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54.観光で来たかった

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「……これは、ないわー」

 起きて最初のセリフがこれだ。いや、一応、意識を失う直前のことはしっかり思い出している。だから危機感がないわけじゃない。
 どこかハーブのような香りのするふっかふかのベッドで目を覚まし、どこかぼんやりした頭のまま、窓辺から外を見た途端、眠気が吹き飛んだ。
 小さな庭を挟んだ柵の向こうは、色々な人々が行きかう通りだった。活気のある通りの向こうには……おかしいなぁ、見覚えのあるお城が建っているのよね。おそらく何かの本を読んだときに、挿絵か何かで見たのだと思う。いつか自分の目で見てみたいなぁ、周りも栄えていて活気があるんだろうなぁ、……なんて思っていた夢が叶った。

「まぼろし、とかじゃないわよね。私、どれだけ寝てたのよ……」

 目を凝らしてみると、とても見慣れた紋章が描かれた旗が立っている。はい、確定。王城ですね。ここ、王都ですわ。

「お嬢様、お目覚めでしたら、どうぞお支度を」

 ノックもせずに入ってきたメイドが、私に見覚えのないワンピースを差し出してきた。一目でわかった。彼女もジェインと同じだと。

「ねぇ、聞きたいのだけど、ここって王都?」
「はい」
「元の邸に戻りたいんだけど、出て行っていい?」
「わたくしでは、判断できかねます」
「……その服に着替えなくてもいい?」
「お嬢様の今のお召し物ですと、主に対する礼に失するかと。どうぞ、お着がえください」

 余計なものをそぎ落とした返答に、やっぱりジェインと同じだと再確認する。
 私は今着ているものを見下ろした。寝間着に愛着はないし、薄着のまま出るくらいなら、提案に乗るしかないか。

「わかった。着替える。手伝いはいらないから、質問してもいい?」
「わたくしに答えられることでしたら」

 無表情・無感動な会話でも、とにかく情報を得られるならそれに越したことはない。私は寝間着を脱ぎながら、頭の中の疑問に優先順位を付けていく。

「ここは誰のお邸なの?」
「シュトルム候ヴァルーテオ様の邸宅です」
「ヴァルーテオさんは、いまこの邸にいるの?」
「はい。朝食の席でお嬢様をお待ちです」
「着替え以外に何か言付かっているの?」
「お支度の整ったお嬢様を、食堂へお連れするように、と」
「ここには他にシュトルム侯爵家の人はいるの?」
「いいえ、こちらでお過ごしなのはヴァルーテオ様だけとなります」

 矢継ぎ早に質問を重ねたところで、私の着替えが終わる。髪を整えるから、と鏡台の前に座らされたところで、ふと、ある疑問にぶち当たった。

(そういえば、ライのお母さんて、どんな人なんだろう)

「ねぇ、ヴァルーテオさんの奥様はこちらに住んではいないの?」
「奥様は既に鬼籍に入られております」
「……そっか」

 メイドさんは、頼んでもいないのに私の髪を複雑に編み上げたけれど、私の気持ちも複雑だった。
 ライのお母さんが既に亡くなっているというのは初めて聞いた。別にうちの両親も亡くなっているから、親を亡くしていること自体に何か感慨があるわけじゃない。ただ、伴侶を亡くしたテオさんの心境はどんなものなんだろう、と。

(やっぱり、テオさんは、ライが憎くて色々やらかしているようには思えない)

 甘いと思われるかもしれないけれど、息子であるライに取られるのが嫌だと思えるほどに侯爵の仕事が楽しいようにも思えないし、職能貴族、しかも罪人に関わる仕事というシュトルム侯爵家の権力がそこまで大きいなら、ライの元婚約者は何がなんでも結婚させられていたんじゃないかとも思える。

(とりあえず、話してみないと分からない、よね)

 テオさんは話の通じないタイプじゃないように見えた。あくまで私の主観だけど。
――――そんな決意とともに案内された食堂では、仕立て屋の助手に扮していたときとは段違いのオーラを身にまとったテオさんが座って待ち構えていた。ライと同じように、これほどの美形でありながら助手という形で埋没していたのは、暗示の成果なんだろう。

「やぁ、よく休めたかな」
「……強制的な招待、ありがとうございます」

 ぐっすり寝たけれど、それを正直に伝えることもはばかられて、なんとなく皮肉めいたセリフが口をついて出た。

「驚いたね。もっと怖がられるかと思っていたんだけど」
「それは、既にライを受け入れているから、多少の耐性があるおかげだと思います」

 向かい合わせの席に座り、配膳される食事をざっと見る。うん、特に気になるメニューはない。血の滴るような色のワインとか、生肉とか、そんなものが出てきたらどうしようかと思ったけれど、白身魚のソテーにスクランブルエッグ、生野菜のサラダに、白いスープはじゃがいもだろうか? パンはレーズンが練り込まれたライ麦パンだ。……うん、普通に美味しそう。

「もっと長く眠りについたままかと思ったから、急いで用意させたんだよ。口に合うといいんだけど」
「十分過ぎるメニューです。村にいた頃は、パンに加えてスープがあれば十分でしたし」
「あぁ、そうだったね。街から村に引き取られていったって話だったね」

 ちゃんと調査はできている、とばかりのセリフに、私の口の端がひきつった。ライはずっと鏡越しに確認していたと言っていたけれど、それすらもテオさんにお見通しだったのか、それとも後で調べたのか。

「どうぞ?」
「……遠慮なくいただきます」

 毒の類も考えないではなかった。でも、ここまで連れて来た後で、私に毒を盛る理由も考えられない。私をどうこうしたいのなら、ライの邸でサクッとできただろうし。
 そう考えてのことだったのに、本当に遠慮なく食事を始めた私を、テオさんが目を丸くして見ていた。

「まさか、本当に食べるとは思わなかったよ」
「食べ物を無駄にするなんて勿体ないですから。それに、ずっと無防備に寝ていたので、私を害するならいくらでもできたでしょう?」

 そう言ってやると、テオさんはくすくすと笑いだした。
 そんなに変なことを言ってないと思うのだけれど?

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