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86.静かな暴走(後)

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 膨大な魔力に圧され、声が出せない上に身動きも取れない。

(ちょっと、やだやだ、怖いんですけどー!)

 得たいの知れない魔法を使われる怖さに、悲鳴が喉の奥から出そうになっている。それなのに喉を震わせることすらできないでいた。
 詠唱を続けるヨナが、ふいに私の頬を両手で挟みこみ、視線を逸らさないように固定した。

『俺以外に関心を向けるな、リリアン・ギース』

 その声を聞いた瞬間の衝撃を、どんな言葉で表現できるだろうか。
 透明な水に絵の具を落としたように、心の中がヨナに対する好意で埋め尽くされていく。彼以外のことが全て塵芥ちりあくたのように価値のないものへと貶められ、生まれ育った実家のことも、大好きなお酒のことも、不要なものとして塗り替わっていく。

「ヨナ……、私、貴方のことを……」

 私は目の前にあるヨナの頬に手を添えた。互いに相手の頬に手を添える形で、きっとこれが恋人同士の距離感なんだろう。
 ただ、この関係を望んでいたはずのヨナの瞳が、何故か諦観に沈んでいることだけが妙に心の奥を引っ掻くような不安の陰を落としていた。

(だって、これが貴方の望みだったんでしょう……?)

 そのとき、パリン、と何かが砕けるような音が響いた。

🌸🌸🌸

「ダメンズ? 何それ?」
「え? 先輩知らないんですかぁ? 生活がだらしなかったり、ギャンブルしたり、お金遣いがおかしかったりする男性のことですよぉ」

 そんな話をしたのはいつのことだっただろうか。
 相手は3つ下の後輩ちゃんだ。ちょっと語尾を甘えた感じに伸ばす彼女の喋り方が、正直に言えば苦手だった。一部の男性社員にはウケていたようだけど。

「あぁ、ダメなメンズでダメンズなのね」
「そうなんですよぉ。ユマはぁ、彼氏にはしっかりしてもらって、ぐいぐい引っ張ってもらうのが希望なんですけどぉ、先輩みたいなしっかりタイプだと、そういうダメンズの方が好みなのかなってぇ」

 社会人にもなって、一人称が自分の名前なのも、彼女のことが苦手な理由の一つだ。これで似たような給料を貰っているのかと思うと、ちょっとだけモヤモヤする。

「イヤよ、面倒そうじゃない」
「そうなんですかぁ? 人によってはダメンズ製造機になってて、甘えてくれたり頼ってくれたりするのが嬉しいってなっちゃうみたいでぇ、てっきり先輩もそのタイプかなって」
「ないない」

 私は手をパタパタと振って見せた。
 ないない、そう思っていたのは本当だ。
 ただ、きっと……自覚がなかったんだろう。
 アイツに殺されてからこっち、アイツがダメンズと呼ばれても遜色ない生活および性格だったことを自覚した。後で気が付いても遅いけど。
 アイツは、パチンコ・競馬・競艇・競輪……およそ公的に認められている賭け事は一通り嗜んでいたと思う。負けが込んで、一時的に同棲状態になって食事の面倒を見たときもあった。逆に勝ったときは本当に気前が良かった。その落差に付き合うのがしんどくなって別れたけれど、

(今思えば、ばっちり後輩ちゃんの言う条件に当てはまってたわよね)

 頼られることが嬉しくなかったと言えば嘘だ。
 自分が手を差し伸べなければ、彼が大変なことになってしまう、と思い込んでいたのも確かだ。
 今の私なら「いっぺん痛い目見ろ」と切り捨てるだろう。だって、完全に自業自得だから。給料から生活に必要な分までギャンブルに注ぎ込むのは、はっきり言っておかしい。しかも、その帳尻合わせに交際相手を頼るのも人としてどうかと思う。
 けれど、あのときの私は「仕方がないわね」「私がいなかったらどうするつもりだったのよ」と苦言を呈しながらも、アイツを突き放すことはしなかった。

(その結果が、あの最期なんだから、我ながら始末に負えないわよね)

 アイツが私に賭け事……というか一攫千金を追う快感を教えこもうと誘ってきて、まぁ、宝くじぐらいなら、と思ったのが運の尽きだったんだろう。いや、それで一等前後賞が当たったんだから、それで尽きたというべきか。

 おそらく、橘華はアイツをダメンズとして増長させてしまった報いであんな最期を遂げる結果になってしまった。
――――なんて、綺麗ごとで締めくくる気はない。因果応報? そんな話じゃない。命を失う程の悪事を働いたとは思えない。私――橘華はまだまだ生きていたかった。未練なんて山ほどある。両親の老い先のこと、推しの今後を見守ること、可愛い姪っ子の成長を眺めること、大好きな刑事ドラマの続きを見ること、大きいことも小さいことも数え上げたらキリがない。
 あんな最期を迎えた橘華に残るのは恐怖でも哀しみでもない、理不尽に未来を奪われた怒りだった。

 いま、理不尽に心を縛られたリリアン・ギースの中で、いつもなら外界をただ傍観しているだけだった橘華が「ふざけるな」と拳を振り上げて叫んでいた。
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