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第三部 港街の護り手たち

彼女(ファリー)のもとへ

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「あれが……、ボクのお母さん……?」

 隣で息を飲んで呟くスーを見る。戸惑いと憧れと恐れと不安の入り交じった表情をした彼女の、揺れている瞳の真ん中に映るものを見る。

「ああ……」

 彼女が見ている真っ白な輝きを、目の中でぼやけて震えて僅かに滲んでいるファリーの姿を。
 確かに夢の中でマグに寄り添っていた神秘的な白鱗。苦しげな声で鳴きながら夜空に立ち上る煙か靄(もや)のような存在を視認する。
 視認しているとはいったが、ファリーは感覚的に瞳の中に入ってくる一片(ひとひら)の雪のようなそんな存在として遠くにあった。
 咆哮からは想像しがたいほど、視覚的には繊細だ。
 
「……出ました! ファレルファタルムです! 隊長!」

「きゃっは! ドドンのぴっしゃりってやつ!」

 再びジンガの指示を促すカナンと、武器を構えて舌舐りをするミレイ。
 森を揺るがせた竜の声に吸い始めたばかりの煙草を一本持っていかれたジンガは、黙って俯き思案している様子だったが、二人の声に顔を上げれば、

「割れるぞ。カナン、イレクトリア、お前らでソイツを竜(あれ)まで運べ。ガキは置いてけ。ミレイ、シグマ、お前は俺とこのまま殲滅(ツブシ)だ」

 俺のことを顎で指して連れ添う二名を指名し、自身とあとの二名は残って魔物退治を続けるとの答えを出した。
 頷き合い二手に別れる皆を見ながら、夜空に羽撃(はばた)くファレルファタルムを見上げて唖然としているスーの手をシグマに預け、反対に持った剣を握り直す。

「先生っ……ボク……」

「俺に任せて。シグマさん、スーとアプスを頼みます」

 手のひらをシグマの大きな手に乗せられ、俺を心配そうに見上げるスー。彼女の頭を撫でると、シグマも頷いてスーに寄り添ってくれた。

「幸運のお守りです。どうぞお気をつけて」

 上品な相槌のあと、シグマは俺に右手中指にはめていた指輪を外し差し出した。人間よりも1.5倍ほど大きな彼の指に通っていた銀のリングは俺がつけるにはぶかぶかそうだ。受け取ったそれを眺めていると、

「行きましょう、教諭」

「あちらが済んだら合流しますね、隊長」

 俺に掛けられた声とジンガへの御意の言葉。
 俺の護衛に指名された二人のうち、カナンはジンガに相槌と目配せだけして俺を呼んだ。共に指名を受けたイレクトリアと言葉を交わすことはしない。

 魔法学校から歩いている間も特に会話を続けることなく俺には常に厳しい目でいたが、堅く真面目な彼女とおっとりとした雰囲気の副隊長とは反りが合わないといったところだろうか。剛と柔の正反対な印象通り、ジンガに対する態度も各々だ。

「はっ。テメェらの分なんか残んねぇよ。おい、クソトンボ。チンタラやってっと俺がテメェのケツごとトドメ刺しに行くかんな?」

「ケツって……はい」

 夢の話に重ねて、俺やスーの会話を何も言わずに聞いていたらしい。
 言い方はこの通りだがジンガは俺達にファリーを説得することを許し、任せてくれた。

 ただ、尋問の時に言っていた「殴りたくてうずうずしている」もまた本心のようで、説得にもたついたり失敗したら俺達ごと殴られそうでもある。いやこれは殴られる。下手したらスーの角の何倍も痛そうなあの腕に貫かれる。
 冗談半分で付け加えたのだろうが、正直ジンガならば本当にやりかねない気もする。そうなれば俺達も彼の足下のリッチな蛇革と同じ末路だ。

「ここはあーしらに任して。カナンちゃんたちはソッチ集中して! マグちんもね!」

「よろしく頼みます。ミレイ」

 ミレイの見送りを聞くより素早くカナンが俺の前を位置取り、剣の返り血をピンクの布で拭きながら歩く。

「教諭、道は私が開きます。遅れずについてきてください。雑魚は隊長達が引き付けます。貴方の後ろは副隊長が見ます。ファレルファタルムの所まで駆け抜けますよ」

 そう説明する間も彼女は気を抜かず、木の間から枝を割って飛び掛かってきた蟷螂(シザー)の一体を鋭い剣さばきで両断した。
 続けて向かい来る次の一体。鎌腕を身を屈めて避けるカナンに、俺も彼女にならって同じように攻撃をかわす。
 振り抜いた方向によろめく敵の隙をついて、カナンは敵の首を切り落とした。

 それを皮切りに湧いてくる小さな敵。蟷螂とも蜘蛛ともまた違う、人の頭大の黄色い花の花弁のみが浮いた魔物が複数、木の間から飛んできた。

「血吸花(トライフェード)です。臆さず振り切って、私に続いてください!」

 たったの数歩で二、三メートルの距離が開いてしまうほど彼女の歩みは堂々としていた。
 戦う術を得たといっても、握る剣を彼女のようには振るえない。攻撃を躱(かわ)すだけで精一杯の俺は、情けなくもなったがそう考えている余裕もなかった。

 アプスに目印を貰い、やっとのことで巨大昆虫と戦うことが出来るレベルの俺の歩みにはまだ迷いがある。
 魔法教師といえど専門外なのか、マグと彼女らとでは絶対的に魔物を相手にしてきた場数が違うのが明らかだと体も意思についてこない。
 適当に振り回しているだけでは都合良く敵を倒すことはできない。

「カナンさん! 待って……このっ!」

 噛みついてくる花の化け物に前髪を掠められながら、カナンを追う方向に前のめりになりそうだった重心を取り戻し、気持ちを落ち着けて頭上に手を上げ刃を振り下ろす。
 血吸花(トライフェード)と呼ばれた花の魔物はアプスの印が無くても俺一人で何とかなりそうだ。的が大きく思ったよりも動きも鈍い。ざくり。と、花弁の中心を二つに分けて切り離すと中から牙を迫り出して最期のあがきとばかりに俺の顔に食らいついて来た。

 冷静に、蟷螂と同じように剣を真横に振りぬいてとどめを刺す。緑色の血は枯草の匂いがした。

(よし! 倒せた、けど……)

 次第に開いていくカナンとの距離に焦ったところで、すぐには合流できない。
 行き先で剣を振るう勇ましい女性騎士の背中を追う。足の長さは身長もあるマグのほうが彼女よりも長いはずなのに、いくら大股になったところで追い付けない。

「くそっ!」

 前方から来る敵はカナンが先に排除し、後方から追ってくる分に関してはイレクトリアが魔法を使って応戦してくれている。
 俺も歩みを止めるわけにはいかない。

「邪魔するなよ……!」

 頭上から降るファリーの鳴き声が俺を呼んでいる。魔物の断末魔の間を縫って優しく気高い竜の母の声が俺には伝わって来ている。
 マグだけが見届けた彼女の最後の姿を思い浮かべながらもつれる足を一歩前へ、怖気づきそうになる気持ちを抑え込んで歯を食いしばれば、剣を握る俺の手の周りを光の帯が舞っている事に気が付いた。

 ――――――魔法辞典(スペルリスト)が俺に応えている。

 そうでなけばきっとマグの体が俺を応援でもしてくれているのだろうか。夜闇を払い除けるようにぶわりと開いた文字列の一覧。マグが俺に残した最高の魔法。羅列する呪文の一つを掴むと、手にした剣の刃の上を無数の言の葉が駆け上がってゆく。

 
 ーーーーまた、ここで魔法をやってみろ。
 彼(マグ)にそう言われているような、試されているような気がした。

 初めて路地裏で呼び出したときよりも、俺は今いくらか冷静に己が放つ魔法と向き合うことが出来ていた。
 ビアフランカに教えてもらった記録(ログ)の魔法の仕組みを、知識として吸収したことによる恐れや不安の軽減。
 マグの力は彼から俺に与えられ、ビアフランカが紐解いてくれたことで、この世界で生きるための大きな武器に変わる希望を持った。

(落ち着け……、よし)

 まず自分を信じることが、彼の体から魔法辞典(スペルリスト)を呼び出す一番最初の手順。
 剣を昇り刃の上を入れ替わりながら走り回る文字を見、深呼吸をしてまずは一つ数える。

 次に思い返すのは先程まで、アプスが模範を示してくれた目印になる光の球体。直近に見たイメージがすぐに浮かぶもの。
 ただし、脳内のイメージから直接魔法を呼ぶことが出来るのは空想(ビジョン)に適正のある魔法使いだけ。
 マグはそうではないから、近しい呪文を、自分の記録(ログ)を収めたものから取り出して一回ごとに行使しなければならない。

 あの時、路地裏でアプスの光の球を真似て魔法辞典(スペルリスト)から選んだのは強い閃光の爆発だった。
 路地裏での時は扱い方が解らず、咄嗟にその文字を捕まえて投げるように発動するしか出来なかった。
 だが、今は違う。と、深呼吸の最後に息を吸い直して二つ目を数える。

「いくぞ……! これだ!」

 三つ目を心の中で唱え、勢いに任せて片手を剣の刃に当て、剥ぎ取るようにして文字の一つを捕まえる。
 俺の呼び掛けに応えた魔法辞典(スペルリスト)を展開し、今再びマグの残した力を借りるべく、剣を持つ手を高く掲げた。

「頼む! ファリーの元まで道を開けてくれ、マグの……いや、俺の魔法!」

 捕まれた文字が粉塵を散らして夜闇に溶ける。
 見とれて二秒と僅か。次の瞬間には、剣が纏う光の帯たちが渦を巻き始めた。
 文字列から一部を奪われて出来た穴が、辺りの一帯全部の景色を吸い込むように激しく。

 躍り狂うような暴風に木々をざわつかせる様子は、ファリーの咆哮と同じように風を引き寄せていた。
 彼女と同様の竜の鳴き声が飄風と共に割れる景色の一線を画し、俺の頭上を抜けて響く。力強い竜の声は俺自身から出ているかのようだった。

眼前の道なき道に透明な空洞が現れ、世界が止まって見えた。散ったはずの文字が道標になって俺を風のアーチの中へ引き込む。

「えっ……!?」

 円形の風はそのまま角度を変えて立ち上がり、すぐに俺は木々を下に見ることになった。俺の体が夜空に一筋の光として打ち上げられたのだ。
 目映(まばゆ)く輝きを放ちながら地上を飛び立った俺を運ぶ風は、一直線に上空へと飛び上がり、揺らめいている月を割るために紺碧の間を走った。

 噴き上げた風は木々の蒼を駆け抜けて過り、瞬く間に俺は先を走っていたはずの女騎士の背中を追い抜いていた。
 風圧に舞った木の葉が細かい傷をつくり、寒気が切り傷の出来た肌に染み込む。

「教諭?! あなた一体何を……?!」

「ま、待ってくれ! カナンさん、これは! うわああああああーーーー!」

 事情を話している隙もない。吹き荒ぶ風が俺を運ぶ様子を見て魔物を切り裂いていた手を止めるカナンに掛けた声は、置いてきぼりをくらって遥か後ろで掠れて消えた。
 魔物を退け、先を走るカナンに追い付き、より早くファリーの元へ辿り着く。それを確かに望んで選んだ魔法ではあったのだけれど。

 相変わらず何が起きるか解らない。理解したつもりでいたのに、俺は魔法辞典(スペルリスト)にまたしても振り回されてしまっていた。

「ーーーーっ!!」

 クォォォォーー……!

 叫び声を渇らした俺がやっとの思いで唾を飲む音も掻き消される竜の鳴き声。振動。全身への衝撃。
 咄嗟にしがみついた場所は、真っ白な鱗が覆った太い尾の先端だった。
 夢の中で見た、目玉一つが俺の頭ほどもある巨大な竜が真上で羽ばたいている。
 スーと同じ灰色の尖った角と、空とそれ以外とを隔てるような広い翼を持つ空想上の生き物の体を俺は掴んで宙に浮いていた。

(なんてこった……いや、待て待て待て?!)

 両足が地上から離れた時どうなっていたのかも覚えていないほど素早い動作だった。思考がまるで追い付いてこない。思考以上に体も追い付いてこない。右足も左足も投げ出されていて、重力に逆らわず下を向いている。
 現在地は空を舞うファリーの長い尻尾の先。命綱は存在しない。俺は片手で彼女にぶらさがっていた。

(近い……!そして高い……! )

 バランスを取るので精一杯だ。自分の足を確認して下を見たのが間違いだった。心臓が縮んで胃にめり込んでいるような圧迫感。
 真下に広がる木々の合間を縫って駆け寄ってきているカナンが、手のひらサイズに見える。
 それだけ高いところに、一体俺はどうやって飛び付いたというのだろう。

 落ちれば一貫の終わりだ。こうなっては上を目指すしかない。もとより目的は眼前の真っ白な鱗肌の主なのだ。
 剣を持っていたために投げ出されていた片手を自身の胸へ引き寄せる。
 
「ファリー! なあ! 聞いてくれ! 俺と、話をしようーーーー……」

 振り落とされそうになるのを必死で堪え、顔を真上に向ける。
 渇れた喉から声をなんとか吐き出して声を掛ければ、大きな紫の目が俺を見下ろした。スーと同じ色の澄んだ宝石のような目が、俺の姿を捕らえて揺らぐ。

「マグ……? 貴方なのですか……?」

 上から聞こえてきたファリーの声は、夢の中と同じ穏やかな女性の声だった。
 動揺と困惑の入り混ざった問い掛けに、俺は腕に力を込めて彼女の体に足をかけ昇りながら答える。
 
「ああ! そうだとも!」

「本当に………………?」

 尾の揺れが止まる。
 彼女の鳴き声は既に完全に人の言葉に変わっていた。
 暴れまわる事を止め、俺との対話を選んでくれた。俺の呼び掛けに反応している。説得に成功したのか。
 水晶の爪が付いた長い指が俺の体を遠慮がちに摘まむ。
 ファリーは尻尾にしがみついていた俺をそっと掬い上げて鼻先を優しく寄せ、懐かしそうに匂いを嗅いだ。

「ああ。マグ、貴方に、……貴方に会いたかった。貴方を探して……」

 大きなてのひらに包まれながら、彼女の横顔を撫でる。
 空の上での再会。夢ではマグと再会するファリーを見ていただけだったが、今の俺は彼女と向き合うマグそのもの。
 一番間近で息遣いと温もりを感じていた。まだ少しだけ興奮しているのが触れている手を通して伝わってくる。


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