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発掘された絵

第三話

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 広い吹き抜けの中に無数の、巨大なガラス瓶が整然と並んでいた。すべての瓶には青みがかった液体が満たされており、中には生まれた姿で眠る人々が浮かんでいる。その中に見知った顔────アマリーの姿を見つけて、ルーチェは息を呑んだ。
「月の女神の信者は持てる技術を結集して、町ごと別の世界────お姉さんがいた世界と隣り合わせの空間に一時的に避難したの。悪魔が去るその日まで」
 語りながら部屋の中央にある巨大な魔導具らしきものにネサは歩み寄る。無数のパネルには複雑な波形や古代文字が並び、いくつかのランプが定期的に明滅する。ルーチェが見ても、それがどういう装置なのかは、まったくわからなかった。
 ただひとつ、わかったことといえば。
「ここが……別の世界に逃げた町、なの?」
「うん、そう。そして……夢の世界でもあるの」
 ネサが装置の一角に目を向ける。小さなガラスの球がいくつか赤く明滅している。この装置は理解できなくとも、ルーチェにはそれが警告のための点滅だということはわかった。
「しばらく、何事もなくみんなは生活していたの。だけど、やはり別の世界なんだね。一人、また一人と体調を崩す人がでてきて、その原因がこの別の世界そのものだって判明したの。違う世界のことわりに、肉体が侵蝕されたせいだったの」
「……世界の理……」
 呟いて、ルーチェはある可能性に思い至った。あのゴブリンに攻撃が効かなかったのは、違う世界の存在を攻撃していたからではないか、と。そして背筋に冷たいものを感じた。

(このままでは自分もいつか、この世界に侵蝕されて死ぬ)

 永劫の時を生きるエルフの中には死や滅びに憧れ、求める者も少なくはない。だが、ルーチェはまだ死にたいとは思わなかった。

(壺を取り戻す仕事は、まだ終わってないしさ)

「そこで、人々は相談のうえ、全員で眠りについたの。肉体の代謝を限界まで落とし、世界の侵蝕を抑えながら、元の世界に帰れるその日まで」
「……あなたは?」
「私は管理者。この装置を管理し、結界を維持し、きたる日までみんなを守るために生み出された存在。この世界に来てから創られたから、世界の侵蝕は受けないの」
「じゃ、町の人たちは……」
「町の人たちは……よくできた幻だよ。独りは寂しかったから、ね」
 ネサの言葉に、ルーチェの胸は痛んだ。
 エルフもある意味、孤独ではある。人間たちは自分よりはるかに早く死に、同じ時を歩める者がいない。出会いは多くとも、思い出を共有できる者が隣にいない。
 ネサの孤独はそれ以上だろう。神話の時代から一人きり。作られた幻の中での生活は思い出とは呼べない。その寂しさはいかほどのものか。
 沈黙したルーチェに、ネサは儚げに微笑みかけた。そして爆弾を投じてきた。
「ねえ、お姉さん。外の世界の技術はどれくらい? この装置を直せる人はいる?」
「えっ……」
 その問いかけの意味を、ルーチェはすぐに理解した。
「壊れ……てるの?」
「うん。みんなが眠ってからトラブルがあってね。直そうにも資材が足りない。このままじゃみんなは……目覚められないの。結界にも綻びができるようになってきて、毎日修復するので手一杯。多分、あの変な生き物もお姉さんも、結界の綻びからここに入り込んだんだよ」
 つとめて淡々と。ネサは言葉を紡ぐ。だが、明滅する赤い光に照らされる横顔は今にも泣きそうだとルーチェは思った。
 しかし、意味のない気休めなど言うべきではない。倣うように淡々と、ルーチェは答えた。
「この装置を直せるような技術は……ないわ」
「……そっか」
 最初から答えがわかっていたようにアッサリと、ネサは頷いた。
「お姉さんは、そろそろ帰ったほうがいいよ。いつまでもここにいたら世界の理に侵蝕されちゃう。結界を調整するから、そこから抜け出して。……でも、最後にひとつだけ、お願いしてもいいかな」


 塔から町に戻った二人は町はずれで向き合った。ネサは塔から持ってきた薄いガラス板のような物をルーチェに手渡す。
「町をバックにした私を、このガラスの中に入れるようにして……この端っこのボタンを押してほしいの」
 ルーチェにはただのガラス板にしか見えないが、なにかしらの道具であるようだ。
 なんの道具なのかは考えないようにして、ルーチェは言われるままにネサから少し離れ、ガラス板越しにネサと町を見る。二人の視線が交差した時、ネサはニコリと微笑んだ。反射的にルーチェは、言われたとおりにガラス板側面のボタンを押した。
 変化は劇的だった。透明だったガラス板に、まるで写生したように町とネサの姿が浮かび上がり、じわじわと色までつきはじめたのだ。驚きで動けないルーチェの手の中で、ガラス板は一枚の絵画のように姿を変えた。
「ありがとう、お姉さん」
 ルーチェから絵を受け取ったネサは満面の、しかし寂しそうな笑顔を見せた。
「思い出が、できたよ」
 ああ、そうか、と。ルーチェは理解した。ネサには思い出と呼べるようなものが無かったのだ。そしてこの先もずっと、思い出など無い繰り返しの日々が続くはずだったのだ。
 自分が最初の思い出を作る手伝いができたのならば、こんなに嬉しいことはなかった。
「変な言い方だけど……元気でね」
「お姉ちゃんもね」
 軽く手を振り、壺の収まった木箱を背負うと、振り返ることなくルーチェはネサが指示した方角へと歩き出した。一定時間だけ、ネサが結界をゆるめてくれた方角へと。
 どれほど歩いただろうか。あの独特な、水の中を歩くような抵抗を感じた。
 抵抗がなくなると目の前の景色が一変していた。森は消え失せて草原がひろがる。遠くには街道が見えた。
 帰ってきた。
 安堵の息を吐いたルーチェは一瞬だけ立ち止まり、しかし振り返らずに街道を目指して歩き出した。
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