんだけど、ライブが終わったらお互い無口になって、ほんとにじゃあさよならの一言だけでお互い去っていくっていう感じで・・・・正直鈴木さんと他のメンバー達の間って、まるで仕事でやってるような感覚だったのかなぁとも思ったり、もしかしてお互いになんか嫌ってる部分というのがあったのかなぁとも思ったりするけど、私には分からない。」
 「洋子さんはメンバー達とはどうだったんですか?」
 「私はメンバー達全員に対して普通に打ち解けて接していたんだけどね・・・鈴木さんは私に対しては普通に接していたと思うけど、他のメンバーに対してはさっき言ったように気むずかしい面を露骨に見せている場面が結構あったように思う・・・他のメンバー達は鈴木さんに対して表面的には丁寧に接していたとは思うけど、なんかぎくしゃくした空気があって、一緒に音楽はやっていきたいが、音楽が終わったら出来るだけ早く別れたいっていうような感じって言ったらいいのかなぁ、まあそんな雰囲気が露骨にあって、ほんとにどうしてこうなんだろうと思ったわ・・・。」 
 「そういうのってちょっとやりにくいなぁと私も思いますけど、結局バンドって音楽をやる為に人が集まって、その集まった人たちが人間的に合うか合わないかというのは暫く一緒にやってみないと分からないし、場合によっては様々な年齢の人が様々な性格や個性を持った人と一緒にやるって事になるし、そういう場合にうまく行くときもあれば行かない事もあるっていう事ですよね。」
 「正にその通りだと思うわ。今から考えると新しいメンバーが入ってよく三年も持ったなあとも思うし・・。結局の所、人間的には合わないが音楽的にはもの凄く合ったからお互い無理矢理自分を納得させて一緒に仕事をすることを選んだという事なのかもしれないわね。」 
 ナオコは今まで謎であったバンドの内情というものを当事者から直接聞く事が出来て非常に興味深いと思った。そう言えば、一番核心である所の洋子脱退の件に関しては話がまだ途中だったのでナオコはストレートに訊いてみた。「すいません、ちょっと話をまた元に戻してなんですが、洋子さんが辞めた理由というのは一体どういう事があったんでしょう?」
 「・・・さっきも言ったように何もかも限界だと思ったの・・とにかく精神的に疲れていたわ・・・そんな時に父が突然亡くなったの・・・・二週間程前に体調を崩して入院してたんだけど、突然体が急変して多臓器不全になってあっけなく死んでしまったの・・・突然死んでしまうなんて思いもしなかった・・・その時私はライブの為に京都にいて、その日はオフだったので昼間一人で京都をぶらついていたんだけど、夕方になってホテルに戻ったら、部屋の電話が鳴って、母が泣きながら父が亡くなったって言って・・・ほんとに私は言葉を失って、ただただ泣くだけだった・・・・・・。」
 「・・・・・・・・・・・・・」
 「・・・・それが最後だった・・・葬儀を済ませてから鈴木さんに電話を入れて一言辞めますって言って・・それだけだった・・鈴木さんは「・・・そうか・・・」と言って、「ありがとう、今までほんとにありがとう、さみしくなるよ・・・・」というので終わりになったわ。」
 島崎洋子が辞めた時音楽雑誌には個人的事情で脱退したとだけしか載っておらず、その一ヶ月後にシルバーフレイム解散という記事が掲載されたが、その理由やいきさつ等は全く載っておらず、バンドは話し合いの末解散するという結論に至ったとだけ書いてあった。

 それから二人はそれぞれの個人的な事に関して色々話をしたが、島崎洋子はバンドを辞めた後、新しい生き方を求め八十七年の八月下旬に語学留学という名目でサンフランシスコに渡り、二年が過ぎた頃に知り合った十二歳年上のアメリカ人と半年程の交際の後に結婚した。一九九〇年の三月の事であった。結婚して一年ちょっと過ぎた頃である九一年四月十日、二人の間に女の子が生まれた。ナオミと名付けられたその女の子はほんとに可愛く、とても綺麗な顔立ちをしていた。暫くは幸せな日々が続いたが、不幸な事にある日突然彼女の夫が交通事故に遭い、彼女は未亡人となってしまった。一九九二年の九月の事である。小さな子供を抱えて夫に先立たれた彼女は父が亡くなった時と同じように、いやそれよりももっと深い悲しみの闇に突き落とされた。夫が加入していた車両保険と加害者が加入していた保険の両方の保険金をもらう事は出来たが、夫の生涯収入に当たる程の保険金を貰うことは出来なかった。事故の時の目撃証言や警察の状況検分により相手の責任が重いのは事実だが、夫の側にも三割位は責任があるとの見解が出され、二つの保険を併せて家一軒位は買えるぐらいと言った程度の保険金を得るに留まった。だがこれからの人生はまだ長く続き、厳しい資本主義社会であるアメリカで暮らして行くという事を考えるとこの金額は決して多いとは言えなかった。夫の両親は既に亡くなっており、一人っ子で兄弟がいなかったので、頼れる身内と言えば日本の母と弟だけだった。
 彼女は母と弟に電話して色々話をした。二人とも洋子に東京に帰って来る様言ったが、彼女はよく考えた末アメリカに残ることにした。ロックの本場であるアメリカは彼女にとって刺激的で魅力に溢れた国であったし、夫を亡くした悲しみを癒してくれるのはやはりロックミュージックしかなかった。  
 色々調べて検討した結果彼女はラスベガスに移る事に決めた。ロックを含めたあらゆるエンターテインメントの宝庫であり、二十四時間眠らない華やかで刺激的な街に行ってみたいと思いながらもまだ行った事がなかったし、取りあえず仕事をしなければならないっていうことを考えると、カジノスクールに行ってデイーラーになる為の勉強をしてディーラーの仕事に就くのが一番いいと思ったのだ。
 かくして一九九三年の三月下旬、ヨーコ・ハミルトン────これは結婚後の洋子の名前なのだが───はラスベガスに移住し、カジノスクールで六週間程訓練を受けた後就職活動を経て一九九三年六月一日よりラスベガス・ストリップエリアにあるMカジノに勤務する事となった。
 「────という事はディーラーの仕事を始めてまだ三ヶ月ちょっとということなんですね。」
 「ええ、まあ夜勤とかも多くて結構きつい時もあるけど、楽しく仕事をやらせてもらってるわ。このMカジノはね、お客さんからもらうチップがなかなか良くてね、ほんとにいい収入になってる。」
 「アメリカに来てからバンドをやろうとは思わなかったんですか?」
 「そりゃ思ったわよ。でも、来たばかりの頃は英語もそんなに言うほど話せなかったし、発音にしたって日本人のなまりがある発音だったら相手にしてくれないから、初めの二年はどうしようもなかったわね。今だったらまあまあのレベルの発音が出来るけど、最初の頃はダメだった。」
 「今は小さいお子さんがいるから、バンドをやるのは難しいですよね・・。」
 「そうね、難しいわ。まあ子供が大きくなったらまたちょっとやるかもしれないけど。」 ナオコは前に座っている綺麗な顔立ちをした女性を見てほんとに素敵な女性だなと思った。かつてかなりの回数前の方に陣取ってライブを見たが、彼女のファンというのは男性はもちろん、女性のファンというのも凄く多かった。もしかしたら女性のファンの方が多かったかもしれない。とにかくかっこ良くて素敵で歌がうまくて輝いていた───── 。
 「・・・何を考えているの?」
 「・・・あ、いえただ洋子さんて素敵だなって思って・・・。」
 「えっ、何それ?私みたいなおばちゃんにそんな事言うなんて。」
 「全然おばちゃんなんかじゃないです。相変わらず綺麗で素敵でかっこ良くて・・・。」  
   「ナオコさんも可愛くて素敵よ。私なんかよりずっと若々しいし・・。」
 「私若く見えるかもしれませんが、そんなに若くありません。もう三十だし・・。」
   「いやいや若いわよ。まだまだこれからよ。そのうちいい彼氏が出来るわ。」
 ヨーコ・ハミルトンは美しい顔立ちをしているが、言われてみればちょっと老けている様な雰囲気がある。だけど今でも相変わらず綺麗で素敵なかっこいいロッククイーンだとナオコは思った。今日こんな風に会えてしかもかなり深い話が出来た事に対してナオコはほんとに感無量だった。
 「・・・あ、もうこんな時間?そろそろ帰らなきゃいけないわ・・。」ヨーコ・ハミルトンが腕時計を見ながら言った。「ナオコさん、もし会社の名刺があったら一枚くれる?」
 「あっ、ちょっと待って下さい。」と言ってナオコはバッグから名刺を取り出して、名刺の裏に家の電話番号を書き足して洋子に渡した。「今日はほんとに私なんかの為に時間を割いて下さってありがとう御座いました。ほんとに感謝してます。」
 「そんな風にかしこまらなくていいわよ。久しぶりに日本の人と長く話せて私も楽しかったし。」
 「ほんとに今日は感激しました。今日の事は永久に忘れないと思います。」
 「なんかオーバーな言い方ね。そんな特別な事でもないでしょうに。」
 「いえ、私にとってはほんとに特別な事です。」と感極まった様な表情でナオコは言った。「すいませんけど、洋子さんのお家の電話番号教えて頂けないでしょうか?」
 「あ、そうね。ちょっと待ってね。」洋子は小さなレシートが財布にあったので、その裏に電話番号を書いてナオコに渡した。「今度は私のお家の方に遊びに来てね。」
 「ありがとうございます。 ぜひとも行かせて頂きます。」
 また時間のある時に電話してねと言って、洋子は帰って行った。ナオコはその後ろ姿を見つめながら感無量の表情で立っていた───── 。


 田村伸介様

 前略。お返事ありがとうございます。文通の方OKして頂き、ほんとにうれしいです。
 改めて自己紹介させて頂きます。私は現在中学二年の、とにかく本を読むことが好きな女子で、アニメを見る事や音楽を聴く事も大好きです。好きな科目は英語で、これはどうしてかと言うと、中学に入ったばかりの頃に学校がラジオの英語講座を推奨していて、初めは何とはなしに聞いていたという感じだったんですが、しばらく聞いているうちに面白くなり、毎日習慣的に聞いて練習するようになったという事からです。今では聞いて練習するのが面白くて、この四月からはラジオのフランス語講座も併せて聞くようになりました。フランス語の方は英語と比べてかなり複雑で難しいですが、今はとにかく慣れる事が大事だと思って練習しています。
 田村さんはかなりロックミュージックが好きなようですが、私は最近友人の影響で、ビートルズを聴き始めました。その友人というのはビートルズの熱狂的なファンで、その友人がビートルズのベスト盤のレコードを二枚貸してくれたので(初期のベストと後期のベスト)、テープに録音して毎日のように聴いています。ほんとに魅力的でいい曲ばかりで、私も大ファンになりました。田村さんはハードロックの方も好きなようですが、私は正直あまりピンと来ません。ラジオでレッドツェッペリンの曲を何曲かかけてたんですがピンと来ませんでした。音楽というのは人それぞれ好みが違うものだと思うので、これは仕方がないことだと思います。
もう一人学校でよく喋っている友人がいるんですが、彼女はベイシティ・ローラーズの大ファンで、私が頼んでもいないのに布教の為だと言ってローラーズの曲をテープに吹き込んでプレゼントしてくれました。聴いた感想としては、ポップで親しみやすいメロディを持った曲が多く、なかなかいいと思います。ビートルズの初期の曲が持っているようなポップな感じといったらいいのか、悪くはないなとは思いました(特に”サタディナイト”とか”ロックンロールラブレター”とかの曲が)。だけどビートルズを聞いた時ほどのインパクトは感じなかったというか、いいことはいいけど神がかった様なすごさはないというか・・・普通のなかなかいいポップソングだとは思うけど、それ以上のものを私は感じませんでした・・・まあ音楽というものは人それぞれ好みが違うだろうし、同じ曲でもある人は傑作だと言い、別の人は大した事がないと言う可能性もあるわけで・・・結局は好みの問題なのかもしれないし、人それぞれ感性が違うんだから音楽の嗜好というものも違ってくるわけで、結構これは難しい問題ですね・・・。

 田村さんはドラムをやってるんですね。私は小学生の頃にピアノを三年ほど習っていたので、簡単なピアノ曲なら今でも弾けるとは思いますが、バンドをやりたいとかそういう事はあまり考えたことはありません。だけどやってみたら結構面白いかもとは思います。
 手紙の最後に書かれていた田村さんの「残響────波の響き」という詩────これはほんとに私の心に” 響  き ” ました。私の家は茅ケ崎の海岸に近い所にあるので、今までに何回も海を見ているし、波の音も聞いていますが、夕陽に照らされた海で波の響きを聞きながらこの詩を読むとほんとに心にくると思います。この詩は何かを暗示してるんでしょうが、ほんとに神秘的な魅力を持った詩だと思います。
    
                         
 ────── すいません、ちょっと眠たくなってきたんで今日はこの辺で終わりという事にします。(なんか変な終わり方ですいません) 
  Good luck and お元気で!                  

                              一九七七年十一月二十七日
                                       山口ナオコ
                   

 山口ナオコ様
 
 前略。返事が遅くなってすいません。僕の方はかなり忙しくしていて、バンドのリハーサルの方、あれから結局二回ほどやりました。正直かなりひどい出来で、ちょっと落ち込んでます。特に一回目は曲をやるたびに誰かが間違えるっていう感じで、ほんとに話になりませんでした。だけどなかなか面白くて楽しんでやれたし、最後の方では間違うたびにみんなで笑いながらやっていました。まあ音楽というのは楽しんでやれればいいんだし、気にしなくてもいいとは思いますが、二回目の練習の時もかなりひどかったので、さすがにこれはちょっとまずいんじゃないかってちょっと落ち込んでいます。僕自身もかなり足を引っ張ってるんじゃないかと思ってまして、ドラムの兄貴も僕の演奏に関してリズムキープが出来ていない、リズムが早くなったり遅くなったりして一定してないのは良くないと言って、メトロノームを使って当分はリズムキープの練習をするように言われました。そういう事があって僕は今毎日兄貴に言われたようにひたすらリズムキープの練習をしています。次のリハーサルの時は何としてもうまくいくようにしないといけないですから。                                    

 話は変わって、山口さんは最近ビートルズを聞き始めてかなり気に入っているとの事なのでビートルズの話をします。僕がビートルズを聞き始めたのは高校に入ったばかりの頃にFMラジオでビートルズの特集があって、それを録音して聞いたのが初めです。とにかく個性的で他にはないメロディアスなサウンドに魅惑され夢中になった僕はまず初期のべストと後期のベストの二枚のレコードを買いに行き、毎日夢中になって聴きました。それから今に至るまでに何枚かレコードを買ったり、FMの特集なんかの時に録音したりして、今ではビートルズの曲はほとんど全部知っているという感じになりました。最近はハードロックを聴くことの方が多いですが、今でもビートルズのことを神だと思っています。
 ビートルズの数あるアルバムの中で、どのアルバムが最高傑作かという事に関しては色んな意見があるとは思いますが、僕にとってのベストは何といっても一九六九年に出された”アビーロード”です。このアルバムはほんとにすごいアルバムです! ミッシェル・ポルナレフがかつて”サージェントペパーズ・ロンリーハーツクラブバンド”(一九六七年に出たアルバム)が出された時このアルバムに関し、「”サージェント・ペパー”はポピュラーミュージックにおける最高傑作でほんとにすごいアルバムだ、誰も”サージェント・ペパー”を越えられない。」というような発言をしたそうですが、僕の意見としては、”サージェント・ペパー”ももちろんすごくいいアルバムだけど、この”アビーロード”こそが彼らの最高傑作で、誰もこの”アビーロード”を越えられないと思います!(ポルナレフ氏がもしビートルズ解散以降に発言したならどう言うでしょうか?それに関しては何とも言えませんが、確かに”アビーロード”がまだ出ていない一九六七年当時の話ならこの発言もすごく妥当と言えるかもしれません)このアルバムはほんとにポップスの名曲、ロックの名曲が目白押しで、こんなにすごい曲が一つのアルバムに詰まっているのは奇跡に近い事だし、多くの人が彼らを神のように思っているのも同感できます。山口さんはこのアルバムはもう聴かれたでしょうか?まだならぜひとも聴いてほしいアルバムで、ゆっくりとじっくり鑑賞してほしいアルバムです。聴けば聴くほどそのすごさが実感できると思います。

 今日はこれぐらいという事にして、最後に一週間ぐらい前に書いた詩を下に記しておきます────


      風と鳥と湖と

 湖のほとりに僕はいた
   ふと見上げると
   一羽の鳥が上空を翔て行った

 風が吹いている
   僕の心も鳥と一緒に空を翔抜けて行く
   風と鳥と湖と僕の心が一体となって風景を作っていく

   この悲しみがいつまで続くのか
   僕にはわからないけど
   旅は果てしなく続く
   この広い空の下
   僕の知らないどこかの街角に
   あの人はいるのだろう
   もう会うこともないだろうけど
   もしも会えたなら
   僕はただ許しを乞いたい
   時は過ぎ去り季節は巡って
   もの思いにふける僕は取り残される



                      一九七八年一月二十九日
                               田村伸介



 ─────────ヨーコ・ハミルトンと話をして帰宅したナオコは夕食を取った後ふと思い出して本棚から一冊のノートと田村伸介から来た手紙を取り出し読んでいたのだった。ノートの方にはナオコが田村に出した手紙の内容が書き記されていて、それはナオコが手紙を書くたびに同じ内容をノートに写し取っていたからだった。一番最後に書いた手紙を除いてナオコが田村に送った手紙の内容が全て写し取られている。田村から来た二通めの手紙を読んだ後にナオコは家でやろうと持ち帰った仕事にまだ手を付けていない事を思い出した。明日までに絶対やっておかなければならない仕事で、ナオコはすっかりその事を忘れていた。ノートと手紙を本棚に戻すとナオコはすぐに仕事に取り掛かった。三時間ぐらいは間違いなく掛かる仕事で、今時計は九時二十分を指しているからどっちにしても十二時を軽く超えてしまう。まいったなあと思いながらナオコはワープロをひたすら打った。眠らない街に住んでいるナオコだが、今はかなり眠たく、ほんとにまいったなあと思った。     
                                                         


                                                                                                ( つづく )
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