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第四章
三話 大きな餌 その一
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隠し通路か、暗闇の中だが、張弦にはその男が自分と同じぐらい、いやそれ以上に背の高いがっしりとした男だとわかる。体格だけみれば張弦と同じ兵か護衛のように感じるが、その印象とは裏腹に、絹ずれの音から高級な衣服を着ているのもわかった。
「お前は一体……」
暗闇の中で男がニヤリと笑ったように見えた。
「ついて来い」
そう言うと、男は真っ暗な中、隠し通路の奥へと歩き出す。張弦は黙ってついていくしかなかった。
*
男が通路の最奥の扉を開けた途端、突然、目の前が明るくなった。その途端、何か温かいものが飛びつく。
「張殿!」
まるで犬のように飛びついてきたのは、淑だった。そこはレンガでできた建物の一室のようだった。隠し扉で出入りできるようになっているらしい。部屋を観察する張弦に気がつかないのか、淑が張弦にさらにしがみつく。
「申し訳ありません、私が意地を張ったばかりに」
張弦はその顔をあげさせ、思わず微笑んだ。口がへの字に曲がり、今にもその薄茶色の目から涙がこぼそうだ。もう十六なのに、それだけ見ればまだ十にもならない子供のようだ。張弦はしゃがむとその背中を撫でる。
「大丈夫だ、俺も目を離して悪かった」
後ろから、先ほどの男の声がする。
「ずいぶんなつかれているな」
張弦は振り返った。やっとここまで連れてきた男の姿がわかる。見た目は三十代半ばかそれを過ぎたぐらいの商人風、それもかなり稼いでいるのか、足元まで隠れるような絹の服を着て、綺麗にあごひげを整えている。しかし、肩幅や胸の厚みもあり、明らかに鍛えた体だ。何より真っ直ぐな眉の下の猫のような丸い目が笑っているようで笑っていない。見た目通りの商人ではない。
ならば間者か……
その雇い主によっては、助けてもらったかどうかもわからない。素性のわからぬ相手に、つい張弦の口調が荒くなる。
「悪いか、俺の弟だ」
男が口の端だけ上げてにやりと笑う。
「そして、苑国の第三皇子でもある」
自分ばかりでなく淑の素性を言い当てられ、張弦はきっと睨んだ。
「お前こそ誰だ、あの場から助けてもらったのは嬉しいが、なぜ俺達のことがわかる?」
そこに突然、なまりのきつい苑国語が飛び込む。
「楊兄ダメネ、その顔信用できない顔ネ」
空色の目をした薬屋の男だ。もう頭巾は被っておらず、茶色の巻き毛が見える。結うのも面倒なのか後ろに縛っていた。色白な肌の色、髪や眼の色から考えれば西方よりさらに西の出身だろう。眼の色や巻き毛のせいで若く見えるが、張弦と同じぐらいの年頃か少し上かもしれない。
それに対し、男がへらりと笑う。
「そうか、もう少し気をつけないとな」
しかし、張弦にはその笑い方がまた気に入らない。張弦と楊という男の間にある緊張を感じたのか、あわてて淑が楊の顔を見る。楊という男が言ってもよいとばかりにうなずいた。
「楊殿は、山人の古くからのご友人で、交易をされている方にございます」
「だからなんだ、なぜここまで来て、俺達を助ける必要がある?」
張弦は思わず声を荒げた。この体つき、自分たちの素性を知るだけの力……
交易だけが仕事ではないだろう
そのことに淑が気づかぬはずはない。張弦はここまで来て淑に隠し事をされていることが気にいらないのだ。楊はふっと笑うと、空色の目の男に言った。
「路都、淑を湯浴みに連れていってやれ」
張弦が皇子である淑の諱を呼ぶ楊に驚く。淑が心配そうにふたりを見つめる。路都と呼ばれた男は慰めるように淑の背をなでながら、部屋から連れ出す。
「困ったネ、仲良くして欲しいネ」
そんな声が聞こえた。
張弦はふたりが部屋の反対側から出て行くのを見ると、楊と呼ばれる男に向き直った。
「別に助けてもらっていながら喧嘩を売りたいわけではない、ただ本当のことが知りたいだけだ」
男がまたふふっと笑った。しかし、その顔が急に締まった。
「いや護衛ならそれぐらい人を信じないぐらいの方がいい」
男のあの大きな猫のような目がじっと張弦を見つめる。
「俺は間者だ、いや今は山人のためにしか働かない間者の元締めというべきか」
「それは誰が証してくれる?なぜ皇子の諱を呼ぶ?」
張弦が食い下がる。楊が静かにつぶやく。
「諱を呼ぶのは私も山人と同じく東方の乱で皇子らとともにいた、教えもしたからだ」
張弦は驚いて、男の顔を見つめた。
「つまり、山人と同じ……?」
男が謙遜するように手を振る。
「師というほどでもない、俺は間者だからな、ただ山人に頼まれれば淑の兄ふたりに武芸ぐらいは教えた。その頃の癖で諱を呼んでしまう」
ふと男が顔をあげた。そして、信じられないことを告げた。
「お前のことは景に聞いている、宮廷衛兵一腕の立つ何より信用できる男だと」
「だから俺がお前を行列に紛れ込ませた」
「お前は一体……」
暗闇の中で男がニヤリと笑ったように見えた。
「ついて来い」
そう言うと、男は真っ暗な中、隠し通路の奥へと歩き出す。張弦は黙ってついていくしかなかった。
*
男が通路の最奥の扉を開けた途端、突然、目の前が明るくなった。その途端、何か温かいものが飛びつく。
「張殿!」
まるで犬のように飛びついてきたのは、淑だった。そこはレンガでできた建物の一室のようだった。隠し扉で出入りできるようになっているらしい。部屋を観察する張弦に気がつかないのか、淑が張弦にさらにしがみつく。
「申し訳ありません、私が意地を張ったばかりに」
張弦はその顔をあげさせ、思わず微笑んだ。口がへの字に曲がり、今にもその薄茶色の目から涙がこぼそうだ。もう十六なのに、それだけ見ればまだ十にもならない子供のようだ。張弦はしゃがむとその背中を撫でる。
「大丈夫だ、俺も目を離して悪かった」
後ろから、先ほどの男の声がする。
「ずいぶんなつかれているな」
張弦は振り返った。やっとここまで連れてきた男の姿がわかる。見た目は三十代半ばかそれを過ぎたぐらいの商人風、それもかなり稼いでいるのか、足元まで隠れるような絹の服を着て、綺麗にあごひげを整えている。しかし、肩幅や胸の厚みもあり、明らかに鍛えた体だ。何より真っ直ぐな眉の下の猫のような丸い目が笑っているようで笑っていない。見た目通りの商人ではない。
ならば間者か……
その雇い主によっては、助けてもらったかどうかもわからない。素性のわからぬ相手に、つい張弦の口調が荒くなる。
「悪いか、俺の弟だ」
男が口の端だけ上げてにやりと笑う。
「そして、苑国の第三皇子でもある」
自分ばかりでなく淑の素性を言い当てられ、張弦はきっと睨んだ。
「お前こそ誰だ、あの場から助けてもらったのは嬉しいが、なぜ俺達のことがわかる?」
そこに突然、なまりのきつい苑国語が飛び込む。
「楊兄ダメネ、その顔信用できない顔ネ」
空色の目をした薬屋の男だ。もう頭巾は被っておらず、茶色の巻き毛が見える。結うのも面倒なのか後ろに縛っていた。色白な肌の色、髪や眼の色から考えれば西方よりさらに西の出身だろう。眼の色や巻き毛のせいで若く見えるが、張弦と同じぐらいの年頃か少し上かもしれない。
それに対し、男がへらりと笑う。
「そうか、もう少し気をつけないとな」
しかし、張弦にはその笑い方がまた気に入らない。張弦と楊という男の間にある緊張を感じたのか、あわてて淑が楊の顔を見る。楊という男が言ってもよいとばかりにうなずいた。
「楊殿は、山人の古くからのご友人で、交易をされている方にございます」
「だからなんだ、なぜここまで来て、俺達を助ける必要がある?」
張弦は思わず声を荒げた。この体つき、自分たちの素性を知るだけの力……
交易だけが仕事ではないだろう
そのことに淑が気づかぬはずはない。張弦はここまで来て淑に隠し事をされていることが気にいらないのだ。楊はふっと笑うと、空色の目の男に言った。
「路都、淑を湯浴みに連れていってやれ」
張弦が皇子である淑の諱を呼ぶ楊に驚く。淑が心配そうにふたりを見つめる。路都と呼ばれた男は慰めるように淑の背をなでながら、部屋から連れ出す。
「困ったネ、仲良くして欲しいネ」
そんな声が聞こえた。
張弦はふたりが部屋の反対側から出て行くのを見ると、楊と呼ばれる男に向き直った。
「別に助けてもらっていながら喧嘩を売りたいわけではない、ただ本当のことが知りたいだけだ」
男がまたふふっと笑った。しかし、その顔が急に締まった。
「いや護衛ならそれぐらい人を信じないぐらいの方がいい」
男のあの大きな猫のような目がじっと張弦を見つめる。
「俺は間者だ、いや今は山人のためにしか働かない間者の元締めというべきか」
「それは誰が証してくれる?なぜ皇子の諱を呼ぶ?」
張弦が食い下がる。楊が静かにつぶやく。
「諱を呼ぶのは私も山人と同じく東方の乱で皇子らとともにいた、教えもしたからだ」
張弦は驚いて、男の顔を見つめた。
「つまり、山人と同じ……?」
男が謙遜するように手を振る。
「師というほどでもない、俺は間者だからな、ただ山人に頼まれれば淑の兄ふたりに武芸ぐらいは教えた。その頃の癖で諱を呼んでしまう」
ふと男が顔をあげた。そして、信じられないことを告げた。
「お前のことは景に聞いている、宮廷衛兵一腕の立つ何より信用できる男だと」
「だから俺がお前を行列に紛れ込ませた」
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