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68.一歩ずつ

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「アイリ、夕食後に少し時間をもらえるかな」
「うん、構わないけど……ライの仕事は大丈夫?」

 夕食の席につくなり、そんなことを言われたけれど、夕食中は、ライのお勧めの本の話ばかりで、まるでわざと本題に触れないようにしているようで、なんだかもぞもぞとした。

「アイリ?」
「ううん、なんでもない。それで、その本の作者って確か――――」

 ペンネームをころころと変えるその作者は、彼(もしかしたら彼女かもしれない)の作品を追い続ける人にとっては、どうしようもない悪癖だと言える。何しろ、様々なジャンルの本を書く人で、ときには文体さえもがらりと変えてしまうのだ。そのくせ、どれも読者の意表を突く展開が多くて、心をひきつけてくる。その作者の虜になってしまったが最後、わずかな文章のクセを見極めるという変態的な探索能力を発揮しなければならない、とか。

「俺の場合は、出版する側の人間と良い関係を繋いだから、そんな苦労をすることもないんだけど、人によってはその年に出版される本すべてを買って真偽を見分けるほどの熱狂っぷりを見せるとか」
「それは……すごいね」

 何がすごいって、その熱狂している人もすごいけど、『関係を繋いだ』とさらりと言い放つライがすごい。絶対に暗示能力を有効活用していると思う。怖いから確認しないけど。
 そんな感じで、当たり障りのない会話に終始した夕食を終え、私はライに手を引かれて彼の私室へと向かった。

「アイリ」
「なぁに? ……っと」

 私室へ招き入れられた直後、私はライに強く抱きしめられていた。

「ごめん。そんなつもりじゃなかったんだ」
「そんなつもり……って、いきなり何の話?」
「血に慣れるために、ミーガンに頼み事をしただろう?」

 今日の昼の話だけど、予想以上に早くライの耳に入っていたらしい。てっきり、この件について何か言われるとしても、明日の朝だろうと思って油断していた。

「やっぱり、いきなり、えぇと、心臓の血とか、難しいと思ったのよ」
「アイリに負担をかけさせるつもりはなかったんだ。……ただ、一緒に生きていけたら、と思っただけで」

 私の背中に回されている腕に、ぐっと力が入る。
 何もしないままなら、私の方が早く逝く。それをどうにか回避したいというのは、きっと普通の考えだろうと思う。私だって、逆の立場なら、きっと少しでも長くいたいと思うだろう。

「ね、ライ。私は負担とか思ってないのよ?」
「……」
「私は、私がしたいから、ライの隣に立つために自分から考えてやろうと決めたの。だから、ライがそんなに気に病むことじゃないのよ」

 腕の中から見上げると、相変わらず端正な顔だけど、今は不安に彩られている。

「寿命がとんでもなく延びる、とか、他人の血を吸う、とか、確かに一般常識からかけ離れてしまってる。だから、私もちょっと尻込みしちゃってるところはあるわ。でも、ひとつずつ努力して乗り越える、そのことは普通の夫婦と何ら変わらないと思うの」
「ふう……っ」

 何故か夫婦というキーワードに、過剰に反応したライが、息を飲んだ。

「今更、何を言ってるのよ。もともと婚約者という形でここへ来たし、ライの親への挨拶も済んだわ。まぁ、成り行きみたいな感じで体の関係も持っちゃったわけだし、このまま夫婦に――――」

 頬に手を添えられて、貪られるように唇を吸われた。舌で口内を蹂躙され、阻害された呼吸にくらくらする。

「アイリ、……アイリ」
「ん、……は、ラ……イ――――」

 苦しくて、ライの腕をパシパシと叩いたところで、ようやく解放された。

「ごめん。ちょっと嬉しくて箍が外れかけた」
「……その箍はしっかりと点検しておいて? これから仕事でしょう? でも、嬉しくて、って、今更?」
「うーん、強引に婚約者として引き込んだ負い目もあったし、そもそも出会いからして性別を偽ってたから」

 自分で言っておきながら、本当に今更なことを引け目に感じていたようで、なんだか申し訳ない気分になる。いや、そんな不安を抱えさせたのも、私がちゃんとはっきり口にしなかったから、だろうか?

「あのね……、確かに初日から脱走とかやらかしてはいたけど、その、ちゃんとライのことは、そういうふうに見ているから、ね?」
「……そういう」
「あー、もう! だから、その、この先を望むぐらいには、……愛してる、から」

 恥ずかしさのあまり、小さな声になってしまったけれど、ちゃんとライの耳は拾ってくれていたようで、私はぎゅむぎゅむっと抱きしめられて、耳元で「俺も」と囁かれることになってしまった。いや、本当に今更だし、そんな言葉をほいほい使う性格でもないし、ただひたすらに恥ずかしいのよ!

「あのとき、アイリを見初めて……いや、アイリに声をかけてもらえて良かった」
「そんなことを言われると、まるで私が悪いみたいじゃない?」
「悪いのは俺だよ。アイリの知らないところでずっと見つめ続けてたし、金で買うように手元に置いた。だから、悪い俺の手を、しっかり掴んでいて欲しい」

 確かに。

(鏡を通じてずっと見られてたりとか、叔母夫婦のところからお金と引き換えに婚約を結ばされたとか、まとめると酷いわね)

 思わず納得してしまったけれど、でも、だからと言って、この手を、ぬくもりを手放すには、私は色々と知り過ぎてしまっている。

「これ以上、悪いことをしないように、しっかり監督しないといけないのね。大変だわ。テオさんみたくなられたら困るもの」
「……違いない」

 比較対象が悪かったのか、少し憮然とした様子だったけれど、ライは軽く触れるようなキスを、唇に、頬に、瞼に、額に、何度もしてきた。まるで、言葉の代わりに愛を伝えるように。

「あー、仕事したくない。このままアイリといちゃいちゃしてたい」
「身も蓋もないこと言わないの。仕事は大事よ?」
「分かってる。……でも、たまにはご褒美が欲しい」

 ぐ、と喉の奥が鳴った。
 褒美という表現を使っているけれど、望まれていることが一択なのは分かっている。

「わ、わかったわ。朝食の後、ここに来る、から」
「本当に!?」
「でも、やり過ぎはだめだからね! 明日はミーガンさんにお願いしてることがあるんだから!」
「分かってる! ちゃんと節度はわきまえるから!」

 一転して目を輝かせたライを執務室に送り出してから部屋に戻った私は、ふぅ、と一息ついた。
 窓の外を見上げれば、雲一つない空に煌々と月が昇っている。そういえば、初めてここへ来た日も、まん丸の月を見上げていた。

(変われば随分変わったものね)

 逃げ出す気満々だった初日のことを思えば、苦い笑みしか浮かばない。
 これから先、あの日逃げ切ってしまえば良かったと思う程、いろいろな苦難が待ち構えているだろう。何しろ平民の身で侯爵夫人に成り上がるわけだ。とんとん拍子にいくほうがおかしい。それに、結婚相手は普通の人間ではないし。

(それでもきっと、残って良かったと、捕まって良かったと思うようになるんだろう。……いや、違うか。そのために努力し続けるんだろうな)

 私で良かったと、そう言ってくれたライの隣に立つために。
 死にたがりの義父と、チャラい側近と、無骨な料理人兼庭師と、もう人には戻れないメイドと。
 数え上げればなかなか濃い面々だけれど、私は彼らとともに生きていく。そのために、努力し続ける。

(さしあたって、体力温存のために早めに寝ないと)

 朝食後のことを考えて、私は寝台に潜り込んだ。
 なお、腰をさすりながら、何とか解体に立ち会えた、とだけ言っておく。



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これにて本編終了となります。
ここまでお付き合いいただきありがとうございました。
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