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56.おとうさんのけいかく

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「君を巻き込んで悪いとは思う。できるだけアデライードに寄り添ってあげて欲しい。……まぁ、ちゃんとこの会話も忘れてもらうし、子どもをぽこぽこ産んでくれると、アデライードも楽になると思うから」

 荒んだ印象を振り切るように、再び笑みを浮かべるテオさんに、私は思わず立ち上がった。

「駄目だよ。ここまで聞いておいて逃がすわけがないだろう?」
「人の意思を無視した計画を勝手に話したのは、そちらのほう――――」

 どくん、と自分の鼓動が一際大きく聞こえた。しまった、と思っても遅い。私の視線はテオさんの赤い瞳に縫い留められたように動かない。

「大丈夫。ちょっと忘れたり、ちょっと心を後押しする程度だから」
(どこが大丈夫だっていうの!)

 そんなの許容できるはずもない。意志を捻じ曲げられるのもゴメンだし、性的に積極的になるとか恥で死ねる!
 けれど、私の体は動かず、視線はテオさんの瞳に魅入られたように凝視してしまっている。

(やだやだやだ……!)

 だいたい吸血を拒否するって何! そんな拒否反応とか見せたら、絶対にライが傷つく! そんなのはダメだって!

パリン

 グラスが割れるような音がした。いや、別に何も割れていないから幻聴だったのかもしれない。
 気づけば、私は動けるようになっていて、テオさんは目をこれ以上ないほど見開いていた。

「まさか……、いや、でも、確かに――――」

 茫然と呟くテオさん。何がどうなっているか分からないけど、とにかく体が動くなら、と私は廊下へ続く扉へと駆け出した。

「しまっ……捕まえろ!」

 私自身は大丈夫でも、物理的な力には抗えない。悲しいかな、邸に迎え入れられてからの運動不足を痛感する。
 食堂に控えていたメイドさん数名によって、私はあっさり拘束されてしまった。

「……まさか、いや、あんな話は眉唾だろう? 『真実の瞳』持ちなんて」

 何か呟きながら、テオさんはがっちり拘束された私の方へ近づいてくる。

「そんな情報は聞いていない。……は、本当にアデライードに付いたということか、リュコス」

 テオさんの手が私の顎をすくうように持ち上げ、至近距離で視線を交わさざるをえなくなる。覗き込んでくる赤い瞳に、全身がぞわぞわとした。

「うん、やっぱり暗示がかからない。困ったな。どうせ記憶も改竄できるからって、しゃべり過ぎちゃったな」

 どうしようか、と悩むテオさんの瞳が、再び妖しく光る。だけど、すぐに首を横に振り「うん、やっぱりだめだ」と零した。

「仕方ない。それなら――――」

 ドォン、と大きな音が響き、テオさんが顔をしかめた。重いものを叩きつけたような音が続き「予想より速い。まったく、誰も彼も僕の予想を超えてくるのはどういうことかな」と嘆息した。

「予定変更。こっちにおいで。君らは足止めよろしく」

 テオさんは私の拘束を解かせると、ひょい、と軽々と私を肩に担ぎあげた。
 私の体重を軽々と、という衝撃よりも、お腹に私の全体重がかかる衝撃に「ぐえ」と淑女らしからぬ声が出る。

「食堂を荒らされるよりは、僕の部屋の方がまだ痛みが少ない。最期まで付き合ってもらうよ」

 あぁ、ライに殺されるという基本方針は変わらないんだ、と私は遠い目になった。彼にとっての伴侶――ライのお母さんがどういう存在なのかは推測するしかないけれど、その人がもうこの世にいない以上、死にたがりなのは変えられないのだろうか。

(……本当に?)

 その最愛の存在の血を引くライは、どうでもいいの?
 なんだかモヤモヤする。ライは、父親のことを本当に憎むだけなんだろうか。父親に見て欲しかった欲求不満の裏返しということはないの? このままテオさんの目論見通りになって、誰が救われるの?
 本人でもないのに分かるわけがない。でも、私自身は、その結末は絶対誰も幸せにならない、と思っている。

(でも、それなら、私に何ができる?)

 分からない。なんか『真実の瞳』とかいうそれっぽい単語を出されたけれど、私はただ暗示にかかりにくいことしか分からない。それだけで、戦う力のない私に何ができる?
 テオさんの私室らしい場所へ連れ込まれ、荷物のように寝台に投げ転がされたところで、派手な振動と音がどんどん近づいてきているのに気が付いた。

「はー、どれだけ仕込んでいるんだか。詳細な場所までバレるのか」

 テオさんは壁に立てかけられていた長剣を手に取った。

「どうしてそんな物騒なものを部屋に置いてるんですか……」
「え? 単なる護身用だよ? こんな仕事をしてるとね、色々と恨みを買うもんだから」

 さも当然のように答えて長剣を抜き放ったテオさんは、にこりと笑った。

「大丈夫だよ。君には生きていてもらわないと困るからね」

 構えた剣の切っ先が扉に向けられるのと、扉が乱暴に開け放たれて、その向こう側にライの姿が見えたのは、ほとんど同時だった。

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