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血と肉と

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 逆稲妻形の角を伝った血が風に飛び、かき乱された雪の上に落ちる。引き裂くような吹雪がすべてを灰色に煙らせ、そそり立つ針葉樹と落葉した低木の群れを侵した森で、焼き切れそうな息を吐く雌オオカミは、角の先を赤く汚して自分と対峙する雄シカをかすんだ双眸で呪った。雌オオカミの右脇腹には深い傷があり、そこからあふれる血が灰色の毛をどす黒く染めるほど苦しげな呼吸が絶え絶えになり、目から生気が失せてまぶたがだんだんと下がっていく。そしてついに四肢がガクッと折れ、雪上に横倒しになった雌オオカミは、そのまま動かなくなった。
 それが、その雌オオカミの最期だった。




 乱暴に吹き付ける雪の中、雄シカは角を傾いた足元の雪に突っ込み、こすりつけて頭を上げると黒い鼻をひくつかせた。鼻腔を血臭がえぐり、流れ込んだ胸の奥を蝕む。寒さで凍りかけた顔にひどくしわを寄せ、胃袋から込み上げる苦みを喉でせき止めた雄シカは、灰褐色の角にこびりついた不快な臭いに舌打ちした。
 シグル――
 それが、この若い雄シカの名前だった。
 体高150センチ、体重250キロ以上――まだ成熟して間も無いが、赤褐色の剛毛に覆われ、硬く鍛え上げられた体躯は群れの中で一番大きく、それでいて駆け出せばしなやかに躍り、暴風のごとき突進を披露する。そして、頭から荒々しく伸びて枝分かれした一対の角は、空に挑むように反り返る。シグルはその角をもう一度念入りにこすりつけてから頭を振り、染み付いた臭いに顔をしかめると、また催す吐き気をこらえて薄暗さを増す山をのぼって行った。
 骨だけになった低木を、刺々しい針葉樹を蹂躙し、恐ろしいほど辺りを覆って積もった雪は、踏み出すたびにシグルの太い足を取り、今にもずぶずぶと引きずり込むのではないかとさえ思わせる。かつては陽光に輝く緑の舞台でうららかに歌っていた鳥たちも、快活に駆け回っていた野ウサギやヤマリスたちもすっかり姿を消し、殺伐とした山では吹雪がただ不気味なうなりを上げるばかりである。
(……これで殺したオオカミは、2匹……)
 脳裏に死闘を繰り広げた天敵の影が浮かび上がると、風雪で白っぽくなり、汗ごと凍り付いた体を怖気がぞっと刺し貫く。シグルは山の奥、頂の方から絶えず吹き下りてくる雪に目を細め、鼻を利かせて風を嗅いだ。
 オオカミの臭い――
 時折、山奥から現れて麓に暮らすシカを襲って食う獣――
(……あそこ……!)
 無秩序に伸びた木々の向こう――拒絶の意をあらわにした急勾配に半ば雪に埋もれた横穴があった。数十歩隔てたその穴から漏れ出てくる、自分が殺した2匹が混じった臭い……
(……子ども……1匹、か……?)
 両目に赤く荒んだ炎がともる。少し山に入った辺りで北――頂の方角から吹く風にオオカミの臭いが微かに混じっていると耳にし、危うんで引き止めようとする仲間たちを振り切って単身山に踏み入り、見つけた雄オオカミ――血肉を燃え上がらせ、心臓を狂的に乱打させながら繰り広げた死闘の末に角で突き殺し、オオカミ殺しの興奮に憑かれたまま更に奥へと進んで雌を発見した時点で、近くに子がいる可能性は生じていた。
(……今のうちに、始末しなければ……!)
 がっしりとした首をそろそろ伸ばし、耳をそばだてて横穴の奥の闇を探り、吹きすさぶ雪に紛れて慎重に近付く。斜面の土を掘って作られた横穴の出入り口は、オオカミであれば楽に出入りできる程度のもので、自分の場合は前足を曲げ、体を低くしても角をこするかこすらないかのぎりぎりで途中まで頭を差し入れるのが精一杯そうであり、中にいる子どもを殺すにはおびき出すより他ないだろう――そう判断したシグルはわざと乱暴に雪を踏んで自らの存在を知らしめ、もし飛び出して来ても十分対応できる間を取って横穴をうかがった。すると穴の奥で鈍い動きがあり、そして――




「そうか……よくやったな」
 老シカは少し離れて前に立つシグルをしわがれ声でねぎらい、吹き付ける雪に顔のしわを深めた。風雪になぶられる針葉樹林の少し開けた場所で、くすんだ毛並みの老シカを要に十数頭の雄シカがシグルを囲み、オオカミ殺しを初めて成し遂げた英雄に尊敬のまなざしを送っている。さらにその周りでは、ささやきを交わし、ちらちらとシグルを見てほめそやす雌たちに好奇心いっぱいの子シカたちがどうしたのかとうるさくまとわりついていた。注目を集めるシグルは、冷たく乾いた汗の臭いがする巨体の陰で赤い染みができた右後ろ足を固くし、やや頭を下げて目を雪上に落としていた。
「……長老がおっしゃる通り、オオカミを、しかも続けて2匹殺すなんて、大したものさ」
 赤黒い毛並みをしたオージュという若い雄が、歯と赤い舌をのぞかせて冷ややかに、それでいて粘っこい熱がこもった声で主役を褒める。
「ホント、ホント、オージュさんの言う通り、すごいヤツだよぉ、シグルは~」
 オージュの隣で腰巾着のフルーがふざけた調子でうんうんうなずいたが、それは他の雄たちの称賛にたちまちかき消されてしまった。
「ごぉほん」
 老シカ――長老は、喉に痰を絡ませながら大きく咳払いをして場を静めると、あらためてシグルを見つめた。
「それでシグル、近くにオオカミの子どもはいなかったのだな?」
「……ええ」
 シグルは詰まり気味に答え、
「……念のために辺りを探してみましたが、見つかりませんでした……」
 と、目をきつく狭めて報告した。
「そうか……それならば一安心だが……」
 長老はシグルの様子にいくらか怪訝な表情をしたが、すぐに頭を巡らせて周りの雄たちを見た。
「先頃、境山の麓……ここから北に3日3晩歩き、4日目の朝に辿り着く場所に移動した同胞がオオカミの一群に襲われたことは皆も聞いておろう。どうやらこの冬、連中は北で活動しているとみて間違いないが、その一部が西に2日歩いた黒沼の近くにいるのを見かけたとも聞く。シグルが殺したつがいも群れから離れて動いていたのだろう」
 外周の雌たちが恐れと一時的な安堵をない交ぜにしてささやき合い、それがさざなみになって広がった。長老は再びう、うぅん、と咳払いをし、口をつぐんだ一同をじろりと見回した。
「シグルのお陰で近くにオオカミはいなくなったが、いつまた山を越えて現れるかもしれん。雄たちは、気を抜かずに戦いの訓練に励むのだ。いざというときは、お前たちが雌や子らを守らなければならないのだからな」
「長老」
「ん……何だ、オージュ」
 輪から一歩進み出たオージュは、長老の許しを得て発言した。
「訓練を続けるのは勿論ですが、我々の意識を変える必要があるかと思います」
「うん……?」
「今まで我々はオオカミを恐れ、身を守って逃げ延びる訓練を重ねてきました。そんな弱腰がいざ襲われたときの情けない戦いぶりにつながり、結果として被害を大きくしていたのではないでしょうか。ですが、今回の件でオオカミも不死身ではない、いたずらに恐れることはないと証明されたのです」
 一旦言葉を切ったオージュは自分が耳目を集めているのを確かめると、風雪のうなりと張り合って声を高めた。
「――ですから、今後はオオカミと積極的に戦い、殺すことを目標としていくべきです。どのみち襲われるなら、こちらから先に攻めればいいのです。1匹ずつ誘い出して集団で当たれば、我々だってオオカミを殺せるでしょう」
 訴えたオージュは、顔を伏せているシグルに目をぎらつかせた。その暗く燃えるまなざしに気付かず、シグルはどよめきのうねりの中にぽつんと立っていた。
「オージュさんの言う通りだよ、みんな!」
 フルーがへつらう。
「――シグルにできるのなら、僕らも力を合わせて殺せるはずだ。そうだろぉ?」
 その扇動に雌たちは震えたが、雄たちはシグルがオオカミを2匹殺した事実に高揚し、今まで恐れ、おびえていた反動もあって、ややヒステリックに勇ましい言葉を競った。そうした反応をしばらく観察していた長老は、やがて一声鳴いて騒ぎの手綱を締めると、一呼吸置いてから重々しく言った。
「……皆の気持ちはよく分かった。わしは今までオオカミの影におびえ、群れをいかに逃がすか腐心してきた……だが、仲間を守るためにはオージュのような考えが必要なのかもしれん……」
 歯切れ悪く言い終えた長老は盛りがとうに過ぎた足を雪に踏ん張らせ、あがくように背筋を伸ばしてオージュを厳かに見据えた。
「オージュ、お前の思い通りに進めてみろ。それを見ながら、わしも考えさせてもらう……」
「分かりました」
 オージュは表情を燃え上がらせてうなずき、歯をむき出してニタッと笑った。
「いつかきっと、オオカミどもを皆殺しにしてみせますよ、長老」


 散会後、シグルは興奮冷めやらぬ皆から独り離れ、夜陰に沈んだ樹林の間を吹雪かれながら、血で汚れた右後ろ足を少し引きずって機械的に歩いていた。
(……なぜ、俺は……)
「――シグル!」
 びくっとして振り返ったシグルは、細長い影が左右に2,3本そそり立った向こうからオージュとフルーがにらんでいるのを見て、目元にしわを刻んだ。
「――どうした、シグル?」オージュがいら立つ。「何をぼんやりしている?」
「……いや……別に……」
 うるさげに返すと、シグルは行きかけた格好で何か用かと尋ねた。
「ふん、長老の命令なんだがな……他の雄たちに戦い方を教えてやって欲しいんだよ。オオカミ殺しの英雄にご教授願いたいのさ」
「そーそー、オレたちもオオカミを殺せるようになりたいんだよぉ。お前みたいに、さぁ」
 刺々しさからにじむ妬みに顔を背け、シグルは口をきつく結んだ。そもそもこの2頭は、オオカミに挑むなんて愚行だと嘲笑して皆を同調させてきた。それゆえ、シグルは単身山に入る羽目になったのだ。それが今は持て囃される自分に対抗し、オオカミとの積極的な戦いを主張している……かみ締めた歯の裏にしびれるような苦みを覚え、シグルは早く立ち去りたい衝動に駆られた。
「シグル、何とか言ったら……」
 突っかかりかけたオージュの後ろで気配がし、暗がりから浮かび上がったすらりとした若い雌がオージュたち、そしてシグルを見ながらたおやかに雪を踏んで近付いて来た。
「……あなたたち、シグルはとても疲れているのだから、今夜くらいそっとしておいてあげたらどうなの?」
「マルテ……別に俺たちはシグルをいじめているわけじゃないんだぜ。オオカミを殺すために協力してくれって頼んでいるだけなんだ。俺だって親をオオカミに食われている。そのかたきを取りたいからな」
 幾分声を和らげるオージュから視線を外して脇を抜け、マルテはシグルをかばうように栗色の毛並みを間に入れた。それを見たオージュの目付きが毒々しくなり、マルテ越しにシグルを突き刺す。こみ上げる嫌悪と煩わしさに耐えかねたシグルは、
「……すまない、疲れているから……」
 と放り出すように断り、足早にその場を離れた。
「あ、シグル……」
 マルテの声を背ではじき、シグルは吹雪の林をどんどん歩いた。歩を進める度、右後ろ足がじんじんと痛む。血は止まってはいるが、そこに残っている小さな牙の痕は、鈍痛とともに否応無くいきさつを思い出させる――


 ――あのとき、巣穴からふらふら出てきたのは、見るからに弱って足取りもおぼつかない子オオカミだった。まだ生後数十日くらい――野ウサギより一回り大きく、薄灰色の柔らかな毛並みをした幼子は、どうやら病んだ熱に浮かされているらしくぼうっとしていたが、焦点が定まっていなかった目は横穴の縁から吹雪越しに影をとらえると、生きているシカを初めて見たように見開かれていった。
(……親が仕留めてきた『餌』しか、見たことがないか……!)
 調子を崩され、同時に激しくわき上がる怒りで毛を逆立てたシグルは、状況が理解できずに立ち尽くしている子オオカミをにらみつけた。
(……こいつの仲間にたくさんのシカたちが……俺の両親が食われたんだ……!)
 切れ上がった両目、弓につがえられた矢のように引き絞られていく巨躯――その凄絶さに射すくめられた子オオカミは不意に瞬き、雄シカの頭の角に鼻を向けてひくひくと動かした。
「……母ちゃん? 父ちゃん……?」
 木々にぶつかってはねのけられた風雪が、奇しくも運んだ血臭――何度も鼻をひくつかせ、子オオカミはなぜこの大きな雄シカの角から血臭混じりに両親の体臭がするのか、小さな頭で一生懸命考えている様子だった。そして、何か恐ろしいことが起きているらしいと悟って幼い牙をむき、四肢を健気に踏ん張らせて、おびえと敵意が入り混じった声を上ずらせた。
「母ちゃんと父ちゃんは……どこだ!」
 その問いにシグルは奇妙なためらいを覚えて口ごもったが、結んだ口の端を引きつらせてから冷淡に、
「……この角にこびりついている臭いは、俺が殺した2匹のものだ……」
 と告げ、角を突き出した。

「………………………………………………………………………………………………………………―――――           

 子オオカミは硬直し、表情も呼吸も、心臓の鼓動さえも凍りついたように見えた。やがて、耳にした言葉が小さな頭でゆっくりと溶け、血に混じって全身を巡るにつれて、あどけなさが無残に崩れてゆがんだ。
「  ――こ……  こ……    」
 むき出しの牙が、興奮の余りガチガチとかみ鳴らされ――激した叫びを発し、幼獣は横穴の縁から雄シカめがけて飛びかかった。
「――ッ!」
 雪しぶきを上げて横にかわしざま、シグルは角で薄灰色の影を殴りつけ、悲鳴を上げる子オオカミを雪上に落とした。
(くっ……!)
 シグルは密かに舌打ちした。成熟したオオカミはまさしく灰色の悪鬼、一瞬でも気を抜けば、肉を食い千切られ、鮮血を撒き散らして八つ裂きにされかねない恐ろしい相手だった。だから、シグルもしゃにむに戦えたのだ。しかし、倒れた体に吹雪かれる子オオカミは、それとは比較できないほどたわい無い。その余裕が雑念を――天敵とはいえ幼子、しかも病んで弱っているものを殺すのはむごくないかという考えを浮かばせ、とっさに手加減させてしまっていた。
(……何をやっている! こいつはオオカミなんだぞ……!)
 雪をひづめで踏みつけ、シグルは迷いを振り払って間合いを詰めた。その殺気、迫る巨大な影に子オオカミは雪で汚れた顔を上げ、うなって荒れる風雪によろめきながら立ち上がると、敵を潤んだ瞳でにらみつけた。
「……魔」
「……何?」
「――悪魔ッ! 地獄に落ちろッッ!」
 烈風に乗って飛んで来た叫びに、シグルは思わず耳を疑った。驚きはやがて怒りに変わって顔をひび割れさせ、暴発した巨体が――
「――ふッざけるなァッッ!」
 飛びかかり、踏み殺そうと繰り出した右前足のひづめが、標的を仕留め損なって雪に深く埋まる。
「――貴様は、貴様たちはッ!」
 息を荒げ、シグルは灰色の幼獣を追って雪を飛び散らせた。薄暗い樹間をふらつきながら必死に走り、憎悪のまなざしで射続ける子オオカミを――
「――貴様たちは今までどれだけ殺した? 何頭のシカを食って、血を舐めたんだッ?」
 激しく糾弾して子オオカミに迫り、吹雪にあおられながら角を突き出す――とらえたと思った攻撃は幹を突き、大きく揺らいだ針葉樹から雪の滝が背にドオッと落ちる。
「――あぐッ!」
 右後ろ足に鋭い痛みが走る。隙を突いた子オオカミが、力一杯かみ付いていた。
「――このォッ!」
 力任せに右後ろ足を振ると牙は外れ、飛ばされた体が幹にぶつかって悲鳴が砕ける。体を雪にまみれさせ、呼吸を乱したたまま、シグルは木の根元に倒れた子オオカミをにらんだ。
(……角で突き殺すか、それとも踏み殺すか……!)
 迷っているうち、子オオカミはうめきながら白っぽくなった小さな体を起こし、かたきをにらんで火を噴くようにわめいた。
「……母ちゃんと父ちゃんを……母ちゃんと父ちゃんを返せッッ! 母ちゃんと父ちゃんを返せッ! 返せ! 返せ! 返せ! 返せェッッ――!」
 執拗な叫びに涙が混じる。顔をぐしゃぐしゃにして訴える子を前に、シグルは脳天を叩き割られたような衝撃に襲われた。
(……母親と父親を返せ……だと……!)
 幼い自分が、子オオカミの叫びに重なってよみがえる。両親を食い殺したオオカミへの復讐を誓って虚空に吠えた、あのときの自分――
「……せ……母……んと……父ちゃ……ん……!」
 声を枯らし、両目から涙をぼろぼろ落とす子オオカミの口元は、かけがえのない肉親を失った絶望に震え、吹雪に飛ばされそうな幼い体は悲しみで今にも張り裂けそうだった。それを支えているのは、かたきへの憎しみに他ならない。
(……オオカミは、今まで多くのシカを襲って殺してきた……俺の両親も奴らに食われたんだぞ……! だから、俺にはすべてのオオカミがかたきだ! こいつの両親が死んだのは、当然の報いというものだろうが……!)
 だが、シグルは踏み出してとどめを刺せず、吹雪を浴びながら立ち尽くしていた。思考が乱れて渦を巻き、鈍い頭痛を伴うめまいが視界をひずませる。言いようのない吐き気を覚えてよろめいたシグルは子オオカミから目をそらし、足をもつれさせながら背を向けた。
「ま、待てッ!」
(……親を失い、しかも弱った子オオカミが、自力で獲物をとらえて生き延びるなんてこと、できやしない……)
 呼び止めるのを無視し、シグルは麓の方へ歩き出した。雪を踏んで山を下りるにつれて子オオカミとの間を吹雪が断絶し、蝕み始めた夜が隔てていく。その向こうから親を求めて繰り返し響く、か細く悲しげな遠吠え――それもやがて無慈悲な風雪にかき消されてしまった――


(――殺せたはず……なのに……!)
 耳の奥でこだまする叫びに、シグルは顔をきつくしかめた。

 ――母ちゃんと父ちゃんを返せッッ!――

 あの言葉が無ければ、一思いに殺せていたかもしれない。それが――欝々と雪を踏みながら、シグルは己の不甲斐なさを唾棄した。あの幼さと衰弱ぶりから見て、親を失ったあの子オオカミが生き延びることは無理。近くに他のオオカミはいないようだし、山を隔てた仲間を呼び寄せるだけの遠吠えをこの吹雪の中から上げる力も無いだろう。殺そうと思えば、またあそこに行けばいいのだし、放っておいても飢えと寒さでいずれ死ぬ。それをわざわざ殺す必要は、確かに無かったのかもしれない。
(――だが、あいつはオオカミなんだぞ! それを……!)
 悩むうちいつしか林が途切れ、開けた地に立っていた。そこには周りを山々に囲まれた雪原が黒く霞んで広がっていて、横殴りの雪が遮られることなくぶつかってくる。ここはかつてシカたちの憩いの場で、黄金色の陽が豊かに降り注ぎ、きらめく緑が柔らかな微風に撫でられる草原だった。幼い日、シグルは父と一緒にこの草原を跳ね回り、母親の懐に抱かれて温かい舌で優しくなめられていた。だが、それも今は風雪にすっかり征服され、悪夢とともに白く覆われていた。
(…………………―――――――――                        )
 あの日、網膜に焼き付けられた惨劇――オオカミたちに襲われながら幼い自分を必死に逃がそうとした父母――泣き叫びながら振り返り、倒れた両親に獣たちが群がるおぞましい惨劇からひたすら逃げた、あのとき――それ以来、シグルは無力で臆病な自分を責めさいなみ、両親のかたきを討って恥をそそぐため、稲妻状に生え始めた角を磨いて群れの雄シカと、独りのときは巨木の幹を相手にしてひたすら鍛錬に明け暮れた。その思いが実るように並外れて大きな体躯に成長し、角が猛々しくでき上がったときには、シグルと一対一で渡り合える雄はいなくなっていた。
「……誰だ」
 気配を感じて振り返ると、背後の針葉樹林の間に栗色の毛並みをした雌シカの姿が、ぽうっと浮かんでいた。
「マルテ……」
 すぐに顔を雪原に戻して黙るシグルの隣に並ぶと、マルテはぶるっと体を震わせて吹き付ける雪を拒み、そしてまだらに白く彩られ、毛先が針のように凍りかけた巨体を憂いげに見つめると、鼻先でそっと雪を払ってやった。
「……右後ろ足……」
「ん……?」
 マルテはシグルの傷に目をやり、痛そうな顔をした。
「大丈夫なの……?」
「……どうってことない……」
 煩わしげな声にマルテは端正な顔を曇らせ、ひづめが沈んだ雪に目を切なげに落としたが、再び頭を上げて横顔を見つめた。自分を気遣うその瞳がうっとうしかったものの、シグルは彼女を追い払うことができず、そのまま吹雪を見つめ続けた。
「……皆、あなたのことをうわさしているわ。恐ろしいオオカミを2匹も殺した英雄だって。雄たちは自分たちも続こうと、戦いの訓練に夢中になっているわよ」
 風が耳障りなうなりを上げ、雪を2頭の顔に叩き付ける。雪が目に入ったシグルはまばたきをし、結んだ口を苦々しげに曲げてから突き放すように言った。
「……いいじゃないか。オオカミは俺たちの天敵。やらなければ、いつか襲われて食われるんだ。その敵から逃げるだけじゃなく、戦って殺すことができるって分かったから、今までいたずらにおびえていたみんなも変わり始めたんだろう」
「……でも……何だか、私……怖いの……」
 おびえた声で言い、うつむくマルテをシグルは横目で見た。雪に吹かれて微かに震えるマルテにふと憐憫の情がわき、口調が少し和らぐ。
「オオカミは凶暴だからな。恐ろしいと思う気持ちは分かるよ……」
「……それもあるけれど、私は……」
 言葉が途切れ、マルテの瞳がうかがう色を見せる。その視線を不快に感じ、シグルは顔を硬くしてそむけた。衰える気配のない雪がしばらく2頭をなぶり、息苦しい時が流れる。
「……私、みんなが変わっていくのが怖いの……上手く言えないけれど……」
 どこかすがるように漏れ、吹き散らされた白い息にシグルはまためまいを覚え、反発して声を荒げた。
「……そんなふうに感じるのは、お前が臆病だからだろう! オオカミは殺す!俺の両親のかたきは、シカの天敵はすべて殺す! それが正しいんだ! いくら恐ろしくてもな!」
「だけど……」
 言いかけたマルテからシグルは離れ、雪原に踏み込んだ。シグルの背にマルテはうなだれ、黙って元来た林の奥に戻って行った。雪原の中央に独り立つシグルの耳には、吹雪の恐ろしいうなりだけが響き、脳裏に残酷な記憶がよみがえる。
 両親の絶叫――
 血に濡れた獣たちの口元――
 オオカミへの止めどない憎悪――――
 噴き出す激情にシグルは頭をのけぞらせ、暗黒の天を仰いで息を炎のごとく立ちのぼらせた。
「……明日、必ずあの子オオカミを殺す……!」


 未明、シグルは硬い雪を掘り、秋のうちに土の下に蓄えておいた木の実で軽く腹ごしらえを済ませると、仲間に気付かれないように林を抜け出して吹雪の山をのぼった。
 ――あの子オオカミを、殺す――
 痛みが残る右後ろ足を心持ち引きずり、拒むように枝を伸ばす低木の間を縫って黙然と進む。昨日、殺さずに戻った後悔が、顔をひどく荒ませていた。
(……弱っている子どもとはいえ、オオカミを捨て置くなんて……!)
 両親を返せという罵りが何だというのか? 天敵の泣き言を気に病む必要がどこにあるのか?
 自分の間違いを正す――駆り立てられるシグルは、わずかに雪に残った自分のにおい、そして記憶を頼りに吹き下りてくる雪にまみれながら歩き、やがて横穴が見えるはずの場所までやって来た。横穴は勢いを増す雪に半ば埋もれており、シグルははっきりそれと分かるまで近寄らなければならなかった。
(……もう死んだ……か?)
 風雪を嗅ぎながら、シグルは横穴をうかがった。微かにオオカミの臭いは漏れてくるが、出て来る気配は無い。しかし、尖った耳をそばだててみると、何やらすすり泣きのようなものが聞こえる。足を忍ばせて穴の脇に立ち、長い首をそっと下げて中をのぞくと、よどんだ暗闇の奥で灰色の小さな体が丸まって震えており、夜目が利くシグルの瞳にギュッとつぶられた両目、冷たく濡れた目元と頬がうっすら映る。
(―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――!)
 心臓に杭を突き立てられるショックを受け、シグルはよろめいた。相手がオオカミの子だと一瞬忘れ、同情の念が胸奥から湧く。
(――バカな……!)
 かあっと顔が熱くなり、歯がぎりぎりかみ締められる。憐れんだ己に怒りが沸騰し、噴き出る息が吹雪に激しく散った。
(――相手は、オオカミなんだぞ!)
 左右にぶんぶんかぶりを振ったシグルはまた横穴をのぞき、おい、と怒鳴り声を投げ込んだ。
「……あ……!」
 びくっと耳を震わせてまぶたを上げた子オオカミは、横穴をのぞく細長い顔にはっとし、やがて熱っぽい両目の刃を抜き放ってよろよろ立ち上がった。シグルが横穴から素早く離れて間も無く幼獣は埋もれかけた穴から顔を出したが――
「――あッ!」
 出て来たところで足を踏み外し、急斜面を転がって雪まみれになる子オオカミ。緩んだ傾斜で痛みにうめきながら立ち上がって向けられた顔――泣き腫らした目と涙で濡れた頬をはっきり目にし、シグルは直視に耐えない苦痛を感じた。そんな動揺を知らない子オオカミがおぼつかない構えを取ったとき、しぼんだ腹からキュウゥ……と消え入りそうな音が漏れた。
(……こいつ……)
 恥ずかしさに左の頬を引きつらせ、幼い牙をむいて踏ん張ったまま動かない子オオカミを見て、シグルは悟った。今にも風雪に倒されそうな体には、戦う力などろくに残っていないのだろう。病に侵されているうえに食べ物が無ければ、弱っていくばかり。加えて昨日の戦いでの消耗――角で殴られ、木にぶつかったダメージもある。飛びかかって来たなら、反射的に殺せたかもしれない。だが、いかにオオカミとはいえ、両親を殺されて嘆き悲しんでいる幼子を、弱って満足に動けないものをこちらから殺しにかかるというのは……――
(……オオカミは殺す……! こいつは俺が殺すんだ……! そのためにここにいるんだろ……!)
 しかし、野次るようにわめく吹雪の中、にらみ合いは続いた。互いの体毛が白くなり、このままだと先に子オオカミが雪像になるのではないかと思われたとき、こう着状態が崩れた。憎しみに燃えていた子オオカミの目がだんだんうつろになり、まぶたが落ちると幼い体が雪上に吹き倒された。その瞬間、四肢をこわばらせたシグルだったが、すぐに横たわった相手を冷静に見据え、生死を確かめようと慎重に近付いた。
(……息は、まだある……)
 病と空腹で衰弱しているところへ寒さと緊張に追い打ちをかけられ、気を失ったらしい……数歩先に倒れている子オオカミの顔をのぞき込んだシグルは、悔しさと悲しみが固まっているのを見、重い胸苦しさを感じて後ずさった。
(……このままなら、間違いなく凍死する……死ぬんだ……)
 背を向け、吹雪に押されながら山を下り始める……だが、歩くたびになぜかひづめが鉄塊のごとく重くなり、右後ろ足の傷がうずいて歩みを止めさせた。
(……どうせ、死ぬんだろ……!)
 我知らず歯ぎしり――アンバランスな表情で振り返り、引き返す……子オオカミは無念そうな顔のまま、雪に埋もれ始めていた。
(……くっ……!)
 情けと言うのか、それともあわれみと表現すべきなのか――こんなところに埋もれさせるのではなく、せめて両親のにおいが残る巣穴の中で息絶えさせてやろうとシグルは思った。それは、同じように両親を奪われた境遇がさせたことだったのかもしれない。シグルは鼻をそろそろと近付けて意識が無いのを確かめると、かぱっと口を開けて子オオカミの首を軽くかんだ。口中が柔らかい毛で満ち、こそばゆく感じられる。幼い体をゆっくりと持ち上げると、あごと首にずしり、と重みがかかった。
(……何をやっているんだ……俺は……)
 顔のしわを複雑にし、くわえた子オオカミを横穴へ――
「……うぅ……母ちゃん……」
 突然の声に、シグルは危うく落としそうになった。夢の世界で亡き母を追っているのか、呼びかけ、追いすがるような声は、切なさを帯びていた。
 ――思えば、俺も――と、シグルは幼い時分、両親の夢を毎晩のように見て泣いたのを思い出した。今でもときどき両親との日々を夢に見るが、束の間の幸福はいつも目覚めによって非情に断たれる。現実に引き戻されて打ちのめされるたび、悲しみに押し潰されてしまいそうになる自分を復讐という目的で支えてきたのだった。
「……ふぅ……」
 急角度の斜面にかけた前足を折り、身をかがめて横穴に頭を入れ、角を天井にこすりながら中に横たえたシグルは、一息つくとあらためて子オオカミを見た。閉じられた目から今にも涙があふれそうな顔は、ただのあわれな子どもにしか見えなかった。
(……こいつが、オオカミでなければ……)
 また不意に頭をよぎるおかしな考えにうろたえ、慌てて横穴から離れる。雪は一向に衰える気配が無く、立ち尽くすシグルをのみ込まんと吹き荒れる。
 ――憎い獣に情けをかける――
 ――幼い子どもとはいえ、天敵のオオカミに――
 自分の行いに混乱し、めまいでぐらぐら頭が揺れる。シグルは逃げ出すように踵を返し、右後ろ足の痛みをこらえて麓の林へ急いだ。吹雪とともに山を下りる彼は、雪が子オオカミと横穴もろとも自分の行いすべてを埋めてくれるように念じていた。


 その日一日、シグルは自分がどう動き、他のシカと何を話したのか、はっきりと覚えていなかった。子オオカミとのことが頭の中で渦巻いているうちに時は吹雪に吹き飛ばされ、そして、まんじりともせずに再び未明を迎えたシグルの足は、山頂から吹き下ろす風雪に逆らって横穴へ向かっていた。

 ――なぜ、またあそこに行く?――
 ――死んでいるのを確かめるため?――
 ――生きていたら、とどめを刺そうと?――
 ――放っておいても死ぬのに、いったいなぜ?――

 自問するほどかき乱されるシグルは、荒ぶる混沌の彼方に答えを求めてひたすら雪山をのぼった。
 斜面の横穴は依然としてあったが、出入り口は雪で半分くらい塞がれていた。それをしばらく見つめていたシグルは、狭まった穴に意を決して近付き、薄闇をのぞき込んだ。
 子オオカミは、中で土の上に横たわっていた。息絶えているのかとも思ったが、耳を澄ますと弱々しい呼吸が微かに聞こえる。
(……まだ生きている……)
 安堵のような奇妙な思いがよぎり、そんな自分にまた戸惑ったシグルは顔に溝を掘った。
(……しかし、長くはないんだ……)
 シグルは薄暗い辺りを見回した。峻厳とそそり立つ針葉樹と葉を残らず散らした低木が白い重みを背負って囲み、積もった雪の下からは凍てついた土と草のにおいがする。
(……シカだったら……)
 シカなら雪を掘ってその下の草をはむこともできれば、木の皮をかじって飢えをしのぐこともできる。だが、オオカミにはそれができない。他の獣を狩って、その血肉を食わなければ生きていけないのだ。
(……狂っている……!)
 吹雪の中、シグルは天を仰いであえいだ。

 ――なぜシカがいて、オオカミがいる?――
 ――どうして、オオカミは肉を食べなければ生きていけない? そうでなかったら、母さんも父さんも殺されることはなかったのに……!――

 だが、いくらもだえても、頭上を覆い尽くす暗澹たる雲は、容赦なく吐き出す風雪で噴き上がる息をちりぢりにするばかりだった。
「……あ……」
 耳に吹き込む声に目を転じると、狭まった出入り口に幼い顔が見えた。子オオカミは前足で力無く雪をかき、崩して広げると、巣穴の前に立つ雄シカに憎しみのしわを引きつらせ、そして以前かみ付いた右後ろ足を食い入るように凝視した。
「――お前は―――――!」
 かたきへの憎悪と飢えでぎらつく幼い瞳に激高し、シグルは吠え立てた。
「――お前は、なぜ雪を掘って草を食べない? どうして木の皮を食べないんだ? お前たちのせいで多くのシカが、俺の両親が殺されて……! かたき? 親を返せ? なら、お前たちに食われた俺の母親と父親を返せッ! 優しかった母さんと父さんを返せッ! 返してくれよッッ!」
 声を上ずらせながら怒鳴る雄シカの剣幕に子オオカミはうろたえ、口を曲げて未熟な牙をのぞかせた。
「……何言ってんだ! 母ちゃんたちが言ってたぞ。シカはオオカミのエサなんだ、食べられるためにいるんだって――」
「違うッ! 俺たちは餌なんかじゃないッ! お前らに食べられるためにいるんじゃないッッ!」
 シカが、両親が、自分が、食べられるために存在するはずがない!――
 白い半狂乱の只中で叫ぶ雄シカを、子オオカミは困惑気味ににらんでいたが、吹き付ける雪を嫌って奥にふらふら引っ込んだ。その暗い穴に向かってシグルは絶叫した。
「俺たちは餌じゃないッ! 餌なんかじゃないィッッ!――――」

 
 冷厳な風雪に押され、シグルは逃げるように夜明け前の山を駆け下りた。ますますひどくなる吹雪のうなりが響く頭では、これまでの年月とこの数日のことが熾烈に入り乱れ、ときにぶつかり合って轟音を上げていた。

 ――オオカミは、肉を食わなければ生きていけない。だから、奴らは山の獣を襲い、時折麓近くに現れてシカを狙う……――

 それは、オオカミが生きるための行為――なら、シカは子オオカミが言っていたように餌として存在しているのだろうか? 自分たちには、本来その程度の価値しかないのだろうか?
(――そんなはずはない! そんなはずはッ!)
 ザクッ、ザクッとひづめが乱暴に雪を蹴る。迷路のごとき針葉樹林を進むシグルは、吹雪でよく利かない目を凝らしてひたすら麓に急ぎながら、果たして本当にそこへ向かっているのか、向かおうとしているのか、分からなくなった。
(……オオカミは恐ろしい獣。母さんと父さんを殺したかたき……連中は敵なんだ! 殺さなければならないんだ! なのに、どうして俺はあんなチビのことを――)
 そのとき、背後から厳しく呼び止める声が刺さり、シグルの歩みを急停止させる。
「……オージュ……!」
 呼び止めたのは、汚い薄笑いを浮かべたオージュとフルーだった。黒い幹の陰から現れた2頭は、自分たちより体格がいいシグルを斜面の上からにやにや見下ろした。
「あのガキは何だ、シグル?」
「はっ?」
 動揺するシグルにオージュは口の両端をつり上げ、濡れた舌をのぞかせた。
「仲間たちからお前の様子が変だと聞いてな……ずっと何事か考え込んで、周りが声をかけてもろくに返事もしない。だから密かに見張って、まだ暗いうちにこっそり山にのぼるお前の跡をこいつとつけたんだ」
「そしたら、びっくりしたぜぇ~」
 オージュの陰に半分隠れるフルーが、意地悪くにやつく。
「――何だか知らないけど、オオカミの子どもをほったらかしにしてるんだからな~ これは、どういうことなんだぁ~?」
(……尾行に気付かないとは……!)
 頭がしっちゃかめっちゃかだったせいで、周囲への注意がおろそかになってしまった――シグルは己のうかつさに歯がみした。
「……あれは……あの子オオカミは、俺が見つけた獲物……どうするかは俺が決める……!」
 もがくような抵抗を、オージュはふんと鼻で笑った。
「そんな身勝手が許されると思っているのか? なぜ、さっさと殺さないんだ?」
「……それは……オオカミとはいえ、弱った子どもを殺すのは性に合わないからだ。放っておいたって、どのみち衰弱して死ぬ。だから……」
「はははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは――」
 うつむきがちなシグルの弁解を、オージュのせせら笑いが吹き飛ばす。
「――弱ったオオカミのガキを殺したくないだって? ガキだろうと、オオカミはオオカミだろう? 奴らに仲間を何頭も食われたことを忘れたのか? お前も俺と同じように親を食われたんじゃなかったのか? ええッ?」
 えぐるオージュに面と向かえず、シグルはひづめを食らい込んだ雪を苦しげににらんだ。
「――俺には、お前がバカげた感傷に惑わされているとしか思えないな。オオカミのガキに情けをかけるなんて……! 盗み聞いたところだと、どうやらあれはお前が殺したオオカミたちのガキで、お前はかたきと言われているらしいが、まさか、それで罪悪感にさいなまれているのか?」
「そ、そんなことは!……」
「じゃあ、殺せばいいじゃんかぁ~」
 フルーが声をはずませて非難する。
「――性に合わないとか、どうせ死ぬとか言ってないで殺すべきなんだよぉ。今まで殺されたシカたちの分まで徹底的に仕返ししてからさぁ! そうじゃないかぁ~? そう思わないのかよ~?」
 山頂から吹き下りる雪を正面からまともに受け、混乱の深みにはまって沈黙するシグル。吹雪を背にしたオージュとフルーはそれを面白そうに眺め、辛辣に突き付けた。
「……何がオオカミ殺しの英雄だ! 詳しい話は長老たちの前でしてもらう! いいなッ!」
 オージュの勝ち誇った声が、吹雪に乗って極寒の山を飛んだ。
 

 吹雪で濁った麓――分厚いねずみ色の雲のはるか下、林が少し開けた場所で開かれた集会では、長老、その右隣に鼻高々と立つオージュ、卑しげな笑みをたたえたフルーを始めとする雄たちに囲まれたシグルが、ぶつかるとげとげしい雪から目を伏せ、口からかすれた息を漏らしていた。
「ふむ……」
 事のあらましを聞かされた長老は、信じられないという顔で自分の正面、輪の真ん中で立ち尽くすシグルをまじまじと見つめた。
「……オオカミの子を殺さずに放置し、しかもその存在を隠していたというのは本当なのか?」
「……」
「どうなのだ、シグル……!」
 問いただす長老に、シグルはうつむいたまま、
「……はい……」
 と消え入るような声で答えた。それをきっかけに輪がざわめいて揺れ、問い詰め、責め立てる声が興奮して飛び跳ねる。
「静かに! 静かにせんか!」
 長老は肉が落ちた前足で雪を繰り返し踏み、しわがれ声を振り絞ってどうにか場を静めると、シグルを厳しく見据えた。
「――子どもだろうとオオカミはオオカミ。憎むべき敵だ。そうではないのか?」
「……俺は……」
「何だ?」
 たるんだ目元のしわが深まり、瞳に映ったシグルの姿がまぶたに圧迫される。
「子どもだから、弱っているから、かわいそうでできなかった、か? それともかたきと言われて罪悪感を覚えたか? オオカミを2匹も殺したお前が、まさかそんなたわけた感情に惑わされるとはな……」
「そ、それは……!」
 顔を上げたものの、言葉に詰まって身悶えするシグルに長老は嘆息した。
「……何やら様子がおかしいと聞いて、どうしたのかと心配していたが……お前、その子オオカミが逃げ延びて将来我々を襲いに来たらどうするのだ?」
「その通りだッ!」
 オージュが嵩にかかって口火を切り、周りの雄たちが集中砲火を浴びせる。
 ――お前、自分が何をやっているのか、分かっているのかッ?――
 ――俺たちは、家族や友を殺されているんだぞッ! そんなけだものの子をあわれむなんてッ!――
 ――シグル、お前、両親をオオカミに食われたのを忘れたのかッ?――
 オージュが、その脇からフルーが楽しげに眺めている前で袋叩きに遭うシグルは弁解を試みたが、思考は渦巻くばかりでまともに口を利くことができず、ただされるがまま耐えるしかなかった。


 謹慎――
 それが、オオカミ殺しの功績を考慮して長老が下した処分だった。シグルが林の外れに見張り付きで封じられる一方、オージュは吹雪の中で恐怖をあおって支持を集め、長老に上申して許しを得ると、雄たちをまとめて討伐隊を組織した。雄たちがこぞって討伐隊に加わった背景には、相手が弱った子どもならたやすく殺せるだろうという考えがある。それを利用するオージュは子オオカミを仕留めて自分の手柄にし、これからの戦いにはずみをつけようとしているのだ。
 討伐隊メンバーが額を集めて横穴の場所を確認し、どのような作戦で仕留めるか話し終わったときには闇のとばりが下り始めていたので、万が一にも暗闇に紛れて逃げられることがないよう出発は翌早朝と定められた。
(……明日……)
 すっかり闇に満ち、勢いをいやます吹雪に荒らされる林の外れで針葉樹の根元にうずくまったシグルは、少し離れた木の傍らに立ち、時折退屈そうにうろうろする見張り役の雄2頭と鉄格子然とした木々越しに中央でうごめく小さな影たちを見つめた。
 明日に向け、がしっ、がしっと角を突き合わせて血気にはやる影……雪と土を掘り、蓄えておいた木の実を出して腹ごしらえをする影……右に左にせわしなく動き回って不安げに、あるいは興奮気味に言葉を交わす影……そうした動向につい目をやり、耳を傾けてしまうシグルは、子オオカミに迫る運命に思いを巡らせた。
(……明日早朝、討伐隊が山をのぼる……病と飢えで弱ったあのチビは、間違いなくなぶり殺しにされる……)
 それでいい……
 それでいい……はずだ……
 そもそも、自分もあの子オオカミを殺すつもりだった。ただ、弱った子どもに手を下すことをためらい、つまらない感傷にも惑わされた結果、こんなことになってしまった。それを、自分には果たせなかったことを他者が代わりにやってくれるのなら、自身で決着をつけられなかった恥が残るとはいえ、もうあの子オオカミに悩まされることは無くなる……そんなことをぼんやり考え、シグルはうつろな息を吐いた。それはすぐさま粗暴な風雪に吹き散らされ、闇にあえなく消えていく。それを見るともなく見ていると、見張りが動く気配がして、耳慣れた足音が近付いて来た。
「マルテです」
 現れた雌シカは、見張りたちにシグルとの面会を許可して欲しいと願い出た。
 ――マルテ、シグルは今謹慎中の身。みだりに面会を許すわけにはいかない――
 ――その通り。さぁ、みんなのところへ戻るんだ――
 しかし、マルテは少しだけでいいからと粘り、とうとう見張りたちを根負けさせて通してもらうと、そばに寄って来た。
「シグル……」
「……」
 シグルは黙って立ち上がり、さ迷う視線を黒ずんだ雪上に落とした。ビュオオオォ――ビュオオオォォ――とすべてを吹き流さんばかりに荒れる風雪の中、闇を貫く針葉樹の傘の下に立つ2頭……いたわりを含んだマルテのまなざし、温かな匂いに耐え切れなくなってシグルはあえいだ。
「……お前だって、オオカミが憎いだろ……」
「え……?」
 少し離れたところで聞き耳を立てている見張りを気にしながら、シグルは息苦しげにささやいた。
「……お前も幼い頃、姉を失っている……オオカミを憎んでいるはずだ」
 ざらついた吹雪の音に耳を震わせ、シグルは呼気に怒りの熱を混じらせた。
「……俺は憎い……! 母さんと父さんを殺したオオカミが、オオカミという存在そのものが憎い……!」
「……あなたは、オオカミの子を殺せなかったんですってね……」
「それは……決して俺の本意じゃない!」
「私……」
 にらまれたマルテは目を伏せ、束の間の沈黙を経て顔を上げると、シグルをまっすぐ見つめた。
「私もオオカミを憎んでいたわ。私の姉さんを殺して食べたのですもの。だから、今までオオカミを恐ろしい獣だとしか思っていなかった……」
「……俺だって、そうだ」
「でも……」
 マルテは後方の見張りをちらっとうかがい、シグルにぐっと近付いた。
「……私、あなたを親のかたきと呼ぶ子オオカミのことを聞いて、今更ながらに思い知らされたの……オオカミも私たちと同じ……両親がいて、育まれている生き物なんだって……」
「……だから……だから何だって言うんだ! オオカミがシカを襲って食うことを許せるとでも言うのかッ!」
 マルテから離れたシグルは角で幹を乱暴に突き、ぎりぎりとさいなんだ。角に削られた樹皮がはがれ落ち、びっくりした見張りたちが何事かと首を伸ばす。
「――どうしてシカがいて、オオカミがいる? なぜオオカミは、俺たちのように草や木の実だけを食べて生きていけないんだッ?」
 吠え、へし折れそうなほど角が突き立てられると、樹上に積もっていた雪がシグルの頭と背中にドサササッと落ちる。潰されてしまうのを案じたマルテがやめてと叫んだとき、背後で雄たちが慌てて姿勢を正すや闇からフルーを従えたオージュが現れ、シグルのそばに立つマルテを認めると、いきなり見張り役を角で殴りつけた。
「――お前ら、謹慎中の者に好き勝手させやがってッ!」
「そうだ、そうだぁ~! 何をやってるんだぁ~!」
 痛みに顔をしかめ、身を縮める見張りたちの前を傲然と通ったオージュはシグルとマルテから距離を取って足を止め、吹雪のうなりに合わせて怒鳴った。
「マルテ、こっちに来いッ!」
「オージュ、私が見張りに無理を言ったのです。責めるのなら私を責めて。シグルたちに乱暴はしないで」
 動かないマルテにオージュは結んだ口を蛇のようにくねらせ、落ちてきた雪で足が半分ほど埋まったシグルをにらんで突きかからんばかりに目をむいた。
「こんな、弱っているガキだからって理由でオオカミを殺せないような腰抜けに、なぜお前は優しくするんだ? こいつは要するに敵に情けをかけたんだぞ! それがどれだけの裏切り行為か、お前は分かっているのか?」
「その通り、オージュさんの言う通りぃ~ マルテはおかしい。シグルなんかに近付くなんて、まったくおかしいぃ~」
 非難にあおられるマルテは懸命に四肢を踏ん張り、シグルをかばおうとした。だが、シグルはそんな気持ちからも顔を背け、疲れた声を漏らした。
「……戻れ、マルテ」
「シグル……」
「独りに……しておいてくれ」
「でも……」
「いいから放っておいてくれ! さっさと行ってくれッ!」
 渇望が口からほとばしる。何もかもが、自分を取り巻く存在全てがシグルをめちゃくちゃにかき乱していた。マルテ、オージュ、フルー、長老、群れのシカたち、そして、あの子オオカミ――それらからシグルは逃れたかった。自分を混乱させるすべてを断絶したくてたまらなかった。
「……ごめんなさい」
 背けられた顔にマルテは瞳を潤ませ、うつむいたままとぼとぼとオージュたちの横を抜けたところで足を止めて振り返ったが、変わりのない姿勢を見てうなだれると雪が乱れ飛ぶ暗闇に消えてしまった。それを見届けたオージュは見張りたちに誰も近付けるなと厳命し、沈んだシグルを鼻で笑って、フルーと林の中心に戻って行った。独り、樹皮が無残にえぐれた針葉樹の下に残ったシグル――その五体を殴り続ける吹雪が吠え猛り、思考を震わせる。
(……俺たちは生きるために木の実や草をはみ、オオカミは血肉を食らう……なぜだ!……)
 もし……もし仮に、シカが他の動物を、オオカミを食わなければ生きていけなかったとしたら……あるいは、いつも当たり前に口にしている木の実や葉、草が突然しゃべり出して、シカのことを敵だ、かたきだと憎悪したら……――
 奇妙な空想が頭に湧く。オオカミは確かに憎い……だが、生きるためにシカが木の実や草を食べるのと同様に、オオカミはシカを含めた他の動物を食べているのだ。それを責める権利が、果たして自分にあるのだろうか?
 吹雪く闇夜で白と黒がぐちゃぐちゃになり、よろめいたシグルは足を埋めた雪でバランスを崩して横倒しになった。もがいて雪を蹴り、白く汚れた体をどうにか起こしたものの、もう何が何だかシグルには分からなくなっていた。ただ一つはっきりしているのは、明日になればオージュ率いる討伐隊が、子オオカミを襲って殺すということ……
 闇に埋もれた針葉樹林を揺さぶって、夜が雪とともに飛んでいく。巨躯が冷え切って重くなったシグルの頭上で雪雲の層が黒から蒼に変わり始め、寝ずの番をする見張り役たちのあくびが風のうなりに混じって聞こえた。
 やがて未明を迎えた林の中央で、シカたちが雪を踏んでせわしなく動き出す。そちらに焦点を合わせるシグルの目は立ち並ぶシルエットの狭間に小虫ほどの影の群れをとらえ、ぴんとした耳は、出発の準備を整えた討伐隊とそれを送り出す者たちとの、使命をしっかり果たすとか、無事に戻って来るようにとかいったやり取りを、雪嵐にずたずたにされながらどうにか聞き取った。
(……いよいよ……か……)
 討伐隊が子オオカミを殺しに出かける、そのときが来たのだ。見張りたちもその動きを気にし、緊張した声で、どうなるだろう、うまくいけばいいがと言葉を交わしている。すると、群れの中心にいる一群――討伐隊の中で影が一つのけぞり、獣性に満ちた雄叫びがとどろいた。
(――オージュ!……)
 弱った子どもではあるが、初めてのオオカミ殺し――その興奮が他の雄たちからも上がる。そうして病的に高ぶった討伐隊は、仲間に見送られながら山へと歩き、猛吹雪を遡る。重く覆いかぶさる青黒い雲から激しく降りつける雪と、槍衾のような針葉樹林の中を進んでのぼって行く影の群れをシグルは目で追い、暴風に混じるザクッ、ザクッ……というひづめの音を聞き続けた。
 ――……これでいい……のか……?
 足音が遠ざかっていくにつれ、鼓動がいやに痛く打つ。オオカミへの復讐に生き、親オオカミに続いてあの子オオカミも殺そうとした――今だって、誰かが殺すべきだと思っている。だから、煩悶することなど何も無いはず――なのに、なぜかますます胸は苦しく、動悸はひどくなっていく。

 ――私たちと同じように両親がいて、育まれている生き物なんだって……――

 マルテの声が突然よみがえり、電流を浴びたように全身を硬直させたシグルは、目を皿にして見送りの中を捜した。だが、いくら前のめりになって目を見開き、耳を澄ましても彼女を見つけることはできなかった。
(……オオカミは天敵……あの子オオカミも万が一生き延びたら、必ずシカを襲う……だから、殺した方がいい……いや、殺すべきなんだ……殺すべきなんだッ!……)
 頑なに歯をかみ締め、シグルは擦り込もうと躍起になった。だが、心臓はいっそうけたたましく鳴り、どんどん胸がえぐり取られていく錯覚に襲われて、赤褐色の体躯がぶるぶるけいれんし始めた。
(――な、何だ、どっ、どうしたっていうんだ?)
 遠のいているはずなのに、耳の奥でひづめの音がいつまでも続き、復讐に取り憑かれた鳴き声がこだまする。
(――どうして? どうしてだ? どうしてなんだッッ?―――――――――)
 急激に高まる苦悶が頂点に達したとき、シグルは咆哮を暴発させて飛び出し、仰天して追おうとする見張りたちをたちまち引き離すと斜面をゴオッと駆け上がった。山頂から吹き荒れる風雪に逆らって雪しぶきを上げ、行く手を塞ぐ針葉樹の間を駆け抜けて、討伐隊よりも先に横穴に着けるよう急斜面も構わず、誰よりも山に入って詳しい自分が知る近道をひた走る。
(――俺は、いったい何をしようとしている? なぜ、あいつのところに走っているんだッ?)
 猛吹雪に灼熱のあえぎを叩き付け、シグルは自問自答した。なぜシカがいて、オオカミがいるのか――その答えを出すことも知ることもできないシグルは、ただ、このままオージュたちに子オオカミを惨殺させてはいけないという啓示めいた考えに駆られ、満足に目を開けていられない世界を全速力で突き進んだ。
(――あ、あった!)
 いつしか、雪にほとんど埋もれた横穴が目の前にあった。討伐隊の気配はまだ近くに無い。突っ込まんばかりに近付いたシグルは、出入り口を塞いだ雪を鼻で突き崩して払いのけ、奥で横たわっている子オオカミを見つけると、唾を飛ばして大声をぶち込んだ。
「――おいッ! 起きろッ! もうじきここに雄シカの集団が来る! お前を殺しに来るんだぞッ! おいッッ!」
 狭い薄闇を激動させる声――それは病と空腹で生気を失いつつあった子オオカミのまぶたをのろのろ上げさせ、穴をのぞくかたきの顔をとらえて憎しみを鈍くひらめかせた。
「――早く出て来い! 出て来て逃げるんだッ! 早くしろッ!」
「……」
 焦り、急かされる子オオカミは胡散臭げにしわを寄せ、牙をむいてじりじりと間合いを詰めた。
「……何で、そんなことを教えるんだ……!」
「何で……――」
 なぜオオカミを、この子を助けようとするのか、シグルは言葉にできなかった。もしかするとオージュになじられたように、一時の感傷に惑わされているだけなのかもしれない。それでもシグルは突き動かされるまま、穴の中に危険を重ねて訴えようとした。
(――ッ!)
 雪を踏む足音の連なりが、吹雪の猛り越しに微かに聞こえる。追い越してきた討伐隊が足早にまっすぐ迫って来る気配――山頂から吹き下りてくる風雪は、穴から漏れ出る子オオカミ、そしてシグルのにおいを撒き散らし、下からのぼってくるオージュたちに嗅がせているに違いなかった。
「――くッ!」
 もはや一刻の猶予もない――シグルは前足を曲げて腹を斜面に近付けるや横穴に頭を突っ込み、角とこすれて崩れ落ちる土をかぶりながら子オオカミの前足をかんだ。
「――ぎゃ、な、なッ!」
 仰天した子オオカミが鼻にかみ付く。その痛みをこらえ、強引に穴から引きずり出したシグルは、転げ落ちて雪まみれになった幼子を怒鳴りつけた。
「あの足音が聞こえるだろ! 分かったなら、さっさと逃げろッ!」
「……!」
 小さな両目がひらめき、いぶかしげだった顔色が変わる。吹雪を遡って迫るたくさんのひづめの音をとらえた子オオカミはおびえを浮かべ、山がぐっと身を起こしたような斜面をのぼって山奥に逃げようと慌てた。しかし、衰弱した幼い体は無慈悲な吹雪に阻まれ、今にも吹き飛ばされて麓まで転がり落ちそうだった。
「――ええぃッ!」
 業を煮やしたシグルは子オオカミにずんずん近付き、首にかみ付いて持ち上げようとした。
「なっ、何をするんだ?」
「生き延びたかったら、じっとしていろッ!」
 一喝しておとなしくさせると、シグルは子オオカミをくわえ上げて急斜面をのぼり、雪深い山奥に分け入った。
(……どこまで行ける?――)
 討伐隊から逃げるとなると、頂に向かう形にならざるを得ない。それは猛威を振るう吹雪に逆らうこと、風上へ進むことであり、その結果、風下のオージュたちに自分たちのにおいを道しるべとして撒くことになってしまう。
(……オージュたちが諦めるまで逃げ続けるか、いっそのこと、北の方にいるらしいオオカミたちのところまで連れて行くか――)
 仲間と合流できれば病と飢えもどうにかしてもらえるだろう――そう考えてひたすら山をのぼるシグルだったが、追手は冷酷に距離を縮めていた。
(――くそッ!……)
 子どもとはいえ、子オオカミは結構重い。それを運ぶシグルは、不慣れもあって口と首にかかる重みに、くわえていることで少なからず妨げられる呼吸に苦しんで足取りを乱した。それをあざ笑うかのように接近する討伐隊。この辺りには他にオオカミがいないから、彼等はいつまでも追って来るのだ。
(――くッ!)
 シグルはついあごに力を入れ、首をくわえられている子オオカミが悲鳴を上げる。はっとしてあごを緩めたシグルは、耳に神経を集中させて討伐隊の位置を探った。ごうごうと荒れ狂う吹雪に導かれるひづめの音は、すぐ近くまで押し寄せていた。
 ――逃げ切れない――
 シグルは目に付いた大木の陰に急いで回り込み、子オオカミを下ろすと追手が迫る方を稲妻のごとく一瞥して、
「……お前は、ここに隠れていろ」
 と言った。
「……どうして、僕を助けるんだ?」
 不可解と敵意で混濁した問いに、シグルはまたも口ごもった。まだはっきりと説明できない、自分の言動――
「……分からない。ただ俺は、こんなやり方を受け入れられない……いや、こんな現実に納得できないと言った方がいいのかもしれない……」
 怪訝に見上げる子オオカミに言い残し、シグルは単身風下――討伐隊が遡って来る方へ駆け下りた。暴れ狂い、吠えまくる白い闇が世界を支配して、数歩先さえもまともに見えない。吹雪の咆哮の只中で足音を確かめ、突き飛ばされながら走るシグルには、討伐隊が自分の方に引き寄せられて来るのが分かった。
(――!)
 シグルは足を止めた。視線の先に影があった。口から蒸気を噴き出して急斜面に立つ、頭から角を生やした黒い獣――
「シグル、か……!」
 殺気みなぎる声が飛び、猛吹雪からオージュが現れる。それに続いてフルーたちも姿を現し、シグルは左右に広がった10頭と対峙する形になった。雪嵐にあおられたように血走った目が並ぶ中、戦慄を覚えるほど切れ上がって見開かれたオージュの目が、異様にらんらんとしていた。
「シグル、オオカミのガキはどこだ?」
 居丈高に問うオージュに、シグルは口をぎゅっと結んで急勾配の下にいる相手をにらみつけた。その態度に横からフルーが、
「シグル! オージュさんが聞いているんだ! ちゃんと答えろぉ!」
 と、怒鳴ったが、シグルはそれを無視し、吠えたて、吹き飛ばそうとする猛吹雪に逆らって四肢を踏ん張らせた。
「……まあ、いい。近くから確かに臭っているんだ。話す気が無いのなら探し出すまでだ」
「待て、オージュッ!」
 落雷のような声が響いて場が一気に緊迫し、シグルとオージュの視線が熾烈にせめぎ合う。
「シグル、なぜあのガキをかばう? オオカミは俺たちの天敵。それに情けをかけてやる必要などないし、万が一生き延びたら、いつか必ずシカが食われることになるんだぞ!」
「俺は……」
 シグルは目をそらさず、懸命に言葉を探した。
「――……俺は、両親を殺したオオカミが憎い。シカを餌としか考えない奴らが許せない。だが、憎しみのままに復讐することが正しいのかどうか、今は分からない……オオカミにも、あの子にも母親がいて、父親がいて、愛があった……それを守るため、生きるために俺たちのような動物を食べる必要があったんだ。その現実を、もっと考えるべきじゃないかと思うんだ。殺し合いをする前に……」
「ふははははははははッッ!」
 嘲笑すると、オージュは横を見た。
「――フルー、お前はどう思う? つまりはオオカミたちの事情も酌んでやれということらしいが?」
「冗談じゃないですよぉ!」
 フルーは大げさに顔をしかめて、
「――何で俺たちがそんなことしなきゃいけないんだぁ? 奴らは敵で、かたきなんだ! 邪悪なけだものなんだよぉ! 仲間をたくさん殺され、自分の親まで食われているくせにさぁ! 頭がおかしくなったんじゃないかぁ?」
 と、まくし立てた。周りがそれぞれ、そうだ、その通りだ、冗談じゃない、などと口々にわめくのを聞きながら、オージュは歯をむき出しにして薄汚く笑った。
「いかれちまったな、シグル。あのガキの泣き言にほだされて、よォ!」
「違う! そんなんじゃない! 俺は――」
「黙れよッ!」
 はねつけたオージュが鉤爪を思わせる角を構え、フルーたちも連鎖的に頭の武器をシグルに向ける。
「やめろッ! 俺は争いたくないッ!」
「うるさいッ! 貴様のような裏切り者は、オオカミのガキもろとも殺してやる! 何で貴様のような奴にマルテはァ――!」
 爆発さながらに足元の雪を飛び散らせてオージュが飛び、凶器が猛然と繰り出される。
「――くうッ!」
 反射的に横へ飛んだもののかわし切れず、角に切られたシグルの右横腹から血がにじんで赤褐色の毛を濡らす。
「――お前たちもかかれッ! オオカミのガキをかばうこいつも敵だ! やれッ!」
「やめろッ! やめてくれッ!」
 シグルの制止もむなしく、子オオカミ殺しに血をたぎらせていた雄たちは、凶暴な吹雪に取り込まれたかのように次々襲いかかった。著しく傾いた雪の上で角と角が激突し、突き合って火花を散らす。さすがに英雄と称えられるシグルの戦いぶりは獅子にも引けを取らなかったが、10対1という数の差が拮抗していた戦況を次第に傾かせる。
「――うぐッ!」
 左のももに激痛がズグッと響く。振り返りざま、突いていた雄を角で打ち払うと、シグルは背後から突っ込んできた別の雄を後ろ足で蹴り上げた。見事あごをとらえた一撃で骨が砕ける音を出したその雄は、口から唾液と混じった鮮血を飛ばしながら悲鳴を上げて急斜面を転がり落ちた。
「――シグルぅッッ――!」
 吠えるオージュに角で応戦し、めちゃめちゃにかき乱された雪を蹴ってシグルは幾度もぶつかり合った。
「――やめろッ! こんなことをして何になる? あの子を殺し、オオカミと殺し合うことに何の意味があるんだ?」
「ふざけたことをッ! オオカミ殺しをした貴様が言うことかァッ!」
 ――ベキィッ!
 太く頑丈な枝がへし折れるのに似た音がして、シグルの目が赤く染まった。左の角が根元から折れて地面に落ち、オージュの角による額の傷から血があふれて流れ込んでいた。
(――角が!)
 オオカミたちとの死闘をも経てきた角は、知らず知らずのうちにダメージを蓄積させていたのだ。頭が割れるような痛みにうめいた刹那、シグルの胸に衝撃が突き刺さる。
「……あぐっ……あ……!」
 胸を赤く染め、よろめきながら後ずさるシグルの前に、角の先を血で汚したオージュが立つ。
「ここまでだな、シグル……!」
 いびつな笑みをともに恐ろしいほどむかれて燃えるオージュの目は、この世に生きるもののそれとはとても思えず、いったい何が見えているのか、シグルには想像もつかなかった。
「――シィィグゥルゥゥゥッッ――――――――――――!」
 狂気の叫びを発して飛ぶオージュに集中したそのとき、右の腰に衝撃が加わって体勢がガクッと崩れた。隙を突いたフルーが、角で右腰から脇腹にかけて突いていた。
「きひひひひひひ……」
 もっと深く突こうと力をかけながら、しわを醜く寄せて上目遣いに笑うフルーに吐き気がこみ上げたシグルは、ばねさながらの動きで一気に立て直すや体をひねって両後ろ足のひづめを醜悪な顔面に叩き込んだ。
「――べへェ……!」
 ぐしゃぐしゃに砕けた顔から不気味な断末魔を発し、フルーは血をまき散らして雪上に倒れた。しかしそのとき、シグルの右脇腹に汚れた角が深く突き刺さり、肉をえぐっていた。
「お、ぐっ……!」
 右脇腹からどくどくあふれ出す血がオージュの角を伝い、滴が猛吹雪に散る。踏み込んで角が深く食い込む様を、討伐隊の雄たちは熱狂した目で見入っていた。
「……オージュ――ッ!」
 突き刺さった角に押されて横倒しになったシグルは、前足でオージュを蹴ってはねのけ、すぐさま立ち上がったものの、右脇腹からどっと噴き出す血に赤い視界を霞まされてふらついた。
「バカな奴だ」
 オージュの嘲弄が耳を打つ。
「――オオカミのガキなんぞをかばうから、こんなことになるんだ。あのガキもすぐに後を追わせてやるから心配するな」
「……そんなことは……!」
 四肢を雪に穿って体を支え、まぶたをかっとこじ開けたシグルは、残った右の角をオージュに向けた。
「往生際が悪いな……!」
 吐き捨て、血で汚れた角を構えるオージュをにらみ、シグルは薄れていく意識の中から問いかけた。
 ――俺は、間違っていたのか?――
 ――天敵であるオオカミの子どもに情けをかけるなんて、正気の沙汰ではなかったのか?――
 ――なら、オージュたちのように憎しみに身を任せていれば良かったのか?――

 ……違う……
 ……それは違う……!
 
 ……オオカミとシカがいて、そこに憎しみと悲しみしかない……そんな世界は狂っている……!
「――俺は……!」
 シグルは残った力を振り絞り、全身全霊を込めて狙いを定めた。
「……俺は、まだ諦めていないッッ――!」
 とどろく叫びが、一条の閃光となって猛吹雪を貫いた。

 
 雪に点々と印される血の跡が、瞬く間に白く消されていく……いくらか弱まったとはいえ、まだ強く吹き荒ぶ雪の中をシグルは血まみれの肉体を引きずり、額の傷から流れる血で視界を赤く染められながら、這うように一歩一歩山をのぼっていた。
 その頭には、もはや角は無かった。
 折れた右の角は、オージュのむくろの胸に突き刺さったままで、もう雪に半ば埋もれているだろう。残った討伐隊のシカたちは、狂気の核だったオージュとフルーを失ってぼう然とし、左右の角を折り、血まみれになりながら立ちはだかるシグルの鬼気迫る姿に恐れをなして山から転がり落ちていった。
 ようやく赤く霞んだ視界に見覚えのある大木が、その脇に弱々しく立っている子オオカミの小さな姿が映る。雄シカの有様に驚いて声も出ない幼子の傍らまでたどり着くと、シグルは力尽きて倒れた。顔の右側が雪に埋もれ、半開きの口から魂が白い息とともに少しずつ抜けていく。
「……お前、いったい……」
 目の前に息も絶え絶えで横たわる雄シカに動揺しながら、子オオカミはどうにか声を出した。
「……さっきまで下の方で恐ろしい声が聞こえていた……お前、あの恐ろしいものと戦っていたのか? 僕を守るために?……僕の仲間は、お前の母ちゃんと父ちゃんを殺して食べたんだろ? なのに、どうして……」
 シグルは揺れる子オオカミの目に焦点を合わせ、幼く、まだ濁っていない瞳を見つめた。
「……お前……名前は何て言う……?」
「え?」
「お前の名前だ……両親からもらった……」
「……ラウ……ラウだ。僕の名前は……」
「ラウ……か」
 シグルは子オオカミの、ラウという名前を口の中で包むようにつぶやいた。
「俺の……名前はシグル……だ……」
「シグル……」
 シグルは重くなるまぶたを押し上げ、力無くあえぎながら声を振り絞った。
「……俺を食え、ラウ……」
「……え?」
「俺を食うんだ……俺は、じきに死ぬ……そしたら、この体を遠慮なく食べろ……そうすれば、きっとお前は生き延びられる……腹が膨れれば、力もついて元気になれるはず……だ……」
「な、何を言ってるんだ、死ぬなんて……そんなはずないだろ。こんな、僕なんかより何倍もでかいくせに……! 僕はまだ母ちゃんと父ちゃんのかたきを取ってないんだぞ! なのに、勝手に死んじゃうなんて、ず、ずるいじゃないかっ!」
 うろたえ、ラウは小さな体を左右に揺らした。それをシグルは静かに見つめ、口から深く息を吐いた。
「……らない……」
「え?」
「……俺には、分からない……なぜオオカミがいて、シカがいるのか……なぜ俺たちがこんなさだめにあるのか……だが、せめてお前には知って欲しいんだ……お前の血肉になるのが、何者なのかを……」
「……お前……! お前は……! 何で……! 何でなんだ! 何で! どうしてなんだ! どうして……!」
 悔しみとも悲しみともつかない涙がラウの両目からあふれ、頬の柔らかな毛を濡らす。
「……ラウ……お前たちが、俺たちシカや他の動物を食べざるを得ないのなら……忘れるな……俺たちは餌じゃない……お前たちと同じように生きて……」
 最後の方は、もう声が出なかった。自分を見つめる顔がぼやけていくのを見るシグルはいつになく静謐な心地になり、憎しみに憑かれていた時間がはるか遠くに流れ去っていった。
(……マルテ……)
 ふと、マルテの美しい顔が、ぼんやりラウに重なった。
(……すまなかったな……)
 今ならばきっと彼女を、彼女の気持ちを理解できるだろう……シグルは自分の瞳いっぱいに溶けてくるマルテとラウに微笑み、安らかにまぶたを下ろした……
 

 涙に濡れた顔を上げ、マルテはそっと耳をそばだてた。深い夜が彼女の前に広がる雪原に沈殿し、雪がしんしんと降る。まるで今朝までの猛吹雪が幻だったかのようだった。
(……シグル……)
 マルテはそっと、帰らぬ者の名を呼んだ。
 謹慎処分を受けていたシグルが討伐隊の後を追ったと聞いたとき、マルテは恐ろしい予感で胸が張り裂けそうになり、自分も山にのぼろうとしたものの、群れのシカたちに阻まれて果たせず、どうか無事にシグルが、そして討伐隊の雄たちも戻ってきますようにと祈った。
 しかし、その願いはかなわなかった。
 地平に厚く積もった雪雲の向こうで陽が昇り、発狂していた天候が正気を取り戻し始めた頃、雪崩れるように戻って来た血だらけの討伐隊に群れは大騒ぎになり、気が狂ったシグルにオージュとフルーが殺され、他の雄たちも重軽傷を負ったこと――致命傷を受けたシグルも、病と飢えで衰弱しているらしい子オオカミもおそらく生きてはいないだろうという話で持ち切りになった。皆が子オオカミを助けて仲間を死傷させたシグルを口汚くののしることにいたたまれず、マルテは林の中心から離れ、この雪原に独り立っていた。
(……シグル……あなたはオオカミの子を守ったのね……)

 ――どうしてシカがいて、オオカミがいるんだ――

 あのときのシグルの叫びが、マルテの耳によみがえる。
 
 ――どうして――

 その答えは、マルテにも分からなかった。だが彼女は、討伐隊から伝え聞いたシグルの言動から、彼があがき求めたものをはっきり知った。
(――!)
 ぴくっと耳を動かしたマルテは、顔を上げて背後――山の頂を振り仰いだ。
(……聞こえる……オオカミの……子どもの遠吠え……きっと、シグルが言っていた子の……)
 静かに雪降る夜の彼方から繰り返し聞こえてくる、幼い遠吠え――それは歌っていた。大切な者を失った悲しみを、自分の運命に対する苦しみを。その叫びはマルテの心に染み渡り、潤んだ瞳から熱い涙があふれて頬を濡らした。
(……あなたも……なのね……)
 遠吠えがやんだそのとき、林の中心の方がにわかに騒がしくなり、シカたちが浮足立っている気配が伝わってきた。顔を振って涙を払い、表情を引き締めてそちらに足を向けてみると、シカたちが樹間を右往左往しており、飛び交う言葉から今し方の遠吠えに動揺しているのだと分かった。マルテはすれ違うシカたちに安心するように声をかけ、とくに不穏な気を放っている群れの中心――長老とその周りに集まっている傷だらけの雄たちに歩み寄った。
 ――長老、群れが襲われます! 何とかしませんと!――
 ――仲間を呼び寄せようとしているんです! 我々への報復を企てているんですよ!――
 狼狽した雄たちに囲まれた長老は、ううむ、とうなったまま、指示を出しかねていた。シグルやオージュといった要になりうる存在を失い、戻って来た雄たちが皆手負いという状況では、群れを守ることすら難しいと思われたからである。
「大丈夫よ」
 マルテは雄たちに声をかけた。一斉に顔を向け、落ち着き払った雰囲気にたじろいで体をどかす彼等の間を通り、彼女は長老の前に立った。
「マルテ……?」
「長老……」
 マルテは、いつもと少し違う様子に戸惑う目をまっすぐ見つめると、
「――心配いりません、長老。あの子オオカミは私たちを襲おうとしているわけでも、仲間を呼び寄せようとしたのでもありません」
 と、きっぱり言い切った。
「……なぜ、断言できる?」
「あの子は泣いているんです。自分の家族を……自分を守ってくれたシグルを失ったことを。そして運命を悲しんで、それでも前へ進もうとしている……それだけなんです」
 聞いていた雄たちは顔を見合わせ、そして、何を言っているんだ、おかしいんじゃないかと声を荒げた。だが、マルテはそうした声にたじろがず、しっかりと雪の上に立ち続けた。
「お前たち、静かにせんか」
 長老は周りを黙らせるとマルテに目を据えたが、その瞳はうまく焦点を合わせられていなかった。
「……シグルを失ったことを、だと? あの子オオカミがシグルと心を通い合わせたとでも言うのか?」
「そうです。あの声に耳を傾けていれば、お分かりになったはずです」
「ふむ……」
 長老は、ううん、と痰が絡んだ咳払いをして渋面を作った。
「シグルは、あの子オオカミを助けたのだ。感謝されたとしてもおかしくはないだろうな」
「そういうことではありません」
 マルテは耳に残る遠吠えを聞き、その響きを与えたシグルを思って続けた。
「そんな薄っぺらなことではないんです。シグルはあの子、オオカミにも自分と同じように家族があり、生きていくために他の動物を狩らなければいけないことに悩んでいました。そして、敵対するだけの関係を超えようとあの子のところに走ったんです。その結果が、あの遠吠えに込められた心……シグルとあの子は、お互いを自分と同じ命だと認め合えた……私はそう確信しています」
 うろたえていた雌や子どもたちがやり取りを聞きつけて集まって来る中、揺るぎ無いまなざしで語るマルテに、長老は口をへの字に曲げ、老いて濁った目を狭めた。
「……仮にお前の言うことが正しいとして、だからどうなると言うのだ? 生きていく限り、あの子オオカミは肉を食わなければならない。それはつまり、いずれは他の動物……我々を襲いに来るということだぞ。そのときに何だ? お前は、まさか自分を差し出すつもりか?」
 同調する失笑や怒りが周りから浴びせられる。だが、マルテはシグルと、子オオカミとの一体感を力にして答えた。
「戦います」
「んん?」
「私は戦います、長老。私を生んでくれた両親のため、短い生涯を終えた姉のために、私は生きます。精一杯生きて、戦って、それでもいつかオオカミの牙にかかるときが来るかもしれない……そのときは、覚悟をします」
 その宣言にまたざわめくシカたちを長老は黙らせると、
「……勇ましいな、マルテ……お前の気持ちは分かった」
 と言い、集まった同胞に向かって、
「マルテの言う通り、我々は生きなければならん、戦わなければならん! 今夜のところは無事に済むかもしれんが、またいつオオカミが襲ってくるか分からん。早々に群れを立て直さなければならんぞ!」
 と、叱咤した。それによって生じた熱気にむせ返りそうになったマルテは、長老に賛同して高ぶる一群から抜け出し、少し疲れた足取りで林を歩いた。そして再び雪原に戻ると、降る雪に構わず樹林から出て、さく、さく、と雪を踏んで足跡を残しながら白銀の地を歩いた。すると、また山頂の方から幼い遠吠えが響いてきた。
(忘れないで……)
 立ち止まって向き直ったマルテは、山頂を仰ぎ見て一声鳴いた。鳴き声は雪が舞う夜空に響いて林に広がり、それに共鳴するように上がる遠吠えが山並みを越えていく。それにまたマルテは鳴き声を返した。
(――精一杯生きて、もしあなたと戦うことになって力及ばず死を迎えるときが来たら、そのときは潔くこの命を差し出しましょう。あなたにあげるのなら、きっと心残りは無いから――) 
 そして、マルテは再び聞こえた遠吠えに重ね、白く光る雪の中でひと際高く天へと鳴いた。
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