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第三部 港街の護り手たち
戦闘開始、初めての剣
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森の中、木々に囲まれた場所での戦闘。彼女が炎を纏って戦うには危険な環境であった。
銀蜂隊所属の女傑、カナン・ベルベット。焔鎧(えんがい)の異名を持つ騎士。その正体は炎の素質を込められた鎧に宿りし精霊の一体。
腰の細剣を引き抜き、放つ銀の一閃。頭の後で結んだ橙混じりの金髪を揺らし駆ける彼女の肩に光る防具。それこそがカナンの宿る焔鎧の一部。
王国騎士団の新設部隊長となったジンガに呼ばれ、共に銀蜂の証を受け取り騎士になるまで、とある富豪の屋敷に飾りとして置かれ人ではなく物として生きてきた女性。
否、カナンは女性ではなく物としての扱いを受けていた。
毎晩豪華な衣装を着せ替え人形のように取り替えられ、薄い化粧を施しては食事会の席へ参列させられる。
富豪らの自慢話と下卑た笑い話、悪趣味な女性関係の話題、狡賢い儲け話にギャンブルの勝ち筋の話。他愛が無いのではなく愛の無い枯れた痴話を笑顔で交わし合いながら一夜、また一夜。夜空や星も見えぬ締め切り湿った華美な部屋の中で酒瓶を傾けて周り続けた。
何処へ行こうにも富豪の所持品(コレクション)であった鎧から離れられない美しい少女は、人々の見せ物であり、時には慰みに利用されることさえもあった。
そんな毎日を送り、重ねて数えて十年目。十七歳になった日の翌日。
心を手放し泣く力も逃げ出す気力も無かったカナンに転機が訪れたのは、酷く破天荒な存在の彼に盗み出されたその日。
いつも通りの晩餐会に出席させられ、味の感じない食前酒を口につけようとしていたところ。
「いい女がこんなとこでいつまでも燻ってんなよ。焔鎧なら激しく燃えてなんぼだろうが」
会場に不似合いなしかめっ面をして男は彼女の細腕を掴み、彼女を縛り付けていた鎧の持ち主の前に出て言い放った。
「さらってくぜ。こいつはテメェみたいな犯罪者には勿体ねェ別嬪だ」
後に付き従う事になる部隊の隊長になる人物だとは思いもしなかった。
ジンガはカナンの目の前で彼女の所持者を検挙した。その時の富豪の罪状が何であったかはもう覚えてはいない。
自由への戸惑いを抱く己の真横を、黒い制服の騎士達が過って行ったことだけをカナンは鮮明に覚えている。
そうして、同じ制服の袖に彼女が腕を通すようになった今でもはっきりと脳裏に焼き付いて離れない衝撃。
焔鎧はその名の通り、あらゆる炎を吸収し、自身で纏う事ができる武具であるがカナン自身は炎の魔法に頼らずとも戦えている。
精霊でありながら数年で騎士の心得を得、戦闘術を身に付けた彼女は、武器を握って戦うことができる。
色濃く塗った赤のリップは彼女の決意の表れ。自身のため、部隊のために強い女性になった彼女が過去を切り離すため、未来に向けての願掛けでもある。
カナンは濃桃のマントを翻し、一人で的確に森に集まった魔物を狩っていく。
人の身丈の倍程ある蜘蛛の胸を貫き緑の血が弾ける。
「くっ! 侮るな!」
そのまま彼女の方に倒れ込んでくる魔物。長い節脚の爪が最後に自身を捕らえようと迫るのを寸でのところで躱(かわ)す。
一旦膝を着いてしまい、カナンは草を掴んで体勢を直し魔物に向き合おうと唇を噛む。
そこへ血飛沫の上を跳び跳ねる雷撃。魔物の血とは違う緑が眩(まばゆ)く光る味方の援護射撃。
「うぇーいっ。カナンちゃーん! おっ待たせ~!」
「ミレイ! 隊長達も御一緒で!」
カナンに駆け寄り大袈裟に手を振る猫耳少女。
彼女が担いでいるのは鉄剣の先端に砲銃が付いた機械都市からの輸入武器。つい今蜘蛛の魔物に向かって雷撃を放った銃口が熱されている。
ミレイは銃剣と呼ばれる改造武器を軽々と振り回す。
部隊で最も若く、素早い彼女は小柄な体格を活かして魔物の懐に飛び込むのが得意だ。
瀕死の蜘蛛を顎の下から貫き、
「そーれっ! ちゅどーんっっ!」
掛け声と共に銃口を引き雷を再び発射した。
爆発音。下顎が砕かれ頭が吹き飛び複数の目玉を八方に飛び出させながら魔物の体が崩壊する。
「ヒューゥ。見てた? ねね? マグちん達見てた?」
「かぁっこいい! ミレイさん! すごい! ねっ、先生!」
「え……、う、うん……」
爆砕した死骸を蹴って得意気に鼻を鳴らすミレイに振り向かれ、キラキラと目を輝かせるスーと、降り注ぐ虫の血の雨に引き気味なマグ。
「カナンさん。他の隊員達はどうしました?」
「別動に散らしています。観測砦(こちら)側は私だけで十分かと思いまして」
紙煙草を咥え黙って辺りの様子をうかがっているジンガに代わりイレクトリアが尋ねると、カナンは彼に振り向くことはせず不機嫌そうに答えた。
「森で見たとはいえどの位置からファレルファタルムが現れるかわからないですので、固まっているわけにはいきませんでしょう。副隊長」
言い方が少々突っぱねて聞こえるのは、元々の口調。その他にも彼女が抱く個人的な感情のせいである。
隊長に救われてから数年。
カナンの恋慕は長いことジンガに向いていたし、ジンガからも一目置かれていた。
銀蜂隊員どころか王国騎士団(バテンカイトス)のどの騎士以上に信頼は厚い。
カナンが化粧を濃くしたのも剣の鍛練に励んだのも自身のためとは言うものの、根底にはジンガを想ってのことがないわけではなかった。
本来であれば隊長に一番近しい位置で従事する立場になれていただろう彼女は、ただの数年前に別の部所から派遣されてきたこの優男をジンガが副隊長に任じた事を未だに受け入れられていないのだ。
「ひゃー。そこそこいんじゃん。んっとぉ……ノルマゎ……?」
倒した蜘蛛の魔物に足を掛けながらミレイが森の奥に目を細める。
暗がりでよく見えないといったように途中で不貞腐れる彼女に、
「蟷螂(シザー)の大群は一人あたり八頭。他にも大型モンスターが十数体といったところです。隊長、ご指示を」
先に一人で交戦していたカナンが補足する。
ジンガは煙草の終わりを噛み吸殻を捨てて踏みつけ火を消すと、空いた左腕を持ち上げて彼女らの視線の先を示し、
「例の竜(ファレルファタルム)が出るまで暴れろ! 自由に! 適当に! 騒げ! テメェら!」
制服の裏地の赤をはためかせて叫んだ。
「あっは。隊長、チョーざっくりでウケる」
「いつもの事ですけどね」
「ええ。もう十何年も前から隊長は変わりません」
ジンガの無き右腕には軽く金属を叩く音に合わせて光で構築した赤い腕が現れる。
御意の意思を発砲音に乗せるミレイが先陣を切って木々の合間を縫い走り、続けてその場で本を開くイレクトリア。また彼の台詞を肯定しつつ言い直すカナンも虫の血を肩の布で拭いとって、ミレイの揺れる尻尾に掴みかかるような勢いで先駆者を追う。
ファレルファタルムを誘き出す、夜闇に無闇な開戦の時だ。
彼らが退治しているのは昼間にも街道側に出現した人間大の蟷螂。カナンも呼んでいたが部隊内での通称はシザーという。
魔王亡き後にも港街外れから森林の内外で大量繁殖を繰り返す厄介な魔物で、国内全域におけるごく一般的なモンスターの一種類。
個体はさほど驚異ではないが数が多く、集団で行動し家畜を拐ったり、森で野生動物等を捕食し生態系に影響を与えるため定期的に問題視されている虫の化物だ。
驚異ではないのはあくまでも戦い慣れた騎士達にとってという意味であり、戦闘技術を持たない一般街民からしてみれば十分驚異の対象になりえる。
夜になり活発に動く虫達が今晩やけに一ヶ所に集合している理由は、彼等にとっての驚異である力ある存在……ファレルファタルムから身を守り合うため。
つまり、確実に例の竜が近くにいるということだ。
「御託はいらねェ! とにかく暴れて目立てよ! 奴を炙り出せ!」
「まぁーかしてって!」
「御意!」
理不尽な尋問で挙げていた怒声とは違うが声量は同じ、響き渡るようなジンガの号令にミレイとカナンが応答して競い合うように魔物に斬りかかる。
二人は緑色の血飛沫を背景に肥えた蟷螂達を薙ぎ、背中合わせでお互いの敵を見極めていた。
「調子が良いですね、ミレイ。そのままペース配分を怠らないように」
「カナンちゃんこそ! ノってんぢゃん! ばっちしついてきてよね!」
そんな女性騎士達から離れた位置でイレクトリアも本を開いて待機し、魔物の動向を見ながらページを捲っていた。本の中の物語を敵に合わせて読む必要がある彼の魔法の発動には時間がかかる。隙を探りながら物語を選んでいる様子だ。
(この人たち無茶苦茶だ。作戦も何もなく、ただ森の中に群がっている魔物を無差別に退治するだけなんて……)
一体何を考えているのだろう。
マグは、愉快そうに笑って部下達に指示するジンガの背中を見て疑いの目を向けるしかなかった。
「あ、あの……ジンガさん、もっと具体的に作戦とかって立てないんですか……?」
「作戦? んなもんねェよ。いちいち言わすな。ってか、クソトンボが意見するな。隊長は俺だ」
「は、はい……」
マグの不審を面倒そうに一蹴にし、それ以上の発言を許さないジンガ。
(別に俺は銀蜂隊の隊員でもないんだけどな……)
「教諭、ストランジェット。いいですか?」
彼に代わり説明をしてくれたのは、同じく銀蜂隊所属ではない一般街民でありながらこれから彼らの戦闘に加わろうとマグ達の横で指を組みパキパキと鳴らしていたシグマ。
「私の店へ来たファレルファタルムは街で一日中人探しをして歩き回っていた、と言っていました。彼女が森に降りた事はカナン達が目撃しています。そして、ミレイの話では森に近付いた人々、特に貴方がた位の男性や子供を傷付けているそうです」
つまり。と、シグマとジンガの鋭い眼差し二対がマグとスーに同時に向けられる。
「まさか……? ファリーの目的は俺達?」
「ぼ、ボクと先生を探してるの……?」
声を重ねて互いを指し示し驚く。
「腐った脳味噌で見たんだろ? ファレルファタルムの最期の姿がテメェの言う夢の通りなら、奴のアテはテメェらしか浮かばねぇ。それはテメェ自身がよく解ってんじゃあねェのか。先公さんよ」
「夢? 何それ、先生ボク初耳なんだけど……」
マグが見たとジンガ達に懸命に訴えた夢の内容……ファレルファタルムの身にあったことや、最後に彼女と面会していたのはマグだったということ。
ジンガはマグを信用していないと口では言っていたものの、尋問中の話を一字一句逃さず真剣に聞いていたのだ。あの態度で夢の話に耳を貸してくれていたとは思っていなかったマグはほんの少し彼を見直した。
シグマもまた、スーと面影を重ねファレルファタルムを彼女の母親だと断定して話を彼らにしていた。
これまでの経緯を振り返り、言葉に出して交わしてきた情報がマグの中で一致する。
ファレルファタルムは己が死ぬ前に、最期にあった愛すべき人間を、一体どんな思いで探しているというのだろうか。
彼女にも、スー達と同じようにもう一度マグに会いたいという思いがあるのだろうか。
「ねぇ、先生。ファレルファタルムはボクのお母さんなんでしょ? シグマさんやミレイさんがそう言ってたの……」
頭を抱えそうになるマグの隣で彼の服袖をくいっと引っ張り、心配そうな顔で覗き込むスー。
「……ボクお母さんのこと、知りたい。だから、先生の力を貸して欲しい」
控えめな声ではあるがその意思ははっきりとして固い。
袖を片手でひっぱったまま、迷っているマグの手を握って続ける彼女の言葉に頷き、
「勿論だ、スー。俺ら二人でファリーと話をしよう。そのためにも……」
マグも顔を上げて返事をし、スーと視線を交わしてからシグマの方を見る。
「そう、そのためにも……」
だが、シグマは振り向かずに頷くのみで、暴れまわっているミレイ達の更に先に現れた大きな魔物へ注意を向けていた。
蟷螂(シザー)の群れの奥に双頭の大蛇が見える。赤い舌をヒラヒラさせながら向かってくるそれはマグにもはっきりと視認することが出来た。
「あれはアンバーマーク殿に任せて我々は場所を変えますよ。戦えますか? 教諭」
「え? 戦うって言っても、俺……」
「貴方自身と貴方の生徒。アプシスフィアとストランジェットを守ってください。私もお手伝いします」
「戦え(ヤレ)っつったらヤんだよアホ。テメェは一々言うことに行動が伴ってねェな」
シグマの問いかけに戸惑う仕種。思うように発動出来ない魔法辞典(スペルリスト)でどう戦えばよいのかと、手のひらを見て下向きになるマグに頭上から一喝。
更に面倒そうな舌打ちまでもが飛ばされてきた。
「ったく、イレクトリア」
ジンガがマグを片手で小突いて顎の先で合図する。
前方で呪文探しに集中していたイレクトリアが頷いて振り向き、
「どうぞ、教諭! お貸しします」
腰に提げていた長剣を鞘ごと外してマグの方へ放り投げた。
嘘発見器を取り付けた時には持っていなかった武器はいつ調達したのだろうと、マグは思って唖然とする。
「お使いください。港街(ファレル)で一番の鍛冶師に打たせた名剣ですよ」
「わわっ! お、お借りします……」
イレクトリアから投げ渡された剣を取り零しそうになりながらも掴む。手に取り、マグはそれをじっと見つめた。質素で何処にでもありそうな鋼のつるぎだ。
この世界で初めて武器を手にしたマグでさえありふれた一本だということが解る程の。
だが、マグにとってはイレクトリアが嘘をつき、どんなに安物の剣を寄越したことを知ったところで関係ない。
この剣を振り戦うこと……武器の扱い方を知らないことのほうが問題だった。
彼が困り顔になっていたのを察知していたのだろう。
「教諭、剣の基本を……」
「僕が先生をサポートします。シグマさん」
シグマが声を掛けところで、隣のアプスが割り込んだ。
「……その方がよさそうですね。頼みます、アプシスフィア」
「はい。では、先生」
アプスのジェスチャーに従いマグは鞘から剣を引き抜く。
抜き出した白刃は真っ直ぐ、傷一つ無く真新しい。名剣と言っていたが実際は、昼間イレクトリア達がファレルファタルムと交戦した際に壊した剣の代替品であることは明白だ。打たれてから日も浅く、使われるのも今が初めての新品であった。
「深呼吸してください、マグ先生」
アプスがぴったりと後ろへつき、マグの腕の震えを止める。
こちらへ向かい来る蟷螂(シザー)の一匹を指し、
「敵の急所を突いて思い切り振り抜きます。一振で空を見て、風を詠む。空(くう)を薙いで、風(ふう)を食む……」
「アプス、お前……剣を握ったことが無いって言ってたのに……」
「か、仮にも僕は剣の精霊です。自分で戦えなくたって剣の扱い方は解りますよ!」
これまで全く戦いに関与していなかったアプスだが、今の表情は迷いの一切を忘れたかのよう。
路地裏でスーが人質になった際、自分にはスーを救えないとマグに懇願していた顔ではなく、今度は己がマグに期待をかけるような。
そんな顔で側に寄り添い、剣の切っ先に片手を翳せば、
「僕が敵に印をつけるのでそこを狙ってください」
初めて出会った時に扱っていた魔法と同じ、手元をふわりと照らし出す光の玉を発現させ、剣の上を滑らせて光らせる。
「ああ! やってみる!」
「まったく……これじゃあどっちが先生だかわかんないですね」
頷いて身構えるマグにアプスは少し嬉しそうに笑いながら、向かい来る敵へ片手を振り上げて言った。
「はぁっ!」
アプスが放った手のひら大の光の玉が一匹の巨大蟷螂の頭上を掠める。
翻弄されるように複眼をぎょろぎょろ動かし敵が光を追えば、それは触覚の間を下がり鼻先をつついて蟷螂の首の下で停止した。
「今です! 行ってください先生!」
もとの世界でも武器を振り回すなんて日常は滅多になかっただろうし、この世界で剣を握るのは初めてだったが、不思議と緊張はしなかった。
すぐ傍にアプスがついてくれているからだろうか。路地裏で、自分では戦えないと言っていた彼が、とても頼もしく今は思える。
仕組みは解らなかったが、武器についている精霊というものの特別な力があるんだろう。
剣を持つ俺の手に触れ、アプスが攻撃の合図をしてくれたその時。
「よし……! はあっ!」
彼から離れ一人、草影から隙をついて蟷螂(シザー)の喉元へ飛び出る。
距離を一気に詰めると、横向きに生えた歯牙が俺の頭の上でガチッと鳴った。敵の唾液が飛沫になって降りかかるのを間一髪かわし、俺の一撃を待ってくれていた光の玉を目掛けて突き刺す。
虫の装甲を突き破って、俺の剣が敵の急所に入った。
「…………ぐっ!」
役目を終えた光が破裂して無くなると、喉を斬られた敵から緑の血が噴き出す。
肉に刺さっている重い感触が刃から伝う。流れてくる血を払うようにして真横に剣を振り抜く。
ビチャッ。と、雑草に跡を付けた血糊を追って俺の重心が傾き、刃が下を向いて肩の力がかくんと抜けた。
(や、やった……なんとか倒せた……)
切っ先を引きずりながら息を吐く。
首を裂かれて崩れた死骸を見ると、額から温い汗が落ちてきて、無意識に拭った。
「やれば出来るじゃないですか」
草影から見守っていてくれたアプスがひょっこりと顔を出して言う。少し驚いたような表情でいる彼に、
「はは……まぁね。アプスのおかげだよ……」
「い、いえ。それは……」
笑いかけると照れてそっぽを向いた。
素直じゃない。けれども、彼が剣の精霊で他人のサポートが出来ることは確かだ。と、俺は感心してありのままに告げたつもりだったのだけれど。
「良いですね。教諭、アプシスフィア」
別の敵に最後の一撃になる回し蹴りをくらわせながら、こちらの様子を見ていたシグマも目配せをくれた。
彼のことは料理店のオーナーとしての顔しか知らなかったので、モンスターを足技でばったばったと倒している様は、正直どんな粋の良い魚よりも新鮮に映る。
犬頭の真っ黒な唇角がにっと引き上がる。表情筋が貧しいと思っていたシグマが笑っている光景に、俺はちょっと驚いてしまった。
足元に転がったいくつかの巨大昆虫の死骸を踏まないように歩き、辺りを警戒しながらスーの手を引く。
「離れるなよ、スー」
「うん。……! 先生、あっくん、あっち! 見て……!」
スーが興奮気味に指し示した先でジンガが双頭の大蛇と対峙していた。
森の木々よりも背の高い蛇。太い胴の途中で二股に割れた首を揺らしながら、ジンガと睨み合っているそれは蟷螂達と別の種族のモンスターのようだ。
反射板のように時々ギラリと光る金色の目は真っ直ぐで細い瞳孔を縮めており、威嚇に開けられた口の鋭い刺牙もまた石灰のように夜闇に浮かんでいる。
離れた位置からでも巨大さが解るのは這いずる度に地鳴りがするからであろうか。
いずれにせよ生身の人間が太刀打ち出来るような相手ではなさそうだ。
体格が良いとはいえ大蛇から見ればヒトの規格である以上ジンガでも一呑みにされてしまうだろう。
「ジンガさん……! 加勢に行かないと……!」
「邪魔しないほうがいいですよ教諭。隊長は獲物を横取りすると根に持ちますから」
スー達と一度頷きあってからジンガの方へ向かおうとしたところで聞こえたのは、イレクトリアの落ち着き払った声。
振り向き見れば、彼は尖った茨を開いた書物と手指から発現させて雑魚を一掃しているところだった。
小間切れになった蟷螂の肉片を払い、魔法で編み出した棘を腕からほどきながら、「それに」と続け、
「あの程度の魔物に加勢なんて必要ありません」
口元だけで笑っているシグマと視線を交わして付け加えた。
「あの程度って……」
二人が背を向け別の敵に集中を始めると、睨み合っていた魔物とジンガが同時に動いた。
ジンガの体の向こう側に朱色に閃く槍のようなものが見える。だが、ジンガには武器を握る片腕が無かったはずだ。
彼の武器は槍などではなかった。
ジンガの武器は戦う前の何等かの合図の際に右腕として形成されていた真っ赤に発光する大きな腕で、槍のように見えた突出した形はそこについた爪だった。
手指と同じように五本の爪。爪といっても厚さや長さが刀身並みにあるものが、俗に言うビームサーベルのように発現して備わっていた。
「あ、あれがジンガさんの手……?」
ジンガが赤い腕を振り上げる。
「来いよ」
大蛇の方ももたげていた鎌首に勢いをつけ、一気に二つの口で食いかからんとし彼に襲い掛かった。
だが、それを最後に蛇の開いた口が再び綴じられることはもうない。
俺が瞬きをした直後、振りかぶったジンガの右腕が蛇の片方の上顎を掴まえたかと思うと、次のまばたきの頃には既にもう片方の頭に牙を突き刺して息絶えてしまっていた。
あっという間のあの発音をする隙すら無い。
まるで双頭の頭同士が共食いでもしたかのような、噛み付き合った状態の死骸が一つそこに出来上がっていた。
重ねた頭を赤い爪で串刺しにし、
「……ったく。つまんねぇな。どいつも見かけばっかじゃねぇか」
ぼやきながら空いている左手で懐から出した煙草をすぐに咥え一服を始めるジンガ。倒した魔物の死骸はまるで最初から製品に加工する前の蛇革の山だったかのように黙っていた。
十メートル以上の長大な大型魔物を糸も容易く仕留めた我らの大将を仰ぎながら、
「ゥチの隊長チョー強いっしょ?」
行く先でカナンと競うように戦っていたミレイが戻ってきて、誇らしげにウィンクを投げてきた。
「すごくお強いね! 一瞬だった……で、でも、先生だって負けてないよ!」
言葉遣いを最初に会ったときに正してやっておけばよかった。
スーは間違った言葉で言って羨望の眼差しをジンガに向け、ミレイに頷き返しながら俺の腕にしがみついた。
「ねっ? 先生」
「あ、ああ……」
スーには悪いがそんな風に期待の目を向けられても、俺のへっぴり腰チャンバラとは違いすぎる。比べるでもない。
流石に騎士……この世界では警察や軍人等に近しい存在と言ったところか。
ジンガ以外の銀蜂隊のメンバーも戦闘に長けていると思っては、隊長はまた格が違うようだ。
そう思いながらジンガの横顔を眺めていると、彼が口にしていたたった今点けたばかりの煙草の煙が消える。
消えたのは煙だけではない。ざわめいていた虫の魔物も、夜の騒ぎに起き出した動物達も、まるで森中の時間が止まったように静かになり、音という音が無くなってしまった。
「…………?」
黙っている皆を振り返り見ようとした時、急激に風の流れが変わる。
オオォォォォォォーーーーーー…………!
呻きのような高い竜の咆哮が響き、冷たい夜風に乗って森中に広がる。
大蛇が這いずるよりも更に大きな揺れが起き、雑木達が風を受けてぶわりと一気に凪がれる。
両耳を塞いでも鼓膜を支配する鳴き声に、体が痺れるような感覚。
長く、咽ぶように、哀れむように、悼むように竜が悩ましく哭くのを聞いて、俺の中で心臓が小さく細かく軋む。
(……間違いない。ファリーだ!)
夜が支配する背景に立ち上る弧月のごとく。神秘的な彼女の真っ白な姿が、視界の先に映り込む。
俺の夢でマグと共にあった美しい白銀に身を包む大竜。
瞳の奥に焼き付けていたあのままの姿が、俺達の行く手を示す上空先に現れた。
銀蜂隊所属の女傑、カナン・ベルベット。焔鎧(えんがい)の異名を持つ騎士。その正体は炎の素質を込められた鎧に宿りし精霊の一体。
腰の細剣を引き抜き、放つ銀の一閃。頭の後で結んだ橙混じりの金髪を揺らし駆ける彼女の肩に光る防具。それこそがカナンの宿る焔鎧の一部。
王国騎士団の新設部隊長となったジンガに呼ばれ、共に銀蜂の証を受け取り騎士になるまで、とある富豪の屋敷に飾りとして置かれ人ではなく物として生きてきた女性。
否、カナンは女性ではなく物としての扱いを受けていた。
毎晩豪華な衣装を着せ替え人形のように取り替えられ、薄い化粧を施しては食事会の席へ参列させられる。
富豪らの自慢話と下卑た笑い話、悪趣味な女性関係の話題、狡賢い儲け話にギャンブルの勝ち筋の話。他愛が無いのではなく愛の無い枯れた痴話を笑顔で交わし合いながら一夜、また一夜。夜空や星も見えぬ締め切り湿った華美な部屋の中で酒瓶を傾けて周り続けた。
何処へ行こうにも富豪の所持品(コレクション)であった鎧から離れられない美しい少女は、人々の見せ物であり、時には慰みに利用されることさえもあった。
そんな毎日を送り、重ねて数えて十年目。十七歳になった日の翌日。
心を手放し泣く力も逃げ出す気力も無かったカナンに転機が訪れたのは、酷く破天荒な存在の彼に盗み出されたその日。
いつも通りの晩餐会に出席させられ、味の感じない食前酒を口につけようとしていたところ。
「いい女がこんなとこでいつまでも燻ってんなよ。焔鎧なら激しく燃えてなんぼだろうが」
会場に不似合いなしかめっ面をして男は彼女の細腕を掴み、彼女を縛り付けていた鎧の持ち主の前に出て言い放った。
「さらってくぜ。こいつはテメェみたいな犯罪者には勿体ねェ別嬪だ」
後に付き従う事になる部隊の隊長になる人物だとは思いもしなかった。
ジンガはカナンの目の前で彼女の所持者を検挙した。その時の富豪の罪状が何であったかはもう覚えてはいない。
自由への戸惑いを抱く己の真横を、黒い制服の騎士達が過って行ったことだけをカナンは鮮明に覚えている。
そうして、同じ制服の袖に彼女が腕を通すようになった今でもはっきりと脳裏に焼き付いて離れない衝撃。
焔鎧はその名の通り、あらゆる炎を吸収し、自身で纏う事ができる武具であるがカナン自身は炎の魔法に頼らずとも戦えている。
精霊でありながら数年で騎士の心得を得、戦闘術を身に付けた彼女は、武器を握って戦うことができる。
色濃く塗った赤のリップは彼女の決意の表れ。自身のため、部隊のために強い女性になった彼女が過去を切り離すため、未来に向けての願掛けでもある。
カナンは濃桃のマントを翻し、一人で的確に森に集まった魔物を狩っていく。
人の身丈の倍程ある蜘蛛の胸を貫き緑の血が弾ける。
「くっ! 侮るな!」
そのまま彼女の方に倒れ込んでくる魔物。長い節脚の爪が最後に自身を捕らえようと迫るのを寸でのところで躱(かわ)す。
一旦膝を着いてしまい、カナンは草を掴んで体勢を直し魔物に向き合おうと唇を噛む。
そこへ血飛沫の上を跳び跳ねる雷撃。魔物の血とは違う緑が眩(まばゆ)く光る味方の援護射撃。
「うぇーいっ。カナンちゃーん! おっ待たせ~!」
「ミレイ! 隊長達も御一緒で!」
カナンに駆け寄り大袈裟に手を振る猫耳少女。
彼女が担いでいるのは鉄剣の先端に砲銃が付いた機械都市からの輸入武器。つい今蜘蛛の魔物に向かって雷撃を放った銃口が熱されている。
ミレイは銃剣と呼ばれる改造武器を軽々と振り回す。
部隊で最も若く、素早い彼女は小柄な体格を活かして魔物の懐に飛び込むのが得意だ。
瀕死の蜘蛛を顎の下から貫き、
「そーれっ! ちゅどーんっっ!」
掛け声と共に銃口を引き雷を再び発射した。
爆発音。下顎が砕かれ頭が吹き飛び複数の目玉を八方に飛び出させながら魔物の体が崩壊する。
「ヒューゥ。見てた? ねね? マグちん達見てた?」
「かぁっこいい! ミレイさん! すごい! ねっ、先生!」
「え……、う、うん……」
爆砕した死骸を蹴って得意気に鼻を鳴らすミレイに振り向かれ、キラキラと目を輝かせるスーと、降り注ぐ虫の血の雨に引き気味なマグ。
「カナンさん。他の隊員達はどうしました?」
「別動に散らしています。観測砦(こちら)側は私だけで十分かと思いまして」
紙煙草を咥え黙って辺りの様子をうかがっているジンガに代わりイレクトリアが尋ねると、カナンは彼に振り向くことはせず不機嫌そうに答えた。
「森で見たとはいえどの位置からファレルファタルムが現れるかわからないですので、固まっているわけにはいきませんでしょう。副隊長」
言い方が少々突っぱねて聞こえるのは、元々の口調。その他にも彼女が抱く個人的な感情のせいである。
隊長に救われてから数年。
カナンの恋慕は長いことジンガに向いていたし、ジンガからも一目置かれていた。
銀蜂隊員どころか王国騎士団(バテンカイトス)のどの騎士以上に信頼は厚い。
カナンが化粧を濃くしたのも剣の鍛練に励んだのも自身のためとは言うものの、根底にはジンガを想ってのことがないわけではなかった。
本来であれば隊長に一番近しい位置で従事する立場になれていただろう彼女は、ただの数年前に別の部所から派遣されてきたこの優男をジンガが副隊長に任じた事を未だに受け入れられていないのだ。
「ひゃー。そこそこいんじゃん。んっとぉ……ノルマゎ……?」
倒した蜘蛛の魔物に足を掛けながらミレイが森の奥に目を細める。
暗がりでよく見えないといったように途中で不貞腐れる彼女に、
「蟷螂(シザー)の大群は一人あたり八頭。他にも大型モンスターが十数体といったところです。隊長、ご指示を」
先に一人で交戦していたカナンが補足する。
ジンガは煙草の終わりを噛み吸殻を捨てて踏みつけ火を消すと、空いた左腕を持ち上げて彼女らの視線の先を示し、
「例の竜(ファレルファタルム)が出るまで暴れろ! 自由に! 適当に! 騒げ! テメェら!」
制服の裏地の赤をはためかせて叫んだ。
「あっは。隊長、チョーざっくりでウケる」
「いつもの事ですけどね」
「ええ。もう十何年も前から隊長は変わりません」
ジンガの無き右腕には軽く金属を叩く音に合わせて光で構築した赤い腕が現れる。
御意の意思を発砲音に乗せるミレイが先陣を切って木々の合間を縫い走り、続けてその場で本を開くイレクトリア。また彼の台詞を肯定しつつ言い直すカナンも虫の血を肩の布で拭いとって、ミレイの揺れる尻尾に掴みかかるような勢いで先駆者を追う。
ファレルファタルムを誘き出す、夜闇に無闇な開戦の時だ。
彼らが退治しているのは昼間にも街道側に出現した人間大の蟷螂。カナンも呼んでいたが部隊内での通称はシザーという。
魔王亡き後にも港街外れから森林の内外で大量繁殖を繰り返す厄介な魔物で、国内全域におけるごく一般的なモンスターの一種類。
個体はさほど驚異ではないが数が多く、集団で行動し家畜を拐ったり、森で野生動物等を捕食し生態系に影響を与えるため定期的に問題視されている虫の化物だ。
驚異ではないのはあくまでも戦い慣れた騎士達にとってという意味であり、戦闘技術を持たない一般街民からしてみれば十分驚異の対象になりえる。
夜になり活発に動く虫達が今晩やけに一ヶ所に集合している理由は、彼等にとっての驚異である力ある存在……ファレルファタルムから身を守り合うため。
つまり、確実に例の竜が近くにいるということだ。
「御託はいらねェ! とにかく暴れて目立てよ! 奴を炙り出せ!」
「まぁーかしてって!」
「御意!」
理不尽な尋問で挙げていた怒声とは違うが声量は同じ、響き渡るようなジンガの号令にミレイとカナンが応答して競い合うように魔物に斬りかかる。
二人は緑色の血飛沫を背景に肥えた蟷螂達を薙ぎ、背中合わせでお互いの敵を見極めていた。
「調子が良いですね、ミレイ。そのままペース配分を怠らないように」
「カナンちゃんこそ! ノってんぢゃん! ばっちしついてきてよね!」
そんな女性騎士達から離れた位置でイレクトリアも本を開いて待機し、魔物の動向を見ながらページを捲っていた。本の中の物語を敵に合わせて読む必要がある彼の魔法の発動には時間がかかる。隙を探りながら物語を選んでいる様子だ。
(この人たち無茶苦茶だ。作戦も何もなく、ただ森の中に群がっている魔物を無差別に退治するだけなんて……)
一体何を考えているのだろう。
マグは、愉快そうに笑って部下達に指示するジンガの背中を見て疑いの目を向けるしかなかった。
「あ、あの……ジンガさん、もっと具体的に作戦とかって立てないんですか……?」
「作戦? んなもんねェよ。いちいち言わすな。ってか、クソトンボが意見するな。隊長は俺だ」
「は、はい……」
マグの不審を面倒そうに一蹴にし、それ以上の発言を許さないジンガ。
(別に俺は銀蜂隊の隊員でもないんだけどな……)
「教諭、ストランジェット。いいですか?」
彼に代わり説明をしてくれたのは、同じく銀蜂隊所属ではない一般街民でありながらこれから彼らの戦闘に加わろうとマグ達の横で指を組みパキパキと鳴らしていたシグマ。
「私の店へ来たファレルファタルムは街で一日中人探しをして歩き回っていた、と言っていました。彼女が森に降りた事はカナン達が目撃しています。そして、ミレイの話では森に近付いた人々、特に貴方がた位の男性や子供を傷付けているそうです」
つまり。と、シグマとジンガの鋭い眼差し二対がマグとスーに同時に向けられる。
「まさか……? ファリーの目的は俺達?」
「ぼ、ボクと先生を探してるの……?」
声を重ねて互いを指し示し驚く。
「腐った脳味噌で見たんだろ? ファレルファタルムの最期の姿がテメェの言う夢の通りなら、奴のアテはテメェらしか浮かばねぇ。それはテメェ自身がよく解ってんじゃあねェのか。先公さんよ」
「夢? 何それ、先生ボク初耳なんだけど……」
マグが見たとジンガ達に懸命に訴えた夢の内容……ファレルファタルムの身にあったことや、最後に彼女と面会していたのはマグだったということ。
ジンガはマグを信用していないと口では言っていたものの、尋問中の話を一字一句逃さず真剣に聞いていたのだ。あの態度で夢の話に耳を貸してくれていたとは思っていなかったマグはほんの少し彼を見直した。
シグマもまた、スーと面影を重ねファレルファタルムを彼女の母親だと断定して話を彼らにしていた。
これまでの経緯を振り返り、言葉に出して交わしてきた情報がマグの中で一致する。
ファレルファタルムは己が死ぬ前に、最期にあった愛すべき人間を、一体どんな思いで探しているというのだろうか。
彼女にも、スー達と同じようにもう一度マグに会いたいという思いがあるのだろうか。
「ねぇ、先生。ファレルファタルムはボクのお母さんなんでしょ? シグマさんやミレイさんがそう言ってたの……」
頭を抱えそうになるマグの隣で彼の服袖をくいっと引っ張り、心配そうな顔で覗き込むスー。
「……ボクお母さんのこと、知りたい。だから、先生の力を貸して欲しい」
控えめな声ではあるがその意思ははっきりとして固い。
袖を片手でひっぱったまま、迷っているマグの手を握って続ける彼女の言葉に頷き、
「勿論だ、スー。俺ら二人でファリーと話をしよう。そのためにも……」
マグも顔を上げて返事をし、スーと視線を交わしてからシグマの方を見る。
「そう、そのためにも……」
だが、シグマは振り向かずに頷くのみで、暴れまわっているミレイ達の更に先に現れた大きな魔物へ注意を向けていた。
蟷螂(シザー)の群れの奥に双頭の大蛇が見える。赤い舌をヒラヒラさせながら向かってくるそれはマグにもはっきりと視認することが出来た。
「あれはアンバーマーク殿に任せて我々は場所を変えますよ。戦えますか? 教諭」
「え? 戦うって言っても、俺……」
「貴方自身と貴方の生徒。アプシスフィアとストランジェットを守ってください。私もお手伝いします」
「戦え(ヤレ)っつったらヤんだよアホ。テメェは一々言うことに行動が伴ってねェな」
シグマの問いかけに戸惑う仕種。思うように発動出来ない魔法辞典(スペルリスト)でどう戦えばよいのかと、手のひらを見て下向きになるマグに頭上から一喝。
更に面倒そうな舌打ちまでもが飛ばされてきた。
「ったく、イレクトリア」
ジンガがマグを片手で小突いて顎の先で合図する。
前方で呪文探しに集中していたイレクトリアが頷いて振り向き、
「どうぞ、教諭! お貸しします」
腰に提げていた長剣を鞘ごと外してマグの方へ放り投げた。
嘘発見器を取り付けた時には持っていなかった武器はいつ調達したのだろうと、マグは思って唖然とする。
「お使いください。港街(ファレル)で一番の鍛冶師に打たせた名剣ですよ」
「わわっ! お、お借りします……」
イレクトリアから投げ渡された剣を取り零しそうになりながらも掴む。手に取り、マグはそれをじっと見つめた。質素で何処にでもありそうな鋼のつるぎだ。
この世界で初めて武器を手にしたマグでさえありふれた一本だということが解る程の。
だが、マグにとってはイレクトリアが嘘をつき、どんなに安物の剣を寄越したことを知ったところで関係ない。
この剣を振り戦うこと……武器の扱い方を知らないことのほうが問題だった。
彼が困り顔になっていたのを察知していたのだろう。
「教諭、剣の基本を……」
「僕が先生をサポートします。シグマさん」
シグマが声を掛けところで、隣のアプスが割り込んだ。
「……その方がよさそうですね。頼みます、アプシスフィア」
「はい。では、先生」
アプスのジェスチャーに従いマグは鞘から剣を引き抜く。
抜き出した白刃は真っ直ぐ、傷一つ無く真新しい。名剣と言っていたが実際は、昼間イレクトリア達がファレルファタルムと交戦した際に壊した剣の代替品であることは明白だ。打たれてから日も浅く、使われるのも今が初めての新品であった。
「深呼吸してください、マグ先生」
アプスがぴったりと後ろへつき、マグの腕の震えを止める。
こちらへ向かい来る蟷螂(シザー)の一匹を指し、
「敵の急所を突いて思い切り振り抜きます。一振で空を見て、風を詠む。空(くう)を薙いで、風(ふう)を食む……」
「アプス、お前……剣を握ったことが無いって言ってたのに……」
「か、仮にも僕は剣の精霊です。自分で戦えなくたって剣の扱い方は解りますよ!」
これまで全く戦いに関与していなかったアプスだが、今の表情は迷いの一切を忘れたかのよう。
路地裏でスーが人質になった際、自分にはスーを救えないとマグに懇願していた顔ではなく、今度は己がマグに期待をかけるような。
そんな顔で側に寄り添い、剣の切っ先に片手を翳せば、
「僕が敵に印をつけるのでそこを狙ってください」
初めて出会った時に扱っていた魔法と同じ、手元をふわりと照らし出す光の玉を発現させ、剣の上を滑らせて光らせる。
「ああ! やってみる!」
「まったく……これじゃあどっちが先生だかわかんないですね」
頷いて身構えるマグにアプスは少し嬉しそうに笑いながら、向かい来る敵へ片手を振り上げて言った。
「はぁっ!」
アプスが放った手のひら大の光の玉が一匹の巨大蟷螂の頭上を掠める。
翻弄されるように複眼をぎょろぎょろ動かし敵が光を追えば、それは触覚の間を下がり鼻先をつついて蟷螂の首の下で停止した。
「今です! 行ってください先生!」
もとの世界でも武器を振り回すなんて日常は滅多になかっただろうし、この世界で剣を握るのは初めてだったが、不思議と緊張はしなかった。
すぐ傍にアプスがついてくれているからだろうか。路地裏で、自分では戦えないと言っていた彼が、とても頼もしく今は思える。
仕組みは解らなかったが、武器についている精霊というものの特別な力があるんだろう。
剣を持つ俺の手に触れ、アプスが攻撃の合図をしてくれたその時。
「よし……! はあっ!」
彼から離れ一人、草影から隙をついて蟷螂(シザー)の喉元へ飛び出る。
距離を一気に詰めると、横向きに生えた歯牙が俺の頭の上でガチッと鳴った。敵の唾液が飛沫になって降りかかるのを間一髪かわし、俺の一撃を待ってくれていた光の玉を目掛けて突き刺す。
虫の装甲を突き破って、俺の剣が敵の急所に入った。
「…………ぐっ!」
役目を終えた光が破裂して無くなると、喉を斬られた敵から緑の血が噴き出す。
肉に刺さっている重い感触が刃から伝う。流れてくる血を払うようにして真横に剣を振り抜く。
ビチャッ。と、雑草に跡を付けた血糊を追って俺の重心が傾き、刃が下を向いて肩の力がかくんと抜けた。
(や、やった……なんとか倒せた……)
切っ先を引きずりながら息を吐く。
首を裂かれて崩れた死骸を見ると、額から温い汗が落ちてきて、無意識に拭った。
「やれば出来るじゃないですか」
草影から見守っていてくれたアプスがひょっこりと顔を出して言う。少し驚いたような表情でいる彼に、
「はは……まぁね。アプスのおかげだよ……」
「い、いえ。それは……」
笑いかけると照れてそっぽを向いた。
素直じゃない。けれども、彼が剣の精霊で他人のサポートが出来ることは確かだ。と、俺は感心してありのままに告げたつもりだったのだけれど。
「良いですね。教諭、アプシスフィア」
別の敵に最後の一撃になる回し蹴りをくらわせながら、こちらの様子を見ていたシグマも目配せをくれた。
彼のことは料理店のオーナーとしての顔しか知らなかったので、モンスターを足技でばったばったと倒している様は、正直どんな粋の良い魚よりも新鮮に映る。
犬頭の真っ黒な唇角がにっと引き上がる。表情筋が貧しいと思っていたシグマが笑っている光景に、俺はちょっと驚いてしまった。
足元に転がったいくつかの巨大昆虫の死骸を踏まないように歩き、辺りを警戒しながらスーの手を引く。
「離れるなよ、スー」
「うん。……! 先生、あっくん、あっち! 見て……!」
スーが興奮気味に指し示した先でジンガが双頭の大蛇と対峙していた。
森の木々よりも背の高い蛇。太い胴の途中で二股に割れた首を揺らしながら、ジンガと睨み合っているそれは蟷螂達と別の種族のモンスターのようだ。
反射板のように時々ギラリと光る金色の目は真っ直ぐで細い瞳孔を縮めており、威嚇に開けられた口の鋭い刺牙もまた石灰のように夜闇に浮かんでいる。
離れた位置からでも巨大さが解るのは這いずる度に地鳴りがするからであろうか。
いずれにせよ生身の人間が太刀打ち出来るような相手ではなさそうだ。
体格が良いとはいえ大蛇から見ればヒトの規格である以上ジンガでも一呑みにされてしまうだろう。
「ジンガさん……! 加勢に行かないと……!」
「邪魔しないほうがいいですよ教諭。隊長は獲物を横取りすると根に持ちますから」
スー達と一度頷きあってからジンガの方へ向かおうとしたところで聞こえたのは、イレクトリアの落ち着き払った声。
振り向き見れば、彼は尖った茨を開いた書物と手指から発現させて雑魚を一掃しているところだった。
小間切れになった蟷螂の肉片を払い、魔法で編み出した棘を腕からほどきながら、「それに」と続け、
「あの程度の魔物に加勢なんて必要ありません」
口元だけで笑っているシグマと視線を交わして付け加えた。
「あの程度って……」
二人が背を向け別の敵に集中を始めると、睨み合っていた魔物とジンガが同時に動いた。
ジンガの体の向こう側に朱色に閃く槍のようなものが見える。だが、ジンガには武器を握る片腕が無かったはずだ。
彼の武器は槍などではなかった。
ジンガの武器は戦う前の何等かの合図の際に右腕として形成されていた真っ赤に発光する大きな腕で、槍のように見えた突出した形はそこについた爪だった。
手指と同じように五本の爪。爪といっても厚さや長さが刀身並みにあるものが、俗に言うビームサーベルのように発現して備わっていた。
「あ、あれがジンガさんの手……?」
ジンガが赤い腕を振り上げる。
「来いよ」
大蛇の方ももたげていた鎌首に勢いをつけ、一気に二つの口で食いかからんとし彼に襲い掛かった。
だが、それを最後に蛇の開いた口が再び綴じられることはもうない。
俺が瞬きをした直後、振りかぶったジンガの右腕が蛇の片方の上顎を掴まえたかと思うと、次のまばたきの頃には既にもう片方の頭に牙を突き刺して息絶えてしまっていた。
あっという間のあの発音をする隙すら無い。
まるで双頭の頭同士が共食いでもしたかのような、噛み付き合った状態の死骸が一つそこに出来上がっていた。
重ねた頭を赤い爪で串刺しにし、
「……ったく。つまんねぇな。どいつも見かけばっかじゃねぇか」
ぼやきながら空いている左手で懐から出した煙草をすぐに咥え一服を始めるジンガ。倒した魔物の死骸はまるで最初から製品に加工する前の蛇革の山だったかのように黙っていた。
十メートル以上の長大な大型魔物を糸も容易く仕留めた我らの大将を仰ぎながら、
「ゥチの隊長チョー強いっしょ?」
行く先でカナンと競うように戦っていたミレイが戻ってきて、誇らしげにウィンクを投げてきた。
「すごくお強いね! 一瞬だった……で、でも、先生だって負けてないよ!」
言葉遣いを最初に会ったときに正してやっておけばよかった。
スーは間違った言葉で言って羨望の眼差しをジンガに向け、ミレイに頷き返しながら俺の腕にしがみついた。
「ねっ? 先生」
「あ、ああ……」
スーには悪いがそんな風に期待の目を向けられても、俺のへっぴり腰チャンバラとは違いすぎる。比べるでもない。
流石に騎士……この世界では警察や軍人等に近しい存在と言ったところか。
ジンガ以外の銀蜂隊のメンバーも戦闘に長けていると思っては、隊長はまた格が違うようだ。
そう思いながらジンガの横顔を眺めていると、彼が口にしていたたった今点けたばかりの煙草の煙が消える。
消えたのは煙だけではない。ざわめいていた虫の魔物も、夜の騒ぎに起き出した動物達も、まるで森中の時間が止まったように静かになり、音という音が無くなってしまった。
「…………?」
黙っている皆を振り返り見ようとした時、急激に風の流れが変わる。
オオォォォォォォーーーーーー…………!
呻きのような高い竜の咆哮が響き、冷たい夜風に乗って森中に広がる。
大蛇が這いずるよりも更に大きな揺れが起き、雑木達が風を受けてぶわりと一気に凪がれる。
両耳を塞いでも鼓膜を支配する鳴き声に、体が痺れるような感覚。
長く、咽ぶように、哀れむように、悼むように竜が悩ましく哭くのを聞いて、俺の中で心臓が小さく細かく軋む。
(……間違いない。ファリーだ!)
夜が支配する背景に立ち上る弧月のごとく。神秘的な彼女の真っ白な姿が、視界の先に映り込む。
俺の夢でマグと共にあった美しい白銀に身を包む大竜。
瞳の奥に焼き付けていたあのままの姿が、俺達の行く手を示す上空先に現れた。
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